第10話:擦り切れた革靴と、琥珀色の滋養
午後一時三十分。
狂乱のような昼のピークタイムが過ぎ去った初音銀座商店街には、初夏の気だるい静けさが戻りつつあった。
路地のアスファルトからは、じりじりと照りつける太陽の熱が陽炎となって立ち上り、どこかの長屋の軒下に吊るされた南部鉄器の風鈴が、乾いた音をチリンと鳴らしている。午前中あれほど賑やかだった町工場の機械音も、昼休憩を終えたばかりの鈍いアイドリング音へと落ち着いていた。
キリシマ食堂の店頭では、限定三十食の看板を出していた『特製・開花オムライス』の黒板POPの横に、結衣の手によって『昼の部 オムライス完売御礼』の木札が掛けられていた。
店内には、まだかすかにチキンライスを炒めたラードの香ばしさと、デミグラスソースの甘くほろ苦い余韻が漂っている。
結衣は客席のテーブルを固く絞った布巾で拭き清め、椅子を几帳面に並べ直していた。二十一席の丸椅子と木製テーブルは、三十人以上の男工たちが残していった熱気のせいで、まだどことなく温もりを帯びているように感じられた。
「ふう……っ」
額に滲んだ汗をエプロンの端で拭い、小さく息を吐き出す。
ふくらはぎはパンパンに張り、腰の奥には鈍い痛みが居座っていた。けれど、昨日までのあの絶望的な疲労感とはまるで違う。自分の引いた動線の上を、大山源三の職人技が寸分の狂いもなく走り抜け、三十人もの胃袋を完璧に満たして送り出したのだという、確かな達成感が全身を満たしていた。
厨房の奥では、源三が真鍮の寸胴鍋の前に立ち、長い木べらでデミグラスの種火を調整していた。
その背中には、昨日までの焦燥や荒々しさは微塵もない。三十食を捌き切ったという静かな自負と、新しく生まれ変わった厨房の機能美に対する深い納得が、老職人の引き締まった肩口に宿っていた。
その時だった。
カラ……リ。
まるで、中に入るのを躊躇っているかのような、頼りなげな乾いた音が響いた。
入り口の引き戸が、わずかに五寸ほど開け放たれる。
「ごめんください……。あの……まだ、お昼はいただけますでしょうか……?」
隙間から滑り込んできたのは、蚊の鳴くような、掠れた若い男の声だった。
「あ、いらっしゃいませ!」
結衣は布巾を素早く腰のエプロンへ挟み込み、反射的に明るい声を張り上げて入り口へと駆け寄った。
だが、戸を完全に開けて姿を現したその人物を目にした瞬間、結衣は思わず言葉を詰まらせた。
そこに立っていたのは、一人の若い男だった。
年齢は二十代の半ば、二十五か六といったところだろうか。
下町の労働者たちが着ている油まみれの作業着とは根本的に異なる、仕立ての良い紺色のサージ地の背広を着ていた。しかし、そのスーツは連日の酷使を物語るようにあちこちに深いシワが刻まれ、肩口には乾いた埃が白くうっすらと積もっている。
首元の白いワイシャツは汗を吸って肌に張り付き、小豆色のネクタイは結び目が緩んで右側に無残に曲がっていた。
右手には、書類が限界まで詰め込まれて豚のように膨らんだ、角の擦り切れた黒革のブリーフケース。
そして――何よりも結衣の目を釘付けにしたのは、その足元だった。
かつては黒く磨き上げられていたであろう革靴。そのつま先は無数の傷で白茶けてめくれ上がり、踵のゴムは極端に外側へ擦り減って、地面を踏みしめるたびにペタ、ペタと力のない音を立てていた。
男の顔は、驚くほど青白かった。
彫りの深い端正な顔立ちをしているのに、目の下には濃い紫色の隈が幾重にも落ち窪み、唇は水分を失って白くひび割れている。
何より、男の左手は――自らの胃のあたりを、爪が食い込むほどに強く、無意識のうちに圧迫し続けていた。
(……この人……)
結衣の心臓が、トクンと嫌な音を立てて跳ねた。
見覚えがあった。
鏡を見ているようだった。
令和のあの暗いオフィス街で、午前三時の始発を待ちながら、痛む胃袋を抱きかかえてガード下の壁にすがりついていた、かつての自分自身の姿。
