第23話:白衣の来訪者と、まな板の境界線
夏本番を迎えた東京の下町は、文字通り蒸し風呂の底のような熱気に包まれていた。
初音銀座商店街の未舗装の砂利道からは、照りつける太陽によって熱された土埃が陽炎となって立ち上り、どこかの長屋の軒先で回る首振り扇風機が、生ぬるい風をかき回している。セミの鳴き声が頭上からシャワーのように降り注ぎ、氷屋のリヤカーがゴトゴトと通り過ぎるたび、子どもたちが歓声を上げて削り節のような氷の屑を拾い集めていた。
午前十時四十分。
正午の開店を控えたキリシマ食堂の厨房には、早くも仕込みの熱気と張り詰めた集中力が満ちていた。
昭和四十五年の夏は、飲食業者にとって一年でもっとも過酷で、もっとも神経をすり減らす季節である。
一般家庭にも電気冷蔵庫が普及し始めていたとはいえ、下町の飲食店では、木製の大型冷蔵箱の中に氷屋から配達される巨大な氷塊を放り込んで冷やす、旧来の氷室が依然として現役だった。
気温が三十度を超え、湿度が八十パーセントに達するこの時期、少しでも食材の管理を怠れば、サルモネラ菌や腸炎ビブリオ、黄色ブドウ球菌といった見えない魔物が瞬く間に繁殖し、食中毒という名の破滅をもたらす。一度でも「あの店で腹を壊した」という悪評が立てば、下町の飲食店など一発でお取り潰しだ。
だが、キリシマ食堂の厨房に漂う空気は、そうした夏の淀みとは無縁の、凛とした清浄さに満たされていた。
「源さん、仕込み用の鶏モモ肉、下処理終わりました。冷水で血抜きをして水気を拭き取り、マイナス五度の塩氷水を入れたホーローバットに収めてあります」
「おう。こっちの玉ねぎもスライス完了だ。ラードの温度は百七十度、いつでも揚げられるぞ」
桐島結衣と大山源三の息の合った声が交錯する。
結衣は額の汗を手ぬぐいで拭いながら、手元の仕込み記録帳にサッとペンを走らせた。
令和のオフィスで、食品メーカーや大手外食チェーンのプロモーションWEBサイトを手がけていた結衣は、食品衛生の国際基準である「HACCP」の概念を叩き込まれていた。
どの工程で菌が増殖しやすいか。どの温度帯が危険か。食材ごとに器具をどう使い分けるべきか。
現代では当たり前の衛生管理のノウハウを、結衣はこの昭和四十五年のアナログな厨房設備へと見事に落とし込んでいたのだ。
そこへ――。
ガラガラガラッ!
正面の硝子戸が、客のそれとは明らかに異なる、乾いた無機質な音を立てて乱暴に開け放たれた。
まだ『準備中』の木札が下がっている時間帯だ。
「……ん? 誰だ、まだ開いてねえぞ」
源三が包丁を止め、カウンター越しに目を細めた。
暖簾をくぐって土間に踏み込んできたのは、二人の男だった。
真夏だというのに、糊のきいた真っ白な長袖の衛生白衣を着込み、頭には清潔な白い作業帽を深く被っている。左腕には、黒地に白文字で『墨田保健所 環境衛生監視員』と染め抜かれた、いかめしい腕章が巻かれていた。
手には、分厚いバインダーと、銀色に光る金属製の温度計、それにアルコール綿の入ったガラス瓶。
先頭に立つ初老の男は、銀縁の角眼鏡の奥から冷たい視線を厨房へと走らせ、ペラリと書類をめくった。
「失礼。墨田保健所衛生監視課の神崎だ。こちらは助手の矢野。……大山源三さんだな」
低く、抑揚のない役人の声。
客席の空気が、一瞬にして冷水でも浴びせられたかのように凍りついた。
「保健所だァ……?」
源三が眉を吊り上げた。
「定期の立ち入り検査なんざ、先々月済んだばかりだぞ。何の用だ」
神崎と呼ばれた監視員は、表情を一切崩さず、手元のバインダーの書類を指先で弾いた。
「抜き打ちの臨検だ。……今朝一番で、当課に複数の近隣住民から極めて具体的な告発があった。『キリシマ食堂という店が、客に生焼けのドロドロした卵料理を出して荒稼ぎしている』『傷んで腐りかけた規格外の野菜を安く買い叩き、スープに混ぜて客の健康を脅かしている』『悪臭と不衛生の温床になっている』とね」
「な、なにを……!?」
源三の顔色が、一瞬で怒気によって真っ赤に染まった。
神崎の言葉は、淡々と続けられた。
「この時期の食中毒は、一歩間違えれば人命に関わる。特に卵の生食や半熟調理は、サルモネラ感染症の最大の引き金だ。告発内容に信憑性があると判断したため、食品衛生法第二十八条に基づき、厨房内の全面的な立ち入り検査および細菌検査用のサンプリングを行う。……重大な衛生基準違反が認められた場合は、即座に『営業停止処分』の仮通告を出すことになる」
「営業停止……!?」
結衣の心臓が、トクンと激しく跳ね上がった。
(近隣からの複数の告発……!)
