第18話:サイフォンとデミグラスの同盟
午後二時半。
昼の喧騒が潮の引くように去った初音銀座商店街には、真夏特有の、埃っぽくも濃密な静寂が横たわっていた。
路地のアスファルトからは、じりじりと照りつける太陽の熱が陽炎となって立ち上り、どこかの長屋の軒先に吊るされた南部鉄器の風鈴が、乾いた音をチリンと鳴らしている。町工場の重々しい金属音も、この時間ばかりは昼下がりの気だるいリズムへと速度を落としていた。
キリシマ食堂の正面引き戸には『準備中』の木札が掛けられ、店内には換気扇の低い唸り声と、柱時計のカチコチという規則正しい振り子の音だけが響いている。
「ふう……っ」
桐島結衣は、カウンターの端の席に腰を下ろし、冷えた麦茶を喉へと流し込んだ。
首筋に張り付く汗を手ぬぐいで拭い、卓上に広げられた大学ノートへと視線を落とす。
昼のピークタイムに導入した「時計仕掛けのA・Bランチ」と、規格外野菜を活かした「琥珀ポタージュスープ」のセット販売は見事に定着し、客席の回転率は以前の倍以上に跳ね上がっていた。帳簿の数字は完全に黒字化のラインを越え、安定した利益の余剰が生まれ始めている。
だが――結衣の眉間には、消えない小さな皺が刻まれていた。
ノートの隅に走り書きされた、客層の属性分析。
「……男性客が、八割五分」
結衣は小さく呟いた。
本田鉄工所をはじめとする町工場の工員たち、外回りの営業マン、商店主たち。男たちの胃袋を掴むことには大成功した。しかし、残りの一割五分――近隣のオフィスで働く若いタイピストや事務員、あるいは買い出しに来る主婦層といった「女性客」の姿が、キリシマ食堂の客席には圧倒的に少なかった。
理由は明白だった。
活気があるといえば聞こえはいいが、男工たちが作業着のまま大声で笑い、汗を流しながらカツレツやオムライスをかき込む空間は、昭和四十五年当時の若い娘たちにとって、暖簾をくぐるのに少々勇気が必要すぎる「男の城」に見えてしまっているのだ。
「客層の偏りは、長期的な経営リスク(ボトルネック)になる……。土日のファミリー層や、午後のアイドルタイムを支えてくれる女性コミュニティをどうやって取り込むか……」
結衣が顎に指を当てて唸っていた、その時だった。
カラン、コロン。
引き戸に吊るされた真鍮の小さなベルが、軽やかな音を立てて鳴り響いた。
「ごめんくださーい! 結衣さん、いるー?」
入ってきたのは、初夏の強い陽射しをそのまま身にまとったような、眩しい原色の少女だった。
角の純喫茶「カトレア」の看板娘、竹中さゆり。
大ぶりの丸いサングラスを額に押し上げ、鮮やかなオレンジ色のミニスカートに、裾がわずかに広がった白のハイソックス。肩からはビニールレザーのショルダーバッグを提げ、レモンの香水の匂いをふわりと漂わせている。
昭和四十五年の最先端のモードを誇らしげに着こなす十九歳の姿は、煤けた下町の食堂の土間に、まるで雑誌『アンアン』のグラビアが飛び込んできたかのような華やかさをもたらしていた。
「あ、さゆりちゃん! いらっしゃい。どうしたの、こんな時間に?」
結衣が笑顔で迎えると、さゆりはカウンターにツカツカと歩み寄り、両手を卓上にパチンと置いた。
「どうしたの、じゃないわよ結衣さん! ちょっと相談があるの! ……っていうか、結衣さんの知恵を貸してほしいのよ!」
「私の知恵……?」
結衣が目を丸くすると、さゆりは口をへの字に曲げ、カウンターの丸椅子にちょこんと腰掛けた。
「うちの喫茶店のことよ。……最近、すっごく困ってるの」
◆
さゆりの案内で、結衣は商店街の角に建つ純喫茶「カトレア」へと足を運んだ。
