第9話:厨房のミリ単位戦争と、職人の歩数
正午のサイレンが鳴り響いてから、わずか十分足らずの出来事だった。
ガタガタガタッ、と初音銀座商店街の古い木造アーケードが微震するような勢いで、キリシマ食堂の引き戸が断続的に開け放たれた。
「おい、開花オムライス二丁! 並でな!」
「こっちもオムライスだ、大盛りで頼む!」
「まだ限定の三十食、残ってるかい!?」
藍色の前掛けを締めた工員、油まみれのキャップを被った旋盤工、近所の印刷工場の若い衆。首にタオルを巻き、腹を空かせた男たちが、まるで潮が満ちるように店内の丸椅子を埋め尽くしていく。
昨日、本田鉄工所の社長・本田辰夫が路地裏で撒き散らした大音声の絶賛と、店頭に掲げられた鮮烈な黒板POPの威力は、下町の男たちの胃袋へ恐ろしい速度で浸透していた。二十一席ある客席のうち、すでにカウンター五席とテーブル三卓が埋まり、一度に舞い込んだ注文は八食。そのすべてが、新名物である『特製・開花オムライス』だった。
「へい、毎度! オムライス八丁だな、今作るから待ってな!」
厨房の奥から、大山源三の野太い声が響く。
だが、その声の張りとは裏腹に、厨房内の空気は数分もしないうちに、張り詰めた切迫感で満たされ始めていた。
カチリ、ボッ!
手前のコンロで青いガス火が噴き上がる。
源三は中華鍋を熱し、ラードを落とし、鶏肉と玉ねぎを放り込む。ジャアアッという激しい音とともに煙が上がり、ケチャップとウスターソースが鍋肌で焦げる。
ここまではいい。浅草で鍛え上げた老職人の手さばきは、見惚れるほどに滑らかだ。
だが、チキンライスを炒め終えた瞬間から、源三の動きにわずかな「引っ掛かり」が生じ始める。
源三は炒め上がったチキンライスを皿に盛るため、コンロの前からくるりと背を向け、三歩離れた背後の食器棚へ歩いた。木製の引き戸を開け、白磁の平皿を二枚取り出し、再びコンロ脇の盛り付け台へと三歩戻る。
平杓子でライスを盛り、楕円形の丘を整えると、今度は卵液を作るために、厨房の最深部にある大型の木製保冷箱(氷で冷やす冷蔵箱)へと五歩歩いた。
重い木蓋を開け、ボウルを取り出し、卵を三個割る。殻をゴミ箱へ捨てに二歩、菜箸を取りに調理台へ三歩。
カチャカチャと卵を溶き、漉し器に通して銅のフライパンへ向かう。
ジュワッ、トントン、トントン――。
極上の集中力でプレーンオムレツを焼き上げ、チキンライスの上に着地させる。
そこへ、奥の壁際で弱火にかけてある寸胴鍋まで四歩歩き、お玉で秘伝のデミグラスソースをすくい、手前の皿へ戻って回しかける。
「結衣! 一丁上がりだ、運べッ!」
「はいっ、開花オムライス並盛、お待たせいたしました!」
結衣が素早く皿を受け取り、カウンターの工員の前へ運ぶ。
ナイフを入れ、卵がパカンと開いた瞬間、客席からは「おおっ!」という歓声が上がった。
客は喜んでいる。味も見た目も文句なしの百点満点だ。
しかし――。
結衣がふと、客席の奥へと視線を向けた時、背筋に冷たいものが走った。
「……おい、ねえちゃん。俺のオムライスはまだかい?」
奥のテーブル席に座った男が、貧乏揺すりをしながら腕の腕時計を睨みつけていた。
「す、すみません、いま順番にお作りしておりますので……!」
「十二時半には工場戻らねえと、ラインが動いちまうんだよ。もう入ってから十五分経つぞ」
別のテーブルの客も、手持ち無沙汰に煙草を灰皿へトントンと叩きつけ、しきりに首を傾げている。
厨房の中では、源三が額に滝のような汗を浮かべ、肩で息をしながらフライパンを振るっていた。
チキンライスを炒める、背後へ皿を取りに行く、氷室へ卵を取りに行く、殻を捨てる、漉し器を洗う、オムレツを焼く、奥の寸胴へソースを汲みに行く――。
源三の足元が、バタバタと忙しなく土間を叩く。
作務衣の背中は汗でぐっしょりと濡れそぼり、息遣いは荒く、フライパンを叩く右腕の筋肉が疲労で強張っているのが遠目にも見て取れた。
