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第17話:訛(なま)り色したポークジンジャー

キィィィィィィン――ガガガガッ、バツンッ!

午後四時を回ったばかりの初音銀座商店街の裏通りに、耳の奥を劈くような甲高い金属の断裂音が響き渡った。

続いて起こったのは、地響きのような唸りを上げていた旋盤のモーターが、安全装置を作動させて急停止する鈍い落差の音。

そして――。


「――この大馬鹿野郎がッ!! 何を見てやがったんだコラァッ!!」


長屋のトタン屋根を震わせるほどの怒号だった。

声の主は、キリシマ食堂の裏手に隣接する「本田鉄工所」の社長、本田辰夫だ。普段の豪快な笑い声とはまるで違う、喉を引き裂くような本気の雷鳴。

キリシマ食堂の厨房で、夜の営業に向けた下ごしらえをしていた桐島結衣は、千切りにしていたキャベツの手を思わず止めた。

「……今の音、本田鉄工所からよね……?」

「ああ」

まな板の向こうで豚肉の筋切りをしていた大山源三が、包丁を置かずに眉をひそめた。

「旋盤の刃(バイト)を噛み込ませてへし折った音だ。……あの音は、並大抵のヘマじゃねえぞ」

源三の言葉が終わるか終わらないかのうちに、勝手口の外の未舗装の路地を、ドタドタと乱暴に駆け抜けていく足音が響いた。

小柄な、油まみれの作業着の背中が、夕暮れの斜光の中を一目散に走り去っていくのが、すりガラスの隙間から一瞬だけ見えた。

秋田出身の若い工員――水野誠二だった。

「おい、待て誠二ッ! 逃げるんじゃねえ!!」

背後から本田の怒声が追いすがるが、足音は路地裏の迷路の中へと吸い込まれ、やがて遠くの踏切の警報音にかき消されていった。


「……何があったのかしら」

結衣は胸元をぎゅっと押さえた。

誠二のあの怯えきった表情と、今にも泣き出しそうな後ろ姿が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。


