第8話:鉄と油の男たち、未知なるハイカラを喰らう
正午を告げるサイレンが、初音銀座商店街の頭上に響き渡った。
ウーという低く重い余韻が、トタン屋根と密集した木造長屋の隙間を縫うように抜けていく。
その合図とともに、通りを覆っていた穏やかな静寂は一瞬にして吹き飛んだ。近隣の町工場から、油と汗の匂いをまとった男たちが、堰を切ったように路地へと吐き出されてくる。
京成線の高架下からは電車の通過する轟音が地響きとなって伝わり、路地の両脇の側溝からは、昼飯の支度を急ぐ長屋の台所から流れてくる煮魚やネギの匂いが立ち上っていた。
キリシマ食堂の店頭では、午前中に桐島結衣が設置した黒ラシャ紙の特製POPが、初夏の鋭い陽射しを浴びて、異様なまでの存在感を放っていた。
漆黒の背景に踊る、満月のような鮮烈な黄色の文字。
『フライパンから生まれた、黄金の絨毯。』
通りを歩く工員たちが、一人、また一人と足を止め、吸い寄せられるようにその文字を見つめては、隣の磨き上げられた硝子戸の中を覗き込んでいく。
すだれが外され、油膜の拭い去られたガラスの向こうには、清潔な客席と、その奥で白いコック帽を被り、腕組みをして立ち塞がる大山源三の巌のような姿が見えていた。
これまでの「何屋かわからない、薄暗い廃屋のような店」ではない。
そこに在るのは、誇り高い老職人が獲物を待つ、研ぎ澄まされた厨房の光景だった。
「おい、本当にオムレツが割れるのかよ」
「デミグラスソースって、あの洋食屋の黒いタレだろ? 美味そうじゃねえか」
通りでざわめく男たち。だが、従来の薄焼き卵のオムライスしか知らない昭和四十五年の労働者たちにとって、「二百三十円」という価格と「半熟が花開く」という未知の概念は、あと一歩を踏み出させるのに躊躇いを生じさせていた。
その膠着状態を、文字通り力ずくで蹴破ったのは、地響きのような大足の音だった。
「どいたどいたァ! 突っ立って看板眺めてる暇があるなら、道を開けやがれ!」
怒声とともに人垣をかき分けて突進してきたのは、筋骨隆々たる巨躯の男だった。
本田鉄工所の社長、本田辰夫。
首には真っ黒に汚れたタオルを巻き、灰色の作業着には鉄粉と機械油が斑点のように染み付いている。日焼けした顔面には、旋盤の火花で焼けたような小さな火傷の痕がいくつも散りばめられ、腕まくりされた逞しい前腕の血管が、獲物を捕らえる猛獣のように浮き上がっていた。
辰夫は店頭の黒板POPの前に仁王立ちになると、太い眉を吊り上げて文字を凝視した。
「……あァ? なんだいこりゃあ! 『とろ〜り黄金の花が咲く』だあ!? 源のオヤジ、昨日から急に店をピカピカにしやがったと思ったら、今度はこんなド派手な芝居小屋みたいな看板出しやがって!」
辰夫の背後で、もう一つの影が小さく縮こまっていた。
同じ本田鉄工所の作業着を着た、痩身の少年――水野誠二だった。
年齢は二十一歳。秋田の農村から集団就職列車に揺られて上京してきて、まだ三ヶ月も経っていない。油にまみれた作業帽を深くかぶり、どこか怯えたような瞳で地面を見つめている。
「お、おい誠二! 突っ立ってねえで中に入るぞ!」
「えっ……で、でも社長、洋食屋なんて……僕、お金もそんなにないですし……」
「馬鹿野郎! 俺が奢るっつってんだよ! てめえ、ここんとこメシもろくに食わねえで、現場でフラフラしてやがるじゃねえか! 鉄を削る前に、自分の身体に脂を注し込みやがれ!」
辰夫は誠二の襟首を乱暴に引っ掴むと、引き戸に手をかけた。
ガラガラガラッ――!!