終わりのないノルマ。理不尽な上司の叱責。数字という名の見えない鞭に追われ、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からなくなり、それでも立ち止まることの恐怖から逃れられずに足を引きずり続ける、壊れかけの歯車。
目の前の男から放たれているのは、まさにその「過労と絶望の匂い」だった。
「あ……申し訳ありません」
男は、店内に漂う片付けの気配と、店頭の『オムライス完売御礼』の札にようやく気づいたようだった。
自嘲気味に口元を歪め、力なく首を振る。
「……終わって、いましたよね。表の看板も見ずに、勝手に入ってきてしまって……すみません。失礼しました……」
男は深々と頭を下げ、踵を返そうとした。
その足取りが、ふらりと大きく揺れる。
立ちくらみを起こしたのか、男の身体が硝子戸の木枠へと激しく倒れ込みそうになった。
「危ないっ!」
結衣は考えるよりも先に身体を動かしていた。
飛び出し、男の痩せた二の腕を両手でしっかりと支える。
「うっ……あ、すみません……っ」
触れた腕の細さに、結衣は息を呑んだ。背広の上からでもはっきりと分かるほど、骨張っている。熱を帯びた生ぬるい汗が、シャツの布地を通して結衣の指先に伝わってきた。
「大丈夫ですか!? ……どうぞ、中に入ってください。まだ大丈夫ですから!」
「え……でも、看板には完売と……」
「オムライスは終わってしまいましたけど、お席は空いています! 外は日差しが強いですから、とりあえず座ってお水を飲んでください。さあ、こちらへ!」
結衣は半ば強引に男の手を引き、冷房のない昭和の店内とはいえ、直射日光の当たらない一番奥の涼しいテーブル席へと案内した。
ドサリ、と男の身体が木製ベンチに沈み込んだ。
男は重いブリーフケースを足元に落とすと、まるで全身の関節から糸が切れた操り人形のように、テーブルに両肘をついて項垂れた。荒い呼吸のたびに、細い背中が小刻みに上下している。
「冷たいお水です。どうぞ」
結衣はすぐに、井戸水で冷やしたガラスコップと、氷水に浸して固く絞った清潔なおしぼりを差し出した。
「……ありがとうございます……すみません、本当に……」
男は震える指でおしぼりを掴むと、すがるように顔全体を覆った。
冷たさが熱を持った皮膚を冷やしていく。ふう、と長く細い吐息が、おしぼりの奥から漏れ出した。
続いて、両手でコップを持ち上げ、水を一口、また一口と喉へ流し込む。
喉仏が渇いた音を立てて上下し、男はコップを空にすると、ようやく人心地がついたように視線を上げた。
「……生き返りました。……喉が渇いていることすら、忘れていました」
「お仕事、外回りだったんですか?」
結衣が優しく問いかけると、男は気まずそうに視線を泳がせ、胸ポケットの社章に指を触れた。
「あ……はい。京橋に本社がある繊維商社……『帝都物産』の、吉村と申します。吉村健一です」
吉村健一。
中堅繊維商社の営業マン。
昭和四十五年、日本の輸出産業を牽引し、世界中へと化学繊維や合繊織物を売り捌いていた花形産業の尖兵。
だが、その華やかな経済成長の屋台骨を支えていたのは、吉村のような名もなき若い営業マンたちの、文字通り身を削るような過酷な労働だった。
「午前中、この先の鐘紡の下請け工場と、向島の織物問屋を回っていたのですが……」
吉村は自嘲するように目を伏せ、机の木目を指先でなぞった。
「新規の大口契約を、他社に横取りされてしまいまして。……私の段取りが悪かったのが原因なんですが、支店長から電話口で怒鳴りつけられましてね。『契約が取れるまで会社に帰ってくるな』と。……歩いて、歩いて、飛び込みで町工場を叩いて回ったんですが、門前払いばかりで……気がついたら、昼飯も食べないまま、一時半を過ぎていました」
淡々と語る吉村の声には、底知れない疲労と、自責の念が滲んでいた。
自分は無能だ。
時代の猛烈なスピードについていけない、落ちこぼれの敗残兵だ。
そう自分に言い聞かせ、心を麻痺させようとしているのが痛いほど伝わってきた。
「お腹、空いてますよね。何かお作りしますよ」
結衣が言うと、吉村は困ったように眉尻を下げ、再び左手で自らの腹部を押さえた。
