第47話:提灯の下の片付けと、無言の背中
隅田川の夜空を紅蓮と黄金に染め上げた大輪の打ち上げ花火が燃え尽き、硝煙の白い匂いが夜風に乗って静かに霧散していったあと。
初音銀座商店街を埋め尽くしていた数千人の群衆は、満ち潮が引くように、駅へ、団地へ、家路へと散っていった。
午後十時。
初音神社の境内から戻ってきた桐島結衣の視界に飛び込んできたのは、昼間のあの熱狂と歓声が嘘のように静まり返った、祭りのあとの路地裏の風景だった。
頭上に連なる百個を超える紅白の提灯は、油の尽きかけた蝋燭のように、ところどころが頼りなげな薄橙色の光をチリチリと揺らしているだけだった。
足元を見下ろせば、幅三メートルの未舗装路には、何千人もの草履や下駄、革靴に踏み荒らされた痕跡が、剥き出しの傷跡のように散乱していた。
ソースの焦げついた竹串、出汁を吸って千切れた紙コップ、踏み潰された経木の切れ端、甘いシロップがこびりついた木製のアイススプーン、そして風に吹かれてカサカサと路傍の溝へと吹き寄せられる若草色のチケットの半券の残骸。
生ぬるい夜風が路地を吹き抜けるたび、昼間に各ブースから噴き上がっていたラードとニンニク、醤油、そして完熟トマトの香りが、生ゴミと泥水の湿った臭気と混ざり合い、祭りのあとの独特の寂寥感となって鼻腔を突いた。
「……ふうっ」
結衣は、キリシマ食堂の軒先に立てかけられていた竹箒と、ブリキの大型塵取りを手に取った。
初音神社の石段で吉村健一と交わした、あの冷たい三ツ矢サイダーの味。
花火の爆音にかき消され、届かなかった彼の言葉。
そして、胸の奥底で疼く、切なく甘い痛みの余韻。
それらを無理やり心の奥の引き出しへと押し込め、結衣は自らに言い聞かせるように、ギュッと前掛けの紐を引き締めた。
(感傷に浸っている場合じゃないわ。……片付けが終わるまでが、フェスティバルなんだから)
結衣は腰を屈め、路地に散乱するゴミを箒で掃き集め始めた。
ザッ、ザッ、ザッ……。
静まり返った夜の帳のなかに、竹箒の先が砂利と紙屑を擦る乾いた音だけが、規則正しく響き渡る。
路地のあちこちでは、すでに商店街の店主たちによる、重く苦しい撤収作業が始まっていた。
向かいの蕎麦屋「やぶ忠」の前では、七十近い忠吉が、焦げついた四枚の玉子焼き鍋を井戸水でタワシを使ってゴシゴシと擦り洗いし、大衆中華「宝来軒」の金造は、空っぽになった巨大な竹蒸籠を何段も抱え上げ、重い足取りで厨房の奥へと運び込んでいた。
どの店主の顔にも、想定の三倍を超える群衆を相手に一日中炎と格闘し続けたことによる、極限の疲労が色濃く刻まれていた。
腰をさすり、膝を引きずり、誰もが無言だった。
昼間のあの高揚感と鬨の声はどこへやら、誰もが言葉を交わす気力すら残っておらず、ただ泥のように重い身体を引きずって、散らかった店頭を片付けている。
「おい、そっちの単管、ボルトを緩めるぞ! 頭上に気をつけろ!」
ガキンッ! ガチャン!