真新しいガラスが軋む音とともに、男二人が店内に踏み込んできた。
「へい、いらっしゃい!」
厨房の奥から、源三の太く野太い声が飛ぶ。
「いらっしゃいませ! 本田社長、誠二さん、お待ちしておりました!」
結衣がすかさず、満面の笑みで出迎えた。
トミから借りた紺のフレアスカートの上に、真っ白なエプロンをきりりと締めた結衣。髪を清潔にまとめ、姿勢正しく頭を下げるその姿は、煤けた下町の食堂には不釣り合いなほどに凛として、爽やかな風を店内に呼び込んでいた。
「おう、結衣ちゃん! 今日もいい返事だな!」
辰夫はカウンターの一番手前、調理コンロが一番よく見える特等席の丸椅子にドカッと腰を下ろした。
一方の誠二は、結衣と視線が合った瞬間、カッと顔をリンゴのように赤く染め、慌てて視線を足元の三和土へと逸らした。
「あ……ど、どうも……」
消え入りそうな声で呟き、辰夫の隣の席へ、まるで壊れ物を扱うようにそろそろと腰を下ろす。両手を膝の上で行儀よく揃え、作業着の袖口をぎゅっと握りしめている。
結衣はすぐに、井戸水でキンキンに冷やしたガラスコップと、清潔に晒した真っ白なおしぼりを二人の前に置いた。
「お仕事、お疲れ様です。冷たいお水どうぞ」
「かーっ、生き返るぜ! 午前中ずっと溶接の火ィ見てたから、喉が砂漠みてえだったんだ!」
辰夫はコップの水を一気に喉へと流し込み、ぷはーっと大きな息を吐き出した。
そして、ゴツゴツとした指先で、店頭のPOPを指差した。
「おい、源さん! 表のあの紙切れは何だい! 『開花オムライス』だあ!? オムレツをナイフで割ると中からドロドロ溢れるって、本当かよ!」
源三はカウンターの中で、白頭巾の紐を締め直しながら、ふんと鼻を鳴らした。
「ドロドロじゃねえ、とろとろだ。……浅草の仕込みを注ぎ込んだ、ウチの新しい看板だ。食うのか、食わねえのか、どっちだ辰夫」
「決まってんだろ! 男工が看板料理に背中向けてどうすんだ! その開花オムライスってやつを、二丁頼む! 俺のは飯を山盛りにしろよ!」
「へい、開花オムライス二丁!」
源三が短く応じ、奥の調理台へと向かった。
誠二はビクッと肩を震わせ、隣の辰夫の袖を控えめに引いた。
「あ、あの……社長。僕、そんな高いの……普通のうどんか何かでいいです……」
「馬鹿言え!」
辰夫は誠二の背中をバチンと手のひらではたいた。
「飯を食うのも仕事の内だ! てめえ、昨日の夜も寮で固パンかじってただけだろ! そんな青びょうたんみてえな面してたら、旋盤の刃に指巻き込まれて吹っ飛ぶぞ! いいから源さんの美味いもん食って、血肉にしろ!」
「……う、うっす……」
叱責され、誠二はさらに小さくなって項垂れた。
結衣はその横顔を、痛ましげに見つめた。
浅黒く煤けた顔。だが、その頬はげっそりとこけており、作業着の首回りは痩せて隙間が空いている。東北から集団就職で出てきた少年たちの過酷な生活――慣れない東京の言葉、長時間の単純労働、家族と離れた孤独、そして貧しい食生活。
(令和のブラック企業で、心をすり減らしていた頃の私と同じ……)
誰にも頼れず、相談もできず、自分が何のために東京で削られているのかもわからなくなっていた、あの出口のない暗闇。
誠二の瞳に宿っているのは、まさにその色だった。
「誠二さん」
結衣は優しく声をかけた。
誠二がびくびくと上目遣いに結衣を見る。
「源さんのオムライス、本当にすごいんですよ。一口食べたら、身体の芯から温かくなって、嫌なこと全部忘れちゃうくらい美味しいんです。楽しみにしていてくださいね」
「あ……は、はい……」
誠二は居心地悪そうに身じろぎしたが、結衣の屈託のない笑顔に、強張っていた肩の力がほんの少しだけ抜けたように見えた。
「――火を入れるぞ!」
厨房から、源三の鋭い気合いが飛んだ。
客席の空気が、一瞬にしてピンと張り詰める。
結衣は素早くカウンターの脇へ回り、源三のサポート態勢に入った。
カチリ、ボッ!