「それが……腹は減っているはずなんですが、胃が……朝からキリキリと引き攣るように痛んでいて。油っこいものや、固い肉は、とても受け付けそうにないんです。……あの、無理を言って本当に申し訳ないんですが、何か……喉を通りやすい、軽めのものはありますでしょうか。お茶漬けとか、温かいスープのようなものでも構わないのですが……」
洋食屋に対して「お茶漬け」を頼むという無作法。
吉村自身、それがどれほど失礼な注文であるかを理解しているのだろう、耳まで赤くして縮こまっていた。
「……フン」
厨房の奥から、冷たい鼻鳴らしが響いた。
カウンターの隙間から、大山源三が腕組みをしてこちらを睨みつけていた。
「おい、背広の兄ちゃん。ウチの看板をよく見てみろ。『洋食・キリシマ食堂』って書いてあんだろうが。誰が病人相手に重湯や粥を炊くって言ったよ。食い気配のない奴に食わせる飯なんざ、ウチの台所には一膳もありゃしねえよ」
「あ……も、申し訳ありません……! 出直します……!」
吉村が慌てて立ち上がろうとした。
「待ってください!」
結衣は吉村の肩をそっと制止すると、くるりと振り返り、厨房の源三の元へと大股で歩み寄った。
カウンター越しに、結衣は源三と対峙した。
「源さん」
「なんだよ。追い出せ。昼の営業は終わりだ。仕込みの邪魔だ」
「追い出しません」
結衣は声を潜め、しかし毅然とした眼差しで老職人を見つめ返した。
「源さん、見てください、あの人の顔を。目の下の隈、震える指、青白い唇……。あれは、ただの空腹じゃありません。精神的に極限まで追い詰められて、自律神経が悲鳴を上げて、胃が完全に痙攣を起こしている状態です」
「知るかよ。サラリーマンの苦労なんざ、飯炊きのお前に関係ねえだろ」
「関係あります! 目の前で倒れそうな人がいるのに、背中を向けるのがキリシマ食堂の流儀ですか!?」
結衣の強い語調に、源三はピクリと眉を動かした。
「あんな状態の人に、脂っこいカツレツやチキンライスを出したら、胃が受け付けずに吐いてしまいます。……でも、何か温かい栄養を胃に入れなきゃ、あの人は今日、本当に線路にでも飛び込みかねない顔をしています!」
「…………」
源三の鋭い視線が、客席の奥で項垂れる吉村の丸まった背中へと向けられた。
擦り切れた革靴。くたくたになったスーツ。
昭和の激動を生き抜いてきた源三にも、あの男が背負っているものの重さが、見えないはずがなかった。高度経済成長という巨大な怪物に呑み込まれ、すり潰されそうになっている若い命。
「……で、何を作れってんだ」
源三の声が、わずかに低くなった。
「お粥なんかじゃなくていいんです」
結衣はカウンターの奥、棚の最上段に置かれていた、純白の陶器の蓋付き小鉢を指差した。
「源さん。……あのスープ、ありますよね。今朝、仕込みの途中で見せてくれた……あの、極上のスープが」
源三の目が、見開かれた。
「……おい。テメエ、本気で言ってんのか」
「本気です」
「あれは……賄いでも、大衆向けの定食で出すようなもんじゃねえぞ。浅草の『グリル大山』で、夜の特別コースの先附けとしてしか出さなかった……俺の料理人人生の、一番奥底にある技術だぞ」
「だからこそ、です」
結衣は真っ直ぐに源三を見据えた。
「あの人にいま必要なのは、ただの腹塞ぎの炭水化物じゃありません。冷え切った内臓を優しく温め、傷ついた胃壁をいたわり、生きる気力を体の底から呼び覚ます……本物の滋養です。源さんのあのスープなら、絶対にそれができます!」
静まり返る厨房。
換気扇の低い唸り声だけが、二人の間の張り詰めた空気を刻んでいた。
やがて――源三は深く息を吐き出し、前掛けの紐をきつく締め直した。
「……チッ。本当に、口の減らねえ小娘だ」
源三はコンロへ向かい、手鍋を手に取った。
「パンを切れ、結衣。八つ切りの食パンを一枚、耳を落としてトーストしろ。バターは無塩のやつをごく薄くだ。……焦がしたら承知しねえぞ」
「はいっ!!」
◆
厨房の最奥。
大山源三が、普段は決して客に見せることのない、小さな真鍮の雪平鍋を火にかけた。
そこへ注ぎ入れられた液体を見て、結衣は息を呑んだ。
