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第21話:複式簿記の衝撃と、文具屋の眼鏡

盛夏の陽射しがアスファルトの未舗装路を白く焼き焦がす午後三時。

初音銀座商店街は、昼の掻き入れ時と夕暮れの買い物客が押し寄せる狭間の、もっとも静謐な気だるさに包まれていた。

路地を行き交う人の姿はまばらで、長屋の軒先に吊るされたよしずが風にカタカタと頼りなげな音を立てている。打ち水が蒸発する青臭い匂いと、どこかの工場から漏れ聞こえるコンプレッサーの単調な重低音が、初夏の熱気に油膜を張るように淀んでいた。

キリシマ食堂の昼営業を終え、仕込みと片付けを一段落させた桐島結衣は、薄手の木綿ブラウスの襟元を扇ぎながら、商店街の中ほどに建つ「寺岡堂」の引き戸に手をかけた。

手には、昨日の雨の日サービスで使い切った看板用のチョークの補充メモと、追加で注文したい経木や上質紙の覚書を挟んだ大学ノート。

チリンチリン――。

真鍮の澄んだベルの音が、店の奥へ涼やかな波紋を広げた。

店内に満ちているのは、キリシマ食堂のラードや醤油の匂いとは対極にある、古紙の乾いた香りと、万年筆のインクの沈んだ匂い、そして研ぎ澄まされた黒鉛の微細な匂いだった。

だが――。

「……寺岡さん?」

カウンターの奥へ視線を向けた結衣は、思わず足を止めた。

いつもなら、仕立ての良い開襟シャツに皺一つなくアイロンを当て、整髪料の匂いも清潔に、銀縁の丸眼鏡の奥から涼やかな微笑みを投げかけてくるはずの寺岡雅之が、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、帳場机の上に突っ伏していたのだ。


机の上は、普段の寺岡堂からは信じられないほどの惨状を呈していた。

黒革の表紙がついた重厚な和綴じの帳面が五、六冊、開かれたまま折り重なるように散乱している。そこへ、領収書の半券や、手書きの受取証、区役所の出張所から発行された道路補修に関する青焼きの通達書が、まるで吹き溜まりの落ち葉のように散らばっていた。

卓上には、何十回も削り直されて芯が丸くなった鉛筆が何本も転がり、消しゴムの削り滓が雪のように白く積もっている。

パチ……パチパチ……パチ……。

寺岡の右手だけが、まるで何かに憑りつかれた機械のように、黒塗りの五珠そろばんの玉を弾き続けていた。

だが、その指先は疲労の極致にあるのか、時折ピクピクと痙攣し、玉を払う音が空しく乾いた木霊を返している。

「……合わない。なぜだ……どこで消えた……」

掠れた、うわ言のような呟きが、寺岡の乾いた唇から漏れていた。

丸眼鏡は鼻先までずり落ち、その奥にある理知的な双眸は、毛細血管が激しく充血して赤く濁っている。目の下には墨汁を刷いたような濃い紫の隈が何重にも刻まれ、青白い頬はげっそりとこけていた。

「寺岡さん! 大丈夫ですか!?」

結衣が駆け寄ると、寺岡はビクッと過剰なまでに肩を震わせ、眼鏡を押し上げながら焦点の合わない目で結衣を見上げた。

「あ……桐島、さん……。いらっしゃい……。すみません、みっともないところを……」

立ち上がろうとした寺岡の膝がガクリと折れ、机の端を掴んで辛うじて体勢を支える。

その手の甲には、冷や汗がびっしりと浮いていた。

「寺岡さん、顔色が真っ青ですよ。何日寝ていないんですか?」

「……三日、いや、四日でしょうか」

寺岡は自嘲気味に口元を歪め、力なく頭を振った。

「商店街振興会の……上半期の決算なんです。……初音銀座の通りは、先の長雨で路面の砂利が流され、側溝の蓋もガタついて危険な状態になっています。区の土木課と掛け合って、共同で道路の補修工事を入れることが決まったのですが……そのための道路補修積立金と、各店舗から毎月集めている振興会費、街灯の維持費の計算が……どうしても、合わないのです」

