第二話
俺たちは少しの仮眠を取ると、その日のうちに屋敷の片付けを始めた。部屋のなかを拭き清めて寝床を確保し、煤が溜まっていた竈に火を入れる。屋敷を取りあえず人が住める状態に変えるだけで、まる一日を費やした。
異変は、その翌日に起こった。
見張りに立っていた御庭番衆の弥吉が、血相を変えて屋敷のなかに飛び込んできた。
「大変です。邏卒が群れをなしてやって来ました」
「なに! 荘村め、邏卒を動かしおったか」
俺は、思わず声をあげた。
東京の治安を維持するため、廃藩置県の直後に当たる明治四年十月に、それまでの諸藩の藩兵に代えて、欧米のポリスを模範として新たな警察制度が発足した。邏卒とは、司法省に設置された警保寮に所属する警察官の名称だ。およそ三千人ほどいた邏卒の多くは、その時、西郷が鹿児島から連れてきた旧薩摩藩の郷士だった。
「面白い。刀も帯びていない薩摩の郷士風情が、俺たちの相手になるとでも思っているのか!」
清水が、憤然として嘯いた。
洋剣を佩いた幹部邏卒を除けば、一般の邏卒たちは帯刀を禁じられており、代わりに三尺棒を携帯していたのだ。
「待て! 相手の出方にもよるが、いま此処で薩摩の者たちと遺恨を残したくない。できれば、穏便に済ませたいのだ。おぬしは、万一に備えて奥の広間で熊沢大然さまをお守りしてくれ」
「やむを得ませぬ」
清水が、不満げな表情を浮かべながらも、奥の間に走った。
まもなく玄関の扉が開き、邏卒たちが姿を現した。
「いったい何用ですかな?」
俺が発した問いに、先頭に立ったなまず髭の男が答えた。
「少警部の中原尚雄と申す。おぬしらに問い質したいことがある。儂らとともに屯所まで来てもらおうか」
「俺たちがいったい何をしたと申すのだ?」
俺は、毅然とした声を発した。
「それをじっくりと聞かせてもらうのよ」
「もし、厭だと言ったら……?」
「ならば、腕ずくで連れて行くまでのこと」
中原警部はそう言って、後ろに控えていた邏卒に顎をしゃくった。
邏卒が前に歩み出て、三尺棒を引き抜いた。
「さような物が役に立つとでも思っているのか?」
俺が、嘲りの言葉を投げつける。
「なに!」邏卒が怒りにまかせて三尺棒を振りかぶった。
俺は、咄嗟に間を詰めて、三尺棒が振り下ろされる寸前に邏卒の手首を掴むと、そのまま腕をねじり上げ、三尺棒を奪い取る。そして、邏卒の喉元に三尺棒を突きつけた。
「くだらぬ密偵の迷い言などに踊らされおって。失せろ! 俺たちを捕まえたければ、確たる証拠を掴んでから出直して来い」
俺の言葉に中原が不敵な笑みを浮かべて、懐から警笛を取り出した。
「莫迦め。儂らがこのまますごすごと引き下がるとでも思っているのか!」
中原が鳴らした警笛の音が、辺りにけたたましく鳴り響く。
次の瞬間、屋敷の奥から騒々しい物音がして、清水の叫び声が続いた。
「藤田さん、早くこちらに!」
「くそッ! 裏に回られたか」
俺は、慌てて廊下を駆け出した。
奥の数十畳にも及ぶ大広間には、数人の邏卒たちがすでに縁側から入り込んでいた。
熊沢大然は、幸と抱き合うようにして広間の隅にしゃがみ込んで震えている。その前に仁王立ちした清水が、鞘のついた刀で邏卒たちと渡り合っていた。
俺は、すぐさまその乱闘の輪に加わり、次々に三尺棒で邏卒たちを蹴散らせていく。
その直後、俺を追って、中原警部を先頭とした邏卒たちが廊下から飛び込んできた。同時に、庭先からも新手の邏卒たちが姿を現した。
「ちッ、いったいどれだけいやがるんだ!……斎藤さん、抜いてもいいですよね?」
清水が、俺に問いかける。
「やむを得まい」
俺がそう応えるや、清水が鞘から刀身を抜き、青眼に構えた。
「元新撰組隊士、清水卯吉! 命が惜しくなければ、掛かってこい」
その怒声に、清水を囲んでいた邏卒たちが思わず後退る。
「再び『鬼神丸国重』を血で汚すことになろうとはな……」
俺も腰に佩いた古刀を引き抜いた。
「何をやっておる! 早く其奴らをひっ捕まえよ」
一瞬、怯んだ邏卒たちを中原が叱咤する。
邏卒たちが一斉に俺たちの許に殺到した。
俺は刀身を器用に操り、向かってくる邏卒たちを次々になぎ倒していく。
その時、清水が漏らした呻き声が耳に届いた。
振り向くと、脚を払われた清水が床に蹲っていた。その周りを邏卒たちが取り囲んでいる。
「いま助ける!」
俺は、慌てて清水の許に駆け寄っていく。
その瞬間、大然の悲鳴が耳朶を打った。
