第19話:経木(きょうぎ)と銀紙に包んだ小さな革命
ジリジリと肌を焦がすような真夏の太陽が西の空へ没しても、下町の夜気は一向に冷める気配を見せなかった。
密集した木造長屋の壁や、昼間の熱を抱え込んだトタン屋根が、まるで巨大な蓄熱暖房のように熱気を吐き出し続けている。湿り気を含んだ川風が路地裏を抜けるたび、ぬるい空気とともに、どこかの台所から漂う蚊取り線香の煙と、ドブ板の底から湧き上がる生温かいヘドロの匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐった。
午後九時半。
キリシマ食堂の正面硝子戸にはすでに『準備中』の札が掛けられ、店内を照らす白熱電球の光も半分ほど落とされていた。
「ふう……っ」
桐島結衣は、洗いざらしの木綿のエプロンを外し、首筋に浮いた汗を手ぬぐいで拭いながら勝手口の板戸を細く開けた。
外の空気を吸おうと三和土にサンダルを突っかけて路地裏へ一歩出た瞬間、結衣の耳を打ったのは、静寂とは程遠い、重苦しい機械の咆哮だった。
――ガシャン、ガシャン、ガシャン。
――キィィィィン、ガガガガッ。
キリシマ食堂の裏手に隣接する、本田鉄工所の作業場。
波打つスレート葺きの高い天井から吊り下げられた水銀灯が、夜の闇を青白く切り裂いている。薄暗い下町の路地裏にあって、そこだけが昼間以上の異様な光量を放っていた。
大型のプレス機が規則正しく重い鉄板を打ち抜き、旋盤の刃が火花を散らしながら鋼鉄のシャフトを削り出していく。
換気用の巨大な有圧換気扇がけたたましい羽音を響かせ、機械油と焦げた鉄粉のツンとした刺激臭を、容赦なく路地へと吹き出していた。
「……まだ、やってるんだ」
結衣は思わず足を止め、鉄工所の開け放たれた大扉の方へと視線を向けた。
作業場の中では、灰色の作業着を油と汗で真っ黒に染めた男たちが、鬼気迫る表情で立ち回っていた。
本田辰夫社長が、首に巻いた手ぬぐいで顔の汗を拭いながら、大声で怒号を飛ばしている。
「おい誠二! 芯出しの目盛りを狂わせるなよ! あと三十本、今夜中に削り上げなきゃ明日の朝イチのトラック便に間に合わねえぞ!」
「は、はいっ! 次、行きます!」
秋田出身の若い工員・水野誠二が、蒼白な顔に脂汗を光らせながら、必死の形相で旋盤のハンドルにかじりついている。
月末の納期。
日本の大手自動車メーカーが急激に増産へと舵を切った余波が、下請けの下請けであるこの初音銀座の零細町工場にまで、津波のような過密スケジュールとなって押し寄せていたのだ。
ふと、旋盤の脇にある木製の工具台の上に、結衣の目は釘付けになった。
油まみれのウエス(ボロ布)やスパナが散乱する台の片隅に置かれていたのは、銀色の包み紙が破かれた非常用の乾パンの缶詰と、すでに冷めきってスープが茶色く濁った、食べかけのインスタント袋麺の丼だった。
誠二が機械の合間を縫うようにして、乾いた喉に水道水を流し込み、固い乾パンを無理やり口へ押し込んでいるのが見えた。
喉に詰まったのか、胸元を激しく叩いて苦悶の表情を浮かべる。
本田社長もまた、油で真っ黒になった指先で冷えた麺の残りを無造作にすすり、眉間に深い皺を刻みながら即座にプレス機へと戻っていった。
「…………」
結衣の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
あの姿を、知っている。
令和のオフィスで、午前二時の締め切り直前、パソコンのモニタの光に照らされながら、パサパサになったコンビニのおにぎりを水で流し込んでいた自分自身の姿。
腹が減っていることすら麻痺し、ただ疲労と眠気を誤魔化すためだけに、味もしない乾き物を胃袋へ詰め込む惨めさ。
昭和四十五年の東京下町には、二十四時間営業のコンビニエンスストアなど一軒も存在しない。
近隣の蕎麦屋も大衆中華も、夜の九時を回ればとっくに暖簾を降ろし、出前を取ることすら叶わない。
高度経済成長という名の巨大な車輪を回すために、深夜まで油にまみれて命を削る男たちが、冷えた乾パンと不味い水で飢えをしのいでいる。
「……こんなの、あんまりだわ」
結衣の唇から、悔しさを孕んだ呟きが漏れ出た。
腹が減っては、集中力が切れる。
集中力が切れれば、旋盤の刃を噛み込ませたり、プレス機に指を挟まれたりする重大事故に直結する。
何より――昼間にあんなにも美味そうにキリシマ食堂のオムライスやポークジンジャーを平らげてくれた男たちが、夜の闇の中でこんな粗末な思いをしていることが、結衣には耐えられなかった。
(需要はある。絶対に、ある……!)