それは――まるで、溶かした黄金だった。
わずかの濁りもなく、底まで完全に透き通った、深い琥珀色の液体。
洋食の最高峰にして、すべての基本――『コンソメ(Consommé)』。
フランス語で「完成された」「完璧な」を意味するそのスープは、ファミレスの粉末スープや、固形ブイヨンを湯で溶かしたようなインスタントとは、次元の違う手間暇をかけて作られる。
牛の脛肉、牛骨、そして玉ねぎ、人参、セロリ、ポワロ葱といった香味野菜を、冷水から何時間もかけてコトコトと煮出して取った極上のブイヨン。
それを一度冷まし、表面に浮いた脂を一ミリ残らず丁寧に取り除く。
さらにそこへ、細かく叩いた牛の赤身挽き肉と香味野菜、そして大量の「生の卵白」を混ぜ合わせたものを投入するのだ。
弱火にかけ、静かにかき混ぜ続ける。
すると、熱によって凝固を始めた卵白が、スープの中に漂う微細な灰汁や濁りの粒子を、まるで網のようにすべて吸着しながら、鍋の表面へと巨大な白いドームとなって浮き上がってくる。
中央に小さな穴を開け、対流する熱いスープを循環させること数時間。
最後に、目の細かいフランネルの布を通して一滴一滴、時間をかけて濾し落とす。
肉と骨と野菜の旨味、甘み、ミネラル、コラーゲン――そのすべてのエキスだけを残し、脂と濁りを極限まで削ぎ落とした、奇跡の結晶。
カチリ、ボッ。
極弱火の青い炎が、雪平鍋の底を舐める。
スープが温まるにつれて、厨房の中に、信じられないほど気品のある香りが立ち上り始めた。
ツンとした脂っこさは微塵もない。
じっくりとローストされた牛骨の深い芳香。香味野菜の爽やかな甘み。そして、クローブとタイムの微かなスパイシーな香り。
鼻腔をくすぐられただけで、胃袋の奥がキュンと鳴り、唾液がじわりと溢れ出してくるような、高貴な芳香。
源三は柄杓でスープをすくい、銀のスプーンに一滴垂らして舌先へ乗せた。
目を細め、静かに頷く。
白磁の深いスープボウルが、湯煎で温められる。
そこへ、琥珀色の液体が、音もなく注ぎ入れられた。
表面には、脂の浮きがただの一粒も存在しない。鏡のように澄み渡り、天井の電灯の光を反射して、神々しいまでの黄金の輝きを放っている。
「運べ、結衣」
源三が、短く言った。
「冷めねえうちにな」
「はい!」
◆
「お待たせいたしました」
結衣は、両手で恭しくスープボウルを抱え、吉村のテーブルへと運んだ。
木製の角盆の上には、湯気を立てる琥珀色のスープボウル。
そして、その隣には、純白のナプキンの上に置かれた、きつね色に香ばしくトーストされた薄切りのパン。耳が綺麗に落とされ、表面には上質な無塩バターが、塗られたことすら分からないほど薄く、均一にまとわされている。
「……え?」
項垂れていた吉村が、顔を上げた。
ボウルから立ち上る湯気が、吉村の疲弊した顔を優しく包み込む。
「これは……スープ、ですか……?」
吉村の瞳が、驚きに見開かれた。
大衆食堂の味噌汁や、中華料理屋のワカメスープのようなものを想像していたのだろう。
だが、目の前にあるのは――銀座の一流フレンチか、帝国ホテルのメインダイニングでしかお目にかかれないような、息を呑むほどに美しいコンソメスープだった。
「キリシマ食堂の、裏メニューです」
結衣は微笑み、銀色のスープスプーンを吉村の手元へ差し出した。
「丁寧に、丁寧に灰汁を取り除いて澄ませた、牛骨と香味野菜のコンソメスープです。余分な脂は一滴も入っていませんから、疲れた胃にも絶対に負担になりません。……どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」
「あ……ありがとう、ございます……」
吉村は、まるで割れ物に触れるような手つきで、スプーンを指先で握った。
指が、微かに震えている。
スプーンの先を、静かに琥珀色の水面へと沈めた。
波紋が広がり、黄金の鏡が揺れる。
すくい上げられたスープは、スプーンの銀色の上で、透き通った宝石のように輝いていた。
ふう、と息を吹きかけ、吉村はその液体を、おずおずと唇へと運んだ。