◆


それから一時間半後。

初音銀座商店街には、藍色の濃い夕闇がしっとりと降りてきていた。

まだ夜の帳が下りきらない薄暮の時間帯。通りにはぽつりぽつりと赤提灯が灯り始め、どこかの長屋からラジオ歌謡のメロディが流れてくる。

午後五時半、キリシマ食堂の正面引き戸に、結衣の手によって『営業中』の木札が掛けられた。

だが、夜の開店直後の店内には、まだ客の姿はない。

換気扇の低い回転音と、仕込み用の寸胴鍋がコトコトと微かに揺れる音だけが、静かな客席を満たしていた。


カラ……リ。

まるで風が木枠を揺らしただけのような、あまりにも頼りない音がした。

結衣が顔を上げると、正面の硝子戸がわずか十センチほど開いていた。

その隙間から、恐る恐る中を覗き込んでいる人影がある。

「……いらっしゃいませ?」

結衣が声をかけると、その人影はビクッと肩を震わせ、逃げ出そうとするように後退りしかけた。

薄暗い街灯の光に照らされたその顔を見て、結衣は息を呑んだ。

「誠二さん……!?」

水野誠二だった。

本田鉄工所の灰色の作業着は、機械油と黒い鉄粉で泥のように汚れ、胸元のボタンは引きちぎれたように取れかかっていた。

頭の作業帽はなく、ボサボサの黒髪は汗と埃で額にへばりついている。

何より異様だったのは、その青ざめた顔だった。頬には黒い油汚れが幾筋も擦り付けられ、唇は血の気を失ってガタガタと小刻みに震えていた。

「……あ、あの……」

誠二の喉から、掠れた、泣き出しそうな声が漏れた。

「……入っても……ええべか……?」

取り繕う余裕すらないのか、普段は必死に隠しているはずの東北の強い訛りが、そのまま零れ落ちていた。

「もちろんですよ! どうぞ、入ってください!」

結衣は駆け寄り、戸を大きく開け放った。

誠二は足を引きずるようにして敷居を跨ぐと、土間に立ち尽くし、油に汚れた自らの両手を所在なげに見つめた。

「……あの、服、汚ねえから……椅子、汚してしまうべ……」

「そんなこと気にしなくていいですから! さあ、一番奥の席へどうぞ」

結衣は誠二の細い腕にそっと手を添え、客席の一番隅、壁際のテーブル席へと導いた。

ドサリ、と誠二の身体が丸椅子に沈み込む。

厨房の奥から、大山源三が無言のまま姿を現した。

白頭巾の下の鋭い眼光が、縮こまる少年の姿をじっと射抜く。だが、いつものような小言や怒声は飛ばさず、ただ黙って清潔な濡れ手ぬぐいと、冷たい麦茶のコップをトレイに乗せて運んできた。

ドン、とテーブルに置かれる。

「……顔、拭きな。油が目に入ったら痛えぞ」

ぶっきらぼうな源三の言葉に、誠二はビクッと肩を跳ねさせた。

「す、すみません……すみません……」

誠二は震える指先で手ぬぐいを取り上げると、すがるように顔を覆った。

冷たい手ぬぐいが、熱を持った皮膚の汚れを拭い去っていく。真っ白だった手ぬぐいは、瞬く間に黒い機械油で染め上げられた。

コップの麦茶を両手で持ち上げ、一気に飲み干す。

喉仏が渇いた音を立てて激しく上下した。

コップを置いた誠二は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、そのまま深く項垂れた。

作業着の背中が、小刻みに震えている。


「誠二さん」

結衣は誠二の向かいの椅子に腰掛け、目線を合わせるようにして優しく呼びかけた。

「……工場で、何があったんですか?」

誠二の呼吸が、詰まった。

言いたくない、という躊躇い。けれど、胸の中に渦巻く恐怖と絶望の濁流を、誰かに吐き出さずにはいられないという限界。

やがて、少年の乾いた唇から、ポツリ、ポツリと言葉が零れ落ち始めた。


「……バイトを……へし折ってしまったんだ」

誠二の声は、震えていた。

「自動車のトランスミッションに使う……特注のギアシャフトを削るための、スイス製の超硬チップがついた、一番高いバイトだ。……社長が、先月『うちの工場の命だ』って言って、大金はたいて仕入れてきた道具だった」

誠二の握りしめた拳の爪が、掌に白く食い込んでいく。

「今日中に納めなきゃならねえ部品だったのに……僕、送り速度のレバーを間違えて……。ギャリギャリッて凄い音がして、火花が散って……刃先が粉々に吹き飛んで、芯棒まで曲げてしまった……」

「…………」

「社長に……殴られると思いました。怒鳴られて……『この給料泥棒が! てめえの安月給で弁償できると思ってんのか!』って……。怖くて……目の前が真っ暗になって、僕……工場を飛び出してしまいました……」

誠二の大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

油汚れを拭ったばかりの頬の上を、透明な雫が伝い、作業着の膝の上に黒い染みを作っていく。

「弁償なんて……できねえ。田舎の母ちゃんに毎月仕送りしてるのに、そんな大金、払えるわけがねえ……。クビだ。もう、工場にはいられねえ……」

誠二は両手で顔を覆い、しゃくりあげた。

その口から漏れ出したのは、押し殺していた望郷の悲鳴だった。


「……帰りてえ……。秋田さ、帰りてえよ……」

途切れ途切れの、生々しい方言。

「東京は……怖えところだ。人は蟻んこみてえに多くて、誰も目を合わせてくれねえし、街は埃っぽくて、空はビルと電線で塞がれてて、息が詰まる……。夜になっても機械の音が耳の奥で鳴り止まねえんだ……。田舎なら……田舎の山なら、こんな思いしねえですんだのに……。母ちゃん……母ちゃんの作った飯が……食いてえよ……」


