第16話:夕暮れのビフカツと、ほどけたネクタイ
西の空が、燃えるような朱色から濃密な紫紺へと、ゆっくりと沈みゆくグラデーションを描いていた。
初音銀座商店街を覆うトタン屋根の波間からは、一日中太陽に炙られ続けたトタンの焼ける匂いと、夕餉の支度を急ぐ長屋の台所から立ち上る魚を焼く煙が混ざり合い、ぬるい川風に乗って路地裏を撫でていく。
遠くの空き地からは、遊んでいた子供たちを家に呼び戻す母親たちの甲高い声がこだまし、どこかの民家の格子戸の奥からは、白黒テレビのニュースを告げるアナウンサーの無機質な声と、ヒグラシのカナカナという哀切な鳴き声が途切れ途切れに響いていた。
キリシマ食堂の昼営業が終わり、夜の開店準備までの束の間のアイドルタイム。
「ふう……っ」
桐島結衣は、洗いざらしの木綿の作業着の上に薄手の割烹着を重ね、勝手口の重い板戸をギィと押し開けた。
両手には、野菜の皮や出汁を取ったあとの昆布、魚の骨などをまとめたブリキのペール缶。ずっしりとした重みが両腕の筋肉に食い込む。
昼のピークタイムに導入した「時計仕掛けのA・Bランチ」は大盛況だった。サラリーマンたちを待たせることなく二分で提供し、客席の回転率はこれまでの倍以上に跳ね上がった。厨房のオペレーションは完璧に回り始め、帳簿の数字も順調に黒字への軌道を刻んでいる。
けれど、体を動かし続けている間は張り詰めていた神経が、夕暮れの静寂に触れた途端、ふっと緩んで心地よい気だるさを運んでくる。
結衣は路地の隅にある共同のゴミ集積場へペール缶を運び、蓋をきっちりと閉めた。
立ち上がり、腰に手を当てて深く背伸びをする。
見上げる空は高く、京成線の高架橋のシルエットが、夕焼けの残光を背にして黒ぐろと切り取られていた。
その時だった。
――カサリ。
乾いた紙が風に弄ばれるような、頼りなげな音が結衣の耳朶を打った。
勝手口から十間ほど離れた、長屋の板壁とトタン塀に挟まれた狭い路地の突き当たり。
普段は近所の老人たちが将棋を指したり、野良猫が昼寝をしたりしている、ペンキの剥げかけた小さな木製ベンチ。
そこに、一つの影が落ちていた。
「…………」
結衣は思わず足を止めた。
夕暮れの薄暗がりの中に沈み込むようにして座っていたのは、一人の若い男だった。
仕立てのいい、だが連日の激務で無残にシワの寄った紺のサージ地のスーツ。
中堅繊維商社「帝都物産」の営業マン――吉村健一だった。
しかし、今日の昼、Aランチのハンバーグを笑顔で平らげ、「熱いプレゼンを決めてきます」と元気に飛び出していった時のあの面影は、見る影もなく消え去っていた。
吉村はベンチの中央で、深く両肘を膝につき、両手で顔を覆うようにして項垂れていた。
首元の白いワイシャツは第一ボタンまで引きちぎるように外され、小豆色のネクタイは結び目が完全にほどけ、まるで首吊りの縄のようにだらしなく胸元から垂れ下がっている。
足元には、角の擦り切れた黒革のブリーフケースが、口を開けたまま無造作に転がっていた。
そして――アスファルトの砂利の上に、くしゃくしゃに握り潰された数枚の紙片が散らばっていた。
青焼きの複写伝票と、赤ペンの太い文字で殴り書きされた『破棄』『契約見送り』の文字。
(吉村さん……?)
