第45話:兵站(へいたん)の崩壊と、指揮官の覚醒
午後二時。
天頂から容赦なく照りつける真夏の陽光は、初音銀座商店街のアスファルトと砂利道をフライパンのように熱し、路地全体を息苦しいほどの熱気のるつぼへと叩き込んでいた。
頭上に連なる赤と白の提灯は、微風に揺れることさえなく、だらりと熱気に項垂れている。
路地を埋め尽くした群衆の熱気と体温、各ブースの七輪や蒸籠から噴き出す煙、そして人々の吐息が混ざり合い、初音銀座の気温は優に三十八度を超えていた。
だが、その酷暑を遥かに上回る狂乱の熱気が、この下町の狭い路地裏を呑み込んでいた。
――ガタガタガタッ!
「おい、押すなよ!」「早くチケットくれ!」「もう三十分も並んでるんだぞ!」
商店街の東西の入口に設けられた特設チケット売り場は、すでに怒号と歓声が入り乱れる阿鼻叫喚の様相を呈していた。
寺岡雅之が前夜から徹夜で刷り上げ、金庫に収めていた二千冊――一万枚、総額百万円分の百円回数券チケット。
当初の計画では、夕方六時の閉幕までに完売すれば大成功、サンライズの猛攻を押し返せるはずの数字だった。
しかし、吉村健一が深夜の五時間をかけて配り歩いた一万枚の特大かわら版の破壊力は、結衣たちの試算を遥かに超えていた。
白鬚団地の四千世帯から雪崩れ込んできた主婦と子供たち、京成線の駅を行き交うサラリーマン、さらには噂を聞きつけて隣町の鐘ヶ淵や向島から自転車で駆けつけた人々。
午前十一時の開幕からわずか三時間で、来場者数は想定の三倍――六千人を超えようとしていたのだ。
パチ、パチパチパチパチッ!
寺岡の五珠そろばんが、限界を超える速度で鳴り響いていた。
額から流れる汗が眼鏡のレンズを白く曇らせ、指先はインクと紙粉で真っ黒に汚れ、それでも寺岡は機械のように手を動かし続けていた。
だが、その寺岡の手が、不意にピタリと止まった。
「……千九百九十八、千九百九十九……二千……っ!」
ガチャン、と手提げ金庫の底が見えた。
最後の一冊が、押し寄せる客の手へと渡った瞬間、寺岡の喉から掠れた悲鳴が漏れた。
「き……切れた……! 吉村さん、チケットが……全冊、完売してしまいました!!」
「な、なんだって!?」
メガホンを握りしめていた吉村健一が、蒼白な顔で振り返った。
「まだ午後二時だぞ!? これから夕方の涼しい時間帯に向けて、さらに人が増えるっていうのに……!」
売り場の前に並んでいた数百人の群衆から、一瞬にして不満と怒りのどよめきが爆発した。
「チケットがないってどういうことだ!」「ここまで並ばせておいて、飯も食わせねえ気か!」「子供が腹を空かせて泣いてるんだぞ!」
「も、申し訳ありません! 今、本部と対応を協議しておりますので……!」
吉村が必死に頭を下げるが、殺気立った人の波を押し留めることなど不可能だった。
そして――破綻の連鎖は、チケット売り場だけにとどまらなかった。
路地の中央、二十台の鉄骨屋台が立ち並ぶメインストリートの各ブースから、悲痛極まりない叫び声が次々と上がり始めたのだ。
「ダメだ、ちまきがもうねえ! 五百個、全部売り切れちまった!」
大衆中華「宝来軒」の金造が、空っぽになった巨大な竹蒸籠を叩きつけ、泡を食って叫んだ。
「餅米も、角煮の肉も、竹皮も一欠片も残っちゃいねえ! 客がまだ百人以上並んで待ってんだぞ、どうすりゃいいんだ!?」
「うちもだよ!」
