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維新ふたたび  作者: 袖岡徹
第八章 西郷隆盛
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第三話

 身体を揺すられて、目を醒ました。

 目の前に永岡の顔が迫っている。

「西郷さんが家を出た。おそらくは温泉に向かったのであろう。我らも行くぞ」

 永岡が、耳許でそうささやいた。

 いつの間にか酔っ払って眠ってしまっていたようだ。まだ酔いの残る頭を振って、半身を起こすと、傍で桐野が高鼾たかいびきを掻きながら眠りこけていた。


 温泉場は歩いてすぐの処にあった。

 それは、丸太の骨組みに茅葺き屋根を載せただけの簡素な露天風呂だった。俺たちは、狭い脱衣所で衣服を脱いで裸になると、湯殿に向かった。湯けむりが立ち籠めるなか、大きな湯船にひとり浸かっている西郷の頭が見える。俺たちを認めた西郷が、声を掛けてきた。

「おぬしらも来たとな。よか温泉じゃっで、気持ちがよかと」


 俺たちも西郷の傍まで行き、熱い湯に浸かった。

「西郷さまはよく此処に来られるのですか?」

 永岡が、話の取っ掛かりを求めて口を開いた。

「二度ん島流しで身体を悪うしてしもたで、暇があれば、こげにして湯治に訪るっとじゃ」

 そう言うと、西郷は立ち上がり、湯船を囲った岩のうえに腰を下ろした。


 西郷の股間が眼前に露わになる。そこに垂れ下がった睾丸が、南瓜かぼちゃ大にまで膨れ上がっていた。驚いて思わず永岡と顔を見合わせる。

「たまげたじゃろ。象皮病ちゅう病だそうじゃ。もう痛みは無かどん、馬に乗れんのが厄介や」

 西郷が、乾いた笑い声をあげた。

「……ずいぶんとご無理をなさっておったのですね」

 俺は感慨を覚え、思わずつぶやいていた。


 暫しの沈黙を破るようにして、西郷が声を出した。

「桐野どんに聞かれたくなかこっでもあっとな?」

 さすがは西郷だ。永岡の意図を的確に理解していた。

「せっかく薩摩にまで足を運んできたのです。せめて我らの話だけでも聞いては頂けぬでしょうか?」

「よかじゃろう」

 永岡の懇願に西郷が小さく肯いた。


 永岡は起ち上がると、西郷の傍の岩に腰掛ける。俺もその脇に並んで座った。

「我らは、いまの政府を倒すために武力政変クーデターを目論んでおります。そのために、どうしても西郷さまにお力になって頂きたいと思っているのです」

 西郷は、目を閉じて永岡の言葉に耳を傾けている。

「西郷さまが起てば、徳川慶喜さまも起って頂けるとのお約束を頂いております」

「なに……?」

 西郷が思わず目を見開き、永岡を睨めつける。


「西郷さまがいまでも慶喜さまのことを快く思っておられぬことは重々承知しております。なれど、薩長による藩閥政治を打破し、挙国一致の政府をつくるためには、どうしても旧幕勢力の代表として慶喜さまに旗頭になって頂く必要があるのです」

「…………」

「そして、最も肝心なのは、此度こそ本物の南朝帝の末裔を帝に就けまする!」

 永岡の言葉に、西郷が息を呑んだのが判った。

「我らは、後亀山天皇の血を引く信雅王の末裔がまだ尾張にいることを探し当てたのです」

「……真か?」


「慶喜さまから帝の秘密は聞き及んでおります。いまの帝は、おそらくは西郷さまが連れて来られたお方でしょう。けれども、長州藩が囲っていた大室寅之祐さまが亡くなってから、西郷さまが京に戻ってくるまでは、僅か一月足らずでございました。その間に、新たな南朝帝の末裔を探し出せたとは思えませぬ。西郷さまは、心底いまの帝を良しとされておられるのですか?」