一人で作っているのだ。
しかも、従来の薄焼き卵で包むオムライスと違い、開花オムライスは「チキンライスを炒める中華鍋」と「オムレツを秒刻みで仕上げる銅鍋」の二つの工程を、一人で完璧なタイミングでリレーさせなければならない。
結果として、一皿を仕上げるのに四分から五分。
八人の客全員に料理を行き渡らせるまでに、最初の注文から三十分近い時間が経過していた。
「ごちそうさん……美味かったけどよ、昼休みにこれだけ待たされると、毎日は来られねえな」
最後に料理を受け取った工員が、熱々のオムライスを火傷しそうな勢いで五分でかき込み、苦笑いしながら勘定を置いて飛び出していった。
「申し訳ありませんでした! またお待ちしております……!」
結衣は深く頭を下げながら、唇を強く噛み締めた。
味は勝っている。
話題性も十分だ。
だが、このままでは「待たされる店」という悪評が立ち、貴重な昼休みを削ってやってくる労働者たちは、早晩この店から離れていってしまう。
◆
午後二時。
昼の喧騒が引き潮のように去り、客席に静寂が戻ってきた。
厨房のコンロの火は消され、立ち込めていた油煙が、換気扇の吸い込み口へと細く吸い込まれていく。
「……クソッたれが」
ドサリ、と重い音を立てて、源三がカウンターの丸椅子に腰を落とした。
白頭巾を引き剥がし、カウンターの上に放り出す。白髪混じりの頭は汗でぐしゃぐしゃに濡れ、両手は膝の上でピクピクと痙攣していた。
六十五歳の老職人にとって、昼のピーク時の三十食連続調理は、もはや肉体の限界を超える重労働だった。
「おい、結衣……。冷たい水、くれ」
「はい、どうぞ」
結衣はコップを手渡した。源三は震える指でそれを掴み、一気に飲み干すと、喉を鳴らして深く息を吐き出した。
「……チッ。客が来りゃ来たで、文句垂れやがる。たかだか十分や二十分待つのがそんなに我慢ならねえのかよ。美味いもん食おうってなら、それ相応の時間を差し出すのが礼儀ってもんだろうが」
煙草を取り出そうとした源三の指先が、空を掴んだ。マッチを擦る力すら、右腕に残っていなかったのだ。
結衣は黙ってマッチ箱を手に取り、シュッと火を灯して源三の煙草の先へと差し出した。
「……すまねえな」
紫色の煙が立ち上る。
結衣は、エプロンのポケットから一冊の古びた大学ノートと鉛筆を取り出し、源三の向かい側の丸椅子に腰を下ろした。
「源さん。……怒らずに、聞いてくれますか」
「あァ? なんだよ。また小娘の小言か」
「小言じゃありません。この店を、そして源さんの身体を守るためのデータです」
「でーた……?」
源三が怪訝そうに眉をひそめる。
結衣はノートをパタンと開き、源三の目の前へ差し出した。
そこには、幾何学的な図形と、無数の数字、そして矢印が几帳面に描き殴られていた。
「これ、何だと思いますか?」
「なんだ……? 足跡の絵か? 線がぐちゃぐちゃに引いてあって、わけがわからねえぞ」
「これは、今日の昼のピーク時――十二時十五分から四十五分までの三十分間に、源さんが厨房の中で動いた『歩行の軌跡』です」
「な……!?」
源三の煙草をくわえた口が、ぽかんと開いた。
結衣は客席を駆け回りながら、ただ漫然と配膳をしていたわけではなかった。
壁の柱時計がコチコチと刻む秒針に目を配り、源三が一皿のオムライスを作るたびに、どこへ歩き、どこに手を伸ばし、何秒静止したかを、頭の中で正確にクロノ測定していたのだ。
かつて令和のオフィスで、WEBサイトのユーザーが画面のどこをクリックし、どこで迷い、どこで離脱したかを追跡する「ヒートマップ解析」を行っていた結衣の眼球は、現実の厨房空間を、そのまま一つの「ユーザーインターフェース(UI)」として読み取っていた。
「源さん。今日の昼、開花オムライスを一食完成させるのに、あなたが歩いた歩数は平均して何歩だと思いますか?」
