第20話:水たまりに咲くコロッケの温もり
ザァァァァァ……と、まるで天の底が抜けたかのような激しい雨音が、初音銀座商店街を隙間なく覆い尽くしていた。
七月も半ばを過ぎたというのに、季節外れの停滞前線がもたらした長雨は、昨日から丸一日以上、一度として勢いを緩めることなく東京の下町を打ち据え続けている。
トタン屋根の継ぎ目からは、まるで滝のように濁った雨水が雨樋を溢れて路地へと叩きつけられ、バシャバシャとけたたましい飛沫を上げていた。
昭和四十五年の下町は、大通りを一歩外れれば、ほとんどの路地がまだアスファルトで舗装されていない。普段はからからに乾いて土埃を巻き上げていた砂利道は、いまや完全に底なしの泥濘と化していた。ところどころに洗面器ほどもある深い水たまりが口を開け、泥水が茶色く渦を巻いている。
歩くだけで、長靴の踵まで重い泥がへばりつき、跳ね返った泥水がズボンの裾を容赦なく茶色く染め上げる。
傘を差していても、吹き付ける横殴りの風に煽られれば、膝から下はずぶ濡れになるのは避けられない。
そんな悪条件の中、表の通りを歩く人の姿は、文字通り完全に途絶えていた。
向かいの八百杉は、泥はねを防ぐために店先に青いビニールシートを深く垂れ下げ、薄暗い電灯の下で野菜の木箱が寂しげに積まれているだけ。純喫茶カトレアも、ガラス戸が白い水滴でびっしりと曇り、客の出入りの気配はまるで見当たらない。
街全体が、灰色の雨煙の中に沈み込み、息を殺して耐え忍んでいるかのようだった。
ガラガラ……と、キリシマ食堂の正面引き戸が微かに風に揺れる。
店内は、昼時だというのに、凍りついたような静寂に包まれていた。
チク、タク、チク、タク……。
壁に掛けられた古びた柱時計の振り子の音だけが、やけに重々しく店内に響き渡っている。
時計の長針が天辺を指し、ボーン、と正午を告げる鈍い鐘が一度鳴り響いた。
客席の丸椅子二十一脚。
そのすべてが、ぽっかりと空っぽのままだった。
「……ハァーァ」
カウンターの奥から、深く、重い溜息が吐き出された。
大山源三が、調理服の腕をまくったまま丸椅子に腰を下ろし、手元の灰皿に煙草の吸い殻を押し潰していた。すでに灰皿の中には、三本もの短い吸い殻が山を作っている。
「ダメだこりゃ。正午を回って客がゼロなんてな、先月結衣が来てから一度もなかったことだぜ」
源三はマッチを擦り、四本目の煙草に火をつけた。
紫色の煙が、湿気で重くなった厨房の空気に漂い、換気扇の吸い込み口へも行かずに淀んでいる。
「下町の雨ってのはな、商売人にとっちゃ天災と同じなんだよ。道はドロドロ、傘を差しゃ骨が折れそうになる。わざわざ長靴履いて泥水跳ね上げながら、洋食屋まで飯を食いに来る物好きなんざ、この街にゃ一人もいねえよ。……やぶ忠の親父も、宝来軒の金造も、今頃店の奥で昼寝でもこいてやがるさ」
源三は煙を細く吐き出し、諦めきった顔で肩をすくめた。
「仕込みは最小限にして正解だったな。飯も二升しか炊いてねえ。……結衣、暖簾をしまっちまうか。雨の日は寝て待つしかねえんだ。足掻いたって、空から降る雨を止めることはできねえんだからよ」
「……待ってください、源さん」
客席の隅、ノートを広げてそろばんを横に置いていた桐島結衣が、すっと顔を上げた。
その瞳には、源三のような諦念の色は微塵もなかった。
むしろ、獲物を見定めた狩人のような、鋭く澄み切った光が宿っている。
「まだ正午を五分回ったばかりです。暖簾を下ろすなんて、早すぎます」