スッと、液体が口腔へと滑り込む。
「っ…………!?」
吉村の全身が、電流に打たれたように硬直した。
目が見開かれ、息が止まる。
まず舌の上に広がったのは、圧倒的な「清涼感」だった。
脂っこさが全くない。まるで上質な湧水を飲んでいるかのように、さらりと舌を撫でていく。
だが――その直後。
味蕾のすべてが、怒涛のような旨味の奔流に包み込まれた。
牛の赤身肉と骨の髄から溶け出した、濃厚で力強いイノシン酸の旨味。
人参と玉ねぎが何時間もかけて放出した、自然で優しいグルコースの甘み。
セロリとハーブがもたらす、爽快で上品な苦味と香り。
それらが、角の取れたまろやかな塩気とともに、完璧な調和を保って口いっぱいに膨らんでいく。
化学調味料のトゲトゲしい刺激など、欠片もない。
自然の生命そのものを、極限まで濃縮して抽出したような、深く、深く、どこまでも澄み渡った滋味。
「あ……っ……」
吉村の喉が、トクンと小さく鳴った。
熱い液体が喉を通り落ち、食道を抜け、硬く引き攣っていた胃の腑へと届く。
その瞬間――。
ギュッと固く結ばれていた胃壁が、まるで温かい毛布で包み込まれたかのように、じんわりと解きほぐされていく感覚が広がった。
冷え切っていた内臓に、熱が灯る。
血管が開き、止まっていた血が、指先へ、足先へ、そして脳の隅々へと巡り始める。
「……なん、だ……これ……」
吉村の口から、掠れた声が漏れた。
「美味い……なんてものじゃ、ない……。身体の中に……すーっと、染み込んでいく……」
震える手で、吉村は二口目、三口目とスプーンを口へ運んだ。
止まらなかった。
飲むたびに、胃の痛みが引いていく。
飲むたびに、重く締め付けられていた頭の奥の鈍痛が、霧が晴れるように消え去っていく。
続いて、吉村は添えられていたトーストに手を伸ばした。
サクッ。
心地よい乾いた音が響く。
薄く切られたパンは驚くほど軽やかで、口の中で香ばしい小麦の香りを弾けさせる。ごく薄く塗られた無塩バターが、スープの旨味をさらに引き立てる。
トーストをひとかじりし、すかさずスープを一口すする。
小麦の甘みと、コンソメの重厚なコクが混ざり合い、胃袋が歓喜の声を上げる。
「う……っ、うう……」
吉村の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
止まらなかった。
頬を伝い、ネクタイを濡らし、テーブルの上に小さな染みを作っていく。
今朝から、ずっと張り詰めていたのだ。
大口の契約を失い、上司に電話口で怒鳴られ、「役立たず」「給料泥棒」と罵倒され、それでも頭を下げて、ペコペコと愛想笑いを浮かべながら、炎天下の下町を歩き回っていた。
弱音を吐いてはならない。
立ち止まってはならない。
高度経済成長の波に乗り遅れた奴は、人間として失格なのだと、自分自身を鞭打ち続けていた。
誰も、自分の苦しみなど見てくれない。
誰も、自分が朝から何も食べていないことなど気にも留めない。
この巨大な東京の街の中で、自分はただ消費され、すり潰されて消えていく、替えの利くちっぽけな歯車に過ぎないのだと――。
そう思っていた。
なのに。
この見知らぬ下町の小さな洋食屋で、こんなにも丁寧に、こんなにも時間をかけて作られた、温かい一杯のスープが、傷だらけの自分の身体を、魂を、丸ごと抱きしめてくれている。
「……うっ……ひぐっ……」
吉村はスプーンを握りしめたまま、声を殺して泣いた。
涙を拭おうともせず、ただひたすらに、琥珀色のスープを最後の一滴まで掬い取り、口へと運んだ。
厨房の奥で、源三は煙草をくわえたまま、背を向けて腕組みをしていた。
何も言わない。
だが、その耳の先は、わずかに赤くなっていた。
自分の命を削って仕込んだスープが、いま、一人の若者の命を確かに繋ぎ止めている。料理人として、これ以上の報酬はないことを、老職人は誰よりも知っていた。
カラン。
スプーンが、空になったスープボウルの底に静かに置かれた。
トーストも最後の一片まで綺麗に平らげられ、ナプキンの上にはパンくず一つ残っていなかった。
