第46話:夜風のサイダーと、届かなかった言葉
西の空を焼き尽くすように広がっていた巨大な夕焼けが、茜色から赤紫、そして深い薄浅葱色のグラデーションへと、静かにその深みを増していた。
午後六時。
天頂を焦がしていた真夏の太陽が、向島の長屋の屋根並みの向こう、荒川の土手の彼方へと沈み込み、東京の下町には、水辺特有の湿り気を帯びた涼やかな夕風が吹き抜け始めていた。
路地裏を埋め尽くしていたあの狂乱の怒号と人波は、兵站の崩壊を乗り越えた達成感とともに、心地よい疲労と満足のざわめきへと姿を変えていた。
初音銀座商店街のメインストリートでは、各ブースの屋台に掲げられた百個を超える提灯に、ぽつり、ぽつりと橙色の温かな明かりが灯り始めている。
昼間の熱気に耐えかねて一度家へ引き揚げていた近所の年寄りたちが、団扇をパタパタと鳴らしながら夕涼みに出てきては、「やぶ忠の出汁巻き、まだ残ってるかい?」「宝来軒のつけ麺、汁まで全部飲んじまったよ」と、店主たちと笑顔で言葉を交わしていた。
大山源三が振る舞った三十本の『下町スタミナ洋食串』は最後の一本まで完売し、八百杉のトマトとスイカのセーキも大樽が空になり、寺岡雅之が再発行した追加チケットの束も、夕方の風のなかで綺麗に捌け切っていた。
完全なる、大勝利だった。
大手の巨大ファミレス「サンライズ」が誇る近代化の城壁を、下町の泥臭い連携と情熱が、文字通り力づくで押し返したのだ。
――だが。
その熱狂の中心から、音もなく抜け出した人影があった。
「……っ、ふう……っ」
商店街の喧騒から一歩、路地を折れ、さらに暗い木造長屋の隙間をすり抜けた先。
初音銀座の守り神として、江戸の昔からこの湿地帯を見守り続けてきた古社――「初音神社」の境内。
桐島結衣は、生い茂る銀杏の大木が落とす深い緑の陰の中へ、吸い込まれるようにして足を踏み入れていた。
草いきれと、乾いた土の匂い。
昼間の蝉時雨はいつの間にかヒグラシの甲高い「カナカナカナ……」という哀切な声へと変わり、鎮守の森の静寂が、破裂しそうだった耳の奥の鼓膜を優しく包み込んでいく。
「……足が……動かない……」
結衣は、本殿へと続く苔むした十段ほどの石段の前で立ち止まり、その場に崩れ落ちるように腰を下ろした。
ドサリと、手にしたバインダーが冷たい石の上に落ちる。
草履の鼻緒が食い込んだ右足の親指の付け根には、痛々しい水膨れができて破れ、赤く腫れ上がっていた。
朝の設営から、昼の集客、そして午後のあの兵站崩壊の大パニック。
ビールケースの上に仁王立ちになり、千人を超える群衆の前で喉が張り裂けんばかりに大声を張り上げ、各店舗の間を何十往復も駆けずり回った代償が、いま、猛烈な脱力感と鈍痛となって全身の筋肉を軋ませていた。
擦り切れた木綿の白ブラウスは、乾いた汗の塩分で白く粉を吹き、両肩は鉛のように重く沈んでいる。
声を出そうとしても、喉の奥がカラカラに焼き切れ、掠れた息しか漏れてこない。
結衣は両膝を抱え込み、石段の角に額を預けた。
石のひんやりとした冷たさが、火照りきった額を通して、脳の芯までじんわりと伝わってくる。
(……終わったんだわ)
目を閉じると、網膜の裏側に、今日一日で見た無数の人々の顔が、走馬灯のように浮かんでは消えていった。
出汁巻き玉子を頬張って目を丸くした工員の笑顔。
牛乳瓶のプリンを大事そうに抱え、飛び跳ねていた小さな女の子。
汗まみれで氷を砕いていた八百杉の勇の太い腕。
不器用に笑いながら「お前は最高の孫だ」と言ってくれた源三の皺だらけの顔。