「早すぎたって、現に誰も歩いちゃいねえだろうが。見ろよ、あの通りを」
源三が顎で硝子戸を指差した。
水滴で濡れたガラスの向こう、初音銀座の通りには、傘をすぼめて小走りに走り去る郵便配達員が一人きり。それ以外には、猫の子一匹通らない。
「誰も来ねえところに店を開けてたって、電気代とガス代が垂れ流しになるだけだ。雨の日は売上が落ちる。これは江戸の昔から決まってんだよ」
「雨の日に売上が落ちるのは、自然現象じゃありません」
結衣は立ち上がり、エプロンの紐をきゅっと締め直した。
「お店側が、『雨だから客が来ないのは仕方がない』と諦めて、何の手も打たないからです」
「あァ……?」
源三が怪訝そうに眉を跳ね上げた。
「源さん。お客さんが雨の日に外食をためらう理由は、とてもシンプルです」
結衣は厨房の仕込み台へ歩み寄り、指を一本立てた。
「第一に、『濡れるのが不快』『足元が汚れるのが嫌』という心理的・物理的な抵抗。第二に、『わざわざ雨の中を出歩くほどの強い動機がない』ということです」
「ふりくしょん? いんせん……また訳のわからねえ横文字か」
「要するに、天秤なんです」
結衣は両手を左右に広げ、天秤の仕草を作ってみせた。
「左のお皿には、『雨の中を歩く面倒くささ』が乗っています。右のお皿には、『キリシマ食堂でご飯を食べる楽しみ』が乗っています。天気のいい日は、右のお皿が圧倒的に重いから、お客さんは行列を作ってでも来てくれます。でも、これだけの大雨になると、左のお皿の『面倒くささ』が一気に跳ね上がって、右のお皿を持ち上げてしまうんです」
「……そりゃそうだろ。濡れてまで飯食いたい奴なんざ滅多にいねえ」
「だったら、右のお皿に、その面倒くささを力づくで叩き落とすだけの『強烈なオマケ(付加価値)』を乗せてあげればいいんです」
「オマケだと?」
「そうです」
結衣の脳裏には、令和の時代に無数の飲食店やデリバリー、WEBサービスが実践していた鉄板の販促手法が鮮やかに浮かんでいた。
雨の日限定ポイント二倍。
雨の日クーポン、トッピング無料。
天候不順という不可抗力のマイナスを、あえて「今日だけしか得られない特別感」へと反転させ、顧客の重い腰を上げさせる仕掛け。
「令和……じゃなくて、未来の繁盛店ではね、雨の日はピンチじゃないんです。普段来ないお客さんを呼び込み、常連さんの心をガッチリ掴むための、最大の『ボーナスチャンス』なんですよ!」
「ボーナスだァ……? 調子のいいこと言ってんじゃねえぞ」
源三は鼻を鳴らしたが、その目からは完全に疑いが消え去ってはいなかった。先日の厨房動線の改革、開花オムライスの大ヒット、そして規格外野菜のポタージュスープ。この小娘の口から出る「奇妙な理屈」が、ことごとく現実の数字となって奇跡を起こしてきたことを、老職人は骨の髄まで知っていたからだ。
「……で、そのオマケってのは何なんだよ。まさか、オムライスを百円に値引きしろなんて言わねえだろうな? 薄利多売に逆戻りするのは御免だぞ」
「値引きなんて絶対にしません。価格を下げるのは三流の手です」
結衣は厨房の保冷箱(氷室)の前へと進み、木蓋をバッと開けた。
「源さん。昨日の仕込みの残りと、八百杉さんから引き取った野菜……何が残っていますか?」
「あ? ……昨日の夜食弁当で使った、男爵イモが蒸かした状態で三キロ。それから、ハンバーグのタネを仕込んだ時に余った、豚と牛の合挽き肉が四百グラムほどあるが……それがどうした」