結衣の胸が、激しく締め付けられた。

昭和四十五年。

高度経済成長の熱気の中、地方から「金の卵」ともてはやされて上京してきた若者たち。

集団就職列車に詰め込まれ、東京の駅に降り立ち、右も左も分からないまま町工場の寮に押し込められ、低賃金と長時間労働の中で、日本の奇跡的な経済復興をその細い腕で支えていた少年たち。

彼らは「豊かになる日本」の主役などではなかった。

家族のために、仕送りのために、故郷を捨てて見知らぬ大都会の濁流へと身を投じ、孤独と重圧に押し潰されそうになりながら、ただ耐え忍んでいたのだ。


(この子も……一人で戦ってきたんだ)

令和のオフィスで、終電間際のガード下の壁にすがりついて泣いていた自分自身の姿が、痛いほど重なった。

誰のために働いているのか。

なぜこんな冷たい街で、心をすり減らし続けなければならないのか。

出口のない暗闇の中で、誰にも弱音を吐けずに震えていたあの夜。

いま、目の前で泣きじゃくっているこの二十一歳の少年は、まさにあの時の自分そのものだった。


「…………」

厨房の入り口で腕組みをしていた源三が、深く息を吐き出した。

煙草を一本取り出し、マッチを擦る。

紫煙が薄暗い店内に立ち上る中、源三は静かに呟いた。

「……機械の刃なんざ、金を出せばいくらでも買い直せる。だが……一度折れちまった人間の心は、そう簡単にゃ元に戻らねえからな」

源三の言葉に、結衣はハッと顔を上げた。

老職人の瞳は、決して冷たくなかった。数え切れないほどの若者たちが都会の波に呑まれて消えていった昭和の光と影を、誰よりも見てきた男の、深い痛惜の光が宿っていた。

結衣は立ち上がり、カウンターの中の源三の元へと足早に歩み寄った。


「源さん」

「……なんだよ」

「豚肉……豚ロースのブロック、まだありますよね」

「あァ? カツレツ用の一番いいロースが、仕込み台の上に丸ごと一本あるが……それがどうした」

「ポークジンジャーを……生姜焼きを作ってください」

結衣の真剣な眼差しに、源三は煙草をくわえたまま眉を寄せた。

「ポークジンジャーだと? あんなもん、醤油とみりんと生姜でサッと焼くだけの、大衆食堂の安総菜だぞ。あんな泣き腫らしてる小僧の腹に、そんな脂っこいもんが収まると思ってんのか」

「いつもの生姜焼きじゃダメなんです」

結衣は厨房の奥の棚を指差した。

「源さん。昨日、八百杉のトミさんが『田舎から届いたから』って分けてくれた……あの壺、ありますよね。東北の、熟成された濃厚な赤味噌が」

源三の目が、見開かれた。

「……トミの実家の、仙台の赤味噌か」

「はい。あの赤味噌を、すりおろしたたっぷりの生姜と、酒、みりん、そして隠し味のりんごのすりおろしと一緒に練り上げて、特製の味噌ダレを作るんです」

結衣は身を乗り出した。

「秋田や宮城の東北の食文化は、厳しい冬を乗り越えるための『発酵と味噌の文化』です。醤油のシャープな味付けじゃない。大豆の芯まで発酵した、あの重厚で甘みのある味噌の香りこそが、あの少年の細胞の奥深くに眠っている『故郷の記憶』そのものなんです!」

「…………」

「脂の乗った分厚い豚ロースを強火で香ばしく焼き上げて、その味噌ダレを一気に絡める。焦げた味噌の香ばしさと生姜の刺激、豚肉の圧倒的なビタミンとアミノ酸。……冷え切って、怯えきっている誠二さんの心と体を底から温めることができるのは、あの味噌を使ったポークジンジャーしかありません!」