寺岡は机の上の大福帳を、震える指先で叩いた。

「残高が……合わない。通帳の数字と、この帳簿の計算上の手元資金が……三千八百円、ズレているのです」


三千八百円。

昭和四十五年の金銭感覚において、大卒初任給がおよそ四万円の時代である。

三千八百円といえば、現代の感覚に直せば四万円から五万円近くに相当する大金だった。個人商店にとっては、一ヶ月の水道光熱費や、家族数人分の食費が丸ごと吹き飛ぶほどの重みがある。

「三千八百円の……使途不明金ですか」

「ええ……」

寺岡の声が、恐怖に震えた。

「振興会の理事会は、明後日の夜です。そこで私が決算報告書を出し、各店舗の店主たちに通帳を見せなければならない。……もし、三千八百円のズレを説明できなければ、どうなるか。やぶ忠の親父さんや、宝来軒の金造さんたち古参の役員は、間違いなく私を疑うでしょう。『寺岡堂の若旦那が、商店街の積立金を着服した』『インテリ気取りの文具屋が、街の金をネコババした』と……!」

寺岡の喉が、引き攣るように鳴った。

「私は……父の代からこの初音銀座で商売を継ぎ、誰よりも帳簿に誇りを持って生きてきました。街の金を一銭たりとも私腹を肥やすために使ったことなど、天地神明に誓って一度もありません! なのに……何度そろばんを弾き直しても、帳面の数字と合わない。金が、煙のように消えてしまっているのです……!」

寺岡は両手で頭を抱え、帳面の上に突っ伏した。

細い背中が、絶望とプレッシャーで小刻みに震えている。

下町の閉鎖的な共同体において、「金の使い込み」という疑惑を一度でもかけられれば、その商店は二度と商売を続けていくことはできない。どれだけ潔白を主張しようと、数字の辻褄が合わないという客観的事実がある限り、陰口と疑心暗鬼の刃が寺岡の尊厳をズタズタに切り裂いてしまうのだ。


(寺岡さんが……こんなに追い詰められるなんて……)

結衣は胸を痛めながら、机の上に散乱する帳面へと視線を落とした。

開かれていたのは、昔ながらの「大福帳」――すなわち、単式簿記だった。


七月三日 八百杉ヨリ振興会費受取 五百円

七月五日 街灯電球代支払ヒ 三百二十円

七月八日 やぶ忠ヨリ補修積立金受取 一千円

七月十日 区役所道路課交通費 百五十円

……。


几帳面な寺岡の筆跡で、日付と相手先、そして入ってきた金と出ていった金が、上から下へと時系列に沿って一行ずつ几帳面に書き連ねられている。

それを見て、結衣は根本的な原因を一瞬で悟った。

(……単式簿記(お小遣い帳)の限界だわ)

単式簿記は、現金の出入りを記録するのには適している。しかし、取引が複雑になり、「ツケ払い(売掛・買掛)」や「前払い」「預かり金」「別口座への積立」が入り乱れた瞬間、現金の動きと契約の動きが分離し、どこで数字が狂ったのかを追跡することが完全に不可能になるのだ。

寺岡の計算ミスではない。

寺岡が使っている「仕組みそのもの」が、昭和四十五年の近代化しつつある商業取引のスピードと複雑さに、すでについていけなくなっていたのだ。


「……寺岡さん」

結衣は静かに、けれど迷いのない声で呼びかけた。

寺岡が力なく顔を上げる。

「寺岡さん、そのそろばんを一度置いてください。冷たいお茶を飲んで、深呼吸をしましょう」

「で、ですが桐島さん、理事会までもう時間が……」

「大丈夫です」

結衣は寺岡の前に回り込み、散乱していた帳面を丁寧に揃えて端へと除けた。

そして、机の上のペン立てから、削り立ての鉛筆を一本抜き取ると、寺岡堂の棚から大判の五ミリ方眼紙を一枚引き抜いた。

「寺岡さん。あなたが使い込みなんてしていないこと、私は百パーセント信じています。お金は消えていません。必ず、この帳簿のどこかに隠れています」

「隠れている……?」

「はい。原因は、寺岡さんの計算力じゃありません。この『大福帳』という記録の構造そのものに穴があるんです」

結衣は方眼紙を机の中央に広げ、鉛筆を力強く構えた。

「寺岡さん。……令和……いえ、欧米の大企業や近代銀行がすべて採用している、絶対に計算の狂いが出ない究極の記録法――『複式簿記』を、今からお見せします」


「……ふくしき、ぼき……?」

寺岡の眼鏡の奥の瞳が、微かに揺れた。

商業学校や経済の専門書で、その名前くらいは目にしたことがあった。だが、下町の個人商店街の帳簿といえば、江戸時代から続く単式簿記の大福帳が当たり前。二重に記帳するなど手間がかかるだけで無駄だと、商店街の誰もが気にも留めていなかった異国の技術。