そして――。
(……令和の私には、こんな顔……できなかった)
結衣の胸の奥底で、痛いほどの熱いものが込み上げてきた。
あの冷え切ったデザイン事務所のデスク。
深夜二時半、ブルーライトに照らされながら、誰の顔も見えず、誰の声も聞こえず、ただ納期とクリック率の数字だけに追われて胃を壊していた、あの孤独な日々。
あの頃の自分は、生きているのではなく、ただ死んでいくのを待つだけの、冷たい機械の部品だった。
それが、いま。
この昭和四十五年の下町で、泥にまみれ、怒鳴り合い、人と人が体温をぶつけ合うなかで、自分は確かに「生きている」と実感している。
誰かの役に立ち、誰かの命を繋ぎ、街の未来を切り拓く中心に、自分が立っている。
その幸福感が、疲労の底から湧き上がる涙となって、結衣のまつ毛を濡らしていった。
――ザッ、ザッ、ザッ。
静まり返った神社の参道の砂利を踏みしめる、硬質な足音が響いた。
結衣はハッと顔を上げようとしたが、身体が重くてうまく持ち上がらない。
足音は、迷うことなく石段の前へと近づき、結衣のすぐ隣でピタリと止まった。
「……やっぱり、ここにいらっしゃいましたね」
夕暮れの風に乗って届いたのは、驚くほど穏やかで、少し掠れた、聞き慣れた青年の声だった。
◆
結衣がおずおずと顔を上げると、逆光の茜色の空を背にして、一人の男が立っていた。
帝都物産の営業マン――吉村健一だった。
だが、その姿は、昼間のあのピカピカの白ワイシャツとはまるで違っていた。
朝からメガホンを握りしめて何千人もの群衆を誘導し、午後は寺岡雅之と一緒に何千枚もの半券チケットを回収して走り回った吉村のシャツは、汗と土埃で薄汚れ、胸元のボタンは二つ外され、たくし上げた袖口には黒い印刷インクの染みが痛々しく残っていた。
首筋からネクタイは外され、手にしたメガホンは紐が千切れかけて肩からだらしなくぶら下がっている。
顔面は日焼けと疲労で赤黒く染まり、唇は乾燥してひび割れていた。
けれど――その吉村の双眸だけは、夕暮れの薄闇のなかで、まるで夜空の一番星のように、澄み切った誇らしい光を放っていた。
「吉村……さん……」
結衣の喉から、掠れた声が漏れた。
「探しましたよ」
吉村はふっと優しく目元を崩すと、両手に提げていたものを結衣の目の前に差し出してきた。
カラン、コロン……。
触れ合うガラスの涼やかな音。
それは――氷水から引き揚げられたばかりの、二本の緑色のガラス瓶だった。
瓶の表面には、無数の大粒の水滴がびっしりと結露し、夕焼けの光を浴びてキラキラと琥珀色に瞬いている。
白い王冠の真ん中に、お馴染みの三ツ矢の赤いマーク。
「どうぞ」
吉村は、ポケットから取り出した錆びた栓抜きを王冠に引っ掛けた。
――シュポッ! シュワワワッ……!
小気味よい開栓の音とともに、瓶の口から、冷え切った白い炭酸の霧がフワリと立ち上る。
柑橘の爽やかな香りと、昔ながらの砂糖の純粋な甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
吉村はその冷たい瓶を結衣の荒れた手のひらへと、そっと握らせてくれた。
「結衣さん、声がもうガラガラじゃないですか。……一日中、誰よりも叫んで、誰よりも走り回っていたんですから。喉を潤してください」
「……ありがとう、ございます……」
手のひらに伝わってくる、骨まで凍りつくような純氷の冷気。
結衣は両手で瓶を抱え、口をつけた。
ゴクリ――。
シュワワワッ!
