第二話
その翌日、俺は永岡に従って、旧薩摩藩の下屋敷がある高輪に向かった。
新政府の政策に異を唱え続けてきた島津久光が、政府の粘り強い上京要請に折れてようやく腰を上げたのは、この四月のことである。頭に髷を結い、腰には大刀と小刀を差し、あえて時流に逆行するような風体をした薩摩士族二百五十人を随行しての上京であった。
島津久光と新政府との調停役を務め、久光の説得に一役買ったのが、海江田信義だ。
かつては有村俊斎と名乗り、水戸藩の藤田東湖に師事したこともある。水戸の浪士たちが大老・井伊直弼を桜田門外で襲撃した『桜田門外の変』に加わり、井伊の首を獲ったのは、海江田の三弟の有村次左衛門だ。海江田自身も薩英戦争のきっかけとなった『生麦事件』において、島津久光の大名行列の前を遮った英国人を斬殺している。まさに、幕末期には、兄弟揃って過激な尊皇攘夷の志士だったのだ。
海江田は、戊辰戦争の最中に長州軍の指揮官、大村益次郎と激しくぶつかり、大村が暗殺された時には首謀者と疑われるほどにまで険悪な関係となっていた。そのため、長州藩から厭われた海江田は、新政府では冷や飯を喰わされる身となり、いまでは、新政府に籍を置きながらも、反政府の姿勢を崩さぬ島津久光と近しい間柄となっている。
海江田は、広大な薩摩の抱え屋敷の一角に建つ殿舎のひとつを居宅としていた。
「このことは、海江田殿の胸の裡に収めておいて頂きたいのですが……」
表座敷で対面した海江田に向かって、永岡が武力政変の企てについて切り出した。
「そうか。ついに西郷どんが起つことになったのか……世の中が変わるな」
永岡の話を聞き終えた海江田が、溜め息交じりにつぶやいた。
「屋敷のなかには、まだ空いている長屋が幾らもある。ほかならぬ西郷どんの頼みなのだ。此処に匿うことに支障はない。但し、断っておくが、我らは動かぬぞ」
「それで結構です」
「この件については、久光さまには内密にしておく。久光さまと西郷どんとの間では、すでに手打ちは済んでいるとは言うものの、まだ胸の裡のわだかまりが消えたわけではあるまい。このことを聞きつければ、いきなり何を言い出すか判らぬからな」
島津久光と西郷隆盛が不仲であったことはつとに知られている。幕末期には、久光は西郷を二度も島流しにしたほどだ。だが、此度の久光の上京に際し、政府の特使として薩摩に帰郷した西郷が、久光に対してこれまでの言動を謝罪したことで、ふたりの間の手打ちは済んだとされていた。
「よろしくお願いします」
永岡はそう言って、頭を下げた。
海江田が、ふと俺の方を見遣って、言葉を継いだ。
「それにしても、驚いたな。元会津藩士の永岡殿はもとより、新撰組にいた斎藤殿までもが西郷どんを担ごうとしているとはな」
「どういう意味です?」
俺は、その言葉に訝しげな声をあげた。
「決まっておろう。西郷どんは、新撰組の仇敵ではないか」
「なんですって!」
思わず発した驚きの声に、海江田が顔を強張らせた。
「まさか、知らなかったのか……しくじった。またいつもの失言癖が出てしもうたわ。すまぬ。いまの言葉は忘れてくれ」
俺は、海江田を睨めつけながら声を荒げた。
「そうはいきませぬ。西郷さんがいったい何をしたというのですか?」
俺の剣幕に、海江田が渋々口を開いた。
「局長の近藤勇を伏見街道で狙撃したのが、かつて新撰組にいた富山弥兵衛だということは存じておろう?」
「ええ……」
伊東甲子太郎とともに新撰組を抜けて、御陵衛士を務める高台寺党に移った十五人の仲間のなかには、富山弥兵衛の姿もあった。そう言えば、富山は、たしか薩摩出身だった。