「十分です!」
結衣はパンと手を叩いた。
「男爵イモと、挽き肉、そして八百杉さんの玉ねぎ。……これで、最高に美味しくて、香ばしくて、子供からお年寄りまで誰もが大好きな『あれ』を作ります」
「……あれ?」
「――自家製の、揚げたて熱々『一口メンチコロッケ』です!」
「コロッケ……?」
源三が目を丸くした。
「コロッケなんざ、向かいの肉屋の店先で一個十円で売ってる、ただの惣菜じゃねえか。そんなもんがオマケになるのかよ」
「肉屋の冷めたコロッケと一緒にしないでください」
結衣は腕まくりをして、ボウルを取り出した。
「私たちが作るのは、浅草の老舗洋食の技を詰め込んだ、揚げたてサクサク、割った瞬間に肉汁とスパイスの香りが弾け飛ぶ、本物の洋食屋のコロッケです! しかも、一口サイズで丸く可愛らしく成形します。……原価を計算してください。イモと少しの挽き肉と玉ねぎ、パン粉。一個あたりの食材原価は、わずか五円未満です!」
「五円……!?」
「そうです! 五円のコストで、お客さんの『雨の日の憂鬱』を吹き飛ばすんです! 源さん、すぐにイモを潰してタネを作ってください! 私は表の仕掛けをしてきます!」
◆
結衣の号令に、源三の職人魂が点火した。
「チッ……人使いの荒い小娘だぜ!」
文句を言いながらも、源三の動きには一切の淀みがなかった。
蒸かし立ての男爵イモを熱いうちに木べらで粗く潰す。滑らかにしすぎず、あえて小さな塊を残すことで、食べた時のホクホクとした食感のグラデーションを生み出すのが源三のこだわりだ。
隣のフライパンでは、微塵切りにした玉ねぎと合挽き肉が、自家製ラードで強火で炒められていた。
ジュワアアアッ!
肉の表面が香ばしく焼き色を帯び、玉ねぎが透き通った飴色に変わる。
そこへ、源三が長年の勘で調合したスパイス――塩、白胡椒、そして洋食屋の命であるナツメグが一振り投入された。
フワッと立ち上る、肉の甘みを引き立てるエキゾチックで温かみのある芳香。
炒め上がった具材を、潰した男爵イモのボウルへと一気に放り込む。
木べらで手早く切り混ぜると、イモの湯気とともに、肉汁とラードの旨味がイモのデンプン質の中へとぐんぐんと吸い込まれていった。
「結衣! タネができたぞ!」
「はい! 一口サイズに丸めます!」
結衣は両手に薄く打ち粉をし、卓球のピンポン球ほどの大きさに手際よくタネを丸めていった。
大きすぎると火が通るのに時間がかかり、重たくなってしまう。
小さすぎると満足感が薄れる。
直径約四センチ。女性や子供の口にもすっぽり収まり、カリッとした衣の面積を最大限に味わえる黄金比のサイズ。
小麦粉をまぶし、溶き卵にくぐらせ、寺岡堂経由で仕入れている細引きの生パン粉をふわりとまとわせる。
わずか十五分で、五十個もの可愛らしい白い球体が、ステンレストレーの上に整然と並べられた。
「油に火を入れろ、源さん! 大豆油七割、ラード三割のブレンド油です!」
「おうよ!」
カチリ、ボッ!
揚げ鍋の底から青いガス火が立ち上り、澄んだ油の海が急速に熱を帯びていく。
温度計など使わない。源三はパン粉を一粒、油の表面に落とした。
パン粉が中ほどまで沈み、一瞬でパチパチと音を立てて表面に浮き上がってくる。百八十度。完璧な中高温。
「行くぞ!」
源三の太い指先から、成形されたコロッケが五個、六個と油の中へ滑り込んだ。
シュワワワワワワッ――!!
