第22話:カウンターの火花、男たちの無言劇
午後五時二十五分。
初音銀座商店街の上空には、燃え尽きる直前の炭火のような、重厚で濃密な茜色の夕焼けが広がっていた。
昼間の暴力的な陽射しによって熱せられたトタン屋根や土壁が、吐息のような熱気をじわりと路地へと放出し続けている。どこかの長屋の路地裏からは、石鹸の泡の匂いとともに夕風呂を浴びる子供たちの水飛沫が上がり、遠くの京成線の踏切が、カンカンカンと軽快なリズムを夕暮れの街に響かせていた。
キリシマ食堂の厨房には、すでに夜の営業に向けた準備を整え終えた静謐な空気が漂っていた。
銅鍋や真鍮の寸胴は油膜一つなく磨き上げられ、手前のコンロ台には、注文が入れば一瞬で点火できるよう青い種火が静かに揺らめいている。
桐島結衣は、洗いざらしの木綿のブラウスの上に清潔な純白のエプロンをきりりと締め直し、客席のテーブルの上に塩と胡椒の小瓶、爪楊枝入れを等間隔で整列させていた。
「……よし、テーブルセッティング完了」
額に滲んだ汗を指先で拭い、小さく息を吐き出す。
昼のスピードランチに、夜勤のテイクアウト弁当、そして昨日の雨の日コロッケ作戦。怒涛のように繰り出した改革の手応えは、いまや商店街の隅々にまで行き届き、客足は驚くほど安定していた。寺岡雅之の協力で帳簿も複式簿記へと移行しつつあり、数字の面でも確かな手応えを感じている。
厨房の奥では、大山源三が前掛けの紐を締め、まな板の前で腕組みをしていた。
「おい、結衣。そろそろ五時半だぞ。表の札をひっくり返せ」
「はい、源さん!」
結衣は軽やかな足取りで正面の引き戸へと向かった。
磨き抜かれた硝子戸の木枠に手をかけ、ガラリと開け放つ。
軒先に吊るされた藍色の暖簾をくぐり、木札を『準備中』から『営業中』へと裏返した――まさにその瞬間だった。
「……あ、あの」
暖簾のすぐ外、夕暮れの街灯の柱の陰から、まるで待ち伏せでもしていたかのように、一人の男が滑り込んできた。
「うわっ……あ、いらっしゃいませ!」
結衣が驚いて目を丸くすると、立っていたのは中堅繊維商社「帝都物産」の営業マン――吉村健一だった。
紺のサージ地のスーツには皺一つなく、小豆色のネクタイは喉元まできっちりと締め上げられている。手にはいつもの黒革のブリーフケースを抱えているが、その髪はきちんと梳かされ、靴も埃が丁寧に払われていた。
以前のような、過労で死にそうになっていた青白い顔色はどこにもない。むしろ、緊張のあまり耳の先までカッと朱色に染め上げ、落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「吉村さん! まだ五時半きっかりですよ。お仕事、もう終わったんですか?」
「あ、はい……! 今日は、その……外回りのルートを少し工夫しまして、定時より三十分ほど早く事務処理を切り上げることができまして……」
吉村は口の中でモゴモゴと言い訳を並べ立てた。
もちろん、嘘だった。
本当は、午後三時には今日のノルマをすべて片付け、時計の針が五時を指すのを会社のデスクで貧乏揺すりをしながら待ち構え、終業のベルが鳴った瞬間に脱兎のごとくオフィスを飛び出してきたのだ。
頭の中にあったのは、ただ一つ。
あの雨の夕暮れ、路地裏のベンチで自分に温かいカツサンドを手渡し、「ここは、あなたが逃げ込める場所ですから」と微笑んでくれた、桐島結衣の笑顔だった。
会いたい。一分でも早く、あの澄んだ瞳を見たい。
その一心だけで、猛暑の東京を汗だくになって走り抜けてきたのだ。
「どうぞ、中へ! 一番乗りのお客さまですよ」
「あ……ありがとうございます!」
結衣の満面の笑顔を正面から浴びせられ、吉村は心臓が跳ね上がるのを覚えながら、おずおずと敷居を跨いだ。