結衣の心臓が、きゅっと冷たく縮み上がった。
近づくべきか、それとも踵を返してそっとしておくべきか。
一瞬の躊躇いが結衣の足を縫い止めた。男のプライドにとって、みじめに打ちのめされた現場を他人に、ましてや食堂の女性に見られることほど耐え難い屈辱はないかもしれない。
だが、夕闇に溶け込んでいきそうなその背中は、あまりにも小さく、あまりにも危うかった。
呼吸をするたびに、薄い背中が小刻みに痙攣している。
泣いているのか、それとも息をすることすら苦痛なのか。
気づいた時には、結衣の足は迷いを捨てて、砂利を踏みしめて前へと進んでいた。
サリ、と靴音が鳴る。
吉村の肩がびくりと跳ね上がった。
覆っていた両手を恐る恐る離し、赤く充血した瞳を虚ろに結衣へと向ける。
「……あ……」
掠れた、空気の抜けるような声が吉村の唇からこぼれた。
その顔を見て、結衣は息を呑んだ。
昼間あれほど生気を取り戻していた顔が、土気色に染まり、頬は痩せこけ、唇は渇いて白くひび割れていた。目の下には、墨を刷いたような濃い紫の隈が落ち窪んでいる。
「……き、桐島……さん……」
吉村は慌てて乱れたネクタイを整えようと指を動かしたが、震える指先は結び目を掴むことすらできず、かえってネクタイを奇妙に歪ませてしまった。
足元の書類を拾おうとして前屈みになり、そのまま前のめりにベンチから崩れ落ちそうになる。
「危ないっ……!」
結衣は駆け寄り、吉村の細い肩をしっかりと両手で支えた。
触れた肩の骨が、布地の上からでもはっきりとわかるほど尖っていた。
「吉村さん、無理に動かないでください。……大丈夫ですか?」
「あ……すみません、すみません……っ」
吉村は情けなさに顔を歪め、地面に散らばった丸まった書類を、泥にまみれた指先でかき集めようとした。
「見苦しいところを……お見せしてしまって……。すぐに、片付けますから……どこかへ行きますから……」
「いいんです、そんなもの後でいいですから」
結衣は散らばった紙片を代わりに拾い集め、泥を払ってブリーフケースの脇へ揃えて置いた。
そして、ベンチの端、吉村と拳二つ分ほどの距離を空けて、そっと腰を下ろした。
夕暮れの風が吹き抜け、結衣の割烹着の裾を揺らす。
初音神社の境内の方から、遠く烏の啼く声が聞こえていた。
「……ダメでした」
吉村が、膝を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
今にも泣き出しそうな、糸のように細い声だった。
「昼にあんなに美味いハンバーグを食わせてもらって……結衣さんに応援してもらったのに……何一つ、役に立ちませんでした」
「……今日の、商談ですか?」
「はい」
吉村は力なく自嘲の笑みを浮かべた。
「東洋レーヨンとの大口契約……新規の家庭用合成繊維の販路開拓でした。先方の担当役員にプレゼンをするために、この一ヶ月間、毎晩終電まで資料を作り込んで……飛び込みで何十軒もの機織り問屋を回って、現場の声を集めて……。今日こそは、絶対に決めてみせると思っていました」
吉村の拳が、ズボンの生地を破らんばかりに強く握りしめられた。
「でも……会議室に入った瞬間、他社の大手商社が、うちの半値近い価格で同じ規格の糸を提示してきたんです。……資本の力です。生産ラインの規模も、会社の看板も、うちみたいな中堅商社とは比べ物にならない大手が、最初からうちを潰すためだけに安値をぶつけてきたんです」
吉村の喉が、引き攣るように鳴った。
「先方の役員は、僕の作った企画書に一度も目を通しませんでした。『帝都物産さん、努力は認めるけどね、ビジネスは数字だよ。おたくの熱意じゃうちの株主は納得しないんだ』って……目の前で資料を裏返しにされて、そのまま席を立たれました」
「…………」
「支店に戻ったら……支店長から灰皿を投げつけられました。『お前が甘い顔をしてるから横取りされるんだ』『学卒のくせに気合が足りない』『今月の営業ノルマ、どうやって穴埋めする気だ』って……フロア中のみんなの前で、一時間も怒鳴り続けられて……」
吉村の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
地面の乾いた砂利の上に、黒い染みが一つ、二つと広がっていく。
「……僕には、才能がないんです」
吉村は頭を抱え、掠れた声で自分自身を激しく罵倒した。