 永岡の語気に気圧けおされて、西郷が苦しげに口を開いた。

「……おいは、偽物を帝に就けたつもりはなかったんじゃ。じゃっどん……」

 西郷は、そこで言葉を詰まらせた。

「お話しくだされ。その胸の裡にお隠しになられていたすべてのことを」

「……世間では、おいが、征韓論に敗れて野に下ったと思うちょるようじゃが、そげんこっじゃなかど……」

 西郷が、ゆっくりと喋り出した。


「あん時、薩摩に戻っちょったおいの許に、大室寅之祐さまが斬殺されたっちゅう報せが届けられた。

 そん報せを聞いたおいは、悲嘆に暮れちょった。もはや王政復古の武力政変を進むっわけにはいかん。もともと薩摩は長州と仲がよかったわけじゃなか。大室寅之祐さまっちゅう南朝帝の末裔を帝に就けっちゅう思惑だけで繋がっちょったとじゃ。

 そんなおいの耳許で大久保一蔵(利通)どんが囁いたとじゃ。

「案ずることはなか。薩摩も帝の末裔を囲うちょるじゃなかとか」


 薩摩の一部ではよう知られた話なんじゃが、薩摩もまた帝の末裔をお守りしちょったとじゃ。

 源平の時代に平家に担がれたまだ幼か安徳天皇は、壇ノ浦の戦いん際に入水してお亡くなりになられたとされっちょ。けんど、ほんとは舟でその地を逃れ、薩摩の南に浮かぶ硫黄島(鬼界ヶ島)に落ち延びられたど。島津家の祖、忠久公は源頼朝公の落胤おとしだねじゃ。安徳天皇を庇護して、天皇家が代々伝えてきた『虎巻秘法』を守っために、薩摩国の守護に任じられたど。そん安徳天皇の末裔が、硫黄島で細々と命脈を保っていたのでごわす。いまから六百年以上も遡らんな、血が繋がらん微かな皇統とは言え、帝の末裔には違いなか。


「いま硫黄島に遣いをやっちょる」

 一蔵どんが言葉を継いだ。

「まっこと帝の末裔に間違いなかろうな?」

「おいに任せちょけ」

 おいは、大室寅之祐さまん代わりに安徳天皇の末裔を帝に就けっことに決めたとじゃ。おはんらもすでに知ってん通り、王政復古の武力政変のどさくさのなかで、睦仁帝を弑逆しいぎゃくし、帝をすり替えたのでごわす。


 こん五月に、一蔵どんが、岩倉使節団より一足早く欧州から帰ってきもした。

 おいの許に帰国の挨拶に訪れた一蔵どんに、おいは問うちょった。

「そろそろ帝の秘密を世間に公表すっ頃合いじゃなかと? いつまでも帝を日陰者にしちょくわけには参らんやろ」


 明治の初めから、鎌倉宮創建をはじめとして南朝を祀る神社の創建や再興が行わるごつなった。

 そいに、維新政府が編纂を始めた、南朝正統を基調とする皇室系図である『纂輯御系図さんしゅうごけいず』の完成が間近に迫っちょった。そろそろ、帝はすでに閏統である北朝じゃなかことを明らかにせんならん時期が来とると思うたのでごわす。


 じゃっどん、おいの言葉を聞いた一蔵どんは、顔を真っ赤にして言い放ったとじゃ。

「そげんこと、できるわけがなか!」

「ないごてや?」

「あんお方は天皇の血など引いちょらん。安徳天皇の末裔などとうの昔に途絶えちょったど」

「なに……!」

「あんお方はその御陵を守る神主の息子に過ぎん」

「ないごて、そげん大事なことを隠しちょったど!」

「仕方がなかったど! どげんしてん、大室寅之祐さまの身代わりが必要やったとじゃ」

「……一蔵どん。おはん、おいを騙しちょったんか」


 おいは、誤って南朝帝の末裔を弑逆してしもうたど。そん代わりに帝の座に就いたのが、どこん馬の骨とも判らん輩やったちゅうとな。おいは、自分が犯してしもた罪の大きさを知り、愕然となったのでごわす。