ドアノブに手をかけ、ガラス戸を押し開けると、チリンチリンと優美なドアベルが鳴り響く。
「いらっしゃい……おや、さゆり。お客様かい?」
カウンターの奥から、蝶ネクタイに黒いベストを着た初老のマスター――さゆりの父親が、穏やかな笑顔で会釈をした。
「お父さん、キリシマ食堂の結衣さんよ! ちょっとお店のこと相談するから、奥の席使わせてね!」
「はいはい、ごゆっくりどうぞ」
店内に足を踏み入れた瞬間、結衣は思わず息を呑んだ。
そこは、キリシマ食堂の油と炎の熱気とは完全に切り離された、昭和のノスタルジーとモダンが濃密に溶け合う、大人の密室だった。
床には深く沈み込むような小豆色の絨毯。
四人掛けのボックス席には、擦り切れた緋色のビロード張りのソファーが並び、低い木製テーブルの上には、真鍮製の重厚な灰皿と、小さなガラスの花瓶に挿された真紅のカーネーション。
壁には、淡いオレンジ色のブラケットライトが琥珀色の陰影を落とし、棚にはビートルズのレコードジャケットや、ハイファイの高級オーディオセットが誇らしげに鎮座している。
そして――何よりも結衣の五感を捉えたのは、カウンターにずらりと並んだ、フラスコ型のガラス器具だった。
コト、コト、コト……。
青いアルコールランプの炎に炙られ、下のフラスコから沸騰した湯が、細い管を伝って上のロートへと力強く駆け上がっていく。
ロートの中に敷き詰められた深煎りの珈琲粉が、熱湯を抱き込んでふわりと膨らみ、濃厚な香気を店いっぱいに爆発させる。
火を引くと、気圧の差で琥珀色の液体が一気にフィルターを通り抜け、下のフラスコへと澄んだ音を立てて滴り落ちていく。
サイフォン式珈琲。
立ち上る香りは、香ばしいナッツの香りと、熟成されたカカオのような深い苦味、そしてかすかな果実の酸味を含んでいた。
「結衣さん、これ飲んでみて! うちのお父さんがブレンドした、カトレア特製ブレンドよ」
さゆりが運んできたのは、純白のノリタケのカップに注がれた、漆黒の珈琲だった。
小さな銀色のミルクピッチャーと、角砂糖の入ったシュガーポットが添えられている。
「いただきます」
結衣はカップを口元へ運び、一口含んだ。
熱い液体が舌の上を滑る。
ドスンと重みのある苦味が口内に広がり、直後に、驚くほどスッキリとした爽やかな後味が鼻腔を抜けていく。雑味が一切ない、澄み切ったプロの味だった。
「……美味しい。すごく深いのに、後味がすごく軽やかね」
「でしょ!?」
さゆりは嬉しそうに胸を張ったが、すぐに眉尻を下げてため息をついた。
「珈琲の味には、うちのお父さんも命をかけてるのよ。近所のタイピストのお姉さんたちや、商社の若い人たちも、お茶を飲みにたくさん来てくれるわ。……でもね、結衣さん。商売としては、ぜんぜん儲かってないの」
「客単価が、上がらないのね?」
結衣の即座の指摘に、さゆりは目を丸くした。
「そうなの! なんで分かるの!?」
「喫茶店のビジネスモデルの弱点だもの」
結衣はカップをソーサーに戻し、店内の客席をぐるりと見渡した。
客席には、新聞を広げた中年男性や、週刊誌を読みふける若い女性が数名。
彼らのテーブルの上にあるのは、一杯八十円のブレンド珈琲のカップと、吸い殻で山盛りになった灰皿だけだった。
「珈琲一杯で、一時間も二時間も粘られてしまうと、席が空かなくて新しいお客さんが入れない。いわゆる『滞在時間の長期化による回転率の低下』ね。それに加えて……カトレアさんには、お腹を満たすためのしっかりした『食事メニュー』がないでしょう?」
「う……痛いところを突くわね」
さゆりは頭を抱えた。