向かいの蕎麦屋「やぶ忠」の忠吉が、焦げついた玉子焼き鍋を放り出し、頭を抱えて座り込んだ。
「卵が底をついた! 四百本分の出汁巻き玉子、あっという間に胃袋に消えちまった! 鰹出汁はまだ大鍋にたっぷり残ってんのに、肝心の卵が一玉もありゃしねえんだよ!!」
「勇兄ちゃん! 氷がない! 氷が全部溶けちゃったわ!」
純喫茶カトレアのさゆりが、ミニスカートの裾を泥で汚しながら、泣きそうな顔で八百杉の店先へと駆け込んできた。
「さっきの雷雨で熱気がぶり返して、氷がものすごい勢いで溶けてるの! ボトルプリンの冷やす氷も、セーキに使うクラッシュアイスも、一欠片も残ってないのよ! お客さんが『ぬるいジュースなんか飲めるか』って怒り出してるわ!!」
「クソッ……! クソッタレがァッ!!」
八百杉の店先で、前掛けを汗で濡らした杉本勇が、空になった木箱を力任せに蹴り倒した。
完熟トマト五百個、スイカ十玉。
あれほど積み上げられていた山のような果実が、いまや完全に空っぽになっていた。
床には泥水とトマトの皮が散乱し、店を取り囲む群衆からは「セーキまだか!」「早く作れよ!」と罵声が飛んでいる。
「市場は土曜の昼でとっくに競りを終えて閉まっちまってる! 隣町の氷屋に電話したって、この暑さでどこも売り切れだ! ……弾がねえんだよ! 鉄砲撃ちたくても、撃つ弾が一発も残ってねえんだ!!」
パニック。
兵站の完全なる崩壊。
想定の三倍を超える人波という名の巨大な津波が、初音銀座商店街が誇るすべての備蓄を、わずか三時間で飲み干し、押し流してしまったのだ。
大資本のチェーンストアなら、郊外の巨大な集中管理センターから無線一本で保冷トラックを走らせ、数千食の冷凍食材を一瞬で補充できるだろう。
だが、ここは下町の個人商店街だ。
各店舗が個別に仕入れ、個別に仕込みを行っていた脆弱な兵站は、限界点を超えて音を立てて砕け散っていた。
路地裏を埋め尽くす群衆の不満は、一触即発の暴動のような殺気へと変わり、店主たちは青ざめ、ただ立ち尽くすことしかできなくなっていた。
「……おしまいだ」
忠吉が膝から崩れ落ち、震える声で呟いた。
「せっかく……せっかく客が集まってくれたのに……飯も出せねえで追い返すなんて……。初音銀座は、大恥かいて終わりだ……」
絶望が、冷たい泥のように商店街を呑み込もうとした――その瞬間だった。
ドンッ!!
キリシマ食堂の店先で、けたたましい重低音が鳴り響いた。
黄色いプラスチック製のビールケース。
大瓶が二十本入る頑丈なコンテナが、路地の中央、群衆のど真ん中へと力強くひっくり返されたのだ。
スッ――。
そのビールケースの上に、迷いなく飛び乗った影があった。
桐島結衣だった。
純白のエプロンは炭の粉と汗で汚れ、木綿のブラウスの袖を肩までたくし上げ、手には赤鉛筆と、殴り書きのメモで埋め尽くされたバインダーを握りしめていた。
結衣は、群衆を見下ろすように仁王立ちになり、息を深く吸い込んだ。
そして――。
「――静かにしなさいッッッッッッ!!!!」
空を裂くような、雷鳴のごとき一喝。
それは、普段の穏やかで優しい看板娘の声ではなかった。
幾多の巨大プロジェクトの修羅場をくぐり抜け、数百人のエンジニアやデザイナーを指揮してきた、令和のトップディレクターだけが放つ、絶対的な統率者の「覇気」そのものだった。
ピタリと。
千人を超える群衆の罵声が、波が引くように止まった。