強烈な炭酸の刺激が、渇ききっていた舌と喉の粘膜の上で一斉にパチパチと弾け飛んだ。
冷たい!
喉が引き裂かれそうなほどの冷気と、ツンと鼻に抜ける爽快感。
そして、身体の隅々まで染み渡っていくような、優しい甘み。
ゴクゴク、ゴクゴクと喉を鳴らして半分ほど飲み干した瞬間、結衣の全身の細胞が、息を吹き返すように熱を帯びていくのを感じた。
「……ぷはっ」
結衣の唇から、小さな吐息が漏れた。
「美味しい……。信じられないくらい、美味しいです……」
「でしょう?」
吉村もまた、自分の瓶の栓を抜き、喉仏を激しく上下させながら、一気に半分以上を胃袋へと流し込んだ。
ぷはーっと白い息を吐き出し、口元を腕で乱暴に拭う。
「八百杉の勇さんがね、『結衣さんに持っていってやれ』って、氷のタライの底から一番冷えてるやつを引っ張り出してくれたんですよ。……あいつ、結衣さんが急にいなくなったものだから、店先で『おい、若女将はどこ行ったんだ!?』って、大騒ぎして探してたんですよ」
「勇さんが……?」
「ええ。忠吉さんも、金造さんも、本田社長も……みんな、結衣さんにお礼が言いたくてウズウズしていましたよ。『結衣ちゃんがいなきゃ、この街は今日で本当に死んでた』って」
吉村はそう言って笑うと、結衣の隣――一段下の石段の端へと、遠慮がちに腰を下ろした。
ギィ……と革靴が擦れる音。
二人の距離は、わずか数十センチ。
吉村の身体から立ち上る、熱い汗の匂いと、泥の匂い。
そして、夜風に乗って漂ってくる、商店街の提灯の油煙と、遠くの焼き鳥の香ばしい匂い。
「吉村さん、お隣……どうぞ」
結衣が少し身体を寄せ、空いたスペースを指差した。
「いえ、僕はここで十分です。……汗臭くて、汚れていますから」
吉村は照れくさそうに頭を掻き、擦り切れたスラックスの膝の上に両手を置いた。
その指先は、昨夜のポスティングと、今日のチケット回収で、爪の間まで真っ黒に染まり、無数の絆創膏が痛々しく巻かれていた。
「汚れてなんかいません」
結衣は首を横に振った。
「その手があったから……吉村さんのその足があったから、今日、この街に奇跡が起きたんです。……本当に、ありがとうございました。私一人じゃ、何もできませんでした」
「……何をおっしゃるんですか」
吉村は首を横に振り、神社の境内の奥、朱色の鳥居の向こうの空を見上げた。
茜色の残光が消え去り、空は、群青色と紫が溶け合う、深い宵の口へと沈みつつあった。
「奇跡を起こしたのは、結衣さんですよ」
吉村の声は、驚くほど低く、誠実な響きを湛えていた。
「僕は……商社に入社して四年になります。高度経済成長、モーレツ社員……世間はそう言って、日本が豊かになっていると騒いでいました。僕も、毎朝満員電車に揺られ、上司に怒鳴られ、取引先に頭を下げて、夜遅くまで接待で酒を飲んで……これが『男の生きる道』なんだと、自分に言い聞かせていました」
吉村はサイダーの瓶の首を、ぎゅっと握りしめた。
「でも……胸のどこかで、ずっと息が詰まりそうだったんです。
ノルマの数字を達成しても、会社は次の月にはもっと高い数字を要求してくる。
僕が売っている繊維が、誰を温めているのか、誰を幸せにしているのか、ちっとも分からない。
誰もが、他人の足を引っ張ることに必死で……僕自身も、いつの間にか、心のないただの『組織の歯車』になりかけていました」