「世間は高度経済成長だって浮かれて、大阪万博だ、カラーテレビだ、新幹線だって、日本中が猛烈なスピードで前へ進んでいるのに……僕だけが、その波に乗れないんです。同期の連中は次々と大きな契約を取って出世していくのに、僕だけが取り残されて、足手まといになって……。会社にとっても、社会にとっても、僕みたいな人間は……ただの落ちこぼれの、不要な部品なんです……!」
その言葉を聞いた瞬間。
結衣の胸の奥底が、まるで鋭い針で抉られたようにズキリと痛んだ。
(ああ……)
目の前にいるこの人は。
かつての、自分だ。
結衣の脳裏に、令和のあの凍てつくような冬の夜の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇っていた。
午前二時半のオフィス。
青白いモニタの光。
何十回も書き直させられたウェブデザインのデータを前に、クライアントからの無慈悲なチャット通知。
『全体的にやり直してください。もっとバズる感じで』
徹夜で擦り切れるまでキーボードを叩き、胃を痛め、栄養ドリンクで血を吐くような思いをして作った成果物を、顔も知らない誰かがワンクリックでゴミ箱へ放り込む。
上司からは『自己管理ができていない』『代わりはいくらでもいるんだから』と冷笑され、終電間際のガード下の冷たいコンクリートの壁にすがりつきながら、結衣は一人で泣いていた。
自分は何のために生きているのか。
誰のために心を削っているのか。
効率と数字とスピードだけが全ての世界で、立ち止まることを許されず、壊れかけた歯車として消費されていく恐怖。
時代が令和であろうと、昭和四十五年であろうと。
巨大な経済の歯車の下敷きにされ、心をすり潰されている人間の流す涙の味は、まったく同じだった。
「吉村さん」
結衣は静かに、けれど凛とした声で呼びかけた。
吉村が涙に濡れた顔を上げる。
「……ここで、待っていてください」
「え……?」
「五分……いえ、十分だけ待っていてください。すぐに戻ってきますから」
結衣は立ち上がると、吉村の返事も待たずに、駆け足でキリシマ食堂の勝手口へと飛び込んでいった。
◆
ガラガラガラッ!
勝手口を開けて厨房へ飛び込んできた結衣に、奥で仕込みをしていた源三が目を丸くした。
「おいおい、結衣。ゴミ出しに行ったきり帰ってこねえと思ったら、何を慌ててやがんだ」
「源さん! 勝手をお許しください!」
結衣は息を切らしながら、調理台の上のまな板の前に立った。
「今日、カツレツ用に仕入れた豚肉と……牛モモ肉の端切れ、まだ残っていますよね!?」
「あァ? そりゃあ、ハヤシライス用に筋を引いたあとの端肉なら、ボウルに少し残っちゃいるが……あんな固え端切れ、何に使う気だ?」
「ビフカツにします」
「ビフカツだァ!?」
源三が怪訝そうに眉を跳ね上げた。
「モモの端切れなんざ筋だらけだぞ! そんなもん揚げたって、ゴムみてえに固くて噛み切れやしねえよ! ビフカツにするなら上等のフィレかロースじゃなきゃ――」
「固くさせません!」
結衣は木製の肉叩き(ミートハンマー)を手に取り、冷蔵箱からボウルを引きずり出した。
「薄く叩くんです! 繊維をズタズタに叩き潰して、何枚も重ねるんです!」
令和の時代、日本の家庭や洋食店で広く親しまれるようになった「ミルフィーユカツ」。
薄切りの肉を幾重にも重ねることで、安価で固い部位であっても、驚くほど柔らかく、肉汁をたっぷりと抱き込んだ極上のカツへと昇華させる現代の知恵。
結衣はまな板の上に牛モモ肉の端切れを並べると、肉叩きの突起がある面で、リズミカルに、かつ容赦なく肉を叩き始めた。
トントントン、ドンドンドン!
筋が断ち切られ、肉が透けるほど薄く、平らに広がっていく。
結衣はその薄切り肉を四枚、五枚と丁寧に重ね合わせた。
塩と白胡椒をごく軽く振り、八百杉から仕入れたばかりの新鮮なすりおろし玉ねぎを表面に薄く塗り込む。玉ねぎに含まれるタンパク質分解酵素が、肉の繊維をさらに柔らかく解きほぐす。
一口大の長方形に包丁で切り揃えると、小麦粉をはたき、溶き卵にくぐらせ、寺岡堂の経由で仕入れている細引きの生パン粉をふわりと纏わせる。
「源さん、ラードの鍋をお借りします!」
「お、おい……勝手に揚げて失敗しても知らねえぞ!」
源三は文句を言いながらも、火加減のレバーを操作し、揚げ鍋の温度を百八十度の中高温へとピタリと合わせた。老職人の身体が、結衣の真剣な気迫に自然と反応していた。
結衣は衣を纏ったカツを、澄んだラードの海へと滑り込ませた。
シュワワワワワッ――!!