金造が、忠吉が、勇が、さゆりが、弾かれたように顔を上げ、ビールケースの上に立つ結衣を見上げた。
夏の強烈な西日を背負い、黒髪を風になびかせて立つその姿は――まさに、下町の路地裏に降臨した「女帝」の威厳に満ちあふれていた。
「初音銀座を訪れてくださったお客様方! 大変長らくお待たせして申し訳ありません!」
結衣の声は、驚くほど冷静で、そして路地の隅々まで澄み渡るように響いた。
「ただいま、予想を遥かに超える大盛況により、一部の食材とチケットが一時的に品切れとなっております! ですが、ご安心ください! 初音銀座商店街は、誰一人としてお客様をお腹を空かせたまま帰らせることは絶対にいたしません!!」
結衣はバインダーを掲げ、堂々と宣言した。
「あと十五分お待ちください! 十五分後、さらに美味しく、さらに熱い『初音銀座・真夏の裏メニュー』を、全ブースで一斉に解禁いたします!!」
どよめきが歓声へと裏返る。
「う、裏メニュー!?」「本当かよ!」「よし、待ってやるぞ!」
群衆の苛立ちが、一瞬にして期待の熱気へと反転した。
だが――結衣の足元に駆け寄った勇が、青ざめた顔で小声で叫んだ。
「お、おい結衣さん! 何言ってんだよ!? 裏メニューなんて仕込んでねえぞ! 食材も氷も、本当に一欠片も残ってねえんだ!!」
「残っていなければ――今から動かすのよ!」
結衣はビールケースから軽やかに飛び降りると、バインダーのメモを指先で強く弾いた。
その瞳は、獲物を捉えた鷹のように鋭敏に冴え渡っていた。
「勇さん、さゆりちゃん、店主の皆さん! 泣き言を言っている暇は一秒もありません! これより、緊急兵站オペレーションを発動します!」
結衣の凛とした声が、パニックに陥っていた店主たちの脳天を撃ち抜いた。
「勇さん!」
「は、はいッ!」
勇が思わず直立不動になる。
「八百杉のオート三輪を出しなさい! 千住の青果本市場は閉まっていても、土曜の午後に仕込みをする料亭相手の『向島の仲卸倉庫』なら、まだシャッターを開けているはずです! 予備の鶏卵十箱、キャベツ二十玉、玉ねぎ三十袋! ツケで構いません、八百杉の看板を担保にして、倉庫にある生鮮野菜を力づくで全量買い付けてきなさい!!」
「向島の仲卸……! そうか、あそこなら土曜の夕方前まで番頭が残ってる! 行ってくるッ!!」
勇は前掛けを翻し、猛虎のような勢いで路地を駆け出していった。
「誠二君!」
結衣は、本田鉄工所の前で立ち尽くしていた水野誠二を鋭く指差した。
「は、はいッ!」
「本田社長のスーパーカブ(実用バイク)のエンジンをかけなさい! 隅田川を渡ってすぐ、鐘ヶ淵の化学工場の敷地内に、工業用冷却水を冷やすための『日冷の大型製氷工場』があるわ! この炎天下で工場の稼働が止まるはずがない! 本田社長の名義で、ブロック純氷を五貫目、至急融通してもらってきなさい! 荷台に縛り付けて、五分で往復するのよ!!」
「鐘ヶ淵の製氷工場……! あそこなら、本田鉄工所の配管を納めてる! 任せてくださいッ!!」
誠二は作業帽を目深に被り直すと、工場の裏手に停めてあったホンダ・スーパーカブへと跳び乗った。
キック一発、甲高い排気音を響かせ、白煙を上げて人混みの隙間を疾走していく。
「寺岡さん!」
結衣はチケット売り場の寺岡へと向き直った。
「はい!」