激しい雨音を真っ向から切り裂くように、耳朶を心地よく打つ、澄んだ揚げ油の音が厨房を満たした。
それと同時に――。
猛烈な勢いで立ち上ったのは、暴力的なまでに食欲を刺激する「匂い」だった。
ラードの香ばしい動物性の脂の香りと、揚げられた生パン粉のトーストのような甘い香り。
さらに、換気扇のファンがフル回転し、その濃厚な芳香が、ダクトを通じて雨煙の立ち込める初音銀座の通りへと、津波のように押し流されていった。
外の冷たく湿った雨の空気に、熱々の油とジャガイモの匂いが激しく混ざり合う。
通り全体に、まるで奇跡のような「美味いものの気配」が満ちていく。
「よし、揚がったぞ!」
源三が網杓子でコロッケを一気にすくい上げた。
パチパチ、パチパチと油が切れる小気味よい音。
油から引き上げられたコロッケは、ムラのない完璧な濃いきつね色の衣をまとい、雨の薄暗い店内の中で、まるで小さな黄金の玉のように眩く輝いていた。
◆
「源さん、揚げ続けてください! 匂いを絶対に途切れさせちゃダメです!」
「おい、まだ客は一人も入ってねえんだぞ!?」
「今から呼びます!」
結衣は店内の物置から、一本の巨大な和傘を引っ張り出してきた。
鮮やかな黄色い油紙が張られた、番傘だ。雨の薄暗い下町の路地にあって、その鮮烈な黄色は、遠くからでも一目で視界に飛び込んでくる。
結衣はその傘を大きく開き、キリシマ食堂の軒先、道路ギリギリの場所にしっかりと固定した。
そして――傘の柄に、あらかじめ太字の黒チョークで書き上げておいた、特製の木枠看板を結びつけた。
『足元の悪い中、本当にありがとうございます!
本日、雨の日限定特別サービス!
お食事をご注文の方全員に――
洋食屋の揚げたて熱々【自家製一口メンチコロッケ】を、
お一人様おひとつ、無料でプレゼント!
――冷えた身体を、温めていってください。キリシマ食堂』
「よし……! 次は、下町のネットワーク(クチコミ)の発動よ!」
結衣は透明なビニール傘を開くと、長靴を履いて、泥濘の路地へと躊躇なく飛び出した。
バシャリと泥水が跳ねるのも構わず、向かいの八百杉へと小走りで駆け込む。
「トミさーーん!」
ビニールシートを跳ね上げて土間に飛び込むと、奥の帳場でぼんやりと長火鉢の灰をならしていたトミが、驚いて顔を上げた。
「あんらあ、結衣ちゃん!? こんな大雨の中に飛び出してきて、どうしたんだい!?」
「トミさん、これ! 食べてみてください!」
結衣は持参した清潔な経木を開いた。
中には、揚げたてでまだ湯気をもうもうと噴き上げている、二つの黄金色のコロッケ。
「え……? コロッケ……?」
「源さんが揚げたばかりの、特製一口メンチコロッケです。冷めないうちに、早く!」
トミは戸惑いながらも、指先で熱々のコロッケを摘み上げた。
フーフーと息を吹きかけ、一口かじる。
サクッ!
静かな店内に、驚くほど軽快な衣の音が響いた。
「っ…………!?」
トミの目が、真ん丸に見開かれた。
「な……何だいこれぇぇぇっ!?」
トミの口から、叫び声が上がった。
「サックサクじゃないかい! 衣が軽くて、油っぽさが全然ないよ! それに……このイモの甘み! 肉の旨味と玉ねぎがジュワッと溢れてきて……ナツメグのいい匂いが鼻に抜けて……! ちょっと、結衣ちゃん、これ本当にうちの男爵イモかい!?」
「そうです! トミさんのところの美味しいジャガイモです!」
結衣は身を乗り出した。
「トミさん。今日、キリシマ食堂でお食事してくださったお客さん全員に、このコロッケを一個無料でプレゼントすることにしました!」
「無料で!? こんな美味いものをかい!?」
「はい! 雨の中を歩いてきてくれたお客さんに、少しでも温まってほしいからです。……トミさん、お願いがあります。この長雨で、長屋の奥さんたちも買い出しに出られなくて困っていますよね?」
「ああ、そりゃそうさ。うちだって野菜が売れなくて困り果ててたところだよ」
