第一話
俺たちは、一旦、寿徳寺に戻ってきた。
怪我を負った大然と清水のふたりとも、打撲しただけで大きな怪我には至らなかった。
本堂のなかで須賀が、上半身裸になった大然に手際よく治療を施す。傷口に膏薬を塗り、さらしを巻いていく。
暗い顔をしてなすがままになっていた大然が、堪えかねたように唐突に癇癪を爆発させた。
「これ以上は、ついていけぬ。私はもう降ろさせてもらう」
「いきなり何を言い出すのです?」
俺は、驚いて言葉を返した。
「あなた方に唆されて、その気になっただけだった。私は、もともと天皇などになりたいわけじゃなかったんだ」
「今更、さようなことを仰られても……もはや後戻りはできぬのです」
「いいですか。私は、殺されかけたのですよ。こんな想いはもうたくさんだ!」
「お気持ちは判ります。なれど、いまは気が立っているのです。少し時間を置いて落ち着いてから、ゆっくりと考えることに致しましょう」
「私の気持ちは変わらぬ。もう厭だ! もううんざりなんだ」
「…………」
大然の剣幕に思わず言葉を失っていた。
皆が二の句を告げられぬなか、須賀が静かに口を開いた。
「残念ですが、このお方を帝に据えることはお諦めください。そもそも、このお方には、帝になる資格などないのです」
「なんだって……!」
俺は、思わず須賀を見遣った。
「慶喜公は、あなた方から届けられた書状でその企みを知らされると、私に念のために熊沢家の血統を調べ直すように命じられました。私は、そのためにずっと尾張に出張っておりました。本日は、その結果を皆さま方にもお伝えするために参ったのです」
「それで……?」
「当主・熊沢繁左衛門さまのお父上、つまりは、大然さまの祖父に当たる熊沢小平治さまは養子にございました。先代の儀右衛門さまの御子息だった小平治さまが病死した後に、婿養子に入り、同じ名を継いだのでございます」
「それがいったいどうしたと言うのだ?」
高津が、苛ついた表情で口を挟んだ。
「つまり、熊沢大然さまは、帝の男系の血を引いてはおりませぬ。故に、帝に就くことはできませぬ」
「……そうなのか?」
高津が、訝しげな顔で中根を見遣る。
「ああ。皇統とは、あくまで帝の男系の血筋を継承していくことよ。もし、いまの話が真ならば、たしかに大然さまには、帝になる資格がないことになる」
中根が諭すように応えた。
「それは、真なのですか?」
俺は、思わず大然に問いかけた。
大然は、困惑した様子で首を横に振った。
「私は、幼い頃に寺に預けられて育った身です。熊沢家の血筋のことなど何も知りません」
「そうでしたな……」
俺は、須賀に視線を移した。「それで、慶喜公は何と仰っているのですか?」
「熊沢大然さまの血筋を偽って帝に就けることはできぬ。ほかに南朝帝の末裔を探し出せぬ限りは、帝のすげ替えの件は諦めよと……」
須賀が、憂いに満ちた眼差しで語った。
「左様ですか……慶喜公がそう仰られているのであれば、このままいまの策を進めるわけにはいかなくなりましたな」
「莫迦を申すな!」
高津が、いきなり吠えた。
「ここまで来て引き返せるわけがなかろう。このまま武力政変を決行する。それしか道はない! そもそも我らには、南朝帝の末裔などどうでもいいことであろう。いまの政府を叩き潰し、会津を始めとする旧幕勢力の復権を果たす。それが、そもそもの目的だったはず」
「西郷殿を旗頭とする薩摩勢の兵力がなければ、事をなすことはできぬ。その西郷殿は、南朝帝の末裔を帝に就けるために、起つことに決めたのだ。その前提が狂ってしまったいま、予定通り事を運ぶことはできぬ」
「ならば、取りあえずこのことは隠したまま事を進めよう。そして、武力政変が成就した暁に、改めて善後策を考えればよいではないか」
「それでは、我らは、あの大久保と同じ轍を踏むことになるのだ!」
俺は、思わず怒声をあげていた。
俺と高津の激しいやり取りに、中根が割って入った。
「まあ、そう興奮するな。すぐに結論を出す必要はあるまい。我らの棟梁はあくまで永岡殿なのだ。まもなく永岡殿が西郷の軍勢を率いて東京に戻ってくる。その後に、ゆっくりと策を練り直せばよいではないか」
本当にそれでいいのか……?
俺は、懸命に頭を働かせた。
……いや、それでは駄目なのだ。
「西郷が軍勢を引き連れて東京に来てしまった後では、手遅れになってしまう。あの川路が武力政変のことを知ってしまったのだ。あの男のことだ。手をこまねいて傍観しているはずがない。自ら上手く立ち回るために、何か手を打とうとするはずだ。やるならば、一気にけりを付けねばならぬ。率兵してきた西郷が武力政変を取り止めれば、おそらく西郷は謀叛の咎に問われることとなろう。やめるならば、西郷がまだ鹿児島にいるいまをおいてほかにない……この機を逸しても、まだ次の機会はあるはずだ。無念だが、此度は、武力政変を見送ることにしよう」
「待ってくれ。佐賀では、すでに『憂国党』や『征韓党』を中心とする反政府勢力が沸騰しておるのだ。彼奴らは、近いうちに必ず決起しよう。我らふたりで、薩摩の西郷が起つと触れ回ってきたからな。いま、我らが梯子を外してしまえば、佐賀の者たちが、犬死になってしまうぞ」
中根が、慌てて言葉を返した。
「……ならば、再び佐賀に舞い戻り、彼らを諫めてきてもらいたい」
「莫迦を申すな。一度燃え上がった火の手を儂らだけの手で消せるはずがあるまい」
「…………」
「儂らは佐賀に出向いていたために、西郷との談判の様子を子細に聞かされてはおらぬ。西郷が起つには、真に南朝帝の末裔が必要なのか?」
「幕末に南朝帝の血を引く天皇を弑逆してまで擁立した新帝には、天皇の血は流れていなかった。そのことを欧米視察を終えて帰国した大久保から知らされた西郷は、絶望に陥っていたのです。再び南朝帝の末裔を帝に就ける。いまの西郷は、その一念で動いております」
「八方塞がりとは、このことか……」
中根は、そう言って顔を顰めた。
「中根殿が仰る通り、我らの棟梁は永岡さんです。俺がすぐさま鹿児島に向かい、永岡さんと話をつけてきましょう。それで、よろしいですね?」
俺は、皆の顔を見渡した。
誰もが態度を決めきれぬまま俯いているばかりだった。
議論が途絶えたのを見計らって、須賀が口を開いた。
「慶喜公から言付けがございます」
「なんですって……?」
「うまく後始末をするためには、勝海舟殿を頼れ、と」
「あの勝殿をですか……?」
俺は、得心せぬままつぶやいた。