結衣の脳裏に、向かいの蕎麦屋「やぶ忠」の主人・忠吉と、大衆中華「宝来軒」の金造の陰険なせせら笑いが鮮烈に浮かび上がった。
キリシマ食堂の大繁盛によって客を奪われ、自転車を店の前に並べたり生ゴミを風上に置いたりといった嫌がらせを仕掛けてきた古参店主たち。
あの嫌がらせを結衣の正論と八百杉の勇の男気によって跳ね返された彼らが、次に狙ったのが、行政機関を使った「合法的な営業妨害」だったのだ。
当時の下町において、保健所の抜き打ち検査が入るだけでも「あの店は不潔らしい」という致命的な噂が立つ。ましてや「生焼け卵」と「規格外野菜」という、昭和の常識では突っ込みどころ満載に見える新メニューを標的にされたのだ。
役所を使って、キリシマ食堂の息の根を止めに来た。
背筋が凍りつくような、下町の暗い嫉妬の刃。
「て、てめえら……ざけんじゃねえぞッ!!」
ドガァン!!
源三が手にしていた牛刀を、まな板の上に力任せに突き立てた。
木肌が裂けるような凄まじい衝撃音が厨房に轟く。
「誰が腐った野菜を出したって言った! 誰が生焼けのゲテモノを客に食わせたって言ったよ! 俺は浅草で三十年、この初音銀座で十五年、一度だって客の腹を壊したことなんざねえんだ! どこの馬鹿が吹き込んだか知らねえが、職人の誇りを土足で踏みにじるような真似しやがって! 出て行け! 塩撒いて追い出すぞコラァッ!!」
血管が切れんばかりに怒鳴り散らす源三。
だが、神崎監視員はその剣幕に眉一つ動かさず、むしろ冷徹な笑みを口元に浮かべた。
「大山さん、検査の拒否および妨害は、食品衛生法第六十一条により処罰の対象になりますよ。やましいことがないのなら、なぜそうやって声を荒らげるのですか? 噂通りの不衛生な環境だから、見せられないのではないですか」
「てめえ……ッ!!」
源三が拳を握りしめ、神崎の胸ぐらに掴みかからんとした――まさにその瞬間。
「源さん、待ってください!」
凛とした、鈴を転がすような声が、男たちの怒号の隙間に鋭く割り込んだ。
結衣だった。
結衣は素早く源三と神崎の間に割って入り、源三の太い二の腕を両手でしっかりと押さえた。
「結衣……! 邪魔すんじゃねえ、この役人どもを叩き出して――」
「ダメです、源さん」
結衣は振り返り、源三の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、恐怖も、焦りも、怒りすら微塵もなかった。
氷のように澄み渡り、絶対の自信に満ちあふれた、冷徹なまでの光。
「怒ったら、相手の思う壺です。……堂々と、受けて立ちましょう」
「な……に?」
結衣はくるりと神崎たちへと向き直った。
そして――深々と、完璧な角度の美しい一礼をして見せた。
「墨田保健所の皆さま、酷暑の中、下町の衛生を守るためのお務め、本当にご苦労様です。キリシマ食堂の桐島結衣と申します」
淀みのない、極めて礼儀正しく、洗練された挨拶。
神崎は怪訝そうに眉をひそめた。怒鳴り散らす頑固親父を相手にするつもりでいたところに、まるで一流企業の重役秘書のような落ち着き払った若い女性が立ちはだかったのだ。
「桐島……さん、かね。大山さんの身内の方か」
「はい。店主の姪で、この店の衛生管理責任者を務めております」
結衣は胸を張り、厨房の入り口を手のひらで大きく示した。
「どうぞ、お上がりください。客席はもちろん、調理台、冷蔵設備、食材保管庫、排水口、器具の殺菌状態に至るまで……どうぞ、隅から隅まで、徹底的にご覧になってください」
満面の笑み。
粗探しに来た役人に対して、これ以上ないほどオープンな、挑発的とすら言える歓迎の態度。