「二千冊のチケットの半券が、すでに各店舗の回収箱に何千枚も溜まっているはずです! 吉村さんと一緒に、各店舗を回って使用済みの半券を即座に回収しなさい! シリアルナンバーを確認し、破れのない半券の裏面に、寺岡堂の『再発行済』の角印を叩いて、即席の追加チケットとして再流通させるのです! 現金の回収額と照合しながら、追加で千冊分――五十万円分の枠を、五分以内に再構築してください!」
「……リサイクル通貨の発行ですね! 承知いたしました、一円の狂いもなく回してみせます!」
寺岡の眼鏡が光り、吉村とともに回収箱を抱えて走り出した。
外部調達の指示、わずか二分。
外部からの補給線が確保された。
だが――向かいの仲卸から勇が戻り、誠二が氷を運んでくるまでの間、いま目の前にいる数千人の群衆を繋ぎ止め、料理を提供し続けなければ、暴動は防げない。
結衣は、残された飲食店主たち――忠吉、金造、さゆり、そして大山源三を一堂に集めた。
「ここからが本番です」
結衣はバインダーを座卓の上に叩きつけた。
「全店舗、残存食材の緊急棚卸し結果を報告しなさい!」
「う、うちは……」
忠吉がおずおずと手を挙げる。
「卵は切れたが……朝一番に大鍋いっぱいに引いた『鰹と昆布の特級一番出汁』が、まだ寸胴に二杯、三十リットル以上丸々残ってる……」
「宝来軒は!」
「ちまき用の餅米と肉は終わったが……中華そば用の生麺が二十玉と、キャベツの芯、それに仕込みで余った大量の『自家製ラード』と『豆板醤』『甜麺醤』が手付かずだ!」
「カトレアは!」
「プリンの卵液はもうないけど……パフェ用の『純白ホイップクリーム』がボウルに二杯と、アイスコーヒー用の濃厚な水出し珈琲、それにシロップ漬けのチェリーが二缶残ってるわ!」
結衣の脳内で、バラバラだった各店舗の残存食材が、巨大な連立方程式のように猛烈な勢いで組み合わさっていく。
令和のフードロス削減技術。
そして――企業間の余剰リソースをリアルタイムでマッチングさせる「クロスアロケーション(資源交差融通)」の神髄。
「店舗の垣根を、完全に破壊します」
結衣は鉛筆を走らせ、図面を描いた。
「やぶ忠さんの余った三十リットルの鰹出汁! それを今すぐ、十リットルずつ宝来軒さんとキリシマ食堂へ移し替えなさい!」
「えっ!? 蕎麦屋の出汁を、中華屋へ!?」
忠吉と金造が同時に目を剥いた。
「そうです!」
結衣は金造に迫った。
「金造さん! 宝来軒の濃厚な豚骨スープとラードに、やぶ忠さんの極上鰹出汁を半々で合わせるんです! 令和……いえ、未来の東京で爆発的なブームを巻き起こす『和洋折衷・濃厚魚介豚骨スープ』です! そこへ残った生麺をくぐらせ、茹でたキャベツの芯をシャキシャキに刻んで乗せれば……わずか一分で提供できる、初音銀座特製の『極上・冷やし魚介中華つけ麺』が百杯作れます!」
「ぎょ……魚介豚骨つけ麺だとォ!?」
金造の料理人としての勘が、激しい閃光となって弾けた。
「豚の脂のコクに、忠吉のじいさんの鰹のガツンとした香りが合わさるのか……! 美味えに決まってらあ! すぐに鍋を合わせるぞ、忠吉、寸胴を持ってこいッ!!」
「おうッ、任せとけッ!!」
昨日までいがみ合っていた蕎麦屋と中華屋が、互いの寸胴を抱え、ひとつの厨房へと駆け込んでいく。
「さゆりちゃん!」
結衣はカトレアの看板娘へと向き直った。