冷え切った令和のマーケターとしての冷徹な観察眼と、下町の食堂に身を置く人間としての泥臭い義憤が、結衣の頭の中で激しくスパークした。
「テイクアウト弁当……ううん、深夜の現場を支える『夜食弁当』よ!」
結衣は決意を瞳に宿し、踵を返してキリシマ食堂の厨房へと駆け戻った。
◆
「弁当だァ?」
厨房の洗い場で、銅のフライパンをタワシで擦り洗いしていた大山源三が、驚いたように顔を上げた。
白頭巾を外した白髪交じりの頭からは湯気が立ち上り、老職人の顔には一日の営業を終えた心地よい疲労が浮かんでいた。
「おいおい、結衣。夜の営業が終わったばかりだぞ。これからまだ出前でもやる気か? 岡持ちに丼を詰めて運ぶにしたって、この時間からじゃスープが冷めちまうし、うちは配達の小僧を雇ってるわけじゃねえんだぞ」
「岡持ちの出前じゃありません、源さん」
結衣は調理台を挟んで、身を乗り出した。
「お持ち帰り――テイクアウトの『お弁当』です。本田鉄工所さんや、近隣の町工場の夜勤の職人さんたちに届けるんです。彼ら、今夜も徹夜ですよ。冷えた乾パンやインスタント麺をかじりながら、命がけでプレス機を動かしているんです!」
「本田のところが……そうか、また納期前のヤマ場か」
源三は眉をひそめ、洗い桶の水を止めた。
下町で何十年も暮らしてきた源三にとっても、町工場の過酷な深夜残業は馴染み深い光景だった。
「……気持ちは分かる。職人に温けえ飯を食わせてやりてえってのは、料理人なら誰だって思うさ。だがな、結衣。現実を見ろ」
源三は濡れた両手を前掛けで拭いながら、溜息混じりに首を横に振った。
「飯を詰める『箱』はどうすんだ。デパートの催事や、お屋敷の法事で使うような漆塗りの重箱や木枠の折箱なんざ、うちには一つもねえぞ。だいたい、そんな上等な器を夜勤の工場なんかに持ち込んでみろ、油煙と鉄粉で一発でパーだ。かといって、使い捨ての器なんてものが、この世のどこにあるってんだ」
「…………!」
結衣は息を呑んだ。
現代の常識の罠に、完全に囚われていたのだ。
令和の時代なら、百円均一や業務用スーパーに行けば、発泡スチロール製や透明プラスチック製の使い捨て弁当パックが、数十個単位でいくらでも安価に手に入る。電子レンジ対応で、仕切りがついていて、汁漏れしない密閉蓋までついているのが当たり前だ。
だが、今は昭和四十五年。
家庭用の電子レンジすら一般にはほとんど普及しておらず、プラスチック成型技術も発展途上。
仕出し屋が使う使い捨て容器といえば、厚紙にニスを塗った高価な折箱か、あるいは陶器の丼を出前して翌朝回収するのが常識だった。回収の手間をかけず、安価で、油に強く、しかも工場の男たちが片手で扱えるような容器など、どこを探しても見当たらない。
「う……そうか。プラスチックのパックがないんだわ……」
「ぷらすちっく? なんだそりゃ。おもちゃのガラガラか何かの話か?」
源三が怪訝そうに眉を寄せる。
「……諦めるわけにはいきません」
結衣は拳をぎゅっと握りしめた。
「箱がないなら、探すまでです。明日の朝、必ず解決策を見つけてきます!」
◆
翌朝、午前九時。
初音銀座商店街の中ほどにある文房具店「寺岡堂」の引き戸を、結衣は勢いよく開け放った。
チリンチリンと澄んだ真鍮のベルが鳴り響く。
「寺岡さん! ご相談があります!」
カウンターの奥で、帳簿の数字を几帳面に万年筆で書き込んでいた寺岡雅之が、銀縁の丸眼鏡を押し上げながら穏やかに微笑んだ。
「おや、桐島さん。朝から血相を変えて、どうされたのですか? また新しいPOPの画材ですか?」