「知るかよ。そんなもん数えながら鍋が振れるか」
「四十二歩です」
結衣はノートの数字を鉛筆の先でトンと叩いた。
「四十二歩!?」
「はい。一食あたり、四十二歩です。今日のお昼は三十食出ましたから、源さんはあのわずか六畳ほどの厨房の中を、千二百六十歩も無駄に行ったり来たりしていたことになります」
「む、無駄だと……!?」
源三の額に青筋が立った。職人の聖域である厨房での所作を「無駄」呼ばわりされたのだ。
「ふざけるな! 俺の動きのどこに無駄があるってんだ! 皿を取りに行き、卵を取りに行き、ソースをすくいに行く! 料理を作るために必要な場所へ足を運んでるだけだろうが!」
「その『必要な場所』が、遠すぎるんです!」
結衣は引かなかった。
声のトーンを落とし、だが一言一言に逃れられない論理の重みを込めて、ノートの図を指し示す。
「見てください。チキンライスを炒める手前のコンロから、平皿を取りに行く背後の戸棚まで、片道三歩。往復で六歩です。ライスを盛ったあと、奥の氷室まで卵を取りに行くのに片道五歩、往復で十歩。割った殻を足元のゴミ箱に捨てるのに二歩。デミグラスソースの寸胴まで四歩、往復で八歩……。これだけで、合計二十六歩です」
「…………」
「歩く時間だけじゃありません。戸棚の引き戸を開ける時間、氷室の重い蓋を持ち上げる時間、寸胴の蓋を取る時間……。歩行と障害物の開閉だけで、一食につき約一分二十秒のタイムロスが発生しています。もし、その二十六歩をゼロにできたらどうなりますか?」
結衣は源三の目を真っ直ぐに見据えた。
「一食あたり一分縮まります。八食なら、八分です。さっきのお客さんは、十五分待たされたと言って苛立っていました。もしそれが七分で出てきたらどうですか?『早い! 美味い!』と大満足して、機嫌よく午後の仕事に戻れたはずです!」
「ぐ……っ」
源三は言葉に詰まり、視線を落とした。
手元のノートに描かれた無数の矢印。それは確かに、自分が無意識のうちに厨房の中を右往左往し、体力をすり減らしていた証拠そのものだった。
「……じゃあ、どうしろってんだ」
源三は忌々しそうに煙を吐き出した。
「皿も卵もソースも、長年そこに置いてあったんだ。このキリシマ食堂を始めてから十五年、ずっとこのやり方でやってきたんだよ! いまさら変えられるか!」
「変えられます」
結衣は立ち上がり、厨房の入り口へと歩みを進めた。
「いまから、この厨房を完全に『再設計』します」
◆
「おい待て! 勝手に敷居を跨ぐんじゃねえ!」
慌てて立ち上がった源三を制し、結衣は厨房の中央へと踏み込んだ。
三和土の床、煤けたステンレスの調理台、黒光りする真鍮のコンロ。
結衣は寺岡堂から借りてきた竹の物差しを取り出し、コンロの前に立った。
「源さん、コンロの前に立ってください」
「あァ!?」
「いいから、立ってください! フライパンを構えるいつもの姿勢です!」
気圧された源三が、渋々コンロの前に立ち、右手に銅鍋を構える。
結衣はその横に膝をつき、物差しを当てた。
「源さんがコンロの前から一歩も動かずに、腕を伸ばすだけで届く半径――これを『作業域』と呼びます。成人男性の腕の長さなら、半径約七十センチ。この円の中に、オムライスを作るために必要なすべての道具と食材を配置するんです」
「七十センチの中に……全部だと? そんな狭いところに収まるわけがねえだろうが!」
「収めます」
結衣の指示は、電光石火だった。
「まず第一の改革。皿の配置です!」
結衣は背後の食器棚へ向かい、白磁の平皿を二十枚、抱え出してきた。
「おい、どこへ置く気だ!」
「コンロの真下です!」
結衣はコンロ台の真下にある、普段は使い古した鍋や予備の油缶が雑然と押し込まれていた下段の棚を指差した。中身のガラクタを躊躇なく引っ張り出し、隅っこへ除ける。
雑巾で棚板を拭き清め、そこへ平皿を十枚ずつ、二列に積み上げた。