吉村は、深く、深く息を吐き出した。
その顔には、先ほどまでの死人のような青白さはどこにもなかった。
頬にはほんのりと赤みが差し、唇にはみずみずしい血色が戻り、瞳にはしっかりと焦点が結ばれていた。
結衣が、新しい温かいお茶とおしぼりを持って、テーブルの脇に立った。
「……お粗末さまでした」
結衣が静かに微笑みかけると、吉村は慌ててハンカチで涙を拭い、背筋を正して立ち上がった。
「あ……すみません! みっともないところをお見せしてしまって……本当に、申し訳ありません……!」
「いいえ」
結衣は首を横に振った。
そして、テーブルの上の空になったボウルを見つめ、それから吉村の目を真っ直ぐに見据えた。
「お仕事、大変なんですね」
その声は、どこまでも柔らかく、どこまでも温かかった。
「会社のこととか、ノルマのこととか……私には詳しいことは分かりません。でもね、吉村さん」
結衣は、かつて令和の暗闇の中で、誰かに言ってほしかった言葉を、心を込めて紡ぎ出した。
「食べないと、戦えませんよ」
「…………っ!」
吉村の胸が、激しく高鳴った。
「身体は、食べたものでしか作られません。心が折れそうな時こそ、温かいものを食べて、胃袋を満たしてあげてください。……人間、お腹がいっぱいになって身体が温まれば、大抵のことは何とかなるものですから」
結衣の顔に、いたずらっぽく、そして凛とした笑顔が咲いた。
「だから……あんまり、自分を責めないでくださいね。吉村さんは、今日もしっかり戦ったんですから」
吉村は、息を呑んで立ち尽くしていた。
目の前に立つ、白いエプロン姿の女性。
強い光を宿した瞳。優しく微笑む唇。
その姿が、初夏の柔らかな木漏れ日を浴びて、まるで後光が差しているかのように眩しく見えた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱い。
それは、スープの温もりとはまた違う、甘酸っぱく、切なく、そして激しい感情の疼きだった。
「……はい」
吉村の声は、もう震えていなかった。
「……はい! ありがとうございます……!」
吉村は深く、深々と頭を下げた。
そして、内ポケットから財布を取り出すと、千円札を一枚、トレイの上に置いた。
「あ、お代は二百円で結構ですよ」
「いえ! 取ってください! ……あんなに素晴らしいスープをいただいたんです。二百円なんて、とても受け取れません!」
「ダメです、ウチは定価商売ですから」
結衣が笑って八百円のお釣りを押し返すと、吉村は恐縮しながらそれを受け取り、大事そうに財布にしまった。
吉村はブリーフケースを握り直した。
ネクタイの結び目をキュッと引き締め、曲がっていた背筋をピンと伸ばす。
厨房の源三に向き直り、直立不動で一礼した。
「ごちそうさまでした! ……本当に、美味しかったです!」
源三はチラリと横目で吉村を見やり、ぶっきらぼうに言った。
「……フン。次はちゃんと腹を空かせて、オムライス食いに来い」
「はい! 必ず、伺います!」
吉村の顔に、今日初めての、少年のように爽やかな笑顔が浮かんだ。
ガラガラ、ピシャリ。
引き戸が閉まり、吉村は店を出ていった。
結衣は硝子戸越しに、その背中を見送った。
初夏の陽射しの中へ踏み出していった吉村の足取りは、入ってきた時のあの引きずるような重さは微塵もなく、地面を力強く蹴り、前を見据えて真っ直ぐに伸びていた。
通りへ出た吉村は、十歩ほど歩いたところで、ふと足を止めた。
振り返る。
煤けたトタン屋根の下、磨き抜かれた硝子戸を掲げる小さな食堂。
『洋食 キリシマ食堂』
硝子戸の向こうで、白いエプロンをつけた結衣が、テーブルを片付けながらこちらへ向けて、小さく手を振ってくれていた。
ドクン、と心臓が熱く跳ねる。
吉村の手が、無意識のうちに胸元へと伸び、ワイシャツの上から自らの胸の鼓動を確かめるように強く握りしめた。
「……桐島、結衣さん……」
唇からこぼれ落ちたその名前は、初夏の青空へと吸い込まれていった。
灰色一色だった吉村の東京の空が、鮮やかな色を取り戻した瞬間だった。