「メニューにあるのは、バタートースト(五十円)と、ジャムトースト(六十円)、それにゆで卵くらいよ。お昼時になると、お客さんが『何か食べるものない?』って聞いてくるんだけど、トーストしかないって言うと、がっかりして外の蕎麦屋や中華屋へ行っちゃうの。うちの厨房、狭くて火口が一つしかないから、本格的なスパゲッティや定食なんて作れないし……」
さゆりは結衣の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「結衣さん! キリシマ食堂は、あんなに毎日大繁盛してるじゃない! どうしたらうちの喫茶店も、お客さんにたくさん来てもらって、もっと売り上げを伸ばせるのかしら!?」
さゆりの純粋で、切実な眼差し。
結衣の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、音を立てて一つに噛み合わさった。
(キリシマ食堂の課題は、女性客の不足と、食後の滞在スペースの狭さ……。カトレアの課題は、食事メニューの弱さと、客単価の低さ……)
二つの店は、商店街の同じ通りにある。
歩いてわずか三十秒の距離。
一方は「食事」に特化し、一方は「空間と珈琲」に特化している。
いがみ合い、客を奪い合うライバルではない。
お互いの強みと弱みを完璧に補い合える、最高のパートナーになれるはずだった。
「さゆりちゃん」
結衣の瞳に、マーケターとしての鋭い光が宿った。
「キリシマ食堂とカトレアで、手を組みましょう」
「え……? 手を組む?」
「そう。令和の時代……じゃなくて、未来の商業都市で大成功している『クロスプロモーション(店舗間相互送客)』を仕掛けるのよ!」
◆
「相互送客……?」
さゆりは首を傾げた。昭和四十五年の下町の少女にとって、それは呪文のような言葉だった。
「簡単に言えばね、『うちのお客さんをカトレアへ送り、カトレアのお客さんをキリシマ食堂へ送る』仕組みを作ることよ」
結衣はバッグからノートとペンを取り出し、テーブルの上に図を描き始めた。
「キリシマ食堂は、昼時になると工員さんたちで満席になるわ。でも、席数が二十一席しかないから、食べ終わったお客さんにはすぐに出て行ってもらわなきゃいけない。ゆっくり食後の煙草を吸ったり、お喋りしたりする余裕がないの。一方で、カトレアさんはゆったりとしたソファーと、極上のサイフォン珈琲がある」
結衣は二つの店舗を矢印で結んだ。
「だから、キリシマ食堂でオムライスや定食を食べたお客さん全員に、『カトレアの珈琲三十円引き券』を配るのよ」
「えっ!? 三十円も引いちゃうの!? 八十円の珈琲が五十円になっちゃうじゃない!」
「そうよ。でも、今までお昼に来ていなかったお客さんが、食後の珈琲を飲みにカトレアへ流れてくるのよ? ゼロだった売上が、一人あたり五十円の確実なプラスになる。しかも、珈琲の原価は一杯あたり十円から十五円程度でしょう? 三十円引いても、三十五円以上の粗利が手元に残るわ」
「あ……っ!」
さゆりの口がぽかんと開いた。
「そして逆に! カトレアで珈琲を飲んでくれたお客さんには、『キリシマ食堂のミニデザート無料券』をお渡しするの」
「ミニデザート……?」
「そう。うちで仕込んでいる自家製ゼリーや、一口サイズのフルーツね。それを持ってキリシマ食堂へお食事に来てもらえれば、今までキリシマに入りにくかった若い女学生さんやタイピストのお姉さんたちが、『デザートが付くなら行ってみようかしら』と足を運んでくれるようになるわ」
食事はキリシマでガッツリと。
食後の余韻と珈琲はカトレアで優雅に。
二つの店舗が一本の「回遊動線」で結ばれ、商店街の角と中ほどに、途切れることのない人の流れが生まれる。
「すごい……! それ、すっごく面白いわ、結衣さん!」