「画材じゃないんです。……寺岡さん、この街で一番『紙や包装資材』に詳しいのは寺岡さんですよね」
「ええ、まあ、文具と事務用品を扱っていますから、紙問屋や包装資材の流通ルートなら一通り把握していますが……」
結衣は寺岡の前に身を乗り出した。
「安くて、油や水分に強くて、通気性があって、使い捨てにできる……『お弁当を包むための資材』を探しているんです!」
「お弁当の包装資材……ですか」
寺岡は万年筆を置き、腕組みをして思案に耽った。
「飲食店の折箱でしたら、浅草の木工所が作っているエゾ松の経木折箱がありますが、あれは職人が一つ一つ糊付けして組み立てるものですから、一個あたり十五円から二十円はしますよ。大衆食堂のお弁当容器としては、コストが高すぎて採算が合いませんね」
「十五円は高すぎます……! 容器代だけで原価が跳ね上がっちゃう」
「それに、密閉された折箱やプラスチックの蓋付き容器というのは、実は温かいご飯を詰めるのには致命的な欠陥があるのですよ」
「えっ?」
寺岡は立ち上がり、店舗の奥の倉庫から一枚の薄い、茶褐色のシート状の木片を持って戻ってきた。
「炊きたての熱いご飯を密閉容器に入れると、立ち上った湯気が蓋の内側に水滴となって凝結し、それが再びご飯の上に落ちてしまう。結果として、食べる頃にはお米の表面がドロドロにふやけ、底の方は油と水蒸気でベタついてしまうのです。……特に、冷めてから食べるお弁当においては、水分(湿気)をいかに逃がすかが最大の課題なのですよ」
「水蒸気の結露……! そうか、令和の弁当でも、蒸気を逃がさないとご飯が傷む原因になる……!」
結衣は目を見開いた。
寺岡の手元にある、紙のように薄い木片。
木目が美しく透き通るように整い、手に取ると驚くほど軽やかで、どこか懐かしい清々しい木の香りが漂ってくる。
「寺岡さん、これ……何ですか?」
「『経木』ですよ」
寺岡は眼鏡の奥の目を細めた。
「国産の赤松や白樺を、職人がカンナで紙のように極薄に削り出したものです。昔からお寺の写経に使われていたのでこの名がつきましたが、今ではおにぎりを包んだり、魚屋や肉屋が肉を包むのに使われています。……非常に安価で、一枚あたり一円にも満たない」
「一円未満……!?」
「ええ。何より素晴らしいのは、その機能性です。赤松の経木は、天然の木材ですから微細な呼吸をしています。温かいご飯の余分な水蒸気を適度に吸い取り、外へ逃がしてくれる。しかし、乾きすぎることもなく、お米の水分を絶妙な加減で保ってくれるのです。さらに、松のヤニに含まれる天然の精油成分には、強力な抗菌・防腐効果がある。昔の旅人が腰におにぎりをぶら下げて何日も歩けたのは、この経木で包んでいたからなのですよ」
「呼吸する、天然の調湿容器……!」
結衣の全身に、鳥肌が立った。
現代のハイテクな多層フィルムや、吸湿シート入りの高機能プラスチック容器。
それらが目指した理想の機能――「蒸れを防ぎ、乾燥を防ぎ、腐敗を抑える」という奇跡の性能を、この昭和の、何百年も前から受け継がれてきたペラペラの木の皮が、最初から完璧に備えていたのだ。
「寺岡さん! この経木、まとまった数を仕入れられますか!?」
「ええ、問屋に頼めば千枚単位で即日手に入りますよ。……ですが、桐島さん。経木は通気性に優れている反面、油の多い洋食のおかずを直接包むと、油分が外側の包装紙まで染み出して、持ったお客さんの手を汚してしまう恐れがありますよ」
「それなら、解決策があります!」
結衣は寺岡堂の棚に並んでいた、もう一つの資材を指差した。