「いいですか、寺岡さん。よく見ていてください」

結衣は方眼紙の中央に、大きくアルファベットの『T』の字を三つ並べて描いた。

元・ウェブディレクターであり、クライアントの事業計画書や財務諸表を日常的に読み解いてきた結衣の筆致には、一切の迷いがなかった。


「単式簿記は、現金を一つの箱として見て、『入った』『出た』という結果だけを一本の線で記録します。だから、なぜ増えたのか、その結果として財産や借金がどう変化したのかという『原因と結果の二面性』が見えなくなるんです」

結衣はT字の左側と右側を鉛筆で指し示した。

「複式簿記の鉄則は、すべての取引を『左(借方・かりかた)』と『右(貸方・かしかた)』の二つの側面に同時に記録することです。左には『手に入れた価値(資産の増加・費用の発生)』を書き、右には『その価値をもたらした原因(負債の増加・収益の発生・現金の減少)』を書きます」

「……左と、右……」

寺岡の身体が、引き寄せられるように前へと傾いた。

「例えば、寺岡さんが八百杉さんから振興会費五百円を現金で受け取ったとします」

結衣は一つ目のT字勘定――『現金』の左側に【五百円】と書き込んだ。

「左側で、手元の『現金(資産)』が五百円増えました。そして同時に、二つ目のT字勘定――『会費収入(収益)』の右側に、【五百円】と書き込みます」

「……なぜ、二箇所に書くのですか?」

「現金という『結果』が増えたのと同時に、会費収入という『原因』が発生したからです。この二つの数字は、必ず左右で同額になります。これを『貸借平均の原理』と呼びます」

結衣は方眼紙をトントンと叩いた。

「どんなに何千件、何万件の複雑な取引があろうと、すべての取引をこの左右のペアで記録し続ければ……最終的に、左側の合計と右側の合計は、一円の狂いもなく絶対に【一致】するんです。もし一円でもズレがあれば、その瞬間に『どこかの仕訳が間違っている』ことが機械的に暴き出されます。人間の勘や記憶に頼る必要が、最初からゼロになるんです!」


「…………!」

寺岡雅之の呼吸が、完全に停止した。

ずり落ちていた眼鏡の奥で、知性の光がカッと青白くスパークしたのを、結衣は見逃さなかった。

インテリとして、独学で近代経済を学ぼうとしていた寺岡の脳細胞に、結衣の言葉が雷撃のように突き刺さっていた。

「左と右……原因と結果……貸借の……一致……!」

寺岡の指先が、震えながら方眼紙のT字勘定をなぞった。

「美しい……。なんて、合理的で、無駄のない論理構造なんだ……! 単に現金の残高を追うのではなく、財産の『状態(バランスシート・貸借対照表)』と、期間の『活動(プロフィット&ロス・損益計算書)』を、一つのシステムの中で完全に連動させているのか……!」

「その通りです!」

結衣は微笑み、寺岡に新しい鉛筆を手渡した。

「寺岡さん。あなたの頭脳なら、このロジックはもう完全に理解できたはずです。……過去三ヶ月分の大福帳の取引を、すべてこの『借方』と『貸方』に解体して、方眼紙の上に再構築(リビルド)しましょう。消えた三千八百円の亡霊を、白日の下に引きずり出すんです!」