店内にはまだ、誰もいない。
吉村はカウンターの一番端、厨房の結衣の立ち位置からもっとも近い席を選び、まるで壊れ物を置くように静かに腰を下ろした。
「冷たいお水です。……吉村さん、今日も暑かったですね」
結衣が井戸水で冷やしたガラスコップと、真っ白なおしぼりを差し出す。
「ありがとうございます。……あの、結衣さん」
「はい?」
「今日は、その……一杯、いただいてもよろしいでしょうか。……生ビールを」
「まあ! 生ビールですね! お仕事上がりの一杯、最高ですね!」
結衣が嬉しそうに厨房へ声をかける。
「源さん、生ビール一杯です!」
「へいよ」
カウンターの奥で、源三がサーバーからジョッキへと黄金色のビールを注ぎ始める。
吉村はネクタイの結び目をわずかに緩め、メニューの短冊を見上げた。
「それと……お料理は、何にいたしましょう?」
「あ、ポークソテーを……単品でお願いします。結衣さんの……いえ、キリシマ食堂のお肉の焼き加減、本当に素晴らしいので」
「ありがとうございます! ポークソテー一丁入ります!」
トントントン、と源三が肉の筋を切る小気味よい音が店内に響き始めた。
ジョッキの底から立ち上る白い泡。
冷えた生ビールを受け取った吉村は、一口喉へと流し込み、ぷはーっと細い吐息を漏らした。
「……美味しいです。身体の芯まで染み渡るようだ」
「ふふ、良かったです。今日もお仕事、大変でしたか?」
結衣がカウンター越しに、首を傾げて優しく微笑みかける。
距離が、近い。
カウンターの天板を挟んでわずか数十センチ。
結衣のまとう、石鹸の清潔な匂いと、エプロンの木綿の温もり、そして初夏の夜風の香りが、吉村の鼻腔をくすぐる。
吉村の心臓が、再び早鐘のように打ち鳴らされ始めた。
(落ち着け……落ち着くんだ、吉村健一。君は商社マンだ。百戦錬磨のバイヤーを相手にプレゼンをする男だろうが……!)
吉村はジョッキを両手で握りしめ、必死に平静を装いながら、あらかじめ頭の中で何十回もシミュレーションしてきた「スマートな大人の会話」を切り出そうと唇を開いた。
「あ、あのですね、結衣さん。実は先日のビフカツサンドの件ですが、あれから繊維問屋の開拓が非常に順調でして――」
――その時だった。
ガラガラガラッッッ!!
静かな店内に、まるで突風が吹き込んできたかのような、乱暴極まりない勢いで正面の硝子戸が開け放たれた。
「へい毎度ォッ!! 八百杉だァッ!!」
鼓膜を震わせる、腹の底からの大音声。
「……っ!?」
吉村はビクッと肩を跳ね上げ、ビールのジョッキを取り落としそうになった。
入り口に仁王立ちになっていたのは、杉本勇だった。
藍色の半纏の袖を肩まで捲り上げ、首には真っ赤な豆絞りの手ぬぐい。泥のついた長靴を履き、両腕には今朝採れたばかりの巨大なキャベツがみっちりと詰まった木箱を、まるで赤ん坊でも抱くように軽々と抱え込んでいる。
だが、その顔は――尋常ではないほどの気迫に満ちていた。
普段なら、仕入れの野菜は裏の勝手口から届けるのが下町の八百屋の鉄則だ。
それを、わざわざ表の暖簾を跳ね除け、土足で正面から怒鳴り込んできたのだ。理由は明白だった。向かいの店先から、吉村がそそくさとキリシマ食堂へ吸い込まれていく姿を、鷹のような目で目撃していたからである。
「結衣さーーんッ!! 注文のキャベツ、市場で一番巻きのいい極上品を抱えて持ってき――」
勇の威勢のいい怒鳴り声が、ピタリと止まった。
視線が、カウンターの端に座る男の背中に突き刺さったのだ。
「…………あ?」
「…………」
二人の男の視線が、店内の薄暗い空間で、正面から激しく衝突した。
ピキリ、と音が聞こえたような気がした。