「アルミホイル――『銀紙』です!」
昭和四十五年。
アメリカから導入され、日本の一般家庭にも急速に普及し始めていたアルミホイル。
「おかずを盛る部分の底にだけ、アルミホイルを敷くんです。油やソースの染み出しを遮断しつつ、ご飯の部分は直接経木に触れさせて呼吸させる。そして、全体を経木で舟形に包み込み、十字にタコ糸か輪ゴムで留める……!」
結衣は寺岡の作業台の上で、手早く経木を折り曲げ、即席のパッケージを組み立ててみせた。
底はしっかりとした長方形。
外側は温かみのある赤松の木肌。
内側には、銀色に光るアルミホイルの仕切り。
余分な接着剤も、高価な木枠も使わない。
木と銀紙と輪ゴムだけで完成する、究極に安価で、極めて機能的な「ハイブリッド・エコ容器」。
「……お見事だ」
寺岡は思わず感嘆の声を漏らし、両手を叩いた。
「伝統的な経木の調湿機能と、近代的なアルミホイルの遮蔽性を組み合わせるわけですね。これなら、容器代は資材費を合わせても一個あたり二円以下に抑えられる。……桐島さん、あなたという人は、古いものと新しいものの架け橋を作る天才ですね」
「ふふっ、ありがとうございます! 寺岡さん、経木五百枚とアルミホイル、それから包み紙用の白い奉書紙を至急手配してください!」
「かしこまりました。昼過ぎにはキリシマ食堂へお届けしましょう!」
◆
午後三時。
キリシマ食堂の厨房では、大山源三と結衣による、熱気あふれる「試作戦争」が始まっていた。
寺岡堂から届いたばかりの経木が、作業台の上に山のように積まれている。
「なるほどな……」
源三は経木を手に取り、光に透かしてしげしげと眺めた。
「確かに、この薄さなら扱いやすいし、松のいい香りがしやがる。……だがよ、結衣。器の問題が片付いたとしても、肝心の『中身』はどうすんだ。洋食ってのはな、出来立ての熱々を食うから美味いんだ。冷めた洋食弁当なんざ、脂が固まって食えたもんじゃねえぞ」
老職人の指摘は、極めて鋭かった。
洋食の最大の強みである「動物性脂肪(牛脂・ラード・バター)」。
出来立ての時は芳醇な香りとジューシーな旨味をもたらすが、冷めると白く凝固し、舌にヌラヌラとまとわりつく不快な脂っこさへと変貌してしまう。特に、牛ステーキやハンバーグ、豚カツなどは、冷めると肉の繊維が固く締まり、顎が疲れるほどのゴムのような食感になりやすい。
「だからこそ、メニューの選定が命なんです」
結衣はエプロンの紐を締め直し、まな板の前に立った。
「冷めても絶対に脂が固まらず、柔らかく、しかも男工さんたちの胃袋をガツンと満たす……『キリシマ特製・夜食弁当』の三種の神器を作ります!」
「まず第一の主菜――『冷めてもサクサク、特製チキンカツ』です!」
結衣が取り出したのは、八百杉のルートで安価に仕入れた新鮮な若鶏の胸肉だった。
「鶏肉は、牛肉や豚肉に比べて融点(脂が溶ける温度)が低く、冷めても脂が白く固まりにくいんです。さらに、パサつきやすい胸肉を、八百杉のすりおろし玉ねぎと少量の重曹水に二十分漬け込みます!」
玉ねぎの酵素とアルカリ性の重曹水が、鶏肉の筋繊維を極限まで分解し、水分を抱き込ませる。
小麦粉、溶き卵、そして細引きの生パン粉を薄く纏わせる。
「源さん、揚げ油です! いつもの純ラードじゃなく、大豆油(白絞油)を七割、ラードを三割のブレンドで揚げてください!」
「植物油を混ぜるのか!?」
「はい! 植物油は常温でも固まりませんから、冷めても衣がベタつかず、サクサクしたクリスピーな食感が持続します!」
シュワワワワッ!