「……はい!」

寺岡の顔から、先ほどまでの怯えと絶望が消え去っていた。

代わりに宿っていたのは、知的な難問に立ち向かう学者のような、研ぎ澄まされた闘志だった。

「やりましょう、桐島さん! 私の誇りを取り戻すために!」


◆


静寂に包まれた寺岡堂の奥部屋で、二人の「数字の戦争」が始まった。

外はすでに夕暮れを迎え、商店街からは晩飯の支度をする買い出し客のざわめきが聞こえ始めていたが、二人は電灯の笠の下、一心不乱に手を動かし続けた。

「四月一日から始めます!」

結衣が過去の領収書の半券を読み上げる。

「四月五日、初音神社祭礼の寄付金、現金出金三千円!」

「仕訳します!」

寺岡の万年筆が、方眼紙の上を疾走する。

『(借方)寄付金費用 三千円 / (貸方)現金 三千円』

「四月十二日、街灯の蛍光灯交換、寺岡堂より納品、未払い代金八百円!」

『(借方)修繕維持費 八百円 / (貸方)未払金 八百円』

「四月十五日、八百杉、やぶ忠、宝来軒より振興会費、各五百円、計一千五百円現金回収!」

『(借方)現金 一千五百円 / (貸方)会費収入 一千五百円』


寺岡の順応速度は、結衣の想像を遥かに超えていた。

概念さえ理解してしまえば、元々持っていた几帳面な性格と、商店街のすべての店舗の人間関係を熟知している情報量が、恐るべき処理能力となって発揮される。

領収書が切られた日付、実際に金が動いた日付、そして口約束でツケにされていた取引が、結衣の引いた複式簿記のフォーマットの上に、整然としたブロックのように組み上げられていく。

単式簿記という泥水の中で見えなくなっていた取引の全貌が、澄み切った水槽の中を泳ぐ魚のように、立体的な輪郭を持って浮かび上がってくる。


一時間。

二時間。

時計の針が午後七時を回り、表の通りが夜の帳に包まれた頃。

「……桐島さん」

寺岡の手が、ピタリと止まった。

六月の取引のページをめくっていた寺岡の万年筆の先が、ある二枚の書類の上で静止していた。

「……ありました」

寺岡の声が、かすかに震えていた。

「これです……! 見つけましたよ、桐島さん!」

「どこですか!?」

結衣が身を乗り出す。

寺岡が指差したのは、六月十四日付の、二枚の小さな紙片だった。

一枚は、区役所の道路補修課に提出された、事前調査費用の領収書の控え。

金額は、二千円。

そしてもう一枚は、その三日後に、工事を担当する地元の土木業者へ支払われた、現地測量手付金の受取証。

金額は、二千円。

「この二千円……」

寺岡は眼鏡を外し、目頭を強く押さえながら息を吐き出した。

「同一の取引です……! 区役所に調査費用を払った際、土木業者が立て替えて領収書を持ってきたのですが……私は大福帳に、土木業者への支払いとして二千円を出金計上した上で、三日後に役所から届いた領収書の控えを見て、無意識のうちにもう一度『調査費出金二千円』と二重に書き込んでしまっていた……!」

「二重計上(ダブル・エントリーのミス)……!」

結衣は目を見開いた。

現金は一度しか動いていないのに、帳簿の上では二回金が出ていったことになっていた。

これだけで、帳簿上の現金残高が、実際の手元資金より二千円少なくなる。

「そして、残りの千八百円は……ここです」

寺岡は五月のページを指差した。

そこには、やぶ忠の主人・忠吉の名前があった。

「蕎麦屋のやぶ忠さんです。忠吉さんは五月、店舗の改修で手元不如意だからと、振興会費三ヶ月分――千五百円と、前年度の街灯修繕の割り当て分三百円、合わせて千八百円の支払いを『来月まで待ってくれ』とツケにされていたのです。……私はそれを大福帳の端に『やぶ忠ツケ』とメモしていたのですが、翌月、忠吉さんが千八百円を持ってこられた際、入金欄に書くのを失念したまま、手元の金庫に現金を放り込んでしまっていた……!」

「未収金の回収漏れ……!」

「そうです!」

寺岡は震える手で、方眼紙の上に修正仕訳を書き入れた。

二千円の二重計上の取り消し。

千八百円の未収金回収の正規計上。

二千円足す、千八百円。

合計――三千八百円。


「……計算します」

寺岡は黒塗りのそろばんを引き寄せた。

先ほどまでの迷いや震えは、完全に消え去っていた。

ご破算で願いましては――。

ジャッ、と澄んだ木片の音が響く。

パチパチパチパチ、パチ、パチパチ……!

寺岡の指先が、まるで熟練の楽器奏者のように滑らかにそろばんの上を踊った。

借方合計、七万四千二百円。

そして、貸方合計――。

パチッ!