神崎は眼鏡を押し上げ、フンと鼻を鳴らした。
「……ずいぶんと威勢がいいな。後で後悔するなよ。矢野、行くぞ。長靴に履き替えろ」
「は、はい!」
助手の若い矢野が、アルコール綿の瓶とバインダーを抱え、緊張した面持ちで厨房の敷居を跨いだ。
◆
検査が始まった。
神崎監視員は、長年都内の飲食店を摘発してきた歴戦のベテランだった。下町の古い木造食堂が、どこに油煙を溜め込み、どこにネズミやゴキブリの糞を隠し、どの食材を常温で放置して腐らせているか、手にとるように分かっているという自負があった。
まず最初に神崎が向かったのは、厨房の中央にあるメインのまな板だった。
(どうせ、一本の古い木製まな板で、生の豚肉を切ったあとに適当に布巾で拭くだけで、そのままキャベツやトマトを切っているに決まっている。交差汚染(二次汚染)の典型例だ……)
神崎は銀のピンセットを取り出し、まな板の表面から菌のサンプリングを採取しようと身を乗り出した。
だが――。
「……ん?」
神崎の手が、ピタリと空中で静止した。
まな板立てに並べられていたのは、一本の古びた木製まな板ではなかった。
そこには、真新しい四枚のまな板が、等間隔に隙間を空けて整然と立てかけられていたのだ。
しかも――それぞれのまな板の木口(側面)には、鮮やかなペンキで、太い四色のラインが引かれていた。
赤――生肉専用。
青――生魚専用。
緑――生野菜・果物専用。
白――加熱調理済み食品および卵専用。
「な……なんだ、これは?」
助手の矢野が、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「まな板が……色分けされている……?」
「はい」
結衣がカウンターの脇から、涼やかな声で解説を入れた。
「食中毒事故の最大の原因は、生の食肉に付着したカンピロバクターやサルモネラ菌が、包丁やまな板を介して、加熱せずに食べる生野菜へと移る『交差汚染』です。当店では、食材のカテゴリごとにまな板を完全に四分割し、包丁もそれぞれ専用のものを使い分けております。他の用途への流用は一切禁止しております」
「そ、そんな……」
矢野が目を白黒させる。
昭和四十五年当時の日本の大衆食堂において、まな板の使い分けなどという概念はほとんど存在しなかった。一本の大きなイチョウのまな板を、朝から晩まで洗剤で洗いながら使い回すのが当たり前の時代である。
「それだけではありません」
結衣はまな板立ての横の棚を指差した。
「使用後のまな板は、毎回の調理後に八十五度以上の熱湯を両面に五秒以上かけて熱湯殺菌し、通風の良い場所で乾燥させています。さらに、営業終了後には、日光の紫外線による天日干しを欠かさず行っております」
「…………」
神崎の額に、ツッと冷や汗が一筋流れた。
ピンセットを持つ手が、行き場を失って震える。
傷一つなく、黒ずみも黴の痕跡すら微塵もない、完璧に殺菌・乾燥されたまな板。
交差汚染の余地など、最初から一ミリも存在しなかった。
「ふ、フン……まな板くらい、形だけ揃えることは素人でもできる!」
神崎は動揺を隠すように咳払いをすると、踵を返して厨房の最奥へと向かった。
「問題は食材の保管温度だ! この酷暑の最中、どうせ生肉や卵を常温で放置して菌を培養させているのだろう! 冷蔵設備を見せてもらおうか!」
神崎が狙いを定めたのは、厨房の奥に鎮座する、分厚い杉材で作られた大型の氷室だった。
木製の重い蓋を開け、神崎は金属製の芯温計を差し込もうとした。
だが――蓋を開けた瞬間、神崎と矢野の顔面に吹き付けてきたのは、モワッとした生温かい空気では断じてなかった。
ヒヤァッ……!!