「実は、富山は薩摩藩が新撰組に送り込んだ密偵だったのだ。薩摩としては伊東甲子太郎の動きが気掛かりだった故、高台寺党に移ってもらったがな。『油小路の変』で伊東が謀殺されて、高台寺党が壊滅した後、生き残った隊士たちは薩摩藩邸に逃げ込んでいたのだ。藩邸にいた富山に近藤勇の暗殺を命じたのが、西郷どんだったのだ」
「…………」
初めて耳にする話だった。その言葉に、驚きを禁じ得なかった。
「いまでこそ聖人君子みたいな顔をしておるが、かつて西郷どんは、汚れ仕事も厭わぬ策謀家だったのだ。益満休之助らを遣って江戸騒乱を引き起こしたのも西郷どんの仕業だったと聞く。気をつけることだな。おぬしらは、西郷どんを上手く使うつもりでいるのかも知れぬが、いつの間にか西郷どんに呑み込まれてしまわぬようにな」
「ご忠告有り難うございました。精々気をつけまする」
永岡が、そう言って頭を下げた。
俺は、真白になった頭でその様子を眺めていた。
妙光院に戻った永岡は、珍しく酒を持ち出してきた。
「いったいどういう風の吹き回しなのですか?」
俺が発した訝しげな声に、永岡が硬い笑みを浮かべた。
「まあ、たまには良いではないか」
俺にぐい呑みを握らせると、そこになみなみと濁った酒を注ぐ。
自らの椀に盛った酒を一気に呷ると、永岡は口を開いた。
「近藤殿を狙撃した黒幕が西郷だと聞かされて、心が波立つのは仕方がない。だが、せっかく此処まで来たのだ。出来れば、堪忍してもらいたい」
「永岡さんは、西郷が新撰組の仇敵だと判ったからといって、俺の気持ちが変わるとで思っているのですか?」
そう言いながらも、俺の心の中には確かなわだかまりが根付いていた。
「会津の者ならば皆、薩長に対して少なからず恨みを抱いているのだ」
永岡が、苦渋の表情を浮かべながら言葉を継いだ。
「私とて、例外ではない。
私には、やす子という名の男まさりの姉がいた。幼い頃には、姉のことが大好きで、何処に行くにもくっついて離れなかったほどだ。姉は、年頃になると中野慎之丞という百五十石取りの藩士の許に嫁いでいった。
官軍が会津城下に攻め入ってきたあの日、慎之丞は従軍していて不在だった。姉とともに家に残されていたのは、年老いた義父母と子ども四人の家族だった。官軍から辱めを受けることを厭った姉は、義父母を介錯し、子ども四人を刺殺したうえで、自宅に火を放ち、井戸に身を投げて亡くなったのだ。戦後に見つかった姉の遺体は水膨れしており、喉には懐剣が突き刺さったままだったという。
あの過酷な合戦を生き延びた妻とは、斗南を捨てて上京してくるときに離縁した。反政府活動に身を投じようとしていた私の傍にいても、妻が幸せになることはないからな。
私とて薩摩の者に対するわだかまりが解けたわけではない。けれども、いまの政府を倒すためには、その薩摩とも敢えて手を結ばねばならぬのだ。ここは、是非にも私情を捨てて、世のために働いてもらいたいのだ」
「……判っております」
俺は、苦い物を吐き出すように言った。
「いまの西郷は、なにも仮面を被っているわけではあるまい。きっと、誤って南朝帝の末裔を弑逆したことで、自責の念に駆られた西郷は変わったのだ。いまさらかつての策謀家に戻ることはあるまい。それに、新たな政府には、慶喜さまや山川さんも加わる。むろん私も精一杯政府を支えるつもりだ。西郷に好き勝手に振る舞うことなどはさせぬわ」
「この話は清水には内緒にしておきましょう」
俺は、永岡の熱意に押されて、気持ちの整理がつかぬまま応えていた。
「私は、まもなく西郷を迎えるために、再び鹿児島に赴かねばならぬ。私の留守中は、何と言ってもおぬしだけが頼りなのだ。頼んだぞ」
そう言って、永岡が俺の顔を覗き込んだ。
「ええ。永岡さんが戻ってくるまで、しっかりと熊沢さまをお守りしておきましょう」
俺は硬い口調でそう告げた。
それからしばらくして永岡は鹿児島へと旅立った。