吉村は視線を落とし、自らの擦り切れた靴底を見つめた。
「あの初夏の午後……胃を壊して、外回りの途中で倒れそうになって、逃げ込むように入ったのが、キリシマ食堂でした」
「……あの日のこと、覚えています」
結衣が静かに呟く。
「ええ。……あの時、結衣さんが出してくれた、透き通ったコンソメスープの温かさを、僕は生涯忘れません」
吉村は振り返り、結衣の横顔をじっと見つめた。
その眼差しは、熱く、真っ直ぐで、結衣の胸の奥を強く射抜いた。
「結衣さんは、僕に言ってくれましたよね。『お仕事、大変なんですね。でも、食べないと戦えませんよ』って」
「…………」
「あの一言で……僕の凍りついていた心が、どれほど救われたか。
誰も僕の顔なんて見てくれなかった東京の真ん中で、あなただけが、僕という人間を見てくれた。
それから……あなたがこの街で見せてくれたすべての戦いが、僕の生き方を変えてくれたんです」
吉村の声が、わずかに震えを帯び始めた。
「売れ残りの野菜をポタージュに変え、工員たちのために夜食を包み、雨の日にコロッケを配り……。
あなたが泥にまみれて戦う姿を見るたびに、僕の灰色の毎日が、鮮やかな色で塗り替えられていきました。
昨夜、一万枚のチラシを配りながら、僕は生まれて初めて、自分の足で走っている実感を得たんです。
会社の出世のためじゃない。誰かに命令されたからじゃない。
大好きな人が信じる未来のために、自分の持っている命の時間を全部使いたい……そう思えたことが、僕の人生で、一番誇らしくて、幸せな瞬間だったんです」
◆
「吉村……さん……」
結衣の喉が、熱く詰まった。
サイダーの瓶を持つ指先が、小刻みに震え出す。
言われなくても、分かっていた。
昨夜、泥だらけになって自転車を押して戻ってきた彼の姿。
傷だらけの指先。
いつだって、自分が困難にぶつかるたびに、損得勘定など一切なく、真っ先に駆けつけて泥を被ってくれたこの男の、不器用で、ひたむきな想い。
宵闇が、境内に静かに降りてきていた。
街灯のない神社の石段を、遠く初音銀座の提灯の橙色の光が、淡い影となってぼんやりと照らし出している。
風が吹き抜け、銀杏の葉がサラサラと音を立てる。
ヒグラシの声は止み、どこかの軒先から、秋の訪れを告げる松虫の微かな声がチリチリと響き始めていた。
吉村が、意を決したように息を呑んだ。
そして――石段の上に置かれていた、結衣の右手のすぐ隣へと、自らのインクに汚れた右手を、ゆっくりと、滑らせてきた。
「……結衣さん」
吉村の声は、低く、けれど魂の底から絞り出された確信に満ちていた。
「僕は……決めました」
「え……?」
「帝都物産で、どんなに出世しても……本社でどれほど高いポストを用意されても、そんなものは、僕の幸せじゃありません」
吉村の指先が、結衣の冷え切った指先の、わずか数ミリ手前で止まった。
触れ合っていないのに、吉村の掌から放たれる熱い体温が、結衣の皮膚をジリジリと焦がすように伝わってくる。
「僕は……あなたと同じ景色を見ていたい。
あなたが守ろうとしているこの下町で、あなたの隣に立って、あなたを支え続けたい。
僕のこれからの人生のすべてを……あなたに捧げたいんです」
胸が、ドクンと激しく跳ね上がった。