手前のコンロから、青く鋭い炎が噴き上がる。
源三が鉄の中華鍋を火にかけると、瞬く間に鉄肌が油を吸って鈍い光を放ち始めた。
自家製ラードが一片、落とされる。
ジュワッ、と澄んだ脂が溶け広がり、独特の香ばしい動物性の香りが客席へと流れ込む。
そこへ、一口大に刻まれた新鮮な鶏もも肉と、八百杉から今朝届いたばかりの、みずみずしい玉ねぎの微塵切りが一気に投入された。
ジャアアアアアッ――!!
耳を劈くような激しい炒め音。
源三の太い腕が、重い鉄鍋を軽々とあおる。火の粉が散り、ラードの煙が換気扇へと吸い込まれていく。
「おおっ……相変わらずいい手さばきだぜ」
辰夫が身を乗り出し、目を輝かせた。
玉ねぎが透き通った飴色に変わり、鶏肉の表面がキツネ色に焼き固められた絶妙の瞬間、源三の右手が調味料の瓶を掴んだ。
真っ赤なケチャップ、そして隠し味の熟成ウスターソース。
鍋肌へジュッ! と回し入れられた途端、焦げたトマトの甘酸っぱい芳香と、スパイスのツンとした刺激が、爆発的な蒸気となって立ち上った。
そこへ、羽釜からよそわれたばかりの、湯気立つ銀シャリが惜しげもなく放り込まれる。
ガシャッ、ガシャッ、ガシャッ!
平杓子で米粒をほぐし、鍋を激しくあおる。
米の一粒一粒が、真っ赤なソースとラードを均一にまとい、宙を舞う。
わずか一分。
一切の焦げ付きもなく、パラリと仕上がった真紅のチキンライスが、二枚の楕円形の白磁皿の上へと滑り落ちた。
一つは辰夫のための特盛の丘、もう一つは誠二のための均整の取れた美しい山。
皿の上から、もうもうと立ち上る香ばしい湯気。
それだけで、客席の二人の喉が同時にゴクリと鳴った。
だが――本番はここからだった。
「結衣、卵だ!」
「はい!」
結衣はあらかじめ、八百杉の最高級卵を三個ずつ割り落とし、裏漉し器を通して白身のコシを完璧に切ったボウルを、源三の手元へ差し出した。
源三はコンロを、小さめの銅製フライパンへと切り替える。
ボッ、と中火の青い炎。
澄んだ黄色い特選バターが、フライパンの底へと滑り込む。
パチパチパチッ!
甘く、濃厚なバターの泡立ち。
そこへ、滑らかな黄金色の卵液が一気に流し込まれた。
ジュワアアッ!
源三の眼光が、獲物を狙う鷹のように鋭さを増した。
左手でフライパンを前後に小刻みに揺すり、右手の菜箸を、目にも留まらぬ速さで円を描くように回転させる。
外側から固まりかけてくる卵の薄膜を、内側へ、内側へと素早く巻き込んでいく。
バターと空気をたっぷりと含んだ卵液が、きめ細かなムース状のスクランブルエッグへと変化していく。
一秒、二秒、三秒。
熱が均一に行き渡り、全体がぽってりとした重みを帯びた刹那――。
ジュッ!
源三はフライパンを濡れ布巾の上に叩きつけ、急冷させた。
余分な熱の侵入を、力づくで断ち切る。
そして、フライパンの柄を斜め四十五度に掲げ、右手の拳で柄の根元を叩いた。
トントン、トントン、トントン!