結衣の熱弁。

マーケティングでも、効率化でもない。

ただ、目の前で傷つき、折れかけている一人の少年を救いたいという、魂からの願い。

源三は煙草の灰を灰皿へと落とし、じっと結衣を見つめた。

やがて、老職人はフッと口元を歪めた。

「……相変わらず、食い物の理屈をこね回すのが好きな小娘だ」

源三は煙草をもみ消すと、前掛けの紐を力強く締め直した。

「味噌壺を出せ、結衣。生姜は八百杉の太えやつを、皮ごとすりおろせ。……浅草の職人が本気で作る下町と東北の合体洋食だ。不味いわけがねえだろうが」


◆


厨房の空気が、一瞬にして極限の緊張感へと包まれた。

結衣は八百杉から仕入れたばかりの、黄金色に輝く立派な新生姜をタワシで洗い、皮の近くに最も多く含まれる香り成分(ジンゲロール)を逃さないよう、目の細かいおろし金ですりおろしていく。

ショリショリ、ショリショリと小気味よい音が響き、ツンと鼻腔をくすぐる鮮烈な生姜の香りが厨房に満ちる。

そこへ、トミから譲り受けた漆黒に近い深紅の赤味噌を合わせる。

大豆の粒がわずかに残る、長期熟成された本物の田舎味噌。

みりん、清酒、少量の濃口醤油、そして八百杉のりんごを皮ごとすりおろした果汁を投入し、小さなすり鉢の中で木製のすりこぎを使って丹念に練り上げていく。

ドロリとした、艶やかな赤褐色の特製ジンジャー味噌ダレが完成した。

舐めてみると、生姜の鮮烈な辛味の奥から、味噌の芳醇なコクと、りんごの優しい酸味と甘みが波のように押し寄せてくる。


「肉を切るぞ」

源三が、まな板の上に横たえられた見事な豚ロースの塊肉に、研ぎ澄まされた牛刀を構えた。

肉屋「肉の丸長」から仕入れたばかりの、澄んだピンク色の赤身と、真っ白で硬く締まった脂身を持つ極上の国産豚。

スッ、と刃が吸い込まれる。

切り出されたのは、一般的な生姜焼き用の薄切り肉ではない。

厚さ、およそ一・五センチ。ステーキと見紛うばかりの、堂々たる極厚のロース肉だった。

「源さん、こんなに分厚くて火が通りますか!?」

「通すんだよ、職人の技でな」

源三は牛刀の切っ先を使い、赤身と脂身の境目にある筋を、トントントンと等間隔でリズミカルに断ち切っていった。肉の縮みを防ぎ、火の通りを均一にするための見事な筋切り。

さらに、包丁の背を使って肉全体を軽く叩き、繊維を解きほぐす。

塩と白胡椒をごく薄く振り、小麦粉を茶漉しで表面にふわりとまとわせる。

小麦粉の薄い膜が、肉汁の流出を防ぎ、後から投入するタレを完璧に吸い寄せるスポンジの役割を果たすのだ。


カチリ、ボッ!

手前のコンロから、青く鋭いガス火が噴き上がった。

源三が鉄のフライパンを強火にかける。

自家製ラードが一片、落とされた。

ジュワッ!

澄んだ白い脂が瞬時に溶け広がり、煙が立ち上る限界の温度まで熱せられる。

「行くぞ!」

源三が分厚い豚ロースを、滑り込ませるようにフライパンへ投入した。


ジャアアアアアアアッ――!!

耳を劈くような激しい焼き音が厨房に炸裂した。

立ち上る猛烈な白い蒸気。

ラードの香ばしい動物性の脂の匂いと、豚肉の表面が焼き固められていく芳しいタンパク質の焼ける匂いが、一気に店内の隅々へと充満していく。

源三はフライパンを揺すらず、じっと動かさない。

強火で一気に表面をキャラメリゼし、黄金色のクリスピーな焼き色をつける。

十秒、二十秒。

源三がトングで肉を裏返した瞬間――。

息を呑むような光景が現れた。

表面は、完璧なまでに均一な、濃いきつね色の焼き目をまとい、縁の脂身はパチパチと音を立てて透明な脂を滴らせていた。

火を弱め、蓋をして余熱で芯までじっくりと熱を通す。

一分後。

竹串を肉の中央に刺し、下唇に当てて温度を確かめた源三が、蓋を跳ね上げた。

肉はふっくらと膨らみ、弾力に満ちている。

「結衣、タレだ!」

「はいっ!」


結衣が差し出したすり鉢から、特製ジンジャー味噌ダレが、熱々のフライパンの鍋肌へ一気に注ぎ入れられた。


ジュワワワワワワッ――!!