耳の奥で、自分の心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響く。
吉村の瞳が、至近距離で、結衣を真っ直ぐに捉えていた。
そこには、一片の迷いも、打算もなかった。
昭和という激動の時代を生きる一人の青年が、自らの魂のすべてを懸けて、愛する女性に差し出した、混じり気のない求婚の光。
「結衣さん……」
吉村の指先が、ゆっくりと持ち上がり、結衣の震える指先へと重なろうとした。
「僕と……結婚して……」
「っ…………!」
結衣の呼吸が、止まった。
嬉しい。
胸が張り裂けそうなほど、嬉しい。
令和のあの世界で、誰からも愛されず、誰の記憶にも残らず、使い捨ての歯車として消えかけていた自分が。
こんなにも誠実で、こんなにも強い男に、命を懸けて愛されている。
この手を取ってしまいたい。
この温かい掌に縋り付いて、この昭和四十五年の下町で、この人の妻として、キリシマ食堂の若女将として、生涯を共に生きていきたい――。
――だが。
結衣の脳裏に、あの夜の光景が、残酷な稲妻となって閃光を放った。
『……藍色の夜空。屋根の上の星明かり。
月光に透かされた、自分の右手の爪先。
蛍の光のように、チリ、チリと淡く明滅し、半透明に透けて見えた指の腹……』
(……ダメよ)
結衣の全身から、急速に血の気が引いていった。
(私は……この時代の人間じゃない。
私は……五十年後の未来から迷い込んできた、ただの亡霊……!
いつ消えてしまうか分からない。
明日かもしれない。一ヶ月後かもしれない。
私が倒れた令和のあの時間が巡ってきたら……私は、この世界から跡形もなく消え去ってしまうかもしれないのに……!)
吉村の未来を奪うことはできない。
こんなにも誠実で、こんなにも真っ直ぐな青年の人生を、いつ消えるとも知れない不確かな亡霊が、縛り付けていいはずがないのだ。
結衣の指先が、苦痛に歪み、拒絶するようにギュッと縮こまろうとした。
まさに――その刹那だった。
◆
――ヒュウウウウウウウウウウウウウウッ……。
静まり返った夜空を切り裂いて、天へと駆け昇る鋭い風切り音が響いた。
吉村がハッと顔を上げる。
結衣の視線が、空へと吸い寄せられた。
一秒。
二秒。
――ドォォォォォォォォンッッッッッッ!!!!
天蓋を揺るがす、凄まじい大爆発の重低音が、初音神社の境内を、そして墨田の街全体を激しく震わせた。
西の空――隅田川の河川敷の方角。
漆黒の夜空を丸ごと覆い尽くすようにして炸裂したのは、息を呑むような巨大な「尺玉の大輪の花火」だった。
パァァァァァァァァッ……!!
真紅、黄金、白銀、そして鮮烈なエメラルドグリーン。
幾重にも重なり合う火の粉の同心円が、夜空のキャンバスいっぱいに咲き誇り、枝垂れ柳のように優美な光の尾を引いて地上へと降り注いでいく。
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
遠く初音銀座商店街から、数千人の群衆の割れんばかりの大歓声と拍手が、地鳴りのように轟いてきた。
「花火だ!」「サマーフェスのフィナーレだ!」「初音銀座、万歳ッ!!」
太鼓の音が乱れ打ち、歓喜の叫びが夜空を埋め尽くす。
ドガガガガガガンッ! ドォォォォンッ!