まるで、真冬の北海道の雪原に顔を突っ込んだかのような、肌を刺す冷気が白く立ち上ったのだ。
「なっ……冷たい!?」
神崎が思わず後退りした。
氷室の内部を覗き込んだ二人は、絶句した。
そこにあったのは、ただ氷の塊を無造作に放り込んだだけの旧式の保冷箱ではなかった。
最下段に敷き詰められていたのは、細かく砕かれた氷の粒と、大量の「粗塩」の混合物だった。
塩が氷の融解を促進し、凝固点降下を引き起こすことで、通常の氷(ゼロ度)を遥かに下回る、マイナス五度からマイナス十度の極低温の冷却層が強制的に作り出されていたのだ。
その上に、清潔なステンレス製のトレーが何段も整然と組まれ、生肉や魚が部位ごとに密閉容器に入れられて保管されていた。
さらに――神崎の目を釘付けにしたのは、氷室の内壁に鋲で留められていた、一枚の方眼紙だった。
『保冷庫内 温度管理記録表』
午前七時:二・五度(氷補充完了・結衣)
午前八時:三・〇度(異常なし・結衣)
午前九時:三・二度(異常なし・源三)
午前十時:二・八度(粗塩追加・結衣)
……。
一時間おきに、壁掛けの棒状寒暖計の目盛りをチェックし、温度と確認者のサインが几帳面に記録されていた。
「お、温度の……定時記録……!?」
助手の矢野が、バインダーを取り落としそうになりながら叫んだ。
「一時間ごとに、温度を測って記録しているというのか……!? 大手の乳業メーカーの貯蔵タンクですら、ここまでの記録は取っていないぞ……!」
「細菌が急激に増殖するのは、十度から六十度の温度帯です」
結衣は事も無げに、淀みなく数値を口にした。
「当店では、保冷庫内の温度を常時『五度以下』に保つことを絶対ルールとしております。もし四度を超えた場合は、即座に氷と塩を追加投入し、食材の温度上昇を物理的に遮断しています。……神崎さん、どうぞ芯温計で、そこの豚ロース肉の内部温度を測ってみてください」
神崎は震える指先で、ステンレス容器の中の豚肉に芯温計の針を突き刺した。
メーターの赤い針が、スルスルと下がっていく。
十度、五度、三度……。
針は、きっかり『二・八度』を指してピタリと止まった。
「に、二・八度……完璧なチルドルームの温度だ……」
神崎の唇が、小刻みに震えた。
電気冷蔵庫ですら、扉の開閉が多ければ内部温度は七度や八度まで跳ね上がる。それを、昔ながらの氷室と塩の組み合わせだけで、ここまで完璧な温度コントロールを実現しているなど、想像の埒外だった。
「だ、だが! 告発にあった『傷んだ腐りかけの野菜』はどうなんだ!」
神崎は狼狽しながら、必死に粗探しを続けた。
「規格外のクズ野菜を安く買い叩いて、スープに混ぜているという通報があったぞ! あの不格好な人参や割れ玉ねぎはどこだ!」
「ああ、それならあちらの専用野菜庫にありますよ」
結衣は悪びれる様子もなく、土間の風通しの良い棚を案内した。
そこには、八百杉の木箱に入った、二股の人参や割れ玉ねぎが並んでいた。
神崎は「それ見たことか!」とばかりに木箱へ飛びつき、人参を一本ひったくった。
「見ろ! 二股に割れ、表面には泥がついている! こんな奇形の屑野菜を使うこと自体が、不衛生の極みだ!」
「神崎さん」
結衣の声が、少しだけ低くなった。
その瞳に、知的な冷徹さが宿る。
「食品衛生法および農林規格において、『外見の不揃い(形状規格外)』が衛生基準に違反するという条文が、どこか一条でも存在しますでしょうか?」