リズミカルな振動が伝わるたび、中の半熟卵が生き物のようにくるり、くるりと前方へ回転を始める。
外側は破れないギリギリの極薄の膜。
内側は、極上のクリーミーな半熟。
一瞬の淀みもなく、完璧な黄金の紡錘形――ラグビーボール型へとまとまっていく。
最後に強火へかざして表面を一秒だけ焼き固めると――。
「おりゃあッ!」
ぽすん。
チキンライスの赤い丘の頂点に、生まれたての赤ん坊の頬のように滑らかな、一点の焦げ目もないプレーンオムレツが着地した。
皿を置いた微かな振動だけで、オムレツ全体がぷるぷると、まるで水風船のように頼りなげに揺れている。
「な……なんだありゃあ!?」
辰夫が思わず立ち上がり、カウンターから身を乗り出した。
「オムレツが……飯の上に乗っかってるだけじゃねえか! 包んでねえぞ!?」
源三は息を乱すこともなく、二つ目のオムレツも全く同じ神技の精度で焼き上げ、誠二の皿の上へとぽすんと乗せた。
二つの皿が、カウンター越しに辰夫と誠二の目の前へ滑り出す。
「お待たせいたしました」
結衣が、研ぎ澄まされた小さなペティナイフを手に取り、二人の前に進み出た。
「本田社長、誠二さん。……よく見ていてくださいね」
「あ? 何すんだ、結衣ちゃん」
「開花、させます」
結衣は微笑むと、辰夫の皿の上のオムレツの中央、縦の稜線にナイフの刃先をそっと当てた。
力は一切入れていない。ただ、刃の自重だけで、極薄の卵の皮膜がすっと裂ける。
手前から、奥へ――。
その瞬間だった。
パカッ!
目に見えるような鮮やかさで、オムレツの皮膜が左右に割れた。
そして――中から溢れ出してきたのは、白い湯気をもうもうと噴き上げる、極上の黄金色をした半熟卵の雪崩だった。
どろり、とろり。
重力に従い、滑らかなクリーム状の卵がチキンライスの赤い斜面をなだれ落ちていく。
あっという間に、チキンライスの山全体が、ふんわりとした黄金の絨毯で包み込まれた。
「う、うおおおおおおおおっ!?」
辰夫が、腹の底から咆哮のような叫び声を上げた。
「割れたァッ!? 卵が割れて、中からトロトロのが溢れてきやがったぞおい!!」
隣の誠二も、目を限界まで見開き、開いた口が塞がらない様子で固まっていた。
「な……何ですか、これ……! 卵が……花が咲いたみたいに……」
二人の驚愕が頂点に達した瞬間、源三の太い腕が伸びた。
小鍋からすくい上げられたばかりの、湯気立つ漆黒のデミグラスソース。
それが、黄金の絨毯の上から、惜しげもなく一気に回しかけられた。
トロリと流れる黒いソースが、半熟卵の柔らかな襞を伝い、白磁の皿の縁へと広がっていく。
赤ワインと焦がし香味野菜の深い苦味、牛骨の重厚な旨味、そしてバターの芳香が、熱風となって二人の顔面を直撃した。
赤、黄、黒。
息を呑むような三色のコントラスト。
「……キリシマ食堂特製、開花オムライスだ」
源三が腕組みをし、低く告げた。
「冷めねえうちに、腹の中に叩き込め」
「いただきますッ!!」
辰夫は金属のスプーンをひったくるように掴むと、黄金と漆黒が激しく混ざり合う中央部へと突き立てた。
何の抵抗もなく、スプーンが沈み込む。
山盛りの半熟卵、漆黒のデミグラス、そして真っ赤なチキンライス。
三位一体の塊を巨大な一口として掬い上げ、大きく開けた口の中へと放り込んだ。
「っ…………!?」
辰夫の動きが、ピタリと止まった。
咀嚼する顎の動きが止まり、見開かれた瞳孔が、激震に揺れている。
「……しゃ、社長……?」
誠二が怯えたように声をかける。
その刹那――辰夫の喉から、唸り声のような溜息が漏れ出した。
「……う、うめえええええええええええっ!!」
辰夫はカウンターの板を、左のこぶしでドカンと叩いた。
「なんだこれぇぇぇっ! 柔らかい! 卵が……卵が口の中でとろけて、噛む前に消えちまうぞ! なのに、バターのコクと卵の味が、津波みてえに押し寄せてきやがる!」
辰夫の顎が、猛烈な勢いで動き出した。
「チキンライスのケチャップの酸味が、この黒いソース……デミグラスの苦味と完璧に噛み合ってやがる! ラードで炒めた飯の油っぽさを、卵が全部まろやかに包み込んで……喉の奥へ滑り落ちていくんだよ! おい誠二、見てねえで早く食え! 溶けるぞ、これ! 頭のてっぺんまで痺れる美味さだぞ!!」
辰夫は喚き散らしながら、すでに二口目、三口目を口へと運んでいた。
ガツガツ、ガツガツッ!