さゆりの目がキラキラと輝き出した。
「でもね、結衣さん。割引券をただの紙切れで配っても、みんなポケットの中でクシャクシャにして捨てちゃうんじゃないかしら?」
「ふふ、鋭いところを突くわね、さゆりちゃん」
結衣はニヤリと笑った。
「だから、持っているだけでワクワクして、誰かに見せびらかしたくなるような『特別なチケット』を作るのよ。……さゆりちゃん、寺岡堂さんへ行くわよ!」
◆
二人が駆け込んだのは、商店街の中ほどにある文房具店「寺岡堂」だった。
チリンチリンと真鍮のベルが鳴り、奥から銀縁丸眼鏡の寺岡雅之が顔を上げた。
「おや、桐島さんに、カトレアのさゆりちゃん。珍しい組み合わせですね。今日はどのような画材をお探しですか?」
「寺岡さん、特注のカードを作りたいんです!」
結衣はカウンターに身を乗り出した。
「名刺サイズの上質な厚紙……できれば、少しクリームがかった、手触りの優しいコットンペーパーはありますか? それから、消しゴム版画用の彫刻刀と、耐水性の赤いスタンプインクをいただきたいんです」
「名刺サイズの厚紙に、スタンプですか?」
寺岡は眼鏡の位置を直しながら、知的な好奇心に目を細めた。
「ええ、ありますよ。銀座の洋服店がタグに使う特注の上質ケント紙の端材が、ちょうど百枚ほどあります。……しかし、一体何を作られるおつもりですか?」
「下町初の『ショップカード兼スタンプラリーカード』です!」
結衣は寺岡堂の作業机を借り、さゆりと並んで作業に取り掛かった。
結衣が担当したのは、カードの枠組みとタイポグラフィのデザインだ。
名刺大の紙の表面には、結衣の流麗なレタリングでこう描かれた。
『初音銀座・小粋な寄り道パスポート』
[キリシマ食堂で満腹]+[純喫茶カトレアで休息]
=下町で一番贅沢な昼下がり。
裏面には、二つの店舗のスタンプを押す丸い枠が二つ。
キリシマでスタンプを押してもらえばカトレアで珈琲三十円引き。カトレアでスタンプを押してもらえばキリシマでデザートサービス。
そして――カードの中央に押すスタンプは、さゆりが彫刻刀を握って自作した。
「痛っ……あ、上手に彫れたかも!」
消しゴムを削ってさゆりが作ったのは、カトレアの花びらと、キリシマのフライパンが仲良く並んだ、可愛らしい特製スタンプだった。
赤いインクをつけて試し押しをすると、クリーム色の厚紙の上に、鮮やかなシンボルマークがポンと浮かび上がった。
「きゃあ、可愛い! これ、すっごくハイカラじゃない!?」
さゆりが歓声を上げる。
横で見ていた寺岡も、感嘆の息を漏らした。
「素晴らしいアイデアですね……。単なる値引き券ではなく、集めること自体がゲームのような楽しさを持っている。スタンプを押すという行為が、顧客の再訪意欲を強烈に刺激するわけだ。……桐島さん、あなたの発想は、いつも商業の本質を突いていますね」
「ふふ、ありがとうございます。寺岡さんの上質な紙のおかげです!」
だが――結衣の計画は、これだけで終わらなかった。
「さゆりちゃん。相互送客の仕組みはできたわ。でも……カトレアさん自身の『武器』も、もう一つ強化したいの」
「えっ? うちの武器?」
「そう。カトレアの狭い厨房でも、火口を使わずに、注文から三分で出せて、珈琲の香りを邪魔しない、最高にハイカラな『軽食』よ」
「そんな都合のいいメニューがあるの……?」
怪訝そうなさゆりに、結衣は不敵な笑みを浮かべた。
「あるわ。昭和四十五年の今、銀座の最先端の喫茶店で密かに大ブームになり始めている、伝説のメニューがね」
◆
キリシマ食堂の厨房。
夕方の仕込みをしていた大山源三の前に、結衣とさゆりが乗り込んできた。