「なっ……!?」
「形状が二股であることと、腐敗していることは全くの別問題です。ご覧ください。泥はついていますが、これは畑から掘り出したばかりの新鮮な土です。実の表面に軟化や異臭、カビの発生は一切ありません。……むしろ、当店では仕込みの際、野菜専用のタワシで流水洗浄を三回繰り返し、泥と雑菌を完全に洗い流した上で、皮を剥いて使用しております」
結衣は調理台の上のボウルを示した。
そこには、皮を剥かれ、水気を切られた、息を呑むほど鮮やかなオレンジ色の人参のスライスが、純白のサラシを被せられて並んでいた。
「さらに、ポタージュスープの調理工程においては、百八十度のオーブンで二十分間のローストを行い、その後、沸騰状態で三十分間煮込んで裏漉ししております。熱に強い芽胞菌であっても、百度の沸騰状態で三十分加熱されれば完全に死滅します。……神崎さん、この野菜のどこに、食中毒のリスクが存在するのでしょうか? 科学的な根拠を持ってお答えいただけますか?」
「ぐ……っ、う……っ!!」
神崎の喉が詰まり、顔面が赤から白へと激しく変色した。
感情論ではない。
完璧な法令の知識と、科学的な殺菌プロセスの論理武装。
保健所の監視員である神崎自身が、誰よりもその「正しさ」を熟知しているからこそ、反論の言葉が喉の奥で氷のように凍りついて出てこないのだ。
「そして――最後ですね」
結衣は静かに歩みを進め、カウンターの上のステンレストレーの前へと立った。
「告発の最大の標的であったはずの……『生焼けの卵料理』についてです」
神崎と矢野の視線が、トレーの上に置かれた、真新しい卵の山へと吸い寄せられた。
「オムライスに使う卵ですね。……神崎さん、卵による食中毒の主原因が何であるか、ご存知ですよね?」
「……サ、サルモネラ・エンテリティディス菌だ」
神崎が掠れた声で絞り出す。
「その通りです。そして、サルモネラ菌が付着しているのは、卵の内部ではなく、主に『卵殻(殻の表面)』です。親鶏の糞便などを介して殻に菌が付着し、卵を割る際にその菌が中身に混入することで、増殖が始まります」
結衣は手袋をはめた手で、卵を一つ持ち上げた。
殻は、驚くほどツルツルと滑らかで、汚れ一つなく輝いていた。
「当店で使用している卵は、向かいの八百杉さんが毎朝、神田の市場から仕入れてくる『産卵後二十四時間以内』の最高鮮度の特級品です。仕入れ伝票の日付とロット番号は、すべてこちらの台帳に保管してあります」
結衣はバインダーをペラリとめくってみせた。
「さらに、当店では厨房に卵を持ち込む際、食品添加物認可の次亜塩素酸ナトリウムを二百倍に希釈した殺菌水を用い、卵殻の表面を一つずつ手作業で洗浄・消毒しております。その後、流水で薬剤を完全に洗い流し、清潔なペーパータオルで水気を拭き取ってから保冷保管しているのです」
「な……卵の殻を……一つずつ殺菌洗浄しているだと……!?」
神崎の顎が外れんばかりに落ちた。
昭和四十五年の日本で、パック詰め卵の次亜塩素酸洗浄すら義務化されていない時代に、下町の一軒の洋食屋が、手作業で卵殻の完全殺菌を行っているなど、天地がひっくり返っても信じられない光景だった。
「そして、オムレツの火加減です」
結衣はコンロの上の銅製フライパンを指差した。