最後の一珠が、弾かれた。

「……七万四千、二百円」

寺岡の口から、掠れた声が漏れた。

借方と、貸方。

左右の数字が、一円の狂いもなく、完璧に一致していた。

手元の通帳に記された預金残高と、金庫の中にある硬貨と紙幣の総額が、方眼紙の最下段の数字と、寸分の隙もなく完全に重なり合った瞬間だった。


「…………っ」

そろばんの枠を握りしめたまま、寺岡の身体が微動だにしなくなった。

静まり返る寺岡堂の奥部屋。

壁の振り子時計が、コチ、コチと穏やかなリズムを刻んでいる。

寺岡の銀縁眼鏡の奥から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、方眼紙のマス目へと落ちていった。

「……合った」

寺岡は両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせて泣いた。

「数字が……合った……! 一銭も、消えていなかった……! 私は……私は、誰も裏切っていなかった……!」

何日間も、寺岡を苛み続けていた悪夢。

使い込みを疑われ、街から追放される恐怖。

父から受け継いだ信用を失墜させる絶望。

そのすべての重圧が、論理の光によって一瞬にして蒸発し、青年の心を解き放っていた。

結衣は何も言わず、卓上にあった清潔な手ぬぐいを、そっと寺岡の手元へ差し出した。

「……お疲れ様でした、寺岡さん」

結衣の温かい声。

寺岡は手ぬぐいで何度も涙を拭い、眼鏡をかけ直すと、ゆっくりと顔を上げた。


◆


そこにあったのは、もはや憔悴した敗残者の顔ではなかった。

知性と誇りを取り戻し、さらには未知の強大な力を手に入れた、一人の若き革命家の顔だった。

寺岡は方眼紙の美しい仕訳の列を、愛おしそうに撫でた。

「……信じられない」

寺岡の口から、深い感嘆の息が漏れた。

「こんなものが……こんな完璧な論理の体系が、この世に存在していたなんて。……単式簿記が『過去の足跡を記録する日記』だとすれば、この複式簿記は……『現在と未来を同時に見通す羅針盤』だ。これさえあれば、どれほど事業が巨大化しようと、どれほど取引が複雑になろうと、一円の不正も、一円の誤差も生じる余地がない……!」

寺岡の視線が、ゆっくりと結衣へと向けられた。

その瞳の奥には、先ほどまでの感謝を超えた、底知れない「畏怖」と「疑念」が宿っていた。

「桐島さん」

寺岡の声は、低く、真剣だった。

「……あなたはいったい、何者なのですか?」

「え……?」

「誤魔化さないでください」

寺岡は身を乗り出し、結衣の瞳を逃さずに見据えた。

「この複式簿記のシステム……日本でも、明治以降に福澤諭吉らが導入し、大蔵省や日本銀行、三井や三菱といった一握りの巨大財閥の主計部だけが極秘裏に運用してきた、極めて高度な経営技術です。一般の商業学校を出た程度の人間が扱える代物ではない。ましてや……」

寺岡は方眼紙の仕訳を指差した。

「あなたの教え方は、あまりにも洗練され、あまりにも実践的でした。まるで、この仕組みを何年も、何十年も使い倒し、その先にあるコンピュータや情報処理の概念すら知っているかのような……血肉の通った教え方だった。……大手銀行のベテラン主計係を連れてきたって、これほど明快に、これほど短時間で大福帳を近代会計へと再構築できる人間など、この日本中を探しても一人もいませんよ」

鋭い。

下町のインテリの洞察力は、結衣の想像を遥かに超えて核心へと肉薄していた。

空気が、再びピリリと張り詰める。

ここで「私は五十年後の未来からタイムスリップしてきた元・社畜デザイナーです」と真実を告げれば、間違いなく発狂したと思われるか、あるいは警察に通報されるだろう。

結衣はふっと息を抜き、少しだけ困ったように眉尻を下げて苦笑した。


「……前の職場で、鍛えられただけですよ」

「前の職場……?」

「はい。とても……とても厳しくて、冷徹な会社でした」

結衣は自分の右手の平を見つめた。

かつてマウスを握りしめ、キーボードを叩き潰すようにして数字と格闘していた日々。

「数字がすべてでした。一円の狂いも、一パーセントの効率の低下も許されない。結果を出さなければ人間として扱われないような……そんな場所で、生き残るために必死で覚えた知恵です。……特別な魔法なんかじゃありません。ただ、生きるために身につけた、泥臭い武器ですよ」