立ち上った煙の量は、先ほどの比ではなかった。

熱せられた鉄肌に触れた瞬間、赤味噌に含まれるアミノ酸と糖分が一気に焦がされ、猛烈な香気となって爆発した。

焦がし味噌の、どこか懐かしく、胸の奥を激しく揺さぶるような深い大豆の芳香。

すりおろし生姜のツンと鼻を突き抜ける爽快な刺激。

そして、りんごの果汁がカラメル化して放つフルーティーな甘い湯気。

タレが沸騰し、大きな泡を立てて肉全体を包み込んでいく。

源三がフライパンを激しくあおり、スプーンで煮詰まった濃厚なタレを何度も、何度も肉の表面へと回しかける。

タレの水分が飛び、豚肉から溶け出した澄んだ脂と乳化して、とろりとした漆黒に近い飴色のグレーズ(照り)となって肉の衣へと吸い付いていく。


「盛り付けだ!」

結衣はあらかじめ、大皿の奥に瑞々しい千切りキャベツの山を築き、真っ赤なトマトの串切りと、ポテトサラダを添えてスタンバイしていた。

源三がフライパンから肉を引き上げ、まな板の上でザクッ、ザクッと二センチ幅に手早く切り分ける。

断面からは、ほんのりとした桜色の肉汁がじわりと滲み出ていた。

キャベツの山に寄り添うようにして盛り付けられる、大輪の花のような極厚ポークジンジャー。

フライパンに残った、生姜の繊維が絡みつく濃厚な味噌ダレの最後の一滴までが、肉の上から惜しげもなく回しかけられた。


「運べ、結衣!」

源三が、短く叫んだ。

「へい、おまちどう! 飯も大盛りで持ってけ!」


◆


「誠二さん」

結衣は、湯気を噴き上げる大皿を、誠二の目の前へと置いた。

ドン、と置かれたのは、それだけではなかった。

羽釜で炊き上げられたばかりの、真っ白な銀シャリがこれでもかと漫画のように山盛りに盛られた大ぶりなどんぶり飯。

そして、豆腐とワカメ、刻みネギがたっぷり入った、熱々の豚汁。

「……え……?」

項垂れていた誠二が、恐る恐る顔を上げた。

目の前に広がる光景に、少年の瞳が釘付けになった。

白磁の大皿の上に鎮座する、分厚い豚ロース肉の山。

漆黒に近い飴色のタレをまとい、照明の光を浴びてテラテラと濡れたように輝いている。

そして――何よりも誠二の鼻腔を直撃したのは、その湯気とともに立ち上ってくる「匂い」だった。

焦がし醤油の洋食の匂いではない。

奥深く、どこか重厚で、土のぬくもりを孕んだ、懐かしい発酵の香り。

「これ……味噌……?」

誠二の喉が、トクンと小さく鳴った。

「キリシマ食堂特製、東北味噌仕立てのポークジンジャーです」

結衣は割り箸を割り、誠二の手元へと差し出した。

「秋田のすぐお隣、宮城の熟成赤味噌と、たっぷりのすりおろし生姜で作った特製のタレです。……誠二さん、お腹が空いているでしょう。お肉が熱いうちに、一口食べてみてください」

「でも……僕、お金も……」

「金ならいらねえよ」

厨房の奥から、源三のだみ声が飛んできた。

「腕の鈍った料理人が、気まぐれで作った試作品だ。捨てるのも勿体ねえから、テメエの腹の中に片付けてもらうだけだ。……さっさと箸を動かせ。冷めちまったら、豚の脂が固まって不味くなるぞ」