「開花オムライスは、決して『生焼け』ではありません。強火で一気に熱を通しながら激しく撹拌し、全体を六十五度から七十度の温度帯に達温させています。サルモネラ菌は六十度で十分、六十五度なら数秒の加熱で完全に不活化します。外側を薄い皮膜で包み、余熱でクリーミーな乳化状態を保ちながら提供しているのです。……神崎さん、これのどこが『不衛生なドロドロの卵』ですか?」
「…………」
静寂。
厨房の中に、換気扇の回る微かな音だけが響いていた。
神崎は、手にしたバインダーをだらりと下ろし、打ちのめされたように立ち尽くしていた。
助手の矢野に至っては、もはや検査員としての立場を忘れ、手帳に結衣の言葉を猛烈な勢いでメモしながら、尊敬の眼差しで結衣を見つめていた。
粗探しに来たはずだった。
下町の煤けた食堂を脅し上げ、違反切符を切って営業停止にしてやるつもりだった。
それが、どうだ。
まな板の四色分類。
氷と粗塩によるマイナス五度のチルドルーム。
一時間おきの厳密な温度記録ログ。
野菜の徹底的な加熱殺菌工程。
そして、卵殻の次亜塩素酸殺菌と、温度計算に基づいたオムレツの火入れ。
どれ一つ取っても、昭和四十五年の日本の飲食業界の基準を三十年以上先取りした、完璧にして究極の衛生管理体系。
違反どころか――。
「……これは……」
神崎の口から、掠れた、敗北の溜息が漏れた。
「……これほどの衛生管理は……都内の大病院の無菌調理室や、帝国ホテルのメインキッチンでも……見たことがない……」
その時だった。
ガラガラガラッッッ!!
勝手口の板戸が、凄まじい轟音とともに跳ね開けられた。
「――誰だいッ!! 源さんの店にイチャモンつけてんのはァッ!!」
雷鳴のような怒声とともに飛び込んできたのは、八百杉の女将・杉本トミだった。
割烹着の袖を肩まで捲り上げ、太い二の腕を露わにしたトミは、手にした巨大な泥つき大根をまるで棍棒のように振り回しながら、土間に仁王立ちになった。
「ト、トミさん!?」
結衣が目を丸くする。
トミは白衣の神崎たちの前にズカズカと詰め寄ると、その鼻先へ大根を突きつけた。
「アンタたちかい、保健所の役人ってのは! 表で近所連中がヒソヒソ噂してんのを聞きつけて飛んできたよ! 何が腐った野菜だ、何が生焼け卵だバカ野郎! 源さんと結衣ちゃんが毎朝使ってる野菜と卵はね、うちの倅の勇が神田の市場で一番ピカピカのやつを目利きして届けてんだよ! うちの野菜が傷んでるってんなら、このアタシの顔に泥塗るってことかい!? あァん!?」
「ひ、ひぃっ……!?」
下町の肝っ玉母ちゃんの凄まじい迫力に、神崎と矢野が思わず腰を抜かしかけて後退る。
トミの追撃は止まらなかった。
「だいたいね! どこの誰が告発したか、アタシにゃ全部お見通しだよ! 向かいの蕎麦屋の忠吉と、中華屋の金造だろ! あの腑抜け野郎ども、キリシマ食堂が繁盛してるのが悔しくて悔しくて、自分たちの腕を磨く努力もしないで、お上を使って嫌がらせしやがって! おい役人! あいつらの店の厨房こそ検査してみな! ネズミが運動会して、ゴキブリが油の海を泳いでるからさ!!」
「め、滅相もない……! 我々は、通報があった以上、職務として事実確認に伺っただけでして……!」
先ほどまでの冷徹な態度はどこへやら、神崎は眼鏡をガタガタと震わせながら、完全に縮み上がっていた。
「……トミ、そこまでにしとけ」
低く、地を這うような声が響いた。
大山源三だった。
まな板に突き刺さっていた牛刀を引き抜き、清潔な白い布巾で刃先をキュッ、キュッと拭いながら、源三は神崎の前へと静かに歩み出た。