「見てください、源さん。チキンライスが炒め上がったら、後ろを振り向く必要はありません。左手をすっと真下に降ろすだけで、指先が皿の縁に触れます。膝をわずかに曲げるだけで、一歩も歩かずに皿がコンロ脇の盛り付けスペースへ上がってきます。所要時間、わずか二秒。これで片道三歩のロスが消えました!」
「し、しかし……コンロの下じゃ、火の熱で皿が温まっちまうんじゃねえか?」
「洋食の平皿は、温かい料理を冷まさないためにあらかじめ人肌に温めておくのが理想ですよね? 一石二鳥です!」
「う……っ」
源三の反論が、またしても鮮やかに封じられた。
「第二の改革。卵のスタンバイと供給ルートです!」
結衣は大型氷室へ向かい、卵の保管場所を確認した。
「今まで、源さんは注文が入るたびに氷室へ行き、卵を三個割って、菜箸で溶いて、漉し器に通していました。これを毎回やるから時間がかかるんです」
「当たり前だろ! 溶き置きした卵なんざ、コシが抜けて水っぽくなっちまう!」
「だから、仕込みの段階で『一括処理(バッチ処理)』するんです!」
結衣は調理台の上のステンレストレーを手に取った。
「営業前の仕込みで、三十食分の卵――九十個をあらかじめ大きなボウルに割り、一気に裏漉しして、均一な卵液を作っておきます。そして、それを四角い深型の保冷バットに移し、コンロのすぐ左脇――氷を敷き詰めた木箱の中にセットします!」
結衣はコンロの左側の空きスペースを指差した。
「注文が入ったら、レードル(定量の柄杓)でそのバットから卵液を一すくいするだけ。これで、ちょうど卵三個分がフライパンへ一瞬で滑り込みます。卵を割る時間、殻を捨てる時間、箸で混ぜる時間、漉す時間……全部ゼロになります! 氷水で冷やしておけば、一時間や二時間のピークタイムで鮮度が落ちることは絶対にありません!」
「な……に……!?」
源三の目が丸くなった。
職人の意地として「作り置き」は悪だと思い込んでいたが、結衣が提案しているのは手抜きではない。工程の「標準化」と「最短化」だ。
「そして第三の改革。デミグラスソースの常設です!」
結衣は厨房の最奥にある巨大な寸胴鍋を見つめた。
「あの巨大な寸胴から、わざわざ四歩歩いてソースを汲みに行くのは今日で終わりです。小さなミルクパンのような手鍋に、昼のピークで使う分だけのデミグラスソースを小分けにし、コンロの右奥の極弱火のバーナーの上に常に保温状態で置いておきます」
結衣は手鍋をコンロの右奥へ置いた。
「オムレツをライスに乗せたら、右手でその手鍋の柄を握り、お玉で一回すくって回しかける。……源さん、やってみてください」
「え……?」
「立って、エアで動いてみてください。私の言った通りに!」
源三は結衣の気迫に押され、再びコンロの前に立った。
フライパンを振る仕草をする。
炒め終わった。
左手を真下に降ろす――そこには、棚に積まれた平皿がある。引き上げる。一歩も動いていない。
ライスを盛る。
左手を横に伸ばす――そこには、氷で冷やされた卵液バットがある。レードルでひとすくい、フライパンへ。
オムレツを焼く。トントンと叩き、ライスの上へ乗せる。
右手をわずかに伸ばす――そこには、湯気を立てるデミグラスの小鍋がある。すくって、かける。
完成。
「歩数が……」
源三の唇が、小さく震えた。
「ゼロだ……。一歩も、足を動かしてねえ……」
コンロの前から、半径七十センチ。
その円の中から、源三は一度も踵を浮かせることなく、すべての工程を頭の中で完結させてしまったのだ。
流れるような手の軌跡。
まるで、熟練のピアニストが鍵盤の上を指走らせるような、無駄の一切ない美しさがそこにあった。
だが――。
源三の顔から、急速に血の気が引いていった。
震える拳を握りしめ、老職人は奥歯をギリリと噛み鳴らした。
「……ふざけるな」
「源さん?」
「ふざけるなと言ってんだよ!!」
怒号が、夕暮れの厨房に木霊した。