気がつくと、大然の許にも邏卒たちが向かっていた。そのひとりが振り下ろした三尺棒が、大然の身体を痛打したのだ。まさに多勢に無勢であった。
「幸! 大然さまをお守りしろ。槍を取るんだ」
俺は、やむなく叫び声をあげた。
俺の言葉に呼応して、幸が駆け出し、床の間に立て掛けてあった槍を手にした。
すかさず大然を三尺棒で打ちつけていた邏卒の背中に槍の鋒先を突きつける。邏卒は呻き声をあげて崩れ落ちた。
それを見た邏卒たちが、大然から幸に標的を切り替えた。
「幸、待っていろ」
俺は、すぐに幸の許に向かおうとした。けれども、邏卒たちの群れが俺の眼前に立ち塞がり、なかなか前に進むことができない。
幸は、襲ってくる三尺棒を交わしながら、次々に邏卒たちの身体に槍を突き立てていく。
「おのれ、猪口才な!」
中原が、洋剣を引き抜き、幸の許に駆け寄った。
幸が、槍を突き出して身構える。
「どうやら宝蔵院流を囓っているようだな。だが、儂も薩摩に伝わる示現流の遣い手よ。相手になってやろう。掛かってくるがいい」
中原はそう言うと、蜻蛉と呼ばれる独特の大上段の構えを取った。
幸が、一気に間を詰めると槍の穂先を飛ばした。
だが、中原がけたたましい猿叫とともに洋剣を振り下ろすと、槍は幸の手を離れ、床に転がった。その弾みで幸が大きく尻餅をつく。
中原が、再び洋剣を大きく振りかぶった。
「よせ! 相手はまだ子どもではないか」
俺は、思わず怒鳴り声をあげた。
「たとえ餓鬼とは言え、刃向かった者には手加減は加えぬ」
中原が、一歩間合いを詰めた。
恐怖に顔を歪めていた幸が、突然何かに気づいたのか、思わず表情を緩ませた。
そして、溜まっていた澱を吐き出すように腹の奥から大声を発した。
「お父……!」
その声に一瞬、中原がたじろいだ。
「待たぬか!」
庭先から声が返ってきた。
そこに、高津仲三郎が仁王立ちしていた。
「相手はこの儂じゃ」
高津が、中原に向かって脇差しを投げつける。
中原が洋剣で脇差しを弾き飛ばす。だが、その隙に、高津が駆け寄り、一気に間を詰めていた。
「槍を寄越せ!」
幸が、近くに転がっていた槍を高津に向かって投げつける。
宙で槍を受け取った高津が、中原に向かって穂先を突き出した。
中原が、洋剣でその鋒先を撥ねのける。
けれど、高津はその勢いを使って、槍を半回転させると、その石突を中原の首筋に叩き込む。中原の身体が吹き飛んでいた。
「なんとか間に合ったようだな」
高津が、俺に向かって不敵な笑みを浮かべた。
そこに、遅れて中根米七が飛び込んできた。
「なんとも派手に暴れておるのう」
中根が呆れたような声を出した。
「よく駆けつけてくれました。お蔭で助かりました」
「こちらに向かう途中で、異変を報せに走ってきた御庭番衆と出会したのが幸いした。さて、さっさと雑魚を片づけるとするか」
俺たちは、大然を守るようにして半円を描いて身構えた。
「さあ、どこからでも掛かってくるがいい」
邏卒たちが一斉に襲いかかってくる。俺たちは、刀と槍を自在に操り、次から次へと邏卒たちを蹴散らせていった。
向かってくる邏卒たちの数が見る間に減っていく。
その時だった。
広間のなかに大音声が響き渡った。
「皆の者、鎮まれ!」
気がつくと、フロックコートを纏った長身の男が立っていた。凜々しい顔の真ん中で輝く鋭い眸には殺気が宿っている。
警保助兼大警視の川路利良である。川路は、いまや警察機構の長官と呼ぶべき大警視の坂元純熙と同格の地位にまで登り詰めている男だ。
その右手に握られた黒い拳銃が、鈍い光を放っている。
「これ以上抵抗すれば、そこにいる男の命は保証できぬぞ。おぬしらにとっては大事なお方ではないのかな?」
銃口は、しゃがみ込んだ大然の頭部に向けられていた。
「よさぬか! そのお方をどなたと心得る?」
俺は、川路に向かって一歩踏み出そうとした。
「動くな! 気になってやって来た甲斐があったというものよ。まさかこんな処で新撰組の斎藤殿の亡霊と出会すことになろうとはな。おぬしなら、儂の射撃の腕ぐらいよく存じておろう」
蛤御門の変の際、御所に攻め寄せてきた長州軍の大将・来島又兵衛を狙撃したのが、この川路なのだ。郷士という下級士族の身に過ぎなかった川路だが、その功が西郷に認められて、その後、異例の出世を遂げてきたのだ。幕末には、俺も何度か顔を合わせたことがあった。
「まさか大警視殿自らのご出馬とはな……」
俺は、川路に嘲るように声を掛けた。