その瞳には、先ほどの激情の炎は消え、五十年の修羅場をくぐり抜けてきた本物の料理人の、巌のような威厳が宿っていた。
「神崎さんよ」
「は、はいっ……!」
「うちの厨房の飯、食えるか。……食えねえなら、今すぐ営業停止の紙を書いて叩きつけな」
「い、いえ……! そんな……!」
神崎は激しく両手を横に振った。
そして――深々と、腰を九十度に折って頭を下げた。
「大山さん、桐島さん……大変な非礼をお詫びいたします。……告発内容は完全に事実無根、悪意ある虚偽のものであると断定いたします」
神崎はバインダーの検査用紙に、大きく赤ペンで『異常なし・模範的衛生状態』と殴り書きした。
「指導事項は、一切ありません。それどころか……これほど徹底した器具の使い分けと温度管理、食材の殺菌プロセスは、当区の飲食店衛生指導指針の『模範事例』として、保健所報で表彰させていただきたいほどです。……お騒がせして、本当に申し訳ありませんでした!」
矢野も一緒になって深々と頭を下げ、二人の監視員は、逃げるようにして正面の硝子戸から飛び出していった。
ガラガラ、ピシャリ。
戸が閉まり、再び訪れた静寂。
正午を告げる工場のサイレンが、遠くからウーと長く響き渡った。
「……勝ったね、結衣ちゃん!」
トミが大根を床にドンと置き、満面の笑顔で結衣の肩をバシバシと叩いた。
「見たかい、あの役人の青ざめた面! 胸がすっとしたよ! ざまあ見やがれってんだ、やぶ忠の忠吉め!」
「ふふっ……トミさん、助太刀ありがとうございました」
結衣はふっと肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。
その横で――。
源三が、まな板の上に牛刀を静かに置いた。
そして、カウンター越しに、じっと結衣の顔を見つめた。
「……おい、結衣」
「はい、源さん」
「……お前、まな板の色分けだの、塩の氷室だの、卵の消毒だの……いつの間にあんな仕掛けをしてやがったんだ」
老職人の声には、深い、深い感嘆と畏敬が滲んでいた。
「仕込みの手間が増えるってのに、俺が知らねえ間に、全部お前の手で整えてやがったのか」
「当たり前ですよ」
結衣はエプロンのポケットに手を入れ、誇らしげに胸を張った。
「繁盛店になればなるほど、必ず足を引っ張ろうとする悪意や、予期せぬトラブルが襲ってきます。その時、最後に店を守ってくれるのは、『絶対に突っ込まれない圧倒的な正しさ(クオリティと衛生)』だけなんです。……源さんの美味しい料理を、くだらない嫌がらせで汚されてたまるもんですか」
「結衣……」
源三の目頭が、微かに潤んでいた。
老職人は照れ隠しに前掛けで鼻の頭を擦り、背中を向けた。
「……チッ。本当に、敵わねえ娘だぜ。……おい、暖簾を出せ!」
源三はフライパンを力強く握り直し、青いコンロの炎を全開にした。
「表に客が並び始めてるぞ! 保健所のお墨付きを貰った、日本一清潔で美味い洋食を、腹一杯食わせてやろうじゃねえかァッ!!」
「はいっ!!」
ガラガラガラッ!
結衣の手によって開け放たれた硝子戸の向こうには、太陽の光を浴びた初音銀座の通りと、腹を空かせた工員たちの長蛇の列が広がっていた。
悪意を完全粉砕し、公的な信頼すらも味方につけたキリシマ食堂。
下町の女帝・桐島結衣の築いた城壁は、もはや誰にも崩せない鋼鉄の輝きを放ちながら、大黒字の夜明けへと力強く進み続けていた。