店内の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
スーツ姿の吉村健一。
作業着に前掛け姿の杉本勇。
吉村はジョッキを持ったまま、冷ややかな、だが警戒心に満ちた目で勇を見据えた。
勇は木箱を抱えたまま、眉間に深い皺を刻み、野獣のような鋭い眼光で吉村を射抜いた。
「……おいおい」
厨房の奥で、豚肉に塩胡椒を振っていた源三が、呆れたように手を止めて溜息をついた。
「勇。仕入れの野菜は裏から回せって、百回言ったら分かるんだ。客席の真ん中に泥のついた箱を持ち込むんじゃねえよ」
「あ、ああ……すまねえ、源の親父。手が塞がってたもんでよ」
勇はぶっきらぼうに返し、ドサリと木箱を土間の隅に下ろした。
だが、その視線は吉村から一ミリたりとも逸らされなかった。
長靴をキュッ、キュッと鳴らしながら、カウンターへと歩み寄ってくる。
吉村の座る席から、あえて一つだけ席を空けた隣の丸椅子。そこへ、前掛けを翻してドカリと腰を下ろした。
「……ちわっす、旦那」
勇が低く、喉を鳴らすような声で言った。
「こんな早い時間から一杯やってるたァ、結構な身分ですな。商社のお勤めってのは、そんなに暇なもんなんですかい?」
明らかな先制攻撃。
下町特有の、慇懃無礼な挑発だった。
だが、吉村もまた、数々の修羅場の営業現場をくぐり抜けてきた企業戦士だった。
吉村はジョッキを静かにカウンターへ置くと、ネクタイを指先で整え、完璧なビジネス用の営業スマイルを浮かべて勇へと向き直った。
「ええ、恐れ入ります。本日の外回りノルマを予定より早く達成いたしましてね。効率的な時間管理も、商社マンの重要な職務の一つですから。……八百杉さんこそ、配達ご苦労様です。まだ明るいのに、ご熱心ですね」
「なっ……たいむ……なんだと?」
横文字の反撃に、勇の額に青筋がピクリと跳ね上がった。
(な、なに……この空気……!?)
厨房のカウンターの内側で、結衣は目を白黒させていた。
二人の男の間から、目に見えるような黒い火花がパチパチと飛び散っている。
まるで、縄張りを侵犯された二匹の雄ライオンが、喉を鳴らし合って牽制し合っているかのようだった。
しかし――超のつく仕事人間であり、令和のブラック企業で人間関係を「業務上の利害関係」としてしか捉えてこなかった結衣の鈍感なレーダーは、この男たちの争いの「真の原因」を、一光年も離れた見当違いの方向へと誤読していた。
(……あ、そうか!)
結衣はポンと心の中で手を打った。
(吉村さんは大手の繊維商社マンで、勇さんは商店街青年部の若旦那。……つまり、近代的な大資本と、下町の地域経済のプライドが、カウンター越しにぶつかり合っているんだわ! これはビジネスの縄張り争いね!)
見当違いも甚だしかった。
男たちが命がけで火花を散らしている理由が、目の前で首を傾げている「自分自身」であることなど、結衣の脳内の計算シートには一文字も書き込まれていなかった。
「源の親父!」
勇がカウンターの天板をバンと手のひらで叩いた。
「俺にも麦酒くれ! 大瓶だ、大瓶! それと、今夜は飯も食ってくぜ! ポークソテーだ! 肉を一番分厚いやつで頼む!」
「あァ!?」
源三が眉をひそめた。
「テメエ、夕方の仕込みはどうしたんだよ。トミに怒鳴り散らされてもしらねえぞ」
「お袋なら店番してるからいいんだよ! いいから早く出してくれ!」
勇は吉村を横目で睨みつけ、フンと鼻を鳴らした。
同じポークソテー。
吉村が頼んだのと同じメニューを、あえて大声で重ねて注文する。子供じみているが、男にとっては絶対に引けない意地の張り合いだった。
源三は深いため息をつきながら、冷蔵箱から二枚目の豚ロース肉を取り出した。
ドスッ、ドスッ、ドスッ!
