第一話
中庭で清水が幸を相手に剣術の鍛錬をしている様を、庫裏の縁側に腰を下ろして眺めていた。
幸が、清水に向かって鞘がついたままの槍の穂先を次々と繰り出していく。その小柄な身体には長過ぎる高津の槍を、幸は器用に使いこなしていた。
最初は、刀の鞘で軽々とその攻撃をいなしていた清水だったが、次第に熱がこもってきた幸の突きが激しさを増してくると、鞘を合わせるのも覚束なくなり、ついには、胸に一撃を喰らってしまった。
清水が顔を顰めてうずくまる。幸が思わず駆け寄り、その様子を心配そうに窺った。
俺はその光景を目の当たりにして、からかうように言葉を掛けた。
「どうやらすっかり腕が鈍ってしまったようだな」
「そんなことはありませぬ。幸がここまでやるとは思いも寄らず、少し油断していただけのことです」
清水が向きになって言い返した。
「たしかに、幸の腕もなかなかのものだ。高津殿に随分と仕込まれたようだな」
俺の言葉に、幸が嬉しそうに顔を綻ばせた。
幸と暮らしを共にするようになってすでに一ヶ月以上経つ。幸もいまでは、俺たちにようやく懐いてきた。最初は硬い顔をして部屋の隅に身を寄せていたものだが、依然として言葉こそ喋れないものの、いまではその表情にはっきりと喜怒哀楽を表すようになっていた。
「さすがは新撰組におられただけのことはある。大したものだな」
突然、背後から声が降ってきた。
いつの間にか熊沢大然が奥の間から出て来て、ふたりの対戦に見入っていたのだ。
「申し訳ありませぬ。やかましかったのですか?」
俺は振り返ると、大然に声を掛けた。
「いえ。部屋に籠もっているばかりでは退屈ですから」
大然のはにかんだような様子に、清水が明るく応じる。
「それもあと少しの辛抱です。帝になれば、退屈している暇などありませぬぞ」
「ええ……」
大然が曖昧に肯いた。
「お覚悟は定まりましたか?」
俺は、大然に問いかけた。
「まだ物心もつかないうちから寺に預けられて、死ぬまでそこで暮らすものだと半ば諦観を抱えながら生きて参りました。けれど、こんな私にももっと違う生き方が出来るかも知れぬ。そう考えているうちに、次第に生きる希望が湧いてきました」
「それはなによりです」
「本当に私が帝になれるのですね?」
大然が、そう言って目を輝かせた。
「ええ。我らにお任せください」
「よろしく頼みましたぞ」
大然がすがるような眼差しを向けてきた。
その夜――
闇に紛れて、井口慎次郎が妙光院にやって来た。
「こんな夜中にいったいどうしたのだ?」
俺の問いかけに、井口が強張った面持ちで応えた。
「永岡さんの屋敷に荘村省三が現れました」
荘村省三とは、かつて勝海舟が語っていた新政府の監部課にいる密偵だ。
俺は、無言で井口に話の続きを促した。
「荘村は、永岡さんの行方を探しています」
そう語った井口の頬は青黒く腫れていた。
永岡は、俺たちと行動を共にするようになってからは屋敷に戻っていない。危険人物と目されていた永岡の屋敷は、新政府の監視下に置かれていたはずだ。永岡が姿をくらませてから、すでに一ヶ月以上が経つ。さすがに心配になって、荘村自らが動き出したということか。
俺は、不安に駆られて思わず井口に問いかけた。
「まさか屋敷から真っ直ぐ此処に来たわけではなかろうな?」
「……ですが、追っ手には充分に気を配って参りました」
井口が、たじろいだ様子で応えた。
俺は咄嗟に清水に視線を走らせる。清水は小さく肯くと、刀を手にして庫裏の玄関へと走り出した。その眼前で、玄関の扉が大きく開け放たれて、ひとりの男が姿を現した。
キツネ目の奥で鋭い光を放つ眸が、その顔に冷酷な印象を与えている。荘村省三に違いない。
「道案内、ご苦労であった」
荘村が、ふてぶてしく嘯いた。
俺はゆっくりと荘村の許に歩み寄り、正面に対峙した。
「こんな夜遅くにいったい何の御用ですかな?」
「永岡を呼べ!」
荘村が、俺を睨めつけ、どすを利かせた。
「永岡さんは、此処にはいません」
「なに……!」
荘村が思わず辺りを見回す。
「いったい何処に行った?」
「さあ。行き先も告げずに出て行かれましたから、何処にいるのかは判りませぬ。もはや此処には戻ってこないつもりでしょう」
俺は、平静を装って言い繕った。
「嘘をつくな。おぬしらは、永岡の一味であろう? そうでなければ、この若造が此処に来るわけがない」
「俺たちは、職を得るために永岡さんを頼って青森から上京してきた。永岡さんが俺たちの面倒を見るために、しばらく此処にいたことも間違いない。けれど、永岡さんはすでに此処を出て行ってしまったのだ。この若者は、そのことを知らされていなかったのだろう」
「さような戯言を信じろとでも言うつもりか。永岡には、一年前に武力政変を行おうとした前科がある。いま再び何かを企んでいるに違いない。おまえたちは、そのために集められたのだ。どうだ、図星であろう?」
「何を証拠にさようなことを仰っておるのですか?」
俺はそう言って、荘村の眸を見詰めた。
「……おぬし、いったい何者なのだ? その物に動じぬ落ち着き払った態度。どうやら、ただ者ではなさそうだな」
「名乗るほどの者ではない。ただ、幕末維新の動乱で死に損なっただけの男だ」