ぶっきらぼうな、だが底知れぬ温かさをたたえた言葉。


誠二は、震える指先で割り箸を受け取った。

大皿から立ち上る熱気が、少年の冷え切った頬を包み込む。

箸を伸ばし、一番分厚い中央の肉片を挟み上げた。

ずっしりとした重み。

箸先から伝わってくるのは、固い肉の感触ではなく、弾力のある柔らかな手応えだった。

肉の断面からは、透明な肉汁がじわりと滴り落ち、濃厚な味噌ダレと混ざり合って千切りキャベツの山へと染み込んでいく。

誠二は大きく口を開け、その肉の塊を放り込んだ。


ガブリ。


「っ……………………!!」

誠二の身体が、弓なりに跳ね上がった。

噛み締めた瞬間、前歯がサクリと香ばしい衣を突き破り、驚くほど柔らかな豚ロースの肉繊維の中へと沈み込んでいった。

ジュワアアアアッ!

閉じ込められていた豚肉の甘い肉汁が、口いっぱいに洪水のように溢れ出す。

硬さなど微塵もない。

丁寧に筋を切られ、叩かれ、完璧な火加減でロゼ色に焼き上げられた肉は、噛むほどに解け、芳醇な旨味を放出し続ける。

そして――。

肉汁の上から覆いかぶさってきたのは、圧倒的なタレの力だった。

生姜の鮮烈な辛味と爽快感が、豚肉の重い脂っこさを一瞬で洗い流す。

直後に広がる、赤味噌の深いコクと塩気。

すりおろしりんごの優しい甘みが、味噌の角をまろやかに包み込み、焦がされた大豆の香ばしさが鼻腔を突き抜けていく。

それは――。

誠二が物心ついた頃から、秋田の吹き雪の降る夜、囲炉裏の端で母が作ってくれた、あの具だくさんの味噌鍋の味だった。

畑で採れた野菜を放り込み、自家製の味噌を溶かし、家族全員で肩を寄せ合って啜った、あの温かい、泥臭い、愛おしい故郷の味。


「あ……っ……」

誠二の喉から、掠れた息が漏れた。

考えるよりも先に、誠二の左手がどんぶり飯を鷲掴みにしていた。

箸で白飯を一気にすくい、口の中へとかき込む。

熱々の銀シャリが、濃厚な生姜味噌のタレと豚肉の脂と混ざり合い、爆発的な旨味となって味蕾のすべてを歓喜で震わせる。

美味い。

美味い、美味い、美味い!!

胃袋が、血液が、悲鳴を上げてこの栄養を貪り食っていた。

「う……っ、うわあああああん……っ!!」

誠二は、口いっぱいに肉と飯を頬張ったまま、子供のように声を上げて泣き崩れた。

涙が滝のように溢れ出し、頬の油汚れを溶かして顎からボロボロとどんぶりの中へと落ちていく。

「んまい……っ! んめええええよぉぉぉ……っ!!」

秋田弁の絶叫だった。

「母ちゃんの……母ちゃんの味噌の味がする……っ! 温けえ……っ! お肉が……こんなに柔らかくて……温けえよぉぉ……っ!!」

誠二は袖口で涙を拭うこともせず、一心不乱に箸を動かした。

ガツガツ、ガツガツ、ガツガツッ!