「……あァ!?」
源三が包丁を止め、目を剥いた。
「俺の仕込んだデミグラスソースを、向かいの喫茶店に横流ししろだと!? 何を馬鹿なこと言ってやがるんだ、結衣!」
「横流しじゃありません、正当な企業間取引(BtoB外販)です!」
結衣は一歩も引かずにカウンターを叩いた。
「源さん、聞いてください。カトレアさんの厨房には、パンを焼く電気式のオーブントースターがあります。でも、コンロが一台しかないから、パスタを茹でたり肉を焼いたりはできません。そこで、うちのデミグラスソースを小瓶に分けてカトレアさんに卸すんです!」
「喫茶店でデミグラスを使って、何を作るってんだよ」
「これです!」
結衣はまな板の上に、近所のベーカリーから買ってきたばかりの、厚さ三センチはあろうかという極厚切りの食パンをドンと置いた。
「『特製デミグラス・ピザトースト』です!」
「ピザ……トースト……?」
源三も、さゆりも、揃って目を白黒させた。
昭和四十五年。
ピザといえば、まだ六本木や赤坂の高級イタリア料理店でしか食べられない、庶民には縁遠い未知の外国料理だった。本物のピザ生地を作るには専用の発酵設備と石窯が必要で、下町の喫茶店など逆立ちしても手が出ない。
だが――食パンをピザ生地に見立て、具材を乗せてトースターで焼き上げる「ピザトースト」は、まさにこの時代、有楽町や銀座の老舗喫茶店で産声を上げたばかりの、超最先端のハイカラフードだったのだ。
「いいですか、作り方は驚くほど簡単です」
結衣はエプロンを締め、手早く実演を始めた。
厚切りの食パンの表面に、有塩バターを薄く塗る。パンがソースの水分を吸ってべたつくのを防ぐための油膜のシールドだ。
そこへ、通常ならピザソース(トマトソース)を塗るところを――結衣は、小鍋からすくい上げた源三の漆黒のデミグラスソースを、大さじ二杯、たっぷりと塗り広げた。
赤ワインと牛骨のコク、焦がし香味野菜の深い苦味を持つ秘伝のソースが、白い食パンの表面を濡れた黒漆のように染め上げていく。
その上に散らしたのは、八百杉から仕入れたばかりのみずみずしい玉ねぎの薄切りと、緑鮮やかなピーマンの輪切り。
さらに、薄切りのサラミソーセージを四枚、花びらのように並べる。
そして仕上げに――。
「さゆりちゃん、チーズをたっぷり乗せて!」
「は、はいっ!」
さゆりが黄色いプロセスチーズの細切りを、パンの耳が見えなくなるほど山盛りに敷き詰めた。
結衣はそのトーストを、魚焼き用のガスクリル(トースターの代用)の中へと滑り込ませた。
強火で熱すること、わずか二分半。
チリチリチリ……ジュワジュワッ!
グリルの隙間から、猛烈な勢いで香ばしい煙が噴き出してきた。
溶けたチーズがグツグツと沸騰し、焦げたデミグラスソースの香りと混ざり合う、暴力的なまでの芳香。
「出します!」
引き出された鉄板の上で、奇跡の一皿が完成していた。
「…………っ!!」
源三とさゆりが、同時に息を呑んだ。
厚切りのトーストの上で、黄金色のチーズがふつふつと泡を立て、所々にこんがりとした濃いきつね色の焦げ目がついている。
ピーマンの鮮やかな緑と、サラミの赤。
そして、チーズの隙間から、熱で煮詰まった漆黒のデミグラスソースが、マグマのように顔を覗かせていた。
包丁を斜めに入れる。
サクッ!
極上の刃音が響き、切り口からトロリと糸を引くチーズと、濃厚なデミグラスソースが絡み合って溢れ出した。
「さゆりちゃん、食べてみて」
「う、うん……っ!」
さゆりは両手で熱々のピザトーストを持ち上げた。
指先に伝わるパンのふんわりとした温もり。
大きく口を開け、角の部分をガブリと頬張った。
サクッ……モチッ!