「八百杉の店先に、過熟で売り物にならなくなったバナナと、傷みかけの桃の木箱が二箱残っているわ! それを今すぐ湯むきして刻み、カトレアの水出し珈琲とバニラシロップで和えなさい! その上に残った純白ホイップクリームを山盛りに絞り、チェリーを乗せるの! 名付けて『初音銀座・下町フルーツサンデー』! ボトルプリンの空き瓶に詰めれば、二分で五十本作れるわ!」
「フルーツサンデー……! 可愛い! 絶対に売れるわ、今すぐ作る!!」
さゆりがミニスカートを揺らし、八百杉の店先へと飛んでいく。
各店舗の余剰リソースが、奇跡のパズルのように噛み合い、新しいメニューへと生まれ変わっていく。
そして――。
結衣は最後に、キリシマ食堂の厨房の入り口へと視線を向けた。
そこには、腕組みをしたまま、沈黙を守り続けていた大山源三が立っていた。
「……源さん」
結衣が歩み寄る。
「キリシマ食堂の冷蔵箱……ハンバーグ用の牛肉は、もうありませんね」
「ああ」
源三は低く答えた。
「カツサンド用のパンも、スネ肉のパティも、全部焼き尽くした。……残ってんのは、仕込みの時に切り落とした『豚バラ肉の端材と筋肉』が五キロ……それから、勇が置いていった玉ねぎが半カゴと、一週間煮詰めたあの『秘伝のデミグラスソース』が、寸胴の底に三升あるだけだ」
「十分です」
結衣はニヤリと、獲物を追い詰めた不敵な笑みを浮かべた。
「源さん。……竹串はありますか?」
「竹串? やぶ忠から貰った、玉子焼き用の平串なら、百本単位で転がってらあな」
「それを使います」
結衣は調理台の上に、真っ白なまな板をドンと置いた。
「豚バラ肉の端材を、一口大の厚切りに切り落とします。玉ねぎは、四角い乱切り。……それを、交互に竹串に刺していくんです。肉、玉ねぎ、肉、玉ねぎ、肉!」
「……串焼きか?」
源三が眉をひそめた。
「ただの豚バラの串焼きじゃねえか。そんな焼き鳥屋みてえな真似、洋食屋の暖簾が許さねえぞ」
「ただの串焼きじゃありません!」
結衣は両手を広げ、熱っぽく語りかけた。
「本田鉄工所の誠二君が作った、あの移動式カートの七輪を思い出してください! 赤々と熾った炭火の直火で、豚バラ肉の表面を一気に炙るんです! 余分な脂を炭火の上に落とし、煙で肉を香ばしく燻し焼きにする! そして――焼き上がった瞬間に、あの源さんの秘伝デミグラスソースの中に、ジュボッ!と丸ごと潜らせるんです!!」
「…………っ!!」
大山源三の全身に、猛烈な電流が駆け抜けた。
老職人の白髪交じりの眉が、跳ね上がる。
「炭火の煙をまとった香ばしい豚バラ肉に……継ぎ足しのデミグラスソースだと……!?」
「そうです! ウスターソースと赤ワインを少し足して、酸味と塩気を立たせた濃厚なデミダレに潜らせ、仕上げに粗挽きの黒胡椒をたっぷりと振りかける!
炭火の香ばしさ!
豚バラの滴る甘い脂!
玉ねぎのシャキッとした甘み!
そして、何十時間も煮込まれた洋食屋の秘伝ダレの深いコク!
片手で持てて、歩きながらガブリと喰らいつける……キリシマ食堂特製『下町スタミナ洋食串』です!!」
「がはっ……!!」
源三の口から、雷鳴のような咆哮が轟いた。
「面白え!! 最高に面白えじゃねえか、結衣!!」
源三は牛刀を握り直すと、豚バラ肉の塊をまな板の上へ叩きつけた。
「端材だからって舐めんじゃねえぞ! 脂の乗った一番美味いところばかりだ! 浅草の職人の意地、この串一本に全部叩き込んでやるぜ!!」
◆
午後二時十五分。
予告された「十五分後」の鐘が鳴り響いた瞬間――。
ジュウウウウウウウウウウッッッ!!
モワァッ……!!