耳をくすぐる、激しくも澄んだ揚げ油の音が厨房に響き渡る。
ラードの香ばしい動物性の脂の香りが、一気に立ち上った。
薄切り肉を重ねているため、分厚い一枚肉と違って火の通りは驚くほど速い。
一分、一分半。
衣がきつね色に色づき、油の泡が細かくなった瞬間、結衣は網杓子で一気に引き上げた。
パチパチと油が切れる心地よい音。
休む間もなく、結衣は食パンの薄切りを二枚、炭火の魚焼きグリルの上でサッと炙った。
表面だけに薄いきつね色の焼き目をつけ、内側はふんわりとした柔らかさを保たせる。
パンの内側に、有塩バターと、ツンとした辛味を持つ和辛子を薄く塗り伸ばす。
そこへ、揚げたての熱々のミルフィーユビフカツを鎮座させた。
仕上げは――源三が小鍋で温めていた、あの秘伝のデミグラスソースに、酸味の利いたウスターソースを絶妙な比率でブレンドした特製カツソース。
ジュッ! とお玉からソースが回しかけられた瞬間、ツンとしたスパイスの刺激と、果実の甘やかな湯気が立ち上る。
パンを重ね、まな板の上で木べらを当てて軽く重石をし、ソースと肉汁をパンの生地へと馴染ませる。
息を整え、研ぎ澄まされた包丁を斜め四十五度に構えた。
サクッ。
極上の刃音が、静かな厨房に響いた。
二つに切り分けられた断面が、パカリと左右に開く。
「…………っ!」
横で見ていた源三が、思わず息を呑んだ。
トーストされた薄いパンと、黄金色のきつね色の衣。
その中心に挟まれていたのは――幾重にも重なり合った牛モモ肉の美しいミルフィーユの層だった。
中心部は、ほんのりとしたロゼ色。
断面からは、透明で濃厚な肉汁がじわりと滲み出し、特製ソースと混ざり合って、まるで濡れた琥珀のように艶やかに輝いていた。
「……おいおい」
源三の口から、掠れた呟きが漏れた。
「モモの端切れが……なんでそんなに柔らかそうに揚がってやがるんだ……」
「重ねたからです」
結衣は微笑み、寺岡堂から分けてもらっていた薄い経木と、純白のパラフィン紙を取り出した。
まだ熱気を放つカツサンドを丁寧に包み込み、タコ糸で十字に結ぶ。
「源さん、少し出ます!」
「……おう。行ってこい」
源三は背を向け、フライパンを洗いながら、ぶっきらぼうに言った。
「冷めねえうちにな。洋食屋の暖簾は、腹を空かせた奴のためにあるんだからよ」
◆
茜色の残光が消え去り、路地裏には藍色の夜の帳が降りてきていた。
長屋の軒先に吊るされた裸電球が、チカチカと黄色い光を落とし、ベンチに座る吉村の孤独な影を路面に長く伸ばしている。
吉村は、結衣が去ったあとも、同じ姿勢のまま動かずにいた。
風が冷たくなってきた。ほどけたネクタイが、夜風に揺れて胸元を撫でる。
自分はこれから、どこへ行けばいいのだろう。
会社に戻って、また怒鳴られるのか。
誰もいない六畳間のアパートに帰って、冷たい水道の水を飲んで、一人で朝を待つのか。
何のために東京へ来たのか。何のために必死になって働いているのか。
暗い思考の泥沼へと沈み込んでいた、その時だった。
「吉村さん」
闇を切り裂くように、息を切らした温かい声が届いた。
顔を上げると、結衣が立っていた。
少し乱れた前髪、赤くなった頬。
そして――その両手には、白い湯気と香ばしい匂いを放つ、経木に包まれた小さな包みが握られていた。
「……桐島、さん……?」
「お待たせしました。……はい、これ」
結衣はベンチの吉村の隣に腰を下ろすと、その温かい包みを、吉村の冷え切った両手の上へとそっと乗せた。
じんわりと。
経木を通して、驚くほどの熱量が吉村の凍えた掌へと伝わってきた。
「これ……なんですか……?」
「ビフカツサンドです」
結衣は優しく微笑んだ。
「お昼にハンバーグを召し上がってから、もう六時間以上経ってますよね。胃袋が空っぽのまま泣いていたら、身体が持ちません」
「でも……僕、お金も払っていませんし……」
「いいんです。これは、私の我儘ですから」
結衣は包みのタコ糸を器用に解き、パラフィン紙を左右に開いてみせた。
ふわっ、と。
夜風に乗って、暴力的なまでの芳香が吉村の鼻腔を直撃した。
こんがりとトーストされたパンの香ばしさ。
澄んだラードで揚げられた、カツの濃厚な衣の匂い。
ツンと鼻腔をくすぐるマスタードの辛みと、酸味の利いたウスターソースのフルーティーな香り。
そして何より――紙の隙間から顔を覗かせた、ロゼ色の肉の層の神々しいまでの美しさ。
「……ビフカツ……サンド……」
吉村の喉が、大きな音を立てて鳴った。
昼のショックで完全に麻痺していたはずの胃袋が、その香りを嗅いだ瞬間、猛烈な勢いで痙攣するように空腹を訴え始めていた。
「冷めないうちにどうぞ。一口サイズに切ってありますから」
結衣が促すと、吉村は震える指先で、一切れをそっと摘み上げた。
ずっしりとした重み。パンの表面はカリッとしていて、指先に心地よい弾力を返してくる。
吉村は唾を飲み込み、大きく口を開けて、カツサンドを頬張った。
サクッ……ジュワアッ!