「っ……………………!?」
さゆりの身体が、ピンと跳ね上がった。
サングラスが額からずり落ちそうになるのも構わず、両手で頬を押さえて目を限界まで見開いている。
「な……な、なんなのこれぇぇぇっ!?」
さゆりの口から、黄色い悲鳴が上がった。
「パンが……外側がサクサクなのに、中は信じられないくらいモチモチしてて……! それに、このチーズ! とろけてパンに絡みついて……すっごく濃厚!」
そして、さゆりの味覚を決定的にノックアウトしたのは、パンとチーズの間に潜んでいた、源三のソースだった。
「ケチャップのトーストと全然違う! 源さんのデミグラスソースの深いコクと苦味が、チーズの塩気と混ざり合って……まるで高級レストランのビーフシチューをパンに乗せて食べてるみたい! 玉ねぎのシャキシャキした甘みと、ピーマンのほろ苦さがアクセントになって……止まらない! 止まらないわよ、これ!!」
さゆりは大口を開け、ハフハフと息を吹きながら、あっという間に半分を平らげてしまった。
「おい、さゆり! そんなに美味いのかよ!?」
源三が我慢しきれずに身を乗り出し、残りの半分をひったくるように口へ放り込んだ。
バリッ、ジュワッ。
「…………っ!!」
老職人の咀嚼が、ピタリと止まった。
目を見開き、奥歯でじっくりと噛み締める。
自分の誇りである浅草仕込みのデミグラスソース。ご飯やカツレツにかけることしか頭になかったそのソースが、トーストされた小麦の香ばしさと、溶けたチーズの乳脂肪と出会った瞬間――信じがたいほどの相乗効果を発揮していた。
「……チッ」
源三は喉を鳴らして飲み干すと、手ぬぐいで口元を拭い、背中を向けた。
「……食パンなんざ、洋食の付け合わせの端切れだと思ってたが……。チーズと合わせると、俺のソースの苦味が驚くほど引き立ちやがる。……小娘、また奇妙なもんを考え出しやがったな」
ぶっきらぼうな悪態。
だが、その口元は、新しい料理の可能性を見せつけられた職人の好奇心で、微かに緩んでいた。
「源さん、どうですか?」
結衣は畳み掛けた。
「カトレアさんにデミグラスソースを卸せば、うちにとっては仕込みの端数をお金に換える高利益の『外販収入』になります。カトレアさんにとっては、仕込みの手間ゼロで、他店には絶対に真似できない『看板ピザトースト』が手に入ります。……ソース、分けていただけますね?」
源三は煙草を取り出し、ため息混じりにマッチを擦った。
「……持ってけ。毎日二升、カトレア用の寸胴に取り分けてやる。……さゆり、うちのソースの看板に泥塗るような焼き方したら承知しねえぞ」
「きゃあ! 源さん、大好きーーっ!!」
さゆりは飛び上がって源三の首に抱きつき、老職人は「よせ、煙草が危ねえだろうが!」と真っ赤になって照れ散らした。
◆
翌週から、初音銀座商店街に、誰も見たことのない新しい人の波が生まれた。
『初音銀座・小粋な寄り道パスポート』。
寺岡堂の厚紙に、さゆりの可愛い消しゴムスタンプが押されたそのカードは、あっという間に商店街の若い女性たちの間で話題沸騰となった。
正午。
キリシマ食堂の引き戸を開けて入ってきたのは、近隣の繊維問屋や銀行の支店で働く、若いタイピストの女性三人組だった。
「ごめんください! あの、カトレアさんでこのカードをもらったんですけど……ミニデザート、付くんですか?」
「いらっしゃいませ! もちろんですよ、どうぞ奥のテーブルへ!」
結衣が弾んだ声で迎え入れる。
彼女たちが注文したのは、ふわとろの『特製・開花オムライス』。
ナイフを入れ、黄金の半熟卵がパカンと花開いた瞬間、女性客たちから「きゃあ、可愛い!」「すごい、とろとろ!」と黄色い歓声が上がった。
食後には、パスポートの特典である、自家製の冷たい「琥珀りんごゼリー」が運ばれる。
大満足で店を出た彼女たちの手には、キリシマのスタンプが押されたカードが握られていた。
