第四話
襖が開き、床の間に明かりが差し込んだ。
衣擦れの音でやそが部屋に入ってきたのは判ったが、幾ら待っても話しかけてくる気配はない。
寝返りを打ち、やそを見遣る。骨張った顔つきには、裡に秘めた気丈さが滲み出ていた。
「どうした?」
その問いかけに、やそがおもむろに口を開いた。
「旦那さまの様子がおかしかったので、清水さまに事情を訊いて参りました」
「なに……?」
「今度という今度は、心底愛想が尽きました。今夜限りで離縁させて頂きとうございます」
「突然何を言い出すのだ!」
俺は慌てて布団を剥がし、半身を起こした。
「私は、元新撰組の斎藤さまに嫁いだつもりでいました。けれど、私の勘違いだったようです。貴方さまは、すでに抜け殻になっておりました」
「…………」
「『仇は必ず俺たちが取る』。あの日、私に掛けて頂いたその言葉をずっと信じておりました。それなのに……」
そこで、やそは言葉を詰まらせた。
やそと初めて出逢ったのは、俺が土方に別れを告げた直後のことだった。
官軍が会津若松城下の外郭にまで迫っていることを知った俺は、会津に残ることになった仲間たちを引き連れて鶴ヶ城に向かうことにした。
官軍が殺到している甲賀町口を迂回して、大町口を抜けて惣構えのなかの城下町に入った。
街のなかは、すでに阿鼻叫喚のるつぼと化していた。町のあちこちで火の手が上がり、逃げ遅れた婦女子たちが大通りを右往左往している。すでに官軍の一部が侵入してきたのか、遠くから鉄砲の音が聞こえてくる。
会津藩の迎撃態勢はお粗末と言うほかなかった。およそ五千の兵力すべてを藩境の峠の防衛につぎ込んだために、城下はもぬけの殻となっていた。市街戦に備えた婦女子の疎開すら怠っている。鶴ヶ城攻防戦という事態が起こることなどまったく想定していないのだ。
大町通りを駆け抜け、北出丸の外濠を間近にしたところで、激しい銃声が耳朶を打った。
官軍の先駆けがすでにここまでたどり着き、巨大な家老屋敷の前で銃撃戦が始まっていた。野砲により白壁塀の一部が崩れ落ち、そこから邸内に向けてしきりに鉄砲を撃ちかけている。
敵はまだ四斤山砲一門を備えた一個小隊にすぎない。俺は、隊を背後に展開し、四半刻も掛けずにこれを敗走させた。
中庭から屋敷に上がると、畳を重ねた胸壁の陰に見知った男の顔を見出した。
「田中さまではありませぬか。こんな所でいったい何をやっておるのですか? 早うお城に戻られよ」
それは、藩内きっての名門で、家老を務める田中土佐だった。
「守っていた甲賀町口が破られてしもうた。おめおめと城に戻るわけにはいかぬ」
顔色が蒼白になり、虚ろな眼差しを浮かべている。
「何を仰っておられるのだ。鶴ヶ城は簡単には落ちませぬ。しばらくすれば、藩境から藩士たちも戻ってきましょう。今一度、態勢を立て直すのです。その時こそ、田中さまの力が必要となるのではありませぬか」
「……そうだったな」
「怪我をしておられるではありませぬか。取り敢えず早く治療をなさいませ」
その言葉に吊られるようにして、田中がふらつくようにして座敷を出て行った。
その姿を見守っていた俺の視界の端に、ひとりの女の姿が映り込んだ。
白衣に襷をかけ、白布を頭に巻いて、薙刀をさげている。
「そなたは、こんな所で何をしているのだ!」
俺は、思わずその女に怒声を浴びせた。それが、初めて見るやその姿だった。
「決まっておりましょう。官賊どもと戦っておるのです」
まなじりを決したやそが、怒鳴り返してきた。
「女子のそなたに何ができる!」
「まだ十六にしかならぬ甥までもが、白虎隊として戦っております。たとえ女子と言えども、お家の一大事を前にして手をこまねいているわけには参りませぬ」