百八十度の油の中で、キツネ色にカラリと揚がるチキンカツ。
引き上げた瞬間、パチパチと油が弾ける軽やかな音が響く。
そこへ――結衣は、小鍋でひと煮立ちさせた「特製の甘辛照りウスターダレ」の中へ、揚げたてのチキンカツをドボンと潜らせた。
ジュウッ!
ウスターソースの酸味、焦がし醤油の香ばしさ、そしてみりんと粗糖のコクが、熱い衣の奥深くまで一気に染み渡る。
包丁を入れると、サクッ、ジュワッ。
肉汁とタレが混ざり合い、断面は驚くほどみずみずしい純白を保っていた。
「……おいおい」
源三が端切れをつまんで口に放り込み、目を丸くした。
「なんだこれ……! タレに浸してあるのに、衣がふやけてねえ! それに、胸肉なのに歯がいらねえくらい柔らかいぞ!」
「タレの糖分が衣の表面をコーティングして、水分の蒸発を防いでいるんです。これなら、三時間経って冷え切っても、柔らかさとジューシーさが失われません!」
「続いて第二の主菜――『出汁を含ませた、洋食屋の厚焼きオムレツ』です!」
結衣はボウルに新鮮な卵を割り落とし、そこへ源三が毎朝引いている極上のチキンブイヨン(鶏ガラと香味野菜の出汁)を惜しげもなく注ぎ入れた。
少量の薄口醤油と砂糖、そして水溶き片栗粉を一匙。
「オムレツに出汁だと? まるで玉子焼きじゃねえか」
「玉子焼きの知恵を借りた、洋食オムレツです!」
強火の銅鍋で、バターを一欠片溶かして一気に焼き上げる。
片栗粉の保水効果と出汁の水分によって、冷めてもパサパサに固くならず、プリンのようにぷるぷるとした弾力としっとり感を保ち続ける、極厚の黄金色オムレツ。
口に含むと、ジュワッと優しいコンソメ出汁の旨味が口いっぱいに広がる。
「そして第三の彩り――『昭和のタコさん赤ウインナー』と、八百杉野菜の自家製ピクルス!」
真っ赤なウインナーの端に十字の切り込みを入れ、ラードでサッと炒めると、足がくるりと外側にカールして愛らしいタコさんの形に跳ね上がる。
隣には、割れ人参とキュウリ、大根の端切れを米酢とハーブで漬け込んだ、鮮やかなピクルス。酸味と塩気が、脂っこさをリセットし、工員の疲れた体にクエン酸の活力を注ぎ込む。
「源さん、ご飯を詰めます!」
結衣は手際よく経木を広げた。
底に敷かれた経木の上に、羽釜からよそわれたばかりの、湯気立つ真っ白な銀シャリが、平らに敷き詰められる。
その上に、黒胡麻がパラリと振られ、大粒の紀州梅干しが一つ。
ご飯の熱気が、経木の表面を通過していく。
ツンとした赤松の爽やかな木の香りが、炊きたての米の甘い湯気と混ざり合い、それだけで食欲を激しく刺激する独特の芳香を立ち上らせる。
ご飯の隣――アルミホイルの仕切りを挟んだスペースに、甘辛ダレを纏ったチキンカツが三切れ、黄金色の出汁オムレツ、真っ赤なタコさんウインナー二本、そして彩り豊かなピクルスが、隙間なく美しく盛り付けられた。
「包みます!」
結衣は経木の両端を折り込み、舟形に整えると、上からもう一枚の経木を被せ、輪ゴムでパチンと十字に留めた。
「…………」
源三は腕組みをしたまま、その完成した包みを見つめていた。
トタン屋根の隙間から差し込む夕暮れの光を浴びて、赤松の木目が美しく輝いている。
重箱のような仰々しさはない。
だが、安っぽい紙袋とも違う。
質素でありながら、どこか凛とした気品と、手作りの温もりを湛えた、完璧な「下町のお弁当」。
「……すげえな」