「っ……………………!?」
吉村の身体が、硬直した。
信じられなかった。
ビフカツといえば、硬くて噛み切るのに苦労するのが当たり前の時代だった。
なのに――前歯を当てた瞬間、サクリという軽やかな衣の音とともに、肉がまるで綿菓子のように、何の抵抗もなくホロホロと解けていったのだ。
薄く重ねられた肉の層の隙間から、閉じ込められていた熱い肉汁が、津波のように溢れ出して口いっぱいに広がる。
玉ねぎの酵素と牛モモ肉の赤身の旨味。
そこに絡みつく、ツンとした和辛子の鋭い刺激と、デミグラスブレンドのウスターソースの甘酸っぱさ。
トーストされたパンがその肉汁とソースを余すところなく吸い込み、噛みしめるたびに、小麦の自然な甘みとなって舌の上で踊る。
油っこさなど、微塵もない。
冷めても固くならない工夫が凝らされたそのサンドは、冷えた夜風の中で、ただひたすらに、優しく、温かく、吉村の口腔を満たしていった。
「あ……っ……」
吉村の喉仏が上下し、一口目が喉を通っていった。
胃の腑に落ちた瞬間、じんわりとした熱が、冷え切っていた内臓を内側から包み込んでいく。
「……なんだ……これ……」
吉村の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。
止まらなかった。
頬を伝い、顎を濡らし、カツサンドの上にポタリと落ちる。
「柔らかい……っ。お肉が……こんなに柔らかくて……温かくて……」
「重ねているんです」
結衣は隣で、静かに語りかけた。
「薄いお肉を、何枚も、何枚も重ねているんです。一枚だけじゃ固くて噛み切れないお肉でも、薄く叩いて、丁寧に重ねれば……どんな高級なフィレ肉よりも、柔らかくて、優しくて、肉汁をたくさん抱きしめることができるんです」
「重ねて……」
「吉村さん」
結衣は吉村の濡れた横顔を、真っ直ぐに見つめた。
「吉村さんが今日までやってきたことは、決して無駄じゃありません。一軒一軒、足を棒にして回った問屋さんの声も、徹夜で作った資料も、流した汗も……全部、このお肉と同じです」
「結衣……さん……」
「一枚一枚は、薄くて、頼りなくて、すぐに破れそうに見えるかもしれない。でもね、それを諦めずに重ねていけば……いつか絶対に、誰にも真似できない、誰よりも強くて温かい『本物の力』になるんです」
結衣の声は、震えていた。
それは吉村に向けた励ましであると同時に、令和の暗闇の中で、誰にも認められずに心をすり減らし、それでもデザインのピクセルを重ね続けていた、かつての自分自身への救済の言葉でもあった。
「数字や看板だけで人を切り捨てるような人たちに、あなたの価値を決めさせちゃダメです。……吉村さんは、真面目で、誠実で、誰よりも一生懸命に戦っています。私は……ちゃんと知っていますから」
――ガタゴト、ガタゴト、ガタゴト――!!