初音銀座商店街の中央、キリシマ食堂のブースから、目も眩むような白い煙と、暴力的なまでの香気が爆発した。
誠二が作った深緑のカート。
その七輪の網の上で、三十本の『下町スタミナ洋食串』が、パチパチと炭火の火の粉を散らしながら、一斉に身悶えしていた。
滴り落ちた豚の脂が炭火に触れるたび、ボッと小さな炎が上がり、香ばしい煙が立ち上る。
源三が手首を返し、熱々の串を、小鍋に煮立つ漆黒のデミダレの中へと一気に潜らせた。
ジューーーーーッッッ!!
甘酸っぱい赤ワインの蒸気と、焦がしカラメルの苦味、そして牛肉と豚肉の脂のアロマが、煙となって路地裏を埋め尽くす群衆の頭上へと雪崩れ込んでいく。
「な、なんだこの匂いは……!?」「すげえ、煙が……!」「肉だ! 新しい肉が焼けてるぞ!!」
待ちわびていた客たちが、吸い寄せられるように押し寄せてきた。
結衣がビールケースの上に立ち、メガホンを構えた。
「大変お待たせいたしました! 初音銀座サマーフェスティバル・緊急裏メニュー、これより一斉販売を開始いたします!!」
結衣の号令とともに、全ブースの幕が一斉に跳ね上がった。
「宝来軒とやぶ忠の奇跡のコラボ! 極上・冷やし魚介豚骨つけ麺、限定百杯!」
「カトレア特製、完熟果実の下町フルーツサンデー!」
「そしてキリシマ食堂! 炭火焼き・下町スタミナ洋食串、一本百円です!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
怒涛のような歓声が上がった。
再発行されたチケットを握りしめた客たちが、我先にと串を買い求める。
串を受け取った工員の男が、我慢できずにその場で大口を開けてかぶりついた。
ガブリッ……ジュワアアアッ!
「っ………………………………!!」
男の身体が、弓なりに跳ね上がった。
目を見開き、咀嚼する顎が止まらない。
炭火でカリッと香ばしく焼き上げられた豚バラの表面を突き破ると、中から熱々の脂と肉汁が、口いっぱいに洪水のように溢れ出す。
直後に絡みつく、濃厚な秘伝デミグラスの深いコクと、ウスターソースのツンとしたスパイシーな酸味。
そして、シャキッと甘い玉ねぎの瑞々しさが、豚の脂のしつこさを完璧に洗い流していく。
「う、めええええええええええっッッ!!」
男は串を天に突き上げて叫んだ。
「なんだこれぇぇぇっ! 焼き鳥なんか目じゃねえぞ! 肉を食ってる満足感が凄まじい! タレが……この黒いタレが、死ぬほど美味い!!」
「俺にもくれ!」「三本ちょうだい!」「五本だ、五本まとめてくれ!!」
五十本、百本と焼かれた洋食串が、焼き上がるそばから飛ぶように消えていく。
その時――。
ブロロロロロロッ!
人混みの向こうから、けたたましいエンジンの爆音とともに、砂利を蹴立てて三輪トラックが滑り込んできた。
八百杉の勇だった。
「結衣さんッ! 取ってきたぞォッ!!」
荷台から飛び降りた勇の背中には、向島の仲卸から力づくで買い付けてきた、新鮮な鶏卵十箱と、山のようなキャベツが積まれていた。
「勇さん!」
「忠吉のじいさん! 卵だ! 一番いい赤玉を千個積んできたぞ! 出汁巻き玉子、あと千本焼きまくれェッ!!」
「おうよッ!! 任せときなァッ!!」
忠吉が歓喜の涙を流しながら卵の箱を受け取り、七輪の前に陣取る。
さらに、反対側の路地から――。
ドッドッドッドッ!
スーパーカブの荷台に、巨大な麻袋を括り付けた水野誠二が滑り込んできた。
「結衣さん……! 純氷、五貫目……持ってきました!!」
「誠二君、ありがとう!」
勇がノミを手に取り、バイクから降ろされた純氷を一刀両断に叩き割る。
カン! カン! カンッ!