「ねえ、このあとカトレア行かない? 珈琲三十円引きよ!」
「行く行く! 新しいピザトーストも気になるし!」
そして――舞台は、純喫茶「カトレア」へ。
午後一時を過ぎると、キリシマ食堂から流れてきた女性客やサラリーマンたちが、続々とカトレアの赤いソファーを埋め尽くしていった。
カチ、コトコト……。
真鍮のサイフォンが心地よい音を立てて珈琲を抽出し、トースターからは、チーズとデミグラスソースの香ばしい匂いが漂ってくる。
「お待たせいたしました! 特製デミグラス・ピザトーストと、サイフォンブレンドのセットです!」
さゆりがミニスカートを揺らし、満面の笑顔でトレイを運ぶ。
厚切りトーストにとろけるチーズと漆黒のソース。
それを頬張り、熱いサイフォン珈琲を一口すする客たちの顔に、至福の笑みが広がる。
「美味しい……! こんなハイカラなトースト、銀座のデパートまで行かないと食べられないと思ってたわ!」
「キリシマ食堂のソースを使ってるんだって。あそこのオムライスも美味しかったけど、このトーストも最高ね!」
回遊動線の完成だった。
キリシマ食堂で食事をし、カトレアで珈琲を飲み、その足で八百杉で夕飯の買い出しをし、寺岡堂で雑誌を買って帰る。
単なる一軒の洋食屋の繁盛にとどまらず、商店街の複数の店舗が手を取り合うことで、街全体が一つの「オープンエアのショッピングモール」のように機能し始めたのだ。
カトレアの売上は前週比で一・八倍に跳ね上がり、客単価は倍増。
そしてキリシマ食堂にも、連日二十人以上の女性客が訪れるようになり、かつての「男工たちの殺伐とした飯場」の空気は、老若男女が笑顔で行き交う明るい洋食レストランのそれへと完全に塗り替えられていた。
◆
午後五時。
夕方の仕込みの合間、結衣がキリシマ食堂の勝手口で涼んでいると、パタパタと小走りの足音が近づいてきた。
「結衣さーーんっ!」
飛び込んできたのは、カトレアのエプロンをつけたままのさゆりだった。
さゆりは結衣の胸元へ勢いよく飛び込み、ぎゅっと抱きついてきた。
「わっ、さゆりちゃん!? どうしたの?」
「結衣さん、本当にありがとう! 今日ね、お父さんが帳簿見て泣いちゃったのよ!『こんなにピザトーストが出て、珈琲のお代わりが入ったのは、店を開いて以来初めてだ』って!」
さゆりは結衣の顔を見上げ、大きな瞳を潤ませていた。
「全部、結衣さんのおかげよ。……結衣さんって、本当にすごい。私、結衣さんのこと、本当のお姉ちゃんだと思ってもいい?」
「え……?」
「私ね、一人っ子だから、ずっとお姉ちゃんが欲しかったの。優しくて、カッコよくて、困った時に魔法みたいに助けてくれる……結衣さんみたいな、素敵なお姉ちゃんが!」
さゆりの屈託のない、真っ直ぐな憧れと愛情。
令和のオフィスで、誰にも頼られず、誰とも深い繋がりを持てずに、冷たいパソコンの画面だけを見つめていた結衣の胸の奥底が、じわりと温かい熱で満たされていく。
「……うん」
結衣は優しく目を細め、さゆりの柔らかな髪をそっと撫でた。
「嬉しいな。私でよかったら、いつでも甘えてね、さゆりちゃん」
「えへへ、お姉ちゃん!」
夕暮れの茜色の空の下、二人の少女の笑い声が路地裏に響き渡った。
向かいの八百杉の店先から、トミが「あらあら、すっかり仲良し姉妹だねえ!」と手を振って笑い、配達から戻ってきた勇が、結衣とさゆりの笑顔を見て耳まで真っ赤にしてトラックの陰へ隠れる。
下町の人間関係のぬくもり。
それは、ただの情に流される馴れ合いではない。
お互いの商売を助け合い、敬意を払い、共に豊かになっていくことで結ばれた、強固で美しいコミュニティの絆だった。
桐島結衣という未来からの来訪者は、いまや初音銀座商店街という巨大な家族の中心で、誰もが頼りにする「下町の女帝」への階段を、確かな足取りで昇り続けていた。