「儂の務めは、いまの政府を守ることよ。儂が政府にいる限り、謀叛など断じて許さぬ」
「西郷隆盛は、いまの政府を見限って野に下った。そして、西郷に従って、数多くの薩摩の者たちが職を辞して帰郷したのだ。西郷に人一倍恩義があるはずのおぬしが、西郷に叛旗を翻して、いまの政府を守ろうというのか? おぬしのなかの天秤は、いつから西郷よりも大久保の方が重たくなってしまったのだ」
「別に大久保どんを選んだつもりはない。西郷どんが下野したことは、私情においてはまことに忍びないとも思っている。なれど、大義の前には私情を捨てて、あくまで政府に献身するほかない。視察してきた仏蘭西の進んだ警察制度を取り入れて、この東京に警視庁を立ち上げる。それが、儂に与えられた天命なのだ」
そう言って、川路が胸を張った。
「俺たちのことを徒手空拳と見くびっておるな。知らぬようだから、教えてやろう。俺たちは、西郷さんの意を受けて動いておる。俺たちの盟主は、薩摩の西郷隆盛なのだ。俺たちに刃向かえば、次の政府におぬしの席はなくなると思え」
「……莫迦な。窮した挙げ句に出鱈目をぬかしおって。さような戯れ言が信じられるか」
だが、川路は、明らかに動揺していた。
「迷っているのか? ならば、俺が答えを教えてやろう。俺たちを始末した処で何も変わらぬ。武力政変は予定通りに決行される。あの西郷さんが起つのだ。さすれば、近衛兵の大半が従うことになろう。おぬしが率いる邏卒どもでは太刀打ちできぬぞ。もはや誰にも止められぬのだ。そして、その後、おぬしは政府から弾き出されることになる……何も俺たちの味方をしろと言っているわけではない。このまま此処を立ち去り、今日あったことはすべて忘れろ。ただそれだけのことだ。それが、おぬしにとっては最善の選択なのだ」
「…………」
川路が、無言のまま俺の言葉を咀嚼している。
俺は、川路に向かって一歩踏み出した。
「待て!」
川路が銃口を俺に向け直した。「まだおぬしの言葉を信じたわけじゃない。屯所に来てもらおうか。おぬしたちを一旦、拘束する。その上で、おぬしが申していることが事実かどうかを確かめる。それで、文句はあるまい」
首尾よく川路の銃口を熊沢大然から外させることができた。大然さえ生きていれば、後はどうとでもなる。俺は、覚悟を決めた。
「せっかくおぬしのことを思って、進言してやったのだがな……従いたくないと言うのならば、やむを得ぬ。俺を撃てばよい。だが、同時に俺の仲間たちがおぬしに飛び掛かることになるぞ。引鉄を引けば、此処がおぬしの死所となるのだ。そのことを忘れるな」
「おう。後のことはこの儂に任せておけ。儂の槍で其奴の首をかっ捌いてくれるわ」
高津が、すぐに俺の脅し文句に応じてくれた。
俺は素早く周囲に視線を走らせた。西郷の名前も効いているのだろう。邏卒たちは、その場の雰囲気に呑まれて、怖じ気づいたまま様子を窺っている。誰ひとりとして自ら率先して動こうという者はいない。相手は、川路ただひとりなのだ。
「どうした? 撃たぬのか」
俺は、川路をけしかけた。
「…………」
川路は、押し黙ったまま考え込んでいる。
おそらくいま頭のなかでは懸命に計算を巡らせていることだろう。川路が握りしめている拳銃には、五発の銃弾が装填されてはいるものの、弾丸を発射するたびに撃鉄を起こす動作が必要となるため、その重量や大きさ故に片手で連射することは難しい。高津らに一斉に飛び掛かられて、果たして自分に勝ち目はあるのだろうかと。
「案ずるな。黙って此処から立ち去れば、俺がおぬしのことを西郷さんに取りなしてやる」
俺の言葉に、川路が張り詰めていた緊張の糸を解きほぐし、拳銃を下ろした。
「たしかに、もし西郷どんが起てば、いまの裸の王様同然の政府に勝ち目はあるまいな……いいか。この借りは必ず返してもらうぞ」
川路はそう言い捨てると、踵を返した。
庭を突っ切って去りゆく川路が、その途中で庭先に植わった赤松の老木に一瞥をくれた。川路の姿が見えなくなるや、その幹の蔭からひとりの女性が現れた。須賀であった。
「お見事にございました。いざというときは、助勢に加わるつもりでしたが、要らぬお節介でございました」
須賀はそう言いながら、手にしていた棒手裏剣の束を懐にしまった。
「何故、こんな処に……?」
須賀を認めた俺は、驚きのあまり思わず声をあげていた。
「お話は後ほどに。取り急ぎこの場を離れましょう」
須賀が、険しい顔でそう応じた。