源三はコンロの台をドンと叩き、結衣を鬼のような形相で睨みつけた。
「俺は機械じゃねえぞ! ベルトコンベアの部品じゃねえんだ! あっちへ右手を伸ばし、こっちへ左手を伸ばし、決まった動きを狂いなく繰り返す……そんなもん、料理人の仕事じゃねえ! 工場で鉄を削る旋盤工と同じじゃねえか!」
「源さん、違います!」
「何が違うってんだ! 俺は浅草で三十年、この身体に染み付いた勘とリズムで料理を作ってきたんだ! コンロの脇に鍋を置かれちゃ、肘が当たってフライパンが振れねえ! 下に皿を置かれたら、足が引っかかって踏ん張りが利かねえ! ミリ単位で道具の位置を変えられたら、俺の料理のリズムが全部狂っちまうんだよ!」
源三の叫びは、長年職人として生きてきた男の、悲痛なまでの魂の抵抗だった。
身体が覚えている記憶。
何万回、何十万回と繰り返してきた動きの癖。
それを外部の人間から、しかも未来の合理主義で「非効率だ」と断罪されたことへの、耐え難い屈辱と恐怖。
「元に戻せ」
源三は息を荒げながら、冷たく言い放った。
「皿も、卵も、ソースも、全部元の場所に戻せ。俺は俺のやり方でしか鍋は振れねえ。文句があるなら、俺の代わりにテメエが厨房に入って鍋を振れ!」
張り詰める静寂。
初音銀座の通りからは、夕暮れの子供たちの遊ぶ声と、遠くの豆腐屋のラッパの音が聞こえていた。
結衣は、深く息を吸い込んだ。
源三の言っていることは、痛いほど理解できた。
令和の時代、現場の作業員やデザイナーに新しいツールやシステムを導入する際、もっとも激しく抵抗するのは、常に「現場でもっとも優秀で、長年の経験を持つベテラン」だった。彼らにとって、慣れ親しんだ非効率は、自らの存在価値と結びついた「誇り」そのものなのだ。
理屈でねじ伏せることはできない。
正論を振りかざせばかざすほど、職人の心は頑なに閉ざされていく。
だからこそ――結衣は、最後のカードを切った。
「源さん」
結衣は一歩、前に出た。
そして、三和土の冷たい床の上に、両膝をついた。
「……おい、何やってんだ」
源三が眉をひそめる。
結衣は両手を床につき、深々と額を擦り付けた。土下座だった。
「明日一日だけ。……明日の昼の営業、たったの一時間だけでいいんです。この配置で、鍋を振ってください」
「結衣……」
「もし、明日一日やってみて、一秒も提供時間が縮まらなかったら。あるいは、源さんがどうしてもやりにくくて、料理の味が落ちたとお感じになったら……私は二度と厨房のことに口を出しません。このノートも全部破り捨てて、明日の夜、私の手ですべての道具をミリ単位の狂いもなく元の場所に戻します」
結衣は顔を上げた。
その瞳には、涙ではなく、凛とした揺るぎない覚悟の炎が宿っていた。
「私は、源さんを機械にしたいんじゃないんです。……今日、あんなに肩で息をして、汗だくになって、腕を震わせながら必死に鍋を振っていた源さんの姿を見て、胸が張り裂けそうだったんです! この街の人たちは、源さんのオムライスを求めています。これからもっと、もっとたくさんのお客さんが押し寄せてきます! その時、源さんの身体が壊れてしまったら……この店は、誰が守るんですか!?」
「…………!」
「源さんに、長く、元気に、美味い料理を作り続けてほしいんです。だから……お願いです。私を信じて、明日一日だけ、試してください!」
結衣は再び、深く頭を下げた。
床についた額に、冷たい土の感触が伝わる。
厨房の中に、換気扇の回る微かな音だけが響いていた。
長い、長い沈黙。
やがて――衣擦れの音がして、源三の太い足が結衣の目の前に止まった。
「……頭を上げろ」
低くだみ声が落ちてきた。
結衣が恐る恐る顔を上げると、源三は前掛けのポケットに手を突っ込み、ひどく苦々しい顔で天井を仰いでいた。