やその父、篠田内蔵は病没しており、跡を継いだ兄の岩五郎は禁門の変で戦死している。そのため、やそは親戚の篠田兵庫の屋敷に身を寄せていた。その兵庫の次男、篠田儀三郎は、白虎士中二番隊の嚮導―副隊長―に任ぜらていたのだ。
十七歳以下の若年層からなる白虎隊は、本来、予備戦力のはずだったが、兵力が不足するなか、やむなく前線に送られることとなった。篠田儀三郎率いる二番隊は、この日、戸ノ口原の戦いに敗走し、飯盛山で自決することとなる。
「私の母は潔く自刃して果てました。なれど、私は、官賊と差し違えて死にとうございます」
「気持ちはよう判った。なれど、女子は足手まといになるだけよ。城に籠もっておれ。合戦は我らに任せるんだ。案ずるな。おぬしらの仇は、必ず俺たち新撰組が取ってやる!」
そう言って、嫌がるやその手を引いた。
目の前のやその姿が、当時の面影と二重写しになった。元々、少しふくよかだったその身体は、五戸での困窮した生活のせいですっかり痩せ細ってしまっていた。
やそが、いきなり畳に両手をつく。
「二年という短い間でしたが、お世話になりました」
「……行く当てはあるのか?」
そんな言葉しか思い浮かばなかった。
「倉沢さまのお屋敷に戻るまでのこと」
「そうか……達者でな」
もう止めても無駄なことは判っていた。
「旦那さまも」
そう言うと、やそはそのまま静かにその場を立ち去った。
天を仰いで、零れそうになった涙を堪えた。
やその気心はよく知っている。その想いは手に取るように判った。
やそは、足手まといになりたくなかったのだ。俺の気持ちが揺らいでいることぐらい、すぐに勘づいたはずだ。自分の存在が、俺の決断を鈍らせかねない。そう思ったからこそ、自ら進んで身を退いたのだ。
――すまぬ、やそ。
俺は、胸の裡で感謝の言葉を漏らした。
起き上がると、押入を開ける。
その奥に、一本の日本刀が大切に仕舞ってあった。『鬼神丸国重』である。すでに散髪脱刀令が布告され、普段刀を持ち歩くことはなくなった。けれど、それは、幕末維新を通じて常に行動を共にしてきた、紛れもない俺の相棒だった。
裏庭に出て、鞘から刀身を引き抜く。月明かりを受けて、刃が妖しく煌めいた。二尺三寸の長身は刃こぼれが激しく、無数の傷がついている。それこそが、俺が生き抜いてきた証なのだ。
青眼に構えると、上段から刀を真っ向に振り下ろした。空を引き裂く鋭い音が響く。
構え直すと、再び刀身を振り下ろす。そして、何度も何度もその動作を繰り返していく。徐々に身体が火照ってきて、汗ばんでくる。やがて、身体の奥底から眠っていた剣気が立ち昇ってくるのを感じた。
最後に一振り渾身の力を籠めて刀を振り抜いた。
そして、雲の隙間から姿を覗かせた満月に向かってつぶやいた。
――いいんだよな、歳さん。
五戸の街を見下ろす陸羽街道の峠のとば口に植わった切り株に腰を下ろす。
やがて、東の空から暁光が差し込み、漆黒に覆われていた景色に色を添えていく。そのなかを三人の男たちの影が近づいて来た。
『鬼神丸国重』を杖にしてゆっくりと立ち上がると、三人を待ち受ける。
俺のことを認めた中根米七が、声をかけてきた。
「心配させおってに」
「申し訳ありませんでした」
俺は小さく頭を下げた。
「いや。おぬしのことだ。きっと来てくれると信じていたぞ」
永岡久茂が、そう言って笑みを漏らした。
「それでこそ、斎藤さんだ」
清水卯吉が嬉しそうに言葉を継ぐ。
「結局、集まったのはこれだけですか?」
「佐川殿は期待外れに終わったが、代わりに新撰組の隊長まで務めた斎藤一が加わったのだ。それで、十分ではないか」
「あまりお役には立てないかもしれませぬが」
「莫迦を申すな。とことんこき使ってやるわ」
永岡が、呵呵と高笑いをあげた。
俺も吊られて顔を綻ばせた。
「では、参るとするか」
永岡が、皆に向かって声をかける。
俺たちは、険しい坂に向かって歩き出した。