「お向かいのキリシマ食堂で、温かいご飯と揚げたてのコロッケが待ってるって……トミさんの大きな声で、長屋の皆さんに教えてあげてくれませんか!?」
トミの顔に、カッと下町の女将の血が巡った。
トミは残りの半分を一気に口に放り込み、ゴクンと飲み干すと、バンと自らのエプロンを叩いて立ち上がった。
「任せときな、結衣ちゃん!! アタシの声を誰だと思ってんだい! 初音銀座の情報網を舐めんじゃないよ!」
トミは店先のビニールシートを力任せに跳ね上げると、雨の中に向かって、雷鳴のような大音声を張り上げた。
「――おーい! 長屋の奥さんたちァいるかいッ!!」
商店街のトタン屋根をビリビリと震わせる、トミのメガホンボイス。
「キリシマ食堂の源さんがね、今朝揚がったばかりの特製コロッケを、タダで振る舞ってくれるってよ!! サクサクでホクホクで、死ぬほど美味いよ! 昼飯の支度が面倒なら、長靴履いてキリシマへ走りな!! どうせ濡れるなら、美味いコロッケ食って身体を温めちまいなよォッ!!」
その声は、雨音にかき消されるどころか、長屋の路地裏の隅々まで、まるで号砲のように響き渡った。
◆
変化は、劇的だった。
ガラガラッ、と長屋の格子戸が次々と開き、傘を差した割烹着姿の主婦たちが顔を覗かせた。
「ちょっと、トミさん! 本当かい、コロッケがタダって!?」
「源さんの店の洋食なんて、高くて普段は入れないと思ってたけど……本当におまけが付くのかしら?」
「ほら、見てみろよ! キリシマの前に黄色い傘が出てるぞ!」
主婦たちの視線が、キリシマ食堂の店先へと注がれた。
薄暗い灰色の雨煙の中に、鮮やかに浮かび上がる巨大な黄色い番傘。
そして――換気扇から容赦なく通りへ吐き出されている、ラードと揚げたてジャガイモの暴力的なまでの芳香。
雨の冷気で冷え切っていた鼻腔に、その匂いがダイレクトに突き刺さる。
「うわっ……すごい良い匂い……!」
「お父さん、今日はお昼ご飯作るのやめて、キリシマ食堂に行きましょうよ!」
「ああ、俺も今、あの匂い嗅いだら腹が減ってたまらなくなってきた!」
さらに、そこへもう一つの集団が合流した。
裏手の本田鉄工所をはじめとする、近隣の町工場の工員たちだった。
雨のせいで屋外の運搬作業や鉄骨の溶接が一時中断となり、作業場で手持ち無沙汰にしていた男たちが、外の匂いとトミの声を聞きつけて、ワラワラと路地へ繰り出してきたのだ。
「おい、本田のオヤジ! キリシマでコロッケ配ってるらしいぞ!」
「なんだと!? 源のオヤジ、雨の日にそんな粋なことやりやがって! おい野郎ども、行くぞ! 雨宿り代わりにキリシマの飯を食い尽くせェッ!!」
午前十二時十五分。
キリシマ食堂の正面引き戸が、ガラガラガラッ! とけたたましい音を立てて開け放たれた。
「いらっしゃいませ!」
入り口で結衣が、タオルを手にして満面の笑顔で出迎えた。
「足元の悪い中、本当にありがとうございます! どうぞ、こちらのタオルでお手元やお洋服をお拭きください!」
入ってきた客の一人一人に、温かい手ぬぐいを手渡し、濡れた傘を預かって傘立てへと収める。
冷たい雨の中を歩いてきた客たちにとって、その細やかな気配りと温かい笑顔は、それだけで凍えた心を解きほぐす極上の暖炉のようだった。
「ありがとう、結衣ちゃん! いやあ、長靴履いてきてよかったよ!」
「表の看板見たぜ! 本当にコロッケもらえるのかい!?」
「はい! 揚げたての熱々を、すぐにお持ちしますね!」
瞬く間だった。
閑古鳥が鳴いていたはずの客席二十一席が、わずか十分の間に、完全に満席となった。
主婦のグループ、近所の老夫婦、そして作業着の男工たち。
店内は、濡れた衣服から立ち上る微かな水蒸気と、厨房からの熱気、そして人々の賑やかな笑い声で、まるで真夏の縁日のような熱狂に包まれていた。
「へい、開花オムライス三丁! Aランチ二丁、ポークカツレツ一丁!」