連射されるスターマインの凄まじい爆音が、空気をビリビリと振動させ、石段の上の二人の身体を、光と影の奔流で包み込んだ。
金色の光が、吉村の顔を照らす。
紅の火の粉が、結衣の濡れた瞳を妖しく染め上げる。
そして――。
吉村健一が、その唇から放とうとしていた、人生で最大の、もっとも決定的な一言。
『僕と、結婚してください』
その言葉のすべては――。
夜空を揺るがした花火の轟音と、人々の狂乱の大歓声の渦の中に、完全に、跡形もなく呑み込まれ、かき消されてしまったのだ。
「…………っ」
吉村の唇が、空中で止まった。
伸ばしかけていた手は、あと数ミリのところで凍結し、結衣の指先に触れることはなかった。
爆風のような風が吹き抜け、銀杏の葉が二人の頭上に舞い散る。
光が、ゆっくりと消え去っていく。
巨大な花火の残煙が、夜空に白く漂い、再び初音神社に、深い、深い闇と静寂が戻ってきた。
「……あ……」
吉村の口から、掠れた息が漏れた。
男は、自らの伸ばした右手を凝視した。
そして――何が起きたのかを悟った瞬間、顔面が、耳の付け根まで真っ赤に染め上がっていった。
吉村は弾かれたように手を引っ込めると、両手で顔を覆い、石段の上で小さく丸まってしまった。
「す……すみません……っ!」
吉村の声は、消え入りそうなほど小さく、震えていた。
「僕……僕、何を……何を柄にもないことを……! フェスの大成功で……頭に血が上って……とんでもないことを言おうと……!」
恥ずかしさと、自分の身の程知らずな衝動に対する情けなさで、吉村は顔を上げることができないようだった。
下町の女帝として、商店街の全員から仰ぎ見られる気高き桐島結衣。
その人に、一介の平社員である自分が、どれほど大それた言葉を投げかけようとしたのか。
吉村は額を膝に押し当て、ただただ身悶えしていた。
「…………」
結衣は、何も言えなかった。
石段の上に置かれた自らの右手を見つめる。
触れ合わなかった指先。
届かなかった言葉。
神様が、花火の爆音を使って、二人の間に越えてはならない一線を引いてくれたのだと、頭では分かっていた。
これでよかったのだ。
吉村を傷つけずに済んだ。
いずれ消え去る自分の運命に、彼を巻き込まずに済んだのだから。
――それなのに。
(……どうして、こんなに……胸が痛いの……?)
結衣の胸の奥底が、万力で締め付けられるように激しく疼いた。
熱い涙が、喉の奥から込み上げてきて、息が詰まりそうになる。
触れてほしかった。
あの泥だらけの温かい手で、自分の凍えきった指先を、握りしめてほしかった。
届かなかったその言葉の続きを、この耳で、魂で、しっかりと受け止めたかった。
自分の中に芽生えていた感情が、単なる戦友への敬意などではなく――紛れもない、一人の男に対する切なく甘い「恋情」であったことを、結衣は、失われかけた瞬間に初めて、痛いほど自覚させられていた。
「……吉村さん」
結衣は震える声を整え、静かに呼びかけた。
吉村がおずおずと、真っ赤になった顔を上げる。
結衣は、泣き出しそうになるのを懸命に堪えながら、自らの持っていたサイダーの瓶を、吉村の瓶の横へと、カチンと小さく打ち鳴らした。
澄んだ、硝子の音。
「……冷めないうちに、飲みましょう」
結衣は、世界で一番優しく、そしてどこか儚い微笑みを浮かべた。
「今日のフェス……本当に、大成功でしたね。吉村さんがいてくれたから、私たちは勝てたんです。……乾杯しましょう」
「……結衣さん」
吉村の瞳が、潤んだ。
男は唇を強く噛み締め、こぼれ落ちそうになる涙を堪えるように、自らの瓶を握り直した。
「……はい! 初音銀座サマーフェスティバルに……そして、僕たちの大好きな結衣さんに……乾杯です!」
カラン――。
二本の緑色のガラス瓶が、夜空の下で静かに交歓した。
冷たい炭酸の泡が、喉を滑り落ちていく。
甘くて、爽やかで、そして少しだけ苦い、青春の味がした。
ヒュウウウウウッ……ドォォォォンッ!
夜空には、次々と色鮮やかな花火が打ち上がり、下町の空を紅蓮に染め上げ続けていた。
石段の上に並んで座る、二つの影。
夜風が吹き抜け、二人の肩を優しく撫でていく。
届かなかった言葉の行方を、真夏の星空だけが、静かに、優しく見守っていた。