「…………」

結衣の瞳の奥に宿る、深い哀愁と、過酷な試練をくぐり抜けてきた者だけが持つ強靭なリアリズム。

寺岡はその横顔をじっと見つめ、やがて、深く息を吐き出して目を細めた。

「……なるほど。深く詮索するのは、野暮というものですね」

寺岡は立ち上がり、机の前の結衣に向かって、直立不動の姿勢を取った。

そして――深々と、腰を九十度に折って最敬礼をした。

「桐島結衣さん。……あなたに、心からの感謝と、最大の敬意を捧げます。あなたは私の命と、寺岡堂の誇りを救ってくださった」

「寺岡さん、頭を上げてください……!」

「いいえ、礼を言わせてください」

寺岡は顔を上げた。

その眼鏡の奥の瞳には、かつてないほど熱く、揺るぎない光が灯っていた。

「私は決意しました。この初音銀座商店街振興会の会計を、今年度からすべて、あなたの教えてくださった複式簿記へと移行させます。そして……」

寺岡は一歩、結衣へと歩み寄った。

「あなたがこれから、この商店街で何を仕掛けようとしているのか……私にはまだ、その全貌は見えません。ですが、確信しています。あなたが描く未来は、この街の古びた因習を打ち破り、本物の豊かさをもたらす光だということを。……私は、あなたを信じます。寺岡雅之の持つすべての知識と、帳簿と、商店街振興会における発言権を、あなたのために捧げましょう」


差し出された、寺岡の右手。

文具屋の若旦那としての、インテリの誇りと覚悟が宿る手。

結衣はその手を、両手でしっかりと握り返した。

「ありがとうございます、寺岡さん。……心強いです。私の方こそ、寺岡さんの知恵がなければ、何もできませんから」

二人の手が、固く結ばれた。

力づくの男気で支えてくれる八百杉の勇。

寡黙な職人の技で守ってくれる源三。

そして――冷徹な論理と数字の力で、組織の裏側を支えてくれる最高の頭脳、寺岡雅之。

結衣の陣営に、盤石にして最強の「知的同盟者」が加わった瞬間だった。


◆


午後八時半。

寺岡堂を出た結衣は、夜風に吹かれながらキリシマ食堂へと戻る路地を歩いていた。

昼間の猛烈な熱気は嘘のように引き、湿り気を含んだ川風が、火照った頬を心地よく撫でていく。

見上げると、密集したトタン屋根の隙間から、満天の星が瞬いていた。

令和の東京では、ネオンの光に掻き消されて決して見ることのできなかった、力強く、どこまでも澄み渡った星空。

「……ふふっ」

結衣は思わず小さく吹き出した。

ポケットの中には、寺岡が「お礼です」と言って持たせてくれた、真新しいセーラー万年筆と、最高級の原稿用紙の束。

数字は残酷だ。

けれど、数字は絶対に裏切らない。

正しい使い方さえすれば、人の命を救い、街の絆を強く結び直すための、最強の盾になる。

令和で培った自分の技術が、また一つ、この昭和四十五年の世界で誰かを救ったのだという確かな手応えが、結衣の胸を満たしていた。


キリシマ食堂の勝手口の板戸を開けると、中から食欲をそそる香ばしいラードの匂いと、源三の太い声が飛んできた。

「おい、結衣! 遅かったじゃねえか! 賄いのポークソテーが冷めちまうぞ!」

「今戻りました、源さん! すぐ手伝います!」

結衣はエプロンを翻し、温かな橙色の光が満ちる厨房へと駆け込んだ。


だが――。

結衣の改革が商店街の奥深くまで浸透し、その存在感を増せば増すほど、彼女を巡る「男たちの感情の火花」もまた、静かに、しかし確実にその熱量を高め合っていた。

翌日の夕暮れ。

キリシマ食堂のカウンターを舞台に、商社マン・吉村健一と、八百屋の若旦那・杉本勇という、対照的な二人の男による、前代未聞の不器用な激突が幕を開けようとしていた。

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複式簿記、日商簿記検定(日本商工会議所及び各地商工会議所主催簿記検定試験)は1954年から、全商簿記検定(全国商業高等学校協会主催 簿記実務検定試験)は1956年からやってるのにそんなに珍しいものみた…
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