 一蔵どんは、おいの怒りを怖れて、そん後、岩倉さァが戻って来らるっまで、関西に逃亡してしもうた。

 こげん大不忠をしでかしてしもうたおいが、こんまま生き恥を晒すわけにはいかん。死んでお詫びをせねばならん。そう思うちょりもした。そげん時に朝鮮問題が勃発したとじゃ。


 朝鮮国に門戸を開かせっためには、武威をちらつかせんならんこっは明らかやった。じゃっどん、板垣さァが主張するごつ、いきなり軍艦を派遣すっことはできもはん。ペリー提督がいきなり軍艦を引き連れて開国を迫った後、日本国がどうなったかは、おはんらもよう存じておろう。朝鮮国に日本国と同じ愚を犯させてはなりもはん。


 朝鮮国を平和裡に開国させっためには、軍艦を派遣させるに足る口実が必要となりもす。おいが遣韓大使として朝鮮に赴けば、きっとおいは向こうで殺されもんそ。そいが、軍艦派遣の格好の口実となっじゃらせんか。おいは、朝鮮国で死ぬつもりやったとじゃ。

 じゃっどん、岩倉さァの策謀によりおいの目論見が成就すっことはあいもはんやった。いまんおいは、ただの抜け殻でごわす」

 西郷の長い告白は終わった。


 あまりに衝撃的な話に、しばらく言葉も出なかった。

 西郷が、そんな俺たちを見詰めて小さくつぶやいた。

「……おはんら、本気じゃっとな?」

 俺たちは思わず顔を見合わせた。

「ほんのこち命を賭して南朝帝の末裔を担ぐつもりがあっとか?」

 その言葉に、永岡が慌てて声をあげた。

「想像を絶するお話に暫し圧倒されておりました。しかしながら、お話をお聞きして確信いたしました。西郷さまには、いまだ成さねばならぬ大切なお務めが残っていることを。いまの政府を倒し、南朝帝の末裔を帝に擁立する。そのために、我らも西郷さまとともに命を賭ける所存でございまする」

「……判った。一晩考えさせてくれぬか」

 そう言い残すと、西郷は立ち上がり、湯殿を後にした。


               ◆


 翌朝、目を醒ますと、すでに西郷の姿は家のなかから消えていた。

「西郷さァから、夕刻までには武村のお屋敷ん方に戻ってくるごつ言付けがありもした」

 桐野が、俺たちに声を掛けた。

 俺たちは手早く朝餉を済ますと、再び鹿児島へと急いだ。


 西郷の屋敷は、鹿児島平野の中央を流れる甲突川の南側に聳える丘陵の麓にあった。敷地こそ千坪を超える広大なものだが、そこに建つ屋敷は、譲り受けたときから一度も手を入れていないらしく所々が痛んでいた。


 その奥座敷では、西郷のほかに数名の男たちが俺たちの帰りを待ち構えていた。

「こん男たちに働いてもらうことになりもす。お見知りきたもんせ」

 西郷が、男たちを紹介した。それは、元近衛局長官・篠原国幹、陸軍中佐・淵辺群平、陸軍少佐・別所晋介ら、西郷とともに薩摩に戻ってきた幹部たちだった。


「よろしくお願いいたします」

 俺は永岡とともに頭を下げた。

「なんの。おいどんもこんときを待ち望んでおったとじゃ。会津の方々とともに皇城に巣くう官賊どもを追い払う。まさに『八月十八日の政変』の再現でごわすな」

 篠原がそう応えて、笑みを浮かべた。

「おはんらの策を聞かせたもんせ」

 西郷が、問いかけてきた。


「西郷さまに薩摩に戻ってきた六百名の将兵たちとともに上京して頂きます。そして、東京に残っている薩摩出身の近衛兵や陸軍兵たちと呼応して挙兵します。幸い帝は、いま赤坂の仮御所に住まわれております。制圧するのに手間は掛かりますまい。同時に、別働隊を組織して、岩倉や大久保を始めとする政府高官を拘束します。新帝は、我らが東京にかくまっておきます。政変が成就した後に速やかに、慶喜公とともに仮御所に入って頂きます。ざっくりと申せば、そんな絵図面でしょうか」