けたたましい金属音を響かせていたのは、本田鉄工所の本田辰夫社長と、若手工員の水野誠二だった。
路地の両脇に整然と並んでいた二十台の鉄パイプ屋台。
シノ付きラチェットレンチを振るい、クランプ金具のボルトを一本一本手作業で緩めていく。
外された単管パイプは、一本で十キロ以上の重量がある。
それを二人がかりで肩に担ぎ、路地の通行を妨げないよう、本田鉄工所の資材置き場へとピストン輸送していた。
本田社長の作業着は汗で真っ黒に透け、誠二の二の腕の筋肉は疲労で小刻みに痙攣している。
「誠二、足元に気をつけろよ! 落としたら骨が折れるぞ!」
「は、はいッ……!」
誠二が荒い息を吐きながら、冷え切った鋼管を抱え上げて運んでいく。
大人の男たちですら、立っているのがやっとの限界状態だった。
◆
そんななか、結衣は一人、路地の中央を這うようにしてゴミ拾いを続けていた。
拾っても、拾っても、ゴミは減らなかった。
六千人を超える来場者が落としていった紙屑と竹串の山。
重いブリキの塵取りを何度も持ち上げ、寺岡堂から分けてもらった大型のクラフト紙のゴミ袋へと放り込む。
袋はすでに五つ、六つとパンパンに膨らみ、持ち上げるたびに腕の筋肉が千切れそうな痛みを訴えていた。
――ズキリ。
結衣の右足の親指の付け根に、焼けるような激痛が走った。
「っ……!」
思わず動きを止め、足元を見下ろす。
鼻緒の擦れた水膨れは完全に破れ、薄い木綿の足袋のつま先が、赤黒い血でじっとりと濡れていた。
一歩踏み出すたびに、砂利の角が傷口に食い込み、脳天まで突き抜けるような痛みが走る。
だが、痛いのは足だけではなかった。
一日中、大声を張り上げて指示を飛ばし続けた喉は完全に枯れ果て、呼吸をするたびに気管がヒリヒリと熱を帯びていた。
両肩は鉄の塊を乗せられたように凝り固まり、腰は折れそうに軋み、指先は竹串の油と泥で感覚を失いかけている。
(……大丈夫。まだ、できる)
結衣は唇を強く噛み締め、奥歯を鳴らした。
(皆さんが、あんなに疲れているのに必死で後片付けをしているのよ。私が弱音を吐いてどうするの。……私が言い出したお祭りなんだから、最後の一本の串まで、私が責任を持って片付けなきゃ……!)
責任感という名の鎖が、結衣のボロボロの肉体を無理やり前へと突き動かしていた。
令和のオフィスでも、いつもそうだった。
誰もやりたがらない雑務を背負い込み、他人が投げ出したトラブルを深夜まで一人で片付け、「私がやらなきゃ回らないから」と自分を追い詰めて、最後はガード下で倒れ込んだ。
その哀しい習性が、この昭和の下町に来てなお、無意識のうちに結衣の身体を縛り付けていた。
ザッ、ザッ……。
七つ目のゴミ袋に手を伸ばし、溢れんばかりの空き瓶を詰め込もうと、腰を深く屈めた――その瞬間だった。
――フッ……。
視界の端が、唐突に、青白い砂嵐のように歪んだ。
「……え?」
結衣の喉から、掠れた息が漏れた。
平衡感覚が、急速に足元から抜け落ちていく。
地面が、まるで船の甲板のように大きく右へ傾き、続いて左へと揺れ動く。
頭蓋骨の内側で、鐘が鳴るようなキーンという高い金属音が響き渡り、視界の中心が真っ暗なトンネルのように狭まっていく。
極度の脱水症状。
そして、神経の糸が切れたことによる急激な血圧の低下。
立っていられない。
膝の関節がガクガクと震え、自らの体重を支えきれなくなる。
手から竹箒が滑り落ち、ブリキの塵取りがガシャアン!と無残な音を立てて砂利の上に転がった。
「あ……」
身体が、前へと倒れ込んでいく。
受け身を取ろうにも、両腕に力が入らない。
目の前に迫る、長屋の煤けた板壁と、地面の尖った砂利――。
倒れる。
このまま硬い地面に顔から叩きつけられる。
結衣が恐怖に目を閉じた、まさにその刹那だった。
――ガシッッッッッッ!!
「っ…………!?」
衝撃は、冷たい砂利からではなかった。
結衣の崩れ落ちかけた右肩と脇の下に、下から掬い上げるようにして、分厚く、頑丈な「人の腕」が力任せに差し入れられたのだ。
ドスン、と結衣の華奢な身体が、誰かの逞しい胸板の上へと預けられる。
熱い。
焼けるような体温。
鼻腔を突いたのは、洗いざらしの藍染めの前掛けの匂い、泥の匂い、千切れた青草の青臭い匂い、そして――真夏の太陽の下で一日中汗を流し続けた、若い男の強烈な汗の匂いだった。
「……っと、危ねえッ!!」
耳元で響いたのは、怒鳴るような、だが心底から焦りを含んだ、野太いだみ声だった。
◆
「ゆ……勇……さん……?」
結衣がおずおずと顔を上げると、至近距離に、額から顎へと大粒の汗を滴らせた男の顔があった。
八百杉の若旦那・杉本勇だった。
上半身は素肌の上に泥だらけの藍色の前掛け一枚。
筋骨隆々の太い二の腕には血管が浮き上がり、首に巻いた手ぬぐいは汗とトマトの果汁で赤黒く染まり、充血した瞳が、怒りと心配で激しく見開かれていた。
勇の後ろには、木製の頑丈な大型リヤカーが、傾いたまま砂利道に停められていた。
空になったスイカやトマトの木箱を回収して回っていたところだったのだ。
「勇さん……すみません、私……ちょっと、足がもつれて……」
結衣が慌てて身体を引き離そうと、弱々しく腕を突っ張ろうとした。
だが、勇の太い腕は、万力のように結衣の肩をガッチリと抱き留めたまま、一ミリたりとも離そうとはしなかった。
それどころか、結衣の破れた足袋のつま先と、青白く透き通るような土気色の顔面を一瞥した瞬間――勇の眉根が、激しい怒気とともに吊り上がった。
「……おい」
地を這うような、低い地鳴りのような声だった。
「……何やってんだ、てめえは」
「え……? あの、ゴミを……片付けなきゃって……」
「ゴミだァ?」
勇の喉が、ギリリと音を立てて鳴った。
勇は結衣の肩を抱き抱えたまま、強引に長屋の板壁の角へと腰掛けさせた。
そして――結衣の手元に転がっていた、重い空き瓶の詰まったゴミ袋を、太い片腕で鷲掴みにした。
フンッ!