源三が、低く唸った。
「プラスチックだか何だか知らねえが……この経木の包み、銀座の一流料亭の折詰より、よっぽど美味そうに見えやがる」
「まだ、完成じゃありません!」
結衣は懐から、寺岡堂で仕入れた純白の奉書紙の帯と、一本の筆ペンを取り出した。
◆
結衣は作業台の隅に座り、息を整えた。
元・ウェブデザイナーとしての、タイポグラフィとイラストレーションの技術。
だが、今夜込めるべきなのは、クライアントを欺くための飾り立てた言葉ではない。
あの油まみれの作業場で、冷えた乾パンをかじりながら必死に旋盤を回していた、誠二や本田社長の顔。
過酷な現実と戦い続ける、名もなき労働者たちへの、魂からのエール。
結衣は白い奉書紙の上に、迷いのない筆致で絵を描き始めた。
サラサラ、サッ。
墨の濃淡を活かして描かれたのは、小さな歯車とスパナ、そして湯気を上げるフライパンが仲良く並んだ、愛らしい手書きのカット。
その横に、太く、温かみのある手書き文字で、力強いメッセージを刻み込んでいく。
『夜勤、本当にお疲れ様です!
初音銀座の夜を支える、本田鉄工所の皆さんへ。
冷めても美味しい、キリシマ特製のスタミナ弁当です。
しっかり食べて、怪我なくご安全に!
――洋食 キリシマ食堂より』
一枚、一枚。
結衣は心を込めて、三十枚の掛け紙に同じ文字とイラストを描き上げていった。
出来上がった掛け紙を経木の包みの中央に巻き、タコ糸でキュッと結び留める。
木肌の茶褐色、アルミホイルの銀、そして純白の奉書紙に躍る黒い墨文字。
工業製品には絶対に真似できない、作り手の「体温」が宿るパッケージデザインの完成だった。
◆
午後十時。
夜の帳が完全に下町を包み込み、初音銀座商店街の店舗があらかた雨戸を閉ざした深夜。
本田鉄工所の作業場では、依然としてけたたましい金属音が鳴り響いていた。
「くそっ……腕が上がらねえ……」
誠二が、旋盤のハンドルを握る手を小刻みに震わせていた。
疲労は限界に達していた。
削り屑の鉄粉が目に入り、涙が止まらない。空腹で胃がキリキリと痛み、視界の端が白く霞み始めている。
本田社長もまた、プレス機の横で肩を大きく上下させ、荒い息を吐いていた。
工員たち全員の動きが、目に見えて鈍くなっている。
ミスが起きる寸前の、危険な臨界点。
その時だった。
「――こんばんはーっ! 本田鉄工所の皆さん、夜食のお届けです!」
作業場の轟音を突き破るように、涼やかで、澄み切った声が響き渡った。
「あァ……?」
本田が顔を上げ、大扉の方を睨みつけた。
立っていたのは、白い割烹着姿の結衣と、その背後に立つ、巨大な木箱を両手に抱えた大山源三の姿だった。
「結衣ちゃん……? 源のオヤジ……!?」
本田が目を剥く。
誠二も旋盤のスイッチを慌てて切り、呆然と入り口を見つめた。
「こんな夜更けに、何の用だ! うちは今、納期前でそれどころじゃねえんだぞ!」
「それどころじゃないから、来たんです!」
結衣は作業場の中にズカズカと踏み込んできた。
油と鉄粉にまみれた土間に臆することなく、工場の真ん中にある大きな休憩用の長テーブルへと歩み寄る。
「源さん、テーブルの上へ!」
「おうよ!」
源三が抱えていた木箱から、ドン、ドン、ドンと音を立てて取り出されたのは――三十個の、経木に包まれた真新しい弁当の山だった。
ふわっ……。