ミートハンマーが肉の繊維を叩き潰す重い音が、店内に響き渡る。まるで、二人の男の張り詰めた神経を叩き割るかのような、容赦のない打撃音。
吉村が動いた。
吉村はジョッキを傾けて一口飲んだあと、胸ポケットから真新しい万年筆と、革の手帳を取り出し、カウンターの上に整然と広げた。
そして、結衣に向かって、柔らかく洗練された声音で語りかけた。
「結衣さん。先日教えていただいた『顧客インサイト』の考え方、本当に素晴らしい効果を上げていましてね。先方の購買担当者が何を恐れ、何を求めているのかを事前に分析して資料を組み直したところ、日本橋の問屋筋から非常に好感触を得られたんです」
「本当ですか、吉村さん!?」
結衣の顔がパッと輝いた。お仕事トークは大好物だった。
「やっぱり! スペックの羅列じゃなくて、相手の課題解決にフォーカスした構成が刺さったんですね!」
「ええ。結衣さんのマーケティングの知識には、いつも感服させられます。もしよろしければ、今度の日曜日にでも、銀座の資生堂パーラーで新しいデザートの市場調査を兼ねて、お茶でもいかがですか? 近代的な店舗デザインの視察にもなると思いますし」
「銀座の……パーラー……!?」
結衣が目を丸くする。
スマートな誘い。仕事の延長線を装いながら、休日の銀座デートへと誘い込む、エリート商社マンならではの洗練されたアプローチだった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、隣の席の勇の目が血走った。
「――ちょ、ちょっと待ちやがれッ!!」
勇がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ぎ、銀座だァ!? 何がしせいどーだ、気取ったこと言ってんじゃねえぞ! 結衣さんはな、そんなチャラチャラした街のハイカラ飯なんざ求めてねえんだよ!」
「……何か問題でもありますか、杉本さん」
吉村が冷ややかな視線を向ける。
「大ありだバカ野郎!」
勇はカウンター越しに結衣へ身を乗り出した。
「結衣さん! 銀座なんざ行かなくたって、美味いもんならこの街にいくらでもあるぜ! ほら、明後日は向島の白髭神社の縁日だ! 俺が青年部の特権で、一番いい舟を出して、隅田川から花火を見せてやるよ! 帰りに浅草の美味いどじょう鍋でも食いに行こうじゃねえか!」
「えっ、花火にどじょう鍋ですか!?」
結衣の目が再び輝く。下町の伝統文化もまた、知的好奇心を刺激する大好物だった。
「いいですね、屋形船なんて風情があって素敵です!」
「へっ! 見ろよ旦那! 下町の女には、下町の粋ってもんが一番なんだよ!」
勇が勝ち誇ったように胸を張る。
だが、吉村も引かない。眼鏡の奥の目をスッと細め、静かに反撃の刃を繰り出した。
「縁日も結構ですが……結衣さんはキリシマ食堂のブランディングと経営再建を担うプロフェッショナルですよ。大衆的なお祭り騒ぎよりも、銀座の最先端の商業ディスプレイや、一流ホテルのサービスオペレーションを肌で学ぶことの方が、この店の将来にとって何倍も価値があるはずです。杉本さんのご提案は、少々自己満足が過ぎるのでは?」
「じ、じこまんぞく……!?」
勇の顔が、怒りで真っ赤に沸騰した。
「てめえ、さっきからペラペラと小難しい理屈ばかり並べやがって! 俺と結衣さんはな、毎朝市場の野菜を通じて魂を通じ合わせてんだよ! あの規格外の泥つき人参を、結衣さんと源の親父が奇跡のポタージュに化けさせた時、俺たちの絆はガッチリ結ばれたんだ! たまに来てメシ食っていくだけの余所者の客が、偉そうに結衣さんを連れ出そうなんざ、百年早えんだよ!」
「客を余所者呼ばわりとは、商売人としていささか見識を疑いますね」
吉村の声が、氷のように研ぎ澄まされる。
「僕はこの店の味と、結衣さんの志に敬意を払っているからこそ、対価を支払い、応援しているんです。毎朝野菜を届けているからといって、プライベートまで独占できるとお考えなら、それこそ傲慢というものでしょう」
「てめえ……表へ出ろ!!」
「望むところです。ビジネスの礼儀というものを教えて差し上げましょう」
バチバチバチッ!!
二人の男が、カウンター越しに額を突き合わせんばかりに睨み合った。
商社の洗練されたプライドと、下町の無骨な男気が、完全に臨界点を突破していた。
厨房の奥で、源三が額に手を当て、深く、長いため息を吐き出した。
「……おい、結衣。止めろ。店の中で殴り合い始められたら、皿が割れる」
「えっ!? な、なんで二人が殴り合いになるんですか!?」
結衣は心底不思議そうに目を瞬かせた。
「だって……銀座の視察も、向島の屋形船も、どっちもお店のマーケティングにとってすごく魅力的な提案じゃないですか! なんで喧嘩になるの!?」
「……お前、本当に阿呆だな」
源三が呆れ果てた声で呟いた。
だが、結衣はすでに動いていた。
◆
カチリ、ボッ!