勇が腕を一閃させると、十キロ以上はあるゴミ袋が、まるで紙屑のように宙を舞い、リヤカーの荷台の上へとドサリと音を立てて叩き込まれた。
続いて、結衣が拾い集めていた箒と塵取りを引ったくるように奪い取ると、それもリヤカーの隅へ放り投げる。
「勇さん……!? 何をするんですか、まだ掃除の途中……」
「――黙ってろッッッッッッ!!!!」
路地裏を震わせる、雷鳴のような怒声。
結衣は肩をすくめ、息を呑んだ。
勇は、仁王立ちになって結衣を見下ろしていた。
肩で激しく息を切り、握りしめた拳が小刻みに震えている。
その顔は、まるで悪童を叱り飛ばす親方のように険しかったが、その瞳の奥には、結衣が無理を重ねて倒れかけたことに対する、やり場のない激しい憤りと、痛々しいほどの情愛が渦巻いていた。
「……馬鹿野郎」
勇は吐き捨てるように言った。
掠れた、怒りに震える声。
「誰がてめえに、こんな夜中までゴミ拾いしろって頼んだよ」
「でも……私が提案したフェスです。最後まで責任を……」
「責任だァ!? ふざけんじゃねえぞ、桐島結衣!!」
勇が一歩、踏み込んできた。
泥だらけの長靴が、結衣のつま先のすぐ前で止まる。
「朝から晩まで、飲まず食わずで叫び通して! 午後は兵站が崩れたって時に、一人でビールケースの上に立って、向島の倉庫まで俺を走らせて、誠二に氷を運ばせて、蕎麦屋と中華屋の鍋をくっつけて……! この街の全員のケツを叩いて、大勝利をもぎ取ったのは誰だと思ってんだ!!」
勇の太い指先が、結衣の額の真ん前をドンと指差した。
「てめえはな、もう百点満点どころか、一万点分の仕事をやり切ったんだよ! これ以上、何をやろうってんだ! 足から血ィ流して、顔面真っ青にして、路地裏で野垂れ死にそうになってまで、ゴミ袋抱えて……! そんな無茶して倒れられたらな、俺たち下町の男の面目はどうなるんだよ!!」
「勇……さん……」
「女がここまで無理すんじゃねえ!!」
勇は手ぬぐいを引き抜き、自分の顔の汗を力任せに拭い去ると、結衣に向かって背中を向けた。
幅の広い、逞しい背中。
日焼けして皮が剥け、重い木箱を担ぎ続けたせいで両肩には赤い擦り傷が無数に走り、筋骨隆々の広背筋が、呼吸のたびに大きく波打っている。
泥臭く、洗練など微塵もない、けれど大地に根を張った大木のように揺るぎない、下町男の背中。
「……あとは、俺たち男の仕事だ」
勇の声は、先ほどの怒声とは打って変わって、低く、押し殺すように静かだった。
「重い鉄パイプを担ぐのも、ゴミをリヤカーでゴミ捨て場へ運ぶのも、ドブ板の泥を掻き出すのも……全部、力自慢の男がやるもんだ。てめえみてえな華奢な女が、夜中にやる仕事じゃねえんだよ」
勇は振り返ることなく、親指でキリシマ食堂の暖簾を指差した。
「……引っ込んで寝てろ。源の親父に、熱い茶でも淹れてもらって、さっさと布団に入れ。……明日の朝、目が覚めた時にはな、路地の上には一本の串も、一片のゴミも残っちゃいねえようにしてやるからよ」
「…………っ」
結衣の喉が、熱く塞がれた。
言葉が、声にならなかった。
◆
キリシマ食堂の勝手口の戸が開いた。
前掛け姿の大山源三が、湯気を立てる大きな陶器のマグカップを盆に乗せて、静かに姿を現した。
源三は、板壁に座り込む結衣と、背中を向けて仁王立ちになっている勇の姿を一瞥した。
すべてを察したように、老職人は深く煙草の煙を吐き出すと、結衣の前に歩み寄り、温かい麦茶のカップを手渡した。
「……結衣」
源三の声は、驚くほど穏やかだった。
「勇の言う通りだ。……お前は、もう十分すぎるほど働いた。あとは男共に任せときゃいいんだよ」