スプーンが皿を打つ激しい音が店内に響き渡る。
一日中、重い鉄骨を運び、熱気の中で汗を流し尽くした身体。
失われた塩分、枯渇した糖分、そして極限まで飢えていた脂質とタンパク質。
そのすべてが、この一皿の中に凝縮されていた。
労働者の肉体が、歓喜の悲鳴を上げながら、栄養と旨味を貪り食っている。
その圧倒的な光景に呑まれ、誠二は震える手でスプーンを握りしめた。
目の前にある、自分だけの黄金の山。
結衣が先ほどナイフを入れてくれたオムレツからは、まだ温かな湯気が立ち上り、デミグラスの甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐっている。
「……いただきます」
誠二は小さく呟き、スプーンを端の柔らかい部分へと差し入れた。
すっと持ち上げる。
スプーンの上で、ぷるぷると震える半熟の卵。
それを、おずおずと口の中へと運んだ。
「…………っ」
誠二の細い肩が、ビクッと跳ね上がった。
舌の上に触れた瞬間、まず感じたのは、人肌よりも少し熱い、心地よい温もりだった。
そして、ふわりと広がる卵の甘み。
生まれてからずっと、秋田の寒村で食べていた卵といえば、冷たい白飯に醤油をぶっかけた生卵か、硬く焼き締めた卵焼きくらいだった。
こんなに滑らかで、こんなにクリーミーで、噛まなくても舌の上でとろりとほどけていく卵料理など、誠二の二十一年の人生の中で、影も形も存在しなかった。
続いて、舌の奥を殴りつけてきたのは、源三のデミグラスソースの深いコクだった。
牛骨の髄まで溶け込んだ動物性の力強い旨味。
焦がした香味野菜の、大人の苦味。
それが、ケチャップでしっかり味付けされたチキンライスの塩気と合流し、爆発的な旨味の奔流となって喉を滑り落ちていく。
温かい。
胃の腑に落ちた瞬間、冷え切っていた腹の底が、まるで火鉢を抱え込んだようにポカポカと熱を帯びていくのがわかった。
「……あ……」
誠二の瞳から、ポロリと雫がこぼれ落ちた。
一枚の皿を見つめたまま、少年の目から次々と涙が溢れ出し、頬の油汚れを伝って顎から滴り落ちていく。
「おい、誠二……?」
隣で山盛りの皿を半分まで平らげていた辰夫が、驚いてスプーンを止めた。
「どうした、どこか痛えのか!?」
「……ちが……違います……」
誠二は袖口で涙を拭おうとしたが、涙は止まらなかった。
「僕……東京に来てから、ずっと……ずっと怖くて……」
途切れ途切れの、秋田訛りの混ざった声。
「言葉も通じなくて、工場の機械の音が怖くて……寮の部屋は寒くて、誰も口きいてくれなくて……。飯なんて、腹が鳴らなきゃ何でもいいと思ってました……。固いパンかじって、水道の水飲んで……早く田舎に帰りてえって、毎晩そればかり考えてて……」
誠二はスプーンをぎゅっと握りしめ、チキンライスをもう一口、口に放り込んだ。
噛み締めるたびに、鶏肉の旨味と玉ねぎの甘みが口いっぱいに広がる。
「でも……こんな……こんな美味いもん……。温かくて、優しくて……僕、生まれて初めて食いました……っ! 生きててよかったって……東京に来てよかったって、初めて思いました……っ!」
しゃくりあげながら、誠二はスプーンを激しく動かした。
泣きながら、鼻水をすすりながら、夢中でオムライスをかき込む。
一口ごとに、痩せ細った身体の細胞が目覚めていくようだった。
血が巡る。
指先が温かくなる。