厨房のコンロから、青い炎が力強く噴え上がった。
「はいっ、そこまでです、お二人とも!」
結衣の凛とした、よく通る声が店内に響き渡った。
睨み合っていた吉村と勇が、ピクリと動きを止める。
結衣は両手に、熱々のフライパンから引き上げられたばかりの大皿を抱えていた。
「お待たせいたしました! キリシマ食堂特製、極厚ポークソテー二丁、焼き上がりです!」
ジュウウウウウウウ――ッ!!
カウンターの上に、二枚の白磁の大皿がドン、ドンと並べられた。
その瞬間、立ち上った圧倒的な湯気と芳香が、二人の男の殺伐とした空気を一瞬にして吹き飛ばした。
厚さ二センチを超える、見事な豚ロース肉。
表面にはカリリとした香ばしい焼き目が均一に刻まれ、肉汁を閉じ込めたロゼ色の身が、ぷっくりと弾力を持って膨らんでいる。
そして――肉の上からたっぷりとかけられていたのは、源三が仕上げたばかりの、特製オニオンガーリック・デミグラスソースだった。
八百杉の飴色玉ねぎの甘みと、ニンニクの刺激、そして焦がしバターと醤油の香ばしさが混ざり合った、暴力的なまでの食欲の直撃弾。
皿の脇には、八百杉から今朝届いたばかりの、みずみずしい春キャベツの山盛りの千切りと、粉ふきイモが美しく添えられていた。
「うっ…………!」
吉村と勇の喉が、同時にゴクリと大きな音を立てて鳴った。
睨み合っていた男たちの視線が、吸い寄せられるように自分の目の前の皿へと釘付けになる。
そこへ――結衣が、満面の笑みを浮かべて二人の顔を交互に見つめた。
「吉村さん!」
結衣は吉村の胸元を指差した。
「そのネクタイ、とっても素敵ですね! 小豆色の落ち着いた色合いが、吉村さんの誠実な雰囲気にすごくよくお似合いです! お仕事でお疲れのところ、一番乗りで来てくださって本当に嬉しいです!」
「あ……っ、え……!?」
吉村の顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まった。
ネクタイを褒められた。結衣さんが、自分のネクタイを見ていてくれた。
それだけで、先ほどまでの冷徹なエリートの仮面がガラガラと崩れ落ち、少年のようにドギマギとして俯いてしまう。
続いて、結衣はくるりと勇へと向き直った。
「そして、勇さん!」
結衣は皿の上のキャベツの千切りを両手で指し示した。
「今日のキャベツ、本当に最高です! 包丁を入れた瞬間に水分が弾けて、甘みがものすごく強くて……千切りにしていても、シャキシャキした手応えが全然違いました! いつも最高の野菜を目利きして届けてくださって、本当にありがとうございます!」
「う……っ、ぐ……っ!?」
勇の太い首筋までが、カッと沸騰したように赤く染まった。
キャベツを褒められた。自分が今朝、市場の競り人と怒鳴り合って勝ち取ってきたキャベツの価値を、結衣が誰よりも完璧に理解してくれていた。
胸を張ろうとしたが、結衣の屈託のない澄んだ瞳に見つめられ、照れくささのあまり前掛けを握りしめて小さくなってしまう。
「お二人とも、いつもキリシマ食堂を支えてくださって、本当にありがとうございます!」
結衣は両手を胸の前で合わせ、天使のような微笑みを浮かべた。
「銀座のパーラーの視察も、向島の屋形船も、どちらもすっごく勉強になります! ぜひ、お店の定休日にでも、みんなで行きましょうね! 源さんも、トミさんも、さゆりちゃんも誘って、商店街のみんなで!」
「「………………」」
静寂。
初夏の日暮れ時の店内に、ジュウジュウと肉汁が跳ねる音だけが響いていた。
みんなで。
源さんも、トミさんも、さゆりちゃんも一緒に。
つまり――二人っきりのデートなどという概念は、結衣の頭の中には最初から一ミクロンも存在していなかったのだ。
ただの、職場の親睦会。
ただの、商店街の市場調査。
完璧すぎる、悪意ゼロの、天然の神対応。
「…………」
吉村が、ゆっくりとジョッキに手を伸ばした。
「…………」
勇が、大瓶のビールを自分のグラスへと注いだ。