油と鉄の匂いしか充満していなかった殺伐とした作業場に、突如として、信じられないほど甘美な香りが雪崩れ込んできた。
清々しい赤松の木の香り。
食欲を狂わせるような、揚げ油と甘辛いウスターソースの香ばしい匂い。
そして、炊きたてのご飯が経木を抜けて放つ、優しい穀物の湯気。
「な……なんだ、こりゃあ……?」
本田が鼻をヒクヒクと動かし、引き寄せられるようにテーブルへと歩み寄った。
工員たちも、吸い寄せられるように機械から離れ、テーブルを取り囲む。
「お弁当です」
結衣は満面の笑顔で、一番手前の包みを両手で持ち上げた。
「『キリシマ特製・夜食弁当』。一個、百二十円です。……乾パンやインスタント麺じゃ、力が出ないでしょう? 本田鉄工所の皆さんを応援したくて、源さんと一緒に作ってきました!」
「べ、弁当……!?」
本田の視線が、包みの中央に巻かれた白い掛け紙に吸い寄せられた。
『夜勤、本当にお疲れ様です! 怪我なくご安全に!』
可愛らしい歯車とスパナのイラスト。
温かみのある、力強い手書きの文字。
「…………っ!」
本田の喉仏が、大きく上下した。
言葉が出なかった。
ただの飯ではない。
この薄暗い工場で、世間から見向きもされず、納期に追われて泥のように働く自分たちのことを、ちゃんと見ていてくれた人がいる。
応援してくれている人がいる。
その事実が、墨文字の温もりを通して、頑固親父の胸を激しく揺さぶっていた。
「おい……みんな」
本田の声が、わずかに震えていた。
「機械を止めろ。……手を洗ってこい」
「しゃ、社長……でも、納期が……」
「いいから手を洗えってんだバカ野郎!! キリシマの飯を食わねえで、何が下町の職人だ!!」
◆
冷たい井戸水で油まみれの手を洗い清めた工員たちが、長テーブルの周りに折りたたみ椅子を並べて座った。
総勢二十五名。
全員の前に、経木の包みが置かれる。
「いただきます……!」
誠二が震える指先で、十字の輪ゴムをパチンと外した。
掛け紙を解き、上の経木をゆっくりと持ち上げる。
パカッ。
「うおおおおおおおおっ……!!」
作業場のあちこちから、地鳴りのような歓声が上がった。
目に飛び込んできたのは、息を呑むほどに美しい「職人のための小宇宙」だった。
経木の上で、米粒が一つ一つ立って輝く純白の銀シャリ。
水蒸気でベタつくこともなく、程よい湿り気を保ち、松の木の爽やかな香りをまとっている。
アルミホイルの仕切りの向こうには、飴色の照りタレをたっぷり纏った、大ぶりのチキンカツが三切れ。
黄金色に輝く極厚の出汁オムレツ。
愛らしく足を広げた真っ赤なタコさんウインナー。
そして、エメラルドのように鮮やかな自家製ピクルス。
「……すげえ」
誠二の瞳から、ポロリと雫がこぼれ落ちた。
昼間食べたあの温かい味覚が、いま、この冷え切った夜勤の現場に、そのまま届いている。
「食え! 食え食え食えッ!!」
本田社長の号令とともに、男たちが一斉に割り箸を割った。
サクッ……ジュワアッ!
本田がチキンカツにかぶりついた瞬間、作業場に響いたのは、揚げたてと何ら変わらない軽快な衣の音だった。
「っ……うめえええええええええっ!!」
本田が長テーブルをドンと叩いた。
「柔らかい! 冷めてんのに、なんでこんなに肉が柔らかいんだ!? それに、このタレだ! ウスターの酸味と醤油の甘みが、衣の芯まで染み込んでて……飯が止まらねえぞおい!!」
ガツガツ、ガツガツガツッ!