肉を喰らい、タレが染みた千切りキャベツをかき込み、山盛りの白飯を飲み込むように胃袋へと流し込んでいく。

一口ごとに、冷え切っていた身体に熱い血が巡る。

恐怖で強張っていた筋肉が解けていく。

孤独で、寂しくて、死んでしまいたかった心の中に、確かな「生きる力」が、マグマのように湧き上がってくる。

「ごく、ごく、ごくっ!」

豚汁を両手で持ち上げ、熱い出汁と根菜を一気に胃の腑へと流し込む。

ぷはーっと大きな息を吐き、誠二は再びポークジンジャーへと食らいついた。

皿の上にあった巨大な肉の山が、みるみるうちに消えていく。

結衣はテーブルの向かいで、目頭を熱くしながら、その姿を見守っていた。

胃袋を満たすこと。

温かいご飯を食べさせること。

それは、どんな美辞麗句よりも、どんな説教よりも、人間を絶望の淵から引き戻すことができる、世界で一番確かな魔法なのだ。


まさに、誠二が最後の一切れの肉を口に放り込み、どんぶりの底に残った米粒を箸で綺麗にかき集めていた、その時だった。


ドガアアアアアッ――!!

キリシマ食堂の正面の硝子戸が、割れんばかりの勢いで蹴破るようにして開け放たれた。


「――誠二ィッ!! そこにいるのは分かってんだぞコラァッ!!」


店内に響き渡ったのは、地獄の底から響くような雷鳴の怒号だった。

入り口に仁王立ちになっていたのは、本田鉄工所の社長――本田辰夫だった。

作業着の胸元は汗でびっしょりと濡れそぼり、首に巻いたタオルは泥だらけ。息を激しく切らし、肩を怒らせ、血走った眼光で店内を見回している。

町中を、誠二を探して走り回ってきたのだということは、その乱れた息遣いと泥まみれの足元を見れば一目瞭然だった。

「ひっ……!?」

誠二の箸が、手から滑り落ちてテーブルの上でカランと音を立てた。

少年の顔から、一瞬にして血の気が引く。

殺される。

高価な機械の刃をへし折り、逃げ出した自分を、社長が殴り倒しにやってきたのだ。

誠二は椅子の上で頭を抱え、恐怖のあまり全身を小さく丸めてガタガタと震え始めた。

「しゃ、社長……すみま……すみません……っ!!」

本田が大股でズカズカと店内へ踏み込んでくる。

ドシンドシンと重い足音が近づくたび、誠二は怯えて目を固く閉じた。

本田の太い、油にまみれた腕が、高く振り上げられた――。


結衣が思わず「本田さんっ!」と割って入ろうとした、その刹那。


ペシッ。


「……え?」

誠二がおずおずと目を開けた。

振り下ろされた本田の手は、拳ではなかった。

手のひらで、誠二のボサボサの頭を、ごく軽く、小突いただけだった。

本田はドカリと誠二の隣の丸椅子に腰を下ろすと、肩で大きく息を吐き出した。

「……怪我は、なかったか」

低く、掠れた声だった。

「え……?」

「耳が遠いのか、バカ野郎」

本田は首のタオルで顔の汗を乱暴に拭い、誠二の作業着の袖口を引っ張り上げた。

「刃が吹き飛んだ時、破片が腕や目に刺さらなかったかって聞いてんだよ! あんな超硬チップが弾け飛んで体に当たってみろ、肉が抉れちまうんだぞ! 怪我はねえのか!」

「しゃ、社長……?」

「怪我はねえんだな!?」

「は……はい……怪我は……どこも、してねえです……」

「そうか」

本田は深く息を吐き出し、天井を仰いだ。

「なら、いい」

「……え?」

誠二は呆然と本田の横顔を見つめた。

本田はポケットから煙草を取り出そうとしたが、箱が汗でぐしゃぐしゃに潰れていたため、忌々しそうに舌打ちをした。

「機械の刃なんざな、また金払って買い直せばいいんだよ。壊れた部品なんざ、徹夜で作り直しゃ済む話だ。……だがな、誠二」

本田は太い手を誠二の華奢な肩の上に、ドンと置いた。

「俺が怒ったのはな、刃を折ったからじゃねえ。……トラブルが起きた時に、機械を放り出して現場から逃げ出したからだ」

「…………っ!」

「機械ってのはな、人間が命を預けて動かしてるもんだ。ミスをしたなら、その場で電源を落として、親方に頭を下げて、何が原因だったのかを確かめるのが職人の仁義ってもんだろうが。逃げ出したら、二度と機械の前に立てなくなっちまうぞ」

