第一話
俺が、永岡とともに鹿児島から東京に戻ってきたときには、佐賀に出向いた中根と高津はまだ帰ってきていなかった。
妙光院では、清水がひとりで俺たちの帰りを待ちわびていた。
清水の悄然とした様子を一目見て嫌な予感が走った。
「首尾は如何か? 熊沢さまはどうされたのだ?」
俺の問いかけに、清水が力のない口調で応えた。
「熊沢文太郎さまはすでに亡くなっておりました……」
「なんだって……!」
清水が口にした予想外の言葉に、思わず叫び声をあげていた。
尾張時之島に根を張る熊沢宗家を訪れた清水は、そこで当主の繁左衛門から、当てにしていた跡取りの文太郎が三年前に病気で亡くなっていたことを知らされたのだ。
「繁左衛門さまには、ほかにご子息はおられぬのか?」
永岡が口を挟んだ。
「幼い頃に僧籍に入ってしまわれた大然さまという弟君がおひとり……」
「で、お逢いしたのか?」
俺は思わず語気を荒げていた。
「いいえ……」
清水が小さく首を振った。
「大然さまが勤めておられる寺を訪ねてはみたのです。けれども、『すでに熊沢家とは縁もゆかりもない故』と仰られて、お目に掛かることも出来ませんでした」
「それで、すごすごと舞い戻ってきたというのか!」
俺は、怒声をあげた。
「左様。いまさら南朝帝の末裔を用意できなかったでは済まされぬぞ。何としてでも、その大然さまに還俗してもらうほか道はなかろう」
永岡が言葉を継いだ。
「どうしますか?」
俺は永岡に問いかけた。
「尾張ならば、船を使えばさほど刻は掛からぬ。我らも尾張に行ってみよう」
永岡はすぐさま慶喜に宛てて、西郷が武力政変の決行を了承したことを報せる書状を認めると、その書状を寿徳寺の宮木和尚に託した。そして、俺たちはその足で尾張へと向かった。
尾張時之島と言っても島ではない。廃藩置県の後に変遷を経て愛知県となった県北部に位置する木曽川にほど近い村である。かつては、川中に浮かぶ中州だったのかも知れない。田圃が広がるのどかな一角に八幡社を中心とした村落がぽつんと散在した。其処こそが、水戸から移ってきた熊沢一族が根を下ろした場所だったのだ。
熊沢大然が僧として勤める定願寺は、そこからさらに東に半里ほどの処にあった。
永岡は、庫裏の玄関に接客に出てきた若い僧侶に、はったりをかませた。
「我らは、駿府に隠棲しておられるかつての征夷大将軍、徳川慶喜公の遣いの者である。こちらに勤める大然さまにお目に掛かるために罷り越した」
その言葉に気圧された僧侶は慌てて庫裏に引っ込んだ。
座敷に通された俺たちの前に現れた熊沢大然は、痩せぎすで、落ち窪んだ眼窩が印象的な神経質そうな顔立ちをしていた。
俺たちが名乗りを上げると、永岡はさっそく要件を切り出した。
「我らは、大然さまを東京にお連れするために参ったのです」
「いったいどういう理由でしょうか?」
大然が訝しげに問いかける。
「熊沢家が南朝帝の血を引く御家系であることは存じておりましょう?」
「ええ、噂には……」
「噂で、ですか?」
永岡が驚いた声をあげた。
その言葉に応えて、大然が喋り出した。
「私は、口減らしのために五つのときにこの寺に預けられました。それ以来、両親とは音信不通になっておりました。私はすっかり実家から忘れ去られた存在だったのです。ところが、兄が病死してすぐに、父が寺にやって来ました。すぐに還俗して家を継ぐようにと命じたのです。父が言うには、熊沢家は大変高貴な家柄であり、決してその血統を絶やしてはならないという代々伝わる家訓があるとのことでした。
それまで打ち捨てたような態度を取って、幼い頃からこの寺で育った私の苦心など知ろうともしなかった。それなのに、兄が亡くなった途端に掌を返したように家を継げと言う。その身勝手な振る舞いに腹が立ち、熊沢家とはこれからも関わりを持つまいと心に決めたのです。