二人の男は、互いに視線を交わすこともなく、ただ深いため息を一つ、同時に吐き出した。
肩透かし。
命がけで火花を散らし、プライドを懸けて威嚇し合っていた自分たちの姿が、急激に滑稽に思えてくるほどの、圧倒的な敗北感。
結衣のあの無邪気で美しい笑顔の前では、男たちの小さな下心や独占欲など、春の淡雪のように跡形もなく溶け去ってしまうのだ。
「……冷めねえうちに、食いな」
源三がカウンターの奥で、吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、ぶっきらぼうに言った。
「うちのポークソテーはな、熱いうちに胃袋に叩き込むのが一番美味いんだよ」
吉村がナイフとフォークを手に取った。
勇が割り箸をパチンと割った。
二人は無言のまま、湯気を噴き上げる極厚の肉へと刃を沈めた。
サクッ、ジュワッ。
溢れ出す肉汁と、オニオンガーリックの香ばしいソース。
それを大口を開けて頬張る。
「っ…………!」
吉村の目が丸くなった。
「っ…………!」
勇の喉が鳴った。
美味い。
信じられないほどに、美味い。
豚肉の濃厚な脂の甘みと、ガツンと効いたニンニクのコク。それを八百杉のキャベツの甘みが優しく受け止め、噛むほどに生命力が身体の隅々へと染み渡っていく。
美味い飯を前にしては、くだらない意地の張り合いなど、どうでもよくなってしまう。
二人は言葉を交わすことも忘れ、一心不乱に肉を喰らい、ビールを喉へと流し込んだ。
ガツガツ、ガツガツッ!
金属のフォークの音と、割り箸が皿を打つ音が、奇妙なシンクロを見せて店内に響き渡る。
わずか十分足らず。
二つの大皿の上からは、巨大な肉の塊も、山盛りのキャベツも、最後の一滴のソースすら残さず、綺麗に消え去っていた。
「……ふうっ」
吉村が空になった皿を見つめ、ナプキンで口元を拭った。
「……ごちそうさまでした」
勇もまた、空になったグラスをトンと置き、前掛けで額の汗を拭った。
「……ごちそうさん」
二人の男は、ふと、隣同士で視線を合わせた。
先ほどまでの刺々しい敵対心は、すっかり消え失せていた。
同じ女性に惹かれ、同じように完膚なきまでに肩透かしを食らい、そして同じ美味い飯を食って胃袋を満たした男同士の――奇妙で、哀愁に満ちた、無言の連帯感。
吉村が、手元のビールの瓶を手に取った。
「……杉本さん。よろしければ、一杯いかがですか」
「……おう」
勇は自分のグラスを差し出した。
トトトトッ、と琥珀色の液体が満たされる。
続いて、勇が瓶を奪い取り、吉村のグラスへと勢いよく注ぎ返した。
「……旦那も、グッと飲み干しな」
「……いただきます」
カチン。
静かな店内に、二つのガラスが触れ合う澄んだ音が鳴り響いた。
言葉はなかった。
だが、二人は無言のままグラスを一気に煽り、互いに苦笑いを浮かべ合っていた。
「あら? お二人とも、すっかり仲良しになられたんですね!」
結衣が空いた皿を下げながら、嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり、美味しいご飯とお酒があれば、どんなお仕事の壁も乗り越えられますね!」
「「…………」」
吉村と勇は、再び揃って天井を仰ぎ、深いため息をついた。
その横で、源三がとうとう我慢しきれずに、吹き出しながら大声で笑い始めた。
「がはははは! 違えねえ! 結衣の言う通りだ! おい野郎ども、飲め飲め! 今夜の酒は格別に美味いぞォッ!!」
ガラガラガラッ!
正面の硝子戸が開き、仕事を終えた本田鉄工所の男たちや、近所の商店主たちが、夕涼みがてらに次々と暖簾をくぐって入ってきた。
「おっ、吉村の兄ちゃんに八百杉の若旦那! もうやってるのかい!」
「源さん、生ビール大ジョッキで頼むぜ!」
初夏の夜の帳が下りた初音銀座商店街。
キリシマ食堂のカウンターは、男たちの不器用な情熱と、食欲をそそる香ばしい匂い、そして溢れんばかりの笑い声に包まれながら、今夜も力強く、熱気あふれる夜の営業の幕を開けていた。