頭上の高架橋を、京成線の四連の電車が轟音を立てて通過していった。
電車の窓から漏れる黄色い光が、暗い路地裏のベンチを一瞬だけ昼間のように照らし出し、二人の影をアスファルトの上に長く焼き付ける。
線路の軋む重低音と、けたたましい風の音。
その轟音の中で、吉村は二口目、三口目と、無我夢中でカツサンドを口へと運んでいた。
泣きながら。
しゃくりあげながら。
肉汁と、ソースと、自らの涙の混ざり合ったその奇跡の味を、魂の奥底まで刻み込むようにして噛み締めた。
空っぽだった胃袋が満たされていく。
死にかけていた心臓が、力強い鼓動を取り戻していく。
「……うまい……っ」
吉村は袖口で涙を拭い、最後の一口を喉へと流し込んだ。
「……泣きそうなくらい……美味いです……結衣さん……」
経木の上には、パンくず一つ残っていなかった。
吉村は両手で顔を覆い、深く、長く、息を吐き出した。
その背中からは、先ほどまでの死人のような絶望の気配は完全に消え去っていた。
「……ふう」
結衣は小さく笑い、懐から取り出した清潔な手ぬぐいを吉村に手渡した。
「お粗末さまでした。……元気、少しは出ましたか?」
「はい……」
吉村は手ぬぐいで顔を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、再び確かな光が宿っていた。
結衣は立ち上がり、勝手口の方を振り返った。
厨房の窓からは、橙色の温かい電灯の光が漏れ、源三が寸胴をかき混ぜる金属音がカチャリと響いている。
「吉村さん」
結衣は振り返り、夕闇の中で、満開の花のような笑顔を咲かせた。
「疲れたら、いつでも食べに来てください。……ここは、あなたが逃げ込める場所ですから」
「…………っ!」
その瞬間。
吉村の胸の奥底で、何かが激しい音を立てて弾けた。
ドクン、と。
耳元で鐘が鳴り響くような、熱い衝撃。
目の前に立つ、割烹着姿の女性。
夜風に髪を揺らし、泥臭い下町の路地裏で、自分のような落ちこぼれの男のために、こんなにも温かい飯を作り、こんなにも優しい言葉をかけてくれた人。
尊敬。感謝。
そんな言葉では、とても言い表せない。
守りたい。
この人の笑顔を、この人のいる場所を、自分の命を賭けてでも守り抜きたい。
そして――いつか、この人の隣に堂々と立てるような、強い男になりたい。
吉村の胸の中に灯ったのは、敬愛の枠を遥かに踏み越えた、甘酸っぱく、そして生涯消えることのないであろう、一途で熱烈な「恋心」だった。
「……はい」
吉村は立ち上がり、ほどけていたネクタイの結び目を、今度はしっかりと、力強く引き締めた。
足元のブリーフケースを拾い上げ、背筋をピンと伸ばす。
「僕……明日から、もう一度戦ってきます。東洋レーヨンに断られたって、東京中に問屋はまだ何百軒もありますから。……足が擦り切れるまで、歩いてみせます」
「はい! その意気です!」
結衣が嬉しそうに頷くと、吉村は深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした。……本当に、ありがとうございました、結衣さん」
顔を上げた吉村の耳朶は、夜の闇の中でもわかるほど、真っ赤に染まっていた。
吉村はペコペコとお辞儀を繰り返しながら、まるで宝物を胸に抱きしめるようにして、路地裏を小走りで駆け抜けていった。
その足取りは、地面を力強く蹴り、夜の街へと真っ直ぐに向かっていた。
結衣は勝手口の前に佇み、吉村の背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
「……ふふっ」
思わず小さく吹き出す。
「本当に、不器用な人」
夜風が、結衣の頬を優しく撫でていく。
誰かのために料理を作り、誰かの心を救う。
冷え切った令和のオフィスでは決して味わえなかった、確かな生きている実感が、結衣の胸をじんわりと温めていた。
だが――下町の夜は、ただ穏やかなだけでは終わらない。
キリシマ食堂の厨房の奥から、ガシャリと鍋の蓋が鳴る音とともに、源三の太い声が飛んできた。
「おい、結衣! いつまで油売ってんだ! 夜の営業の暖簾を出すぞ!」
「はいっ! 今行きます!」
結衣はエプロンを翻し、活気あふれる厨房の光の中へと飛び込んでいった。
高度経済成長の熱気のただ中、キリシマ食堂の小さな奇跡は、次なる出会いと試練を求めて、力強く夜の街へと暖簾を掲げていた。