本田は箸を激しく動かし、経木の上に盛られたご飯を山盛りにすくって口へ放り込んだ。
「飯が……飯が美味い!! 冷めてるのに、ちっともベタついてねえ! 米がピンとしてて、木のいい匂いがして……いくらでも腹に入っていくぞ!!」
隣で誠二も、大口を開けて出汁オムレツを頬張っていた。
「んま……っ! オムレツから、出汁が溢れてくる……! 甘くて、温かくて……身体の芯まで力が湧いてくるべ……っ!」
若い工員たちも、無我夢中で箸を動かしていた。
「タコさんウインナーなんて、子供の時以来だぜ!」
「このピクルス、酸っぱくて最高だ! 油っぽさが全部吹き飛ぶ!」
「見てみろよ、この掛け紙……『怪我なくご安全に』だってよ……泣かせるじゃねえか……」
油と鉄粉にまみれた男たちの顔に、次々と笑顔が咲いていく。
殺伐としていた作業場の空気が、まるで温かい家族の食卓のように、熱気と笑い声で満たされていく。
冷えた乾パンをかじっていた時のあの絶望的な疲労は、胃袋を満たす極上の洋食と、経木のぬくもりによって、瞬く間に溶け去っていた。
わずか十分足らず。
三十個の弁当箱は、米粒一つ残さず、綺麗に空っぽになっていた。
経木を丸めてゴミ箱へ捨てるだけ。
食器を洗う手間も、回収を待つ煩わしさもない。
工員たちは口々に「ごちそうさまでした!」「結衣ちゃん、ありがとう!」「源さん、最高だ!」と叫び、立ち上がった。
その瞳には、先ほどまでの死人のような濁りは微塵もなかった。
再び旋盤へ向かう誠二の背筋はピンと伸び、プレス機の前に立った本田社長の腕には、鋼鉄のような力強さが戻っていた。
「おい、野郎ども!」
本田が腹の底から叫んだ。
「キリシマの美味い飯を食ったんだ! もう眠いなんて言わせねえぞ! 朝までに残りの三十本、ビシッと仕上げて、下町の職人の意地を見せてやれェッ!!」
「おおおおおおおおっ!!」
作業場を揺るがす、男たちの雄叫び。
再び火花が散り、モーターが力強く唸りを上げ始めた。
◆
夜風の吹き抜ける路地裏。
空になった木箱を抱えた源三と、その隣を歩く結衣。
背後からは、本田鉄工所の規則正しく力強い機械音が、夜空へと力強く響き続けていた。
「……百二十円か」
源三が、前掛けのポケットに手を突っ込みながら、ぽつりと言った。
「三十個で、三千六百円。……胸肉と端切れ野菜、それに経木と銀紙の原価を引いても、手元に二千円以上の純利益が残る。……夜の仕込みの合間にやるだけで、これだけの商売になるんだな」
「はい」
結衣は夜空を見上げた。
藍色の闇の中に、星が瞬いている。
「でも、源さん。お金だけじゃありません」
「あァ?」
「町工場の皆さんは、日本のモノづくりを一番底で支えているヒーローです。その人たちを、温かいご飯とデザインの力で、胃袋から支えることができる。……洋食屋って、ただ料理を売るだけのお店じゃないんですね」
結衣の言葉に、源三は煙草を取り出し、マッチを擦った。
紫煙を夜空へ吹き出しながら、老職人はフッと口元を緩めた。
「……当たり前だ。浅草の親方も言ってたぜ。『料理人はな、街の胃袋の番人だ』ってな。……結衣、明日の夜も仕込むぞ。チキンカツ五十枚、八百杉に胸肉を追加で頼んどけ」
「はいっ!!」
経木と銀紙。
古い日本の知恵と、現代のデザイン思考が結びついた、小さな四角い革命。
それは、昭和四十五年の下町を泥臭く支える男たちの心に、決して消えることのない温かい灯火を点していた。
そして――キリシマ食堂の快進撃は、街の胃袋をさらに深く、広く包み込む次なる一手へと、力強く進み始めていた。