明日も生きて、工場へ行って、あの重い鉄を削ろうという気力が、腹の底からマグマのように湧き上がってくる。
「……そうか」
辰夫は豪快な笑みを引っ込め、太い手を誠二の華奢な肩の上にドンと置いた。
「そうかよ、バカ野郎。……美味い飯を食ったなら、もう大丈夫だ。俺の工場で、一人前の職人になるまでしっかり叩き込んでやるからな」
「……はいっ! はいっ……!」
誠二は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷き、皿に残った最後のデミグラスソースの一滴まで、スプーンで綺麗に拭い去って口に運んだ。
カラン、とスプーンが置かれる。
辰夫の特盛りの皿も、誠二の並盛りの皿も、米粒一つ残さず、まるで洗ったかのようにピカピカに平らげられていた。
辰夫は作業着のポケットから財布を取り出し、真新しい五百円札をカウンターの上にドンと叩きつけた。
「源さん、結衣ちゃん! 釣りはいらねえ!」
「おい辰夫、ウチはボッタクリバーじゃねえぞ。きっちり四十円持ってけ」
源三がすかさず小銭を押し返したが、その口元は隠しきれない誇らしさで緩んでいた。
源三は背中を向け、洗い場に立ちながら、フンと鼻を鳴らした。
「……口の肥えた大人の舌より、腹を空かせた小僧の涙の方が、料理人にとっちゃ何倍も効く特効薬だ。……粗末な身体しやがって。また明日の昼も食いに来い、誠二」
ぶっきらぼうな、だが底抜けに温かい言葉。
誠二は深々と頭を下げた。
「はい! ごちそうさまでした! また、絶対に食べに来ます!」
入ってきた時の、あの怯えたような少年の面影はどこにもなかった。
誠二の瞳には、しっかりと前を見据える力強い光が宿っていた。
「じゃあな、源さん! 午後の仕事、気合い入れてぶっ叩いてくるぜ!」
辰夫が誠二の背中を押し、二人は意気揚々と店を出ていった。
ガラガラ、ピシャリ。
引き戸が閉まった瞬間――外の通りから、ドッと歓声のようなざわめきが店内にまで漏れ聞こえてきた。
「おい、本田のオヤジが出てきたぞ!」
「どうだったんだ、あのオムライスは!?」
戸の向こうで、辰夫の雷鳴のような大声が響き渡る。
「美味いなんてもんじゃねえぞテメエら! 死ぬ気で食いに行け! 卵が割れて、神様が降りてきたみてえな味だぞ!!」
その言葉が、最後の引き金となった。
ガラガラガラッ!
「す、すみません、開花オムライス二つ!」
「俺も! 大盛りで頼む!」
「まだ三十食残ってるかい!?」
堰を切ったように、作業着姿の男たちが店内に雪崩れ込んできた。
あっという間に、カウンターもテーブル席も、腹を空かせた工員たちで埋め尽くされていく。
「へい、毎度! 結衣、卵の用意だ!」
「はいっ!!」
結衣は叫びながら、エプロンの紐を締め直した。
空になった二枚の皿を片付けながら、結衣の胸の奥底から、熱いものがこみ上げていた。
(……これだ)
令和のオフィスで、クリック率やコンバージョン率の数字ばかりを追っていた時には、絶対に味わえなかった感覚。
画面の向こうの見えない誰かじゃない。
いま、目の前で生きている人間の、飢えと、孤独と、悲しみを。
温かいご飯と、本物の技と、それを伝えるための正しいデザインで、根本から救い上げること。
胃袋を掴むということは、その人の「命」を肯定することなのだ。
「いらっしゃいませ! すぐにお作りしますね!」
結衣の明るい声が、下町の小さな洋食屋の熱気の中に、高く、澄み切って響き渡った。