「源さん……でも、私……」
「いいから、飲みな」
源三の大きな手が、結衣の頭の上に優しく置かれた。
「下町の男ってのはな、惚れた女や、恩のある相手の前じゃあ、カッコつけさせなきゃならねえ生き物なんだよ。……ここで手を出したら、勇の野郎の立つ瀬配がねえだろうが」
「ちょっ……源の親父! てめえ、何言ってやがるッ!?」
勇が弾かれたように振り返り、耳の付け根まで真っ赤にして怒鳴りつけた。
「ほ、惚れただの何だの、下らねえこと言ってんじゃねえよ! 俺はただ、青年部の頭として、余所者の女が過労で倒れたら寝覚めが悪いから言ってんだよ!!」
「へっ、誰も『お前が結衣に惚れてる』とは言ってねえぞ」
源三がニヤリと唇を吊り上げる。
「墓穴を掘りやがって、青瓢箪が」
「ぐ……っ! くそジジイ、余計なこと言ってねえで、キリシマの前のゴミ袋をリヤカーに積めッ!!」
勇は照れ隠しに悪態をつき散らすと、乱暴に足を踏み鳴らし、本田鉄工所の前へと大股で歩み去っていった。
そして――。
「誠二! オヤジ! ぼさっとしてんじゃねえぞ!」
勇は叫ぶと、路地に転がっていた長さ三メートル、太さ五十ミリの極厚単管パイプを、軽々と両手で持ち上げた。
重さは二十キロを超える。
それを、一本どころか、二本まとめて――四十キロを超える鋼鉄の束を、自らの右肩の上へと一気に担ぎ上げたのだ。
ギシッ、と勇の鎖骨の皮膚が軋む。
だが、男の膝は、一ミリたりとも揺らがなかった。
「うおおおおおおおおっ!!」
気合いの咆哮を一発。
勇は太い首筋に青筋を立て、足元の砂利を力強く踏みしめながら、一人で四十キロの鉄の塊を担ぎ、資材置き場へと向かって歩み出した。
重みで長靴が深く沈む。
背中を流れる汗が、街灯の薄橙色の光を浴びて、銀色の筋となってキラキラと輝いている。
誰の手も借りない。
弱音など一言も吐かない。
重ければ重いほど、苦しければ苦しいほど、その足取りは力強く、真っ直ぐに前を見据えていた。
「おい、勇! 無理すんな、二人で運べ!」
本田社長が声をかけるが、勇は振り返りもしない。
「へっ、これくらい運べなくて、何が八百屋の跡取りだ! 神田の市場のスイカの木箱に比べりゃあ、鉄パイプなんざ竹ぼうきみてえなもんだぜ!!」
強がり。
下町っ子の、不器用で、意地っ張りで、どうしようもないほど純粋な強がり。
「…………」
結衣は、マグカップを両手で抱きしめたまま、その遠ざかっていく勇の背中を、じっと見つめていた。
視界が、急激に滲んでいく。
止めようとしても、大粒の涙がポロポロと頬を伝い落ち、カップの中の麦茶の表面に小さな波紋を作った。
(……ああ)
結衣の胸の奥底が、激しく、激しく揺さぶられていた。
(吉村さんとは……違う)
初音神社の石段で、自らの想いを言葉にして伝えようとしてくれた、吉村健一。
誠実で、丁寧で、傷だらけの手で一万枚のチラシを配り、「あなたと同じ景色を見ていたい」と真っ直ぐに愛を語ってくれた、あの美しい言葉。
それは、令和の世界で言葉の虚無に傷ついていた結衣の魂を、この上なく優しく救い上げてくれた。
だが――目の前で泥まみれになり、悪態をつきながら、四十キロの鉄パイプを一人で背負って歩いていく、杉本勇。
この男には、甘い言葉など何一つない。
気の利いた台詞も、洗練された愛の告白も、生涯口にすることはないだろう。
口を開けば「バカ野郎」「引っ込んでろ」と怒鳴り散らし、素直に心配することすら照れ隠しで誤魔化してしまう。
けれど――その無言の背中が語っているものは、どんな美辞麗句よりも重く、深く、温かかった。
『お前が傷つくくらいなら、俺が全部背負ってやる』