「……チッ。若い娘に土下座なんざされたら、俺がこの商店街でどんな悪党に見られるか分かったもんじゃねえ。……クソババアのトミに見られたら、今度こそドブに沈められるわ」
源三は舌打ちを一つすると、足先でコンロの下の棚を指差した。
「……皿をもう五枚、足しとけ。昼の三十食分、途中で皿が切れたら話にならねえからな」
「源さん……!」
「勘違いすんなよ」
源三は背中を向け、洗い場へ向かった。
「明日一日だけだ。一秒でも遅くなったり、卵が破れたりしたら、容赦なくテメエの頭を鍋底で叩くからな。……仕込みの卵液とやらを作るぞ。ボウルを用意しろ!」
「はいっ!!」
結衣は跳ね起きるように立ち上がり、満面の笑みで返事をした。
◆
翌日、正午。
再び、初音銀座商店街にサイレンが響き渡った。
そして――昨日を上回る人の波が、キリシマ食堂の暖簾をくぐり抜けてきた。
「開花オムライス、三丁!」
「こっち四人ね、全員オムライスで!」
「大盛り二つ、並一つ!」
正午を五分過ぎた時点で、店内の二十一席は瞬く間に満席。
入り口の外には、早くも四人の工員が並び始めていた。
「結衣、伝票を読めッ!」
厨房のコンロの前。真新しい白頭巾を締め、白いコックコートに身を包んだ源三が、鋭い眼光で立ち塞がっていた。
「はい! 開花オムライス、まず並二丁です!」
カチリ、ボッ!
青い炎が中華鍋を包み込む。
運命のテストが始まった。
源三の左手が中華鍋をあおり、ラードと鶏肉、玉ねぎが踊る。
ケチャップが焦げ、ライスが宙を舞う。
チキンライスの炒め上がり――ここからだ。
源三の身体が、無意識に後ろを振り返ろうと、右足を一歩引きかけた。
「源さん、下です!」
結衣の鋭い声が飛ぶ。
ハッとした源三は、引いた足をピタリと止め、左手をそのまま垂直に真下へと伸ばした。
カチャリ。
指先が、コンロ台の下段に積まれた白磁の平皿に触れた。
引き上げる。
一切の歩行なし。所要時間、一秒。
「っ……!」
源三の喉が鳴った。平杓子でライスを二枚の皿へ滑り込ませる。
間髪入れず、左手を左横の保冷バットへ。
レードルを握り、黄金色の卵液をすくう。
隣の銅製フライパンへ、ジュワアッ!
卵を割る手間も、殻を捨てる手間もない。すでに完璧に漉された卵液は、熱せられたバターの上で瞬時に理想的な泡立ちを見せた。
菜箸が円を描き、トントンと柄を叩く。
くるり、ぽすん。
一つ目のオムレツがチキンライスの上へ。
二秒後、二つ目のオムレツがもう一つの皿の上へ。
そして、源三の右手が、自然と右奥の小鍋へ伸びた。
弱火で常にトロトロに温められていた秘伝のデミグラスソース。お玉ですくい、黄金の絨毯の上から一気に回しかける。
完成。
「……あがりだ」
源三自身が、信じられないというような掠れた声を漏らした。
結衣がストップウォッチ代わりの柱時計の秒針を確認する。
二食同時の調理開始から、盛り付け完了まで――わずか二分四十五秒。
昨日は一食で四分以上かかっていた工程が、半分近くに短縮されていた。
「開花オムライス二丁、お待たせいたしました!」
結衣が皿を客席へ運ぶ。
注文した工員二人が、目を白黒させた。
「えっ……!? もう出来たのかい!?」
「早えな! まだ水一杯飲んだばっかりだぞ!」
ナイフが入れられ、黄金の半熟がパカンと花開く。
「うおっ、やっぱりすげえ! いただきます!」
男たちが夢中でスプーンを動かし始める。
「結衣、次だ! 大盛り二丁、並一丁!」
源三の声が、厨房に響き渡った。
その声には、先ほどまでの迷いや戸惑いは微塵もなかった。
身体が、理屈を超えて理解していた。
手が勝手に動く。
手を伸ばせば、そこに必要なものがある。
下を見れば皿があり、横を見れば卵があり、右を見ればソースがある。
歩かない。
振り返らない。
視線を切らない。
すべてのエネルギーが、純粋に「鍋を振る」「火加減を見極める」という、料理の核心のためだけに注ぎ込まれていく。
ガシャッ、ジュワッ、トントン、トントン!
