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離脱する犬

 化学療法を始めて半年が経ちました。限界です。どうにも体が重くていけません。全身が燃えるように熱く、冷ややかなコンクリート製の床に伏せてみても、すぐに床の温度が上がってしまいます。食欲もなければ、水田を走り回りたいと、いった気力も失せました。佐倉氏にいって、獣医さんに連れて行ってもらうことにします。そして出来るなら、今この瞬間まで僕を可愛がってくれたことを、彼に切々と伝えたいと思います。

 彼がやって来ました。意志の支配を逃れようとする身体をなんとか持ち上げて総革張りのソファに寝転んだ僕に佐倉氏はいいました。「獣医さんに行こう。熱を下げてもらえば、また食べることも走ることも出来るぞ」

 僕は同意しました。が、体は動いてくれません。彼は哀しい目を僕に投げかけて、車の準備に向かいました。その時です、急に体の指揮権が僕に戻ったのです。走りだし彼を追う僕を振り返った彼は驚いた顔で僕を見つめて言いました。

「大丈夫か?」と、気遣う彼の心配をよそに、僕は軽貨物車の荷室に飛び乗り……

 上手く行きませんでした。なんとか前足だけは上がることが出来たのですが、下半身は腰の痛みもあって車の外に残したまま。「無理するな」と、佐倉氏が抱え上げてくれたのですが、こうまで力を失ってしまった自分自身の肉体が情けなく思えて仕方ありませんでした。

 獣医さんでは、急患扱いで順番を待つことなく診察台に上げてもらえました。燃えるような体の熱さは治まりません。体温計は振り切ってしまい、お腹に背中にと冷却剤をあてがってもらうのですが、一向に熱の下がる様子は見られず、頻繁に体温計を挿入される僕の肛門は刺激に反応してしまいました。お読みいただいている方がもし食事中でしたらごめんなさい。軟便が、勢いよく放出されてしまったのです。

 しまった、申し訳なさそうに自分の下半身に目をやる僕に、佐倉氏は「気にするな」といってくれました。しかし大量の排泄物を始末なさるアシスタントさんを見るに至り、牝犬が使う発情期用のパンツでも履かせてもらっておくのだったなと、悔やんだものです。

 医師もアシスタントさん達も必死に僕の命を繋ぎ止めようと努力してくれました。彼等の期待に応えようとした僕でしたが、ここで再び肉体の指揮権を失うことになります。

 遠ざかる意識の中、佐倉氏の涙に滲んだ顔と「もういい、お前はよく頑張った」の言葉が、強く僕の脳裏に焼きついています。医師の「残念ですが」の言葉に声を詰まらせる彼を見た時の僕は、俯瞰とでもいうのでしょうか―― 彼の前に横たわる肉からは離脱し、佐倉氏を見おろす位置に居たように感じます。


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