『お前が泣くくらいなら、俺が泥を被ってやる』
『男が女を守るのに、能書きなんざ要らねえんだよ』
言葉ではなく、行動で。
口先ではなく、その血と肉と汗のすべてを使って、結衣の背負っていた重荷を、力づくで奪い去り、代わりに担いで歩いていく。
それが――昭和四十五年の下町を生きる、無骨な男の、魂の底からの「情愛」の形だった。
「……ばか」
結衣の唇から、掠れた、泣き笑いのような呟きがこぼれ落ちた。
「……大馬鹿野郎よ、勇さん……」
涙が止まらなかった。
拭っても、拭っても、温かい雫が溢れ出して止まらない。
令和の冷え切ったオフィスでは、誰もが「自分の責任ではない」と言い逃れをし、重い荷物を他人に押し付け合っていた。
それが、いま。
この煤けた路地裏で、一人の男が、自分のために四十キロの鉄を背負って、泥だらけになって歩いている。
愛されているのだ。
守られているのだ。
この初音銀座商店街という温かな大地に、自分は確かに受け入れられ、家族として、かけがえのない人間として、深く、深く抱きしめられている。
「……結衣」
源三が、煙草の灰をトントンと落とし、結衣の肩をポンと叩いた。
「ほら、中へ入れ。……あいつの背中に見惚れてちゃ、あいつが余計に張り切りすぎて、今夜中に腰を砕いちまうからな」
「……ふふっ、はい」
結衣は涙を拭い、立ち上がった。
足の痛みは、まだ消えていない。
身体の重さも、変わらない。
けれど、胸の奥を満たしていたあの重苦しい鉛のような疲労は、どこかへ消え去り、代わりに、春の陽光のような温かな力が、全身の血管を満たしていた。
◆
深夜一時。
キリシマ食堂の正面引き戸が固く閉ざされ、店内には消灯された薄暗い静寂が降りていた。
二階の物置部屋。
四畳半の畳の上に敷かれた万年床の上で、結衣は横になり、開け放たれた小窓を見上げていた。
外からは、もう金属音は聞こえてこなかった。
勇たちの手によって、二十台の屋台は完全に解体され、路地に散乱していた何千ものゴミは最後の一片まで掃き清められ、水撒きされたアスファルトは、夜風に吹かれて綺麗に乾いていた。
勇が言った通り、路地の上には、一片の汚れも残っていなかった。
窓の外。
澄み切った真夏の夜空に、銀杏の大木の影が黒々と揺れている。
結衣は、敷布の上で、自らの右手をそっと持ち上げた。
指先を、星明かりに透かしてみる。
あの夜、屋根の上で見たような、蛍の光の明滅は――今夜は、起きていなかった。
爪の先も、指の腹も、泥とインクで汚れた、確かな肉の感触を保っていた。
(……私は、ここにいる)
結衣は自らの胸の上に、その右手を静かに重ねた。
トクン、トクン、トクン……と、力強く、規則正しく脈打つ心臓の鼓動。
吉村健一の、誠実で優しい言葉。
杉本勇の、無骨で力強い背中。
大山源三の、温かい掌。
そして、この初音銀座商店街のすべての人々が注ぎ込んでくれた、眩いばかりの生命の熱量。
(いつか……令和に帰る日が来るとしても)
結衣は静かに目を閉じた。
唇の端に、穏やかで、誇らしい笑みが浮かぶ。
(この人たちと一緒に生きた時間は……絶対に消えない。
私の魂に刻まれたこの温もりは、どんな時代の波だって、絶対に押し流すことはできない……)
遠くで、夜更けの貨物列車が、ゴトゴトと重い車輪の音を響かせて鉄橋を渡っていった。
下町の夜風が、結衣の頬を優しく撫でる。
激闘のサマーフェスティバルは、完全にその幕を下ろした。
そして、物語は――翌朝、初音銀座商店街の集会所で鳴り響く、奇跡の算盤の歓声と、下町の女帝の「真の戴冠」の瞬間へと、静かに、力強く向かっていくのだった。