厨房から鳴り響く調理音が、昨日までの不規則で焦燥に満ちたリズムから、まるで精密な時計仕掛けの行進曲のような、心地よいビートへと変わっていく。
三食、四食、五食――。
オムライスが、まるで泉のように次々と生み出され、客席へと吸い込まれていく。
待たされる客は一人もいない。
入店から提供まで、平均して五分以内。
客は熱々の極上洋食を心ゆくまで味わい、満足して席を立ち、外で待っていた次の客が即座に席を埋める。
完璧な回転率。
圧倒的なスループット。
午後一時。
限定三十食の看板を出していた『特製・開花オムライス』は、開店からわずか五十分で、最後の一皿が完売した。
「本日の開花オムライス、売り切れましたーっ! ありがとうございました!」
結衣が表の黒板に『完売御礼』の札をかけると、惜しくも間に合わなかった工員たちが「ちぇっ、明日はもっと早く来るぜ!」と笑いながら手を振って去っていった。
◆
静まり返った厨房。
換気扇の低い唸り声だけが響く中、源三はコンロの前に立ち尽くしていた。
五十分間で三十食。
昨日と同じ数をこなしたはずだった。
だが――源三の呼吸は、全く乱れていなかった。
額にうっすらと汗が滲んでいる程度で、作務衣の背中も濡れていない。昨日のように膝をつくことも、腕を痙攣させることもなく、老職人はただ静かに、自分の両掌を見つめていた。
「……源さん」
結衣がおずおずと、カウンター越しに声をかけた。
「どう、でしたか……? やっぱり、やりにくかったですか……?」
もし「元に戻せ」と言われたら、約束通り土下座して戻す覚悟はできていた。
源三はゆっくりと顔を上げた。
その双眸には、深い、深い驚愕と、そして職人としての純粋な感動の色が揺らめいていた。
「……結衣」
「はい」
「俺はな……浅草で三十年、親方から『身体で覚えろ』『無駄口叩かずに足を動かせ』と教えられてきた」
源三は手鍋のデミグラスソースの表面を見つめながら、静かに語り出した。
「料理人の腕ってのは、どれだけ汗をかいて、どれだけ苦労して身体をすり減らしたかで決まるもんだと、ずっと思ってた。……だが、違ったな」
源三はコンロ台の下段に目をやった。
きれいに空っぽになった皿の棚。
「腕を振るうための『道』が整っていれば……こんなにも、料理に集中できるんだな。……疲れてねえ。三十食作ったのに、身体のどこも痛くねえんだ。それどころか……一皿一皿、昨日よりも火加減の精度が上がったのが、自分でもわかる」
源三は前掛けを外し、カウンターの上に置いた。
そして、結衣の前に歩み寄り、じっとその顔を見つめた。
「……お前、ただの小娘じゃねえな」
呆れたような、だが底知れない敬意の込められた声。
「デザインだか、ゆーあいだか知らねえが……お前がやってることは、紙の上のお絵描きなんかじゃねえ。……人間の命の動かし方を、知ってる奴の仕事だ」
「源さん……」
「礼を言うぞ、結衣。……この厨房は、今日からお前の設計通りでいく。皿の一枚、箸の一本に至るまで……お前の引いた線の通りに動かしてやる」
頑固一徹、昭和の職人が、未来のデザイン思考の前に、完全に兜を脱いだ瞬間だった。
結衣の胸の奥底から、熱いものがこみ上げてきた。
自分のデザインが、画面のピクセルを超えて、一人の職人の身体を救い、店を救った。
「はいっ……! ありがとうございます、源さん!」
結衣が満面の笑みを浮かべた時、店の引き戸が控えめにガラリと開いた。
「ごめんください……。まだ、お昼はいただけますでしょうか……?」
入ってきたのは、仕立てのいい紺のスーツを着た、一人の若い男だった。
手には使い古された革のブリーフケース。
ネクタイはわずかに曲がり、擦り切れた革靴を引きずるようにして立っている。
その顔は青白くやつれ、胃のあたりを片手でぎゅっと押さえていた。
高度経済成長の熱狂の裏で、孤独に心をすり減らす若き商社マン――吉村健一との運命の出会いが、いま静かに幕を開けようとしていた。