本田の瞳には、怒りではなく、親方としての、そして父親のような深い厳しさと情愛が宿っていた。

「お前を秋田の親御さんから預かった時、俺は約束したんだ。『誠二を一人前の職人にして、五体満足で親元に顔向けできるようにしてやる』ってな。……指を一本でも失くされたら、俺が親御さんに合わせる顔がねえんだよ、バカ野郎」

「社長……っ……う、うわあああん……っ!!」

誠二は本田の作業着の胸元に顔を埋め、再び声を上げて泣きじゃくった。

本田は照れくさそうに「よせやい、油がつくじゃねえか」と悪態をつきながらも、その大きな手で、誠二の震える背中を何度も、何度も力強く叩いてやった。


ドン。

無言のまま、カウンターから一つの大皿と、山盛りのどんぶり飯が運ばれてきた。

大山源三だった。

本田の目の前に置かれたのは――誠二が食べたのと全く同じ、湯気を噴き上げる極厚ポークジンジャーだった。

「……食え、辰夫」

源三が腕組みをして言った。

「町中を走り回って、腹が減ってんだろ。……小僧を怒鳴りつけるのは、メシを食ってからにしな」

本田は目を丸くし、目の前の皿を見つめた。

そして、豪快に破顔した。

「がはは! 気が利くじゃねえか、源のオヤジ! いい匂いさせやがって!」

本田は割り箸をパチンと割ると、巨大な肉の塊を箸で持ち上げた。

「誠二! お前も残りの飯、全部食え! 腹一杯食ったら、工場に戻って旋盤の掃除だ! 明日の朝までに、折れたバイトの交換と芯出し、全部お前に叩き込んでやるからな!」

「はいっ! はいっ、社長!!」

誠二は涙を拭い、満面の笑顔でどんぶりを掲げた。


二人の男工が、競い合うようにしてポークジンジャーと白飯をかき込む。

ガツガツ、ガツガツッ!

美味い、美味いと叫びながら、汗を流して肉を喰らうその生命力の塊のような光景。

結衣は客席の隅に立ち、エプロンの胸元に手を当てて、その姿をじっと見つめていた。


(……温かいな)

胸の奥底が、じんわりと熱い涙で満たされていくようだった。

言葉は乱暴で、怒鳴り合いばかりで、プライバシーなんて欠片もない下町の世界。

けれど、ここには――失敗した人間を切り捨てず、傷ついた者を泥臭く抱きしめ、温かい飯を食わせて「明日も生きろ」と背中を押してくれる、本物の人間の体温があった。

令和の冷え切ったオフィスで、ずっと凍えそうになっていた結衣の魂が、この昭和四十五年の下町の熱狂の中で、完全に解きほぐされていくのを感じていた。


「おい、結衣」

厨房の奥から、源三が小声で手招きをした。

「はい、源さん」

結衣が駆け寄ると、源三は手鍋の底に残った特製の味噌ダレを木べらですくい、小皿に取って差し出してきた。

「……このタレ、いけるな」

老職人は、誰にも聞こえないような小さな声で、誇らしげに呟いた。

「赤味噌の焦がしと生姜のキレ……洋食のポークソテーの枠を超えて、下町の労働者の胃袋にガツンと刺さる味だ。……定番メニューに入れとけ。『下町ポークジンジャー』だ」

「ふふっ……はい! 大人気メニューになること、間違いなしです!」


ガラガラガラッ!

正面の引き戸が開き、夜の営業を待ちわびていた町工場の工員たちが、次々と暖簾をくぐって入ってきた。

「おっ、本田のオヤジがいるじゃねえか!」

「なんだその美味そうな肉は!? 俺にもそれくれ!」

店内に満ちていく、活気と笑い声。

焦がし味噌と生姜の香ばしい匂いが、夜の初音銀座商店街の空へと、高く、力強く立ち上っていった。

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