涼やかな氷の結晶が再び宙を舞い、完熟トマトの塩セーキが、爆発的な勢いで復活を遂げた。
◆
午後三時。
破綻寸前だった初音銀座商店街の兵站は、結衣の神がかり的な需給コントロールと、下町の男たちの機動力によって、完全に、完璧に息を吹き返していた。
チケットは途切れることなく再流通し、寺岡堂のそろばんは再び心地よい連撃音を刻み続けた。
やぶ忠の出汁巻き玉子は千本を突破し、宝来軒の魚介つけ麺は汁一滴残さず完売。
カトレアのフルーツサンデーに女の子たちが歓声を上げ、キリシマ食堂の洋食串は、炭火の煙を狼煙のように立ち上らせながら、三千人の胃袋を熱狂の渦へと叩き込み続けていた。
品切れによる脱落者は、一店舗たりとも出なかった。
客の不満は完全に霧散し、路地裏には、満腹になった人々の笑顔と、子供たちの笑い声、そして「初音銀座最高だ!」「来年も絶対やってくれ!」という割れんばかりの歓声だけが満ちあふれていた。
「……ふうっ」
キリシマ食堂の店先で、結衣は額の汗を拭い、深く、長い息を吐き出した。
張り詰めていた神経の糸がわずかに緩み、膝に心地よい疲労感が押し寄せてくる。
だが、その胸の奥は、かつて令和のオフィスでは一度も味わえなかった、震えるほどの達成感と誇りで満たされていた。
「……おい、結衣」
煙の立ち込める七輪の前から、源三が歩み寄ってきた。
炭火で真っ黒に汚れた前掛けのまま、老職人は結衣の顔をじっと見つめた。
その双眸には、驚嘆と、畏怖と、そして言葉に尽くせぬ深い敬愛の光が宿っていた。
「お前……本当に、何者なんだ」
源三の掠れただみ声が、静かに落ちる。
「兵站が崩れて、全員がパニックになって逃げ出しかけたって時によ……。お前一人だけが、前を向いて、数字を弾いて、全員を動かして……あの大パニックを、一瞬でひっくり返しやがった」
「源さん……」
「浅草の修業時代から、いろんな親方や支配人を見てきたがな……。こんな芸当ができる人間は、日本中探したっていやしねえよ」
その時だった。
「おい! みんな、聞いたかい!?」
八百杉の勇が、店先から大声を張り上げた。
その目には、熱い涙が光っていた。
「この街が全滅しかけたのを救ってくれたのは誰だ! 俺たちに新しい武器をくれて、バラバラだった店を一つに束ねて、奇跡を起こしてくれたのは誰だ!!」
忠吉が、金造が、さゆりが、本田社長が、誠二が、吉村が、そして路地に並ぶ四十軒の店主たちが、一斉に結衣へと向き直った。
「「「キリシマの若女将だ!!」」」
「「「下町の女帝、桐島結衣だァッッッ!!」」」
ドォォォォォォォォンッッッ!!
地鳴りのような大歓声と拍手が、真夏の青空へと轟き渡った。
店主たちが拳を突き上げ、涙を流しながら結衣の名を叫ぶ。
そこにあるのは、単なる洋食屋の看板娘を見る目ではなかった。
この初音銀座の命運を背負い、巨大な時代の濁流から街を守り抜いた、真の「総大将」に対する、魂の底からの戴冠だった。
蝉の声が、激しく響き渡る。
夕暮れの茜色が、東の空から静かに忍び寄り始めていた。
兵站の崩壊という絶体絶命の危機を乗り越え、指揮官として完全なる覚醒を遂げた桐島結衣。
初音銀座サマーフェスティバルは、下町の歴史に永遠に刻まれるであろう、感動と熱狂のフィナーレへと向かって、力強く突き進んでいた。