熊沢家のことは噂でしか知りません。それまで私の前で熊沢家のことを口にする者はいませんでした。兄の死後に、私がそれとなく周囲の者に探りを入れてみると、熊沢家はほかの村人たちからは孤立し、白眼視されていました。嘘か真かは判りませんが、南朝帝の末裔を自称し、天皇家と同じ十六弁の菊花紋を使っているのです。まかり間違えば、不敬罪に問われかねません。周りの者たちが熊沢家と距離を置きたくなる気持ちも当然です。熊沢家は、時之島に数軒ある一族のなかだけで互いに寄り添いながら生きてきたようです」
永岡が、大然の話に応じた。
「嘘偽りなどではありません。熊沢家は、歴とした南朝帝の皇統を繋げる尊いお家柄なのです。そのことは、徳川幕府も認めておりました」
「……そうなのですか」
「いまの帝は、維新のときにすり替わった真っ赤な偽物に過ぎませぬ。一刻も早く正統である南朝の皇統に戻さねばならぬのです。そのために、私たちは、こうして大然さまを訪ねて参った次第です」
「……まさか、この私を新たな天皇に?」
大然が、驚愕の表情を浮かべた。
「大然さまは、ただご存じなかっただけで、その資格を立派にお持ちなのです」
その言葉に、大然は大きく首を横に振った。
「いまの政府が、左様なことを認めるとは思えませぬ……あなた方は、政府の人間ではありませんね」
永岡が、思わず身を乗り出した。
「左様。実は、我らは武力政変を目論んでおります。いまの腐りきった藩閥政府を倒すつもりです。かつての将軍、徳川慶喜公ばかりでなく、西郷隆盛さまを始めとする薩摩の方々も我らの企てに賛同しております。それ故、この企みは、必ずや成功します。その暁には、大然さまは帝の座に就けるのです」
永岡の言葉に大然が頭を抱えた。
「いきなりそんなことを言われても……いや、無理だ。私に天皇など務まるわけがない。第一、私は天皇になるための教育など何ひとつ受けてはおらぬのです」
「左様なことは、後からどうにでもなります。気になさる必要などありませぬ。肝心なのは、南朝帝の血を引いていること、ただそれだけなのです。南朝帝の末裔である熊沢の血筋の者が帝に就く。それが一族の永年に亘る悲願だったはず。いまこそ、その宿年の願いが叶うのです」
「しかし……」
見兼ねた俺は、思わず片膝を立てて、刀の柄に手を掛けた。
「いまの腐りきった政道を正さねばなりませぬ。申し訳ないが、貴殿には選択の余地はないと思っていただきたい」
清水も、威勢のいい言葉を続ける。
「帝になれば、こんな貧乏寺とはおさらばして、贅沢三昧ができるのですぞ。まさに僥倖ではありませぬか。何を迷う必要があるのです」
「…………」
「いきなりかようなことを聞かされて、戸惑うのは無理もありませぬ。本来ならば、じっくりとお考え下されと申し上げたい処ですが、実は、もうあまり時間が無いのです。取りあえず我らと東京までご同行願います。まだ得心できないならば、そこで熟慮されればよろしいのです」
永岡がそう話を締めくくった。
大然は、俺たちの勢いに気圧されて、無言のまま天を仰いだ。
必ずしも納得したわけではないのだろう。まだ心の整理がついたとも言い難い。けれども、とにかく大然は、俺たちとともに東京に行くことに同意したのだ。
俺たちは、小舟で四日市港に渡り、そこから再び蒸気船に乗って東京にとんぼ返りした。
「狭くて申し訳ありませぬが、ほんの少しの辛抱でございます」
取りあえず庫裏の奥にある四畳半の狭い部屋を御座として大然にあてがった。
「なに。寺の生活には慣れております故」
大然は文句も言わずに、そのままその部屋に居座った。
そんな大然の様子を窺いながら、俺は永岡に小声で問いかけた。
「あのお方で本当に大丈夫でしょうか? なにやら覇気が無いようにお見受けしますが……」
「問題あるまい。帝と言っても、所詮は神輿なのだ。むしろ勝手に自己主張をし始めるようなお方では困る。我らの言うことに素直に従ってもらえるお方の方が有り難いではないか」
「……判りました。とにかくあのお方に万一のことがあっては一大事となります。今日からは、清水とふたりで見張りに力を入れていきます」
「頼んだぞ。本当はもっと安全な場所に匿えればよいのだろうが、残念ながら良い伝手が見つからぬ。こうなると、中根殿と高津殿がいないのが痛手だな。一日も早く戻ってきてくれれば良いのだが……」
そう言って、永岡が渋い顔を浮かべた。