厨房の中で、源三がまるで千手観音のように鍋を振るっていた。
「おい結衣! コロッケを皿に乗せろ! 冷めねえうちに全員のテーブルへ運ぶんだ!」
「はいっ!!」
結衣は小さな白磁の小皿に、揚げたての一口コロッケを一つずつ乗せ、ウスターソースを一筋垂らして客席へと配って回った。
客たちのテーブルに、黄金の小皿が置かれる。
「お待たせいたしました! 本日の雨の日サービス、揚げたて一口メンチコロッケです!」
「うわあ……本当に揚げたてだわ!」
近所の主婦が、箸でコロッケを持ち上げた。
湯気がほわっと立ち上る。
大口を開けて、サクッとかじる。
「…………っ!!」
次の瞬間、客席のあちこちから、驚嘆と歓喜の声が爆発した。
「なにこれ……! サクサク! 衣がものすごく軽くて、全然油っぽくない!」
「ジャガイモがホクホクで甘いぞ! 挽き肉の旨味がしっかり染み込んでて、ソースがなくてもそのままで充分美味え!」
「一口サイズなのが嬉しいわねえ。洋食の前に、お腹を温めるのにちょうどいいわ!」
「おい源さん、これ本当にタダでいいのかよ!? 金払ってもいいくらい美味いぜ!!」
客たちの絶賛の声に、厨房の源三はフライパンをあおりながら、照れ隠しに鼻を鳴らした。
「へっ、タダでいいから残さず食いな! うちの料理を残す奴ぁ、雨の中に放り出すからな!」
ぶっきらぼうな怒声。
だが、客たちはその言葉の裏にある温かさを知っているからこそ、ドッと大きな笑い声を上げた。
サクサクとコロッケを頬張り、胃袋を温めた客たちは、続いて運ばれてくるメイン料理――とろとろの開花オムライスや、ジュウジュウと音を立てる鉄板のAランチに、歓声を上げて食らいついていく。
外の激しい雨音など、誰も気にしていなかった。
雨の冷たさも、泥濘の不快感も、この温かい湯気と揚げたての香ばしさの中に、完全に溶け去っていた。
「……ふうっ」
午後二時。
昼の営業が終わり、最後の客が「ごちそうさま! 雨の中来て本当によかったよ!」と笑顔で帰っていったあと。
正面の硝子戸が閉ざされ、店内に心地よい疲労感が戻ってきた。
レジの引き出しを開けた源三が、中の札束と小銭の山を見つめ、信じられないというように目を瞬かせた。
「……おい、結衣」
「はい、源さん」
「……今日の昼の売上、いくらあったと思う」
「八千四百円、ですね」
結衣が即座に答えると、源三はガリガリと頭を掻いて、深いため息を漏らした。
「八千四百円……。晴れた日の平日と、ほとんど変わらねえじゃねえか。……雨の日に、こんな売上が出たことなんざ、俺の五十年の料理人人生で一度もねえぞ」
「ふふっ」
結衣はテーブルの上を片付けながら、誇らしげに胸を張った。
「言ったでしょう? 雨の日はボーナスチャンスだって。配ったコロッケは全部で四十五個。かかった食材原価は、たったの二百円ちょっとです。二百円の先行投資で、八千円以上の売上と、四十五人のお客さんの笑顔を守れたんですから、大勝利ですよ!」
「……まったく」
源三は煙草を取り出し、苦笑いしながらマッチを擦った。
紫煙を吹き出しながら、老職人は結衣の顔を横目でじっと見つめた。
「……お前は、本当に……雨を呼ぶ女だな」
「えっ? 雨女ってことですか!? 失礼な!」
「違げえよ」
源三はフッと目元を柔らかく崩し、温かい声で言った。
「乾ききって干からびそうになってたこの店に……恵みの雨を降らせて、花を咲かせる女だって言ってんだよ」
「源さん……」
「へっ、柄にもねえこと言わせんじゃねえ。……おい、夜の仕込みだ! 雨はまだ止みそうにねえぞ。夜の分のコロッケも、あと五十個丸めとけ!」
「はいっ!!」
外では、まだ激しい雨が降り続いていた。
泥濘の路地、濁った水たまり。
けれど、キリシマ食堂の軒下に立てられた鮮やかな黄色い番傘の下には、まるで雨の中に咲いた一輪の向日葵のように、温かく力強い希望の光が、どこまでも誇らしげに輝いていた。