「そして、いまや新政府に対する恨みと憎しみだけを胸に抱いて生きている男、というわけか」
荘村が、嘲るような声をあげた。
「おぬしのことは聞き及んでいるぞ。幕末には、熊本藩の西洋砲術指南役をやっていたそうだな。そんな男が、新政府では密偵の真似事をやらされておるのか。薩長土肥の連中しか栄達できぬような腐った政府によく義理立てできるものよ」
「なんだと……!」
荘村が、思わず気色ばんだ。
幕末期の熊本藩は、勤皇派の中心人物、宮部鼎蔵が池田屋事件で亡くなったために、尊皇攘夷運動が盛り上がらぬなかで、保守派と横井小楠らの進歩派が主導権争いを起こし、藩論を統一できないまま維新を迎えた。戊辰戦争では、東北での戦いにようやく兵を出したものの、維新の波に乗り遅れ、新政府のなかでの立場は決して恵まれたものとは言えなかった。
「薩長ごときに無様に倒される幕府がいけないのだ。儂らは、おぬしらのように朝敵になったわけではない。薩長の世に変わったいま、その薩長と手を組んで何が悪い」
「おぬしには、武士の矜持というものはないのか?」
俺は、荘村を睨めつけた。
「なるほどな。その矜持とやらのために、武力政変を起こそうというわけか」
「俺たちはそんなことは考えていない」
「儂らの目が節穴だと思うなよ。そこの小僧が、尾張にまで足を運んだことはばれておるのだ。いったい何を企んでおる?」
清水の供をして尾張時之島に向かった井口には尾行がついていたのか……。
だが、清水は、当主の熊沢繁左衛門を始め、その周囲の者たちに俺たちの企みを語ったりはしていない。それを知っているのは熊沢大然ただひとりだ。俺たちの企みは、まだ荘村には悟られてはいないはずだ。だからこそ、荘村は焦っているのだ。
「旅に出掛けたことぐらいで、なぜ咎め立てされねばならぬのだ?」
俺は平然とした態度を崩さずにそう応えた。
「…………」
荘村が返す言葉を失い、歯噛みする。
「永岡さんを捜しているのならば、こんな処で油を売っていないで、ほかを当たることだな」
俺が浴びせた嘲るような言葉に、荘村が怒りのこもった眼差しで俺の顔を見詰めてきた。
「永岡に伝えておけ。儂は必ず貴様を牢獄にぶち込んでやるとな」
それだけを吐き出すと、踵を返し、庫裏を出て行った。
清水が、慌てて俺の傍に歩み寄ってきた。
「どうします?」
「此処はまもなく新政府の監視下に置かれることになる。急いでねぐらを変えよう」
「……当てはあるのですか?」
「ああ。ひとつだけな」
「けれど、此処を離れてしまうと、永岡さんや中根さんたちと連絡が取れなくなってしまうではありませぬか」
「やむを得ぬ。我らにしか判らぬ言葉で此処の住職に言付けを頼むしかあるまい」
俺は、苦渋を滲ませながらそう応えた。
まだ夜が明けぬうちに、俺たちは妙光院を後にした。
追っ手に気を配りながら、大通りを避けて裏道を西に向かう。俺のほかに、清水と幸、そして熊沢大然の四人の一行だ。向かったのは、板橋にある寿徳寺だった。
寺院の朝は早い。まだ未明にも拘わらず、宮木和尚はすでに起き出していた。
俺から事の次第を聞かされた宮木和尚は、思わず顔を曇らせた。
「実は、荘村省三の配下には、かつて御庭番衆をしていた者もおります。お気づきにならなかっただけで、皆様にはきっと尾行がついていたはずです。すでに此処にやって来たことは、荘村にも知られてしまったと考えるべきでしょう」
「あと一週間もすれば、永岡さんが西郷の軍勢を率いて戻ってくるのだ。それまでの間、なんとかならぬか?」
俺は、すがるような声をあげた。
「とにかく此処にいては不味うございます。すぐに隠れ家をお探しします」
その日のうちに、宮木和尚が次のねぐらを見つけてきた。
徳川家が駿府に移封されて旗本や御家人が離散したために、東京の外れには多くの空き家が存在した。宮木和尚が探してきたのは、寿徳寺からさほど遠くない場所にある、空き家になったとある旗本屋敷跡だった。
「我らの仲間が、敵の密偵を引きつけておきます。その間に屋敷にお移りくだされ」
俺たちが夜のうちに密かに移ったその屋敷は、住む者もなく長く放置されていたため、庭には雑草が生い茂り、母屋も朽ち果てて所々で雨漏りがしている有様だった。
腰を落ち着けた俺たちに向かって、宮木和尚が注意を促す。
「密偵の目から逃れきった保証はありませぬ。充分にお気をつけなされ」
「なんの。たかが密偵一匹にさほどびくびくする必要もあるまい。まもなく世の中がひっくり返るのだ。いざというときには、その荘村とか申す密偵を叩き斬ればすむことよ」
清水が、高慢な態度で言い放った。
「されど、荘村という男は、太政大臣の三条実美や参議の大隈重信とも繋がっている厄介な存在です。細心の注意を払うに越したことはありませぬ」
宮木和尚が、苦い顔をして言葉を返す。
「心に留めておきましょう。ところで、まもなく永岡さんや高津さんたちが、和尚の許を訪ねてくるはずです。その際には、此処への案内をお頼み申します」
俺は、軽く頭を下げた。
「承知しました。念のために、御庭番衆をひとり残していきます。皆さまのご武運をお祈りしております」
そう言い残すと、宮木和尚は屋敷を立ち去っていった。見張り番として居残った御庭番衆は、弥吉という名の俊敏そうな若者だった。