 永岡が淀みなく応える。


「いや。六百人もの兵士をつれていっことはできもはん。薩摩にも熊本鎮台の密偵ん目が光っちょりもす。政府はいま電信ちゅう便利かもんを持っちょっと。薩摩で派手な動きをすりゃ、いっきに東京に伝わっとじゃ。ことは隠密に進めんななりもはん」

「では……?」

「せいぜい軍艦一隻、兵ん数にして百人あまりてったところでごわす」

「たったの百人ですか?」

「忘れてもろうては困っと。参議を辞めたとはいえ、おいはいまでも陸軍大将でごわす。そいに、こん間まで近衛長官を務めちょった篠原どんもおっとじゃ。おいどんが号令をかけっば、薩摩ん者だけでなく大半ん者が従いもんそ」


「邏卒はどうすっとですか?」

 桐野が、西郷に尋ねかけた。

「大警視の坂元どんは、おいと昵懇じっこんじゃっで問題はありもはん。じゃっどん、警保助の川路どんは、一蔵どんの腰巾着じゃっで、拘束しちょいた方がええじゃろうな」


 幕末維新を通して薩摩の郷士から成り上がり、いまや警察機構の最高実力者になりつつある大警視兼警保助の川路利良(としよし)のことである。

 桐野は大きく肯くと、永岡に向き直った。

「東京には、あの伊地知正治さァも西郷さァの弟君の従道さァも残っております。おいら薩摩は『八月十八日の政変』も『王政復古の武力政変クーデター』も経験しちょります。抜かりはありもはん」

「……承知しました」


「政変が成就したら直ちに朝議を開きもす。そこで、野に下っておる江藤さァや板垣さァとともに慶喜さァと永岡さァに参議になってもらいもす。そいで、よろしかね」

 西郷が、永岡に問いかけた。

「いや。私は参議になるつもりはありません」

「ほう……」

 西郷が驚いて目を見張った。

「会津は、代表として山川浩さんに参議になって頂こうと思っております」

「よかやろう。そいは、お任せいたしもんそ」


「決行はいつにいたしましょう?」

 永岡が、西郷に訊いた。

「官吏ん多くが休みを取っとる大晦日ではどげんと?」

「結構です。では、これで決まりましたな」

 すでに暦は十二月に変わっている。残された時間はさほど多くはない。


「そいじゃ、おはんらが東京に戻ったら、ひとつやってもらいたかこっがあっとじゃ」

 西郷が、言葉を継いだ。「上京した兵たちを暫しかくまう場所が必要となっと」

「たしかに……」

麝香間祗候じゃこうのましこうに任じられておられる島津久光さァが、東京に引き連れて行った二百五十名ほどん兵たちが高輪の旧薩摩屋敷に住んでおっとじゃ。そけえ紛れ込もうて思うちょっど。久光さァの側近のなかには、おはんもよう知っちょる海江田信義がおると。その海江田どんに予め話を通しちょいてもらいたっとじゃ」

「たしかに海江田殿は存じておりますが、はたして私が頼んだぐらいで、簡単に承諾してくれるものでしょうか?」

「心配なか。海江田どんは、おいに負い目を感じちょっでな。おいからの頼みじゃと知れば、断ることはできんはずじゃ」


 文久二年(一八六二)三月、公武周旋に乗り出すために上京を決めた薩摩国父・島津久光は、京に多くの手づるを持つ西郷を島流しになっていた奄美大島から呼び戻し、下関まで先発させた。だが、京における緊迫した情勢を耳にした西郷は、下関で久光一行の到着を待つよう厳命されていたにも拘わらず、過激派志士たちの軽挙を抑えるために、独断で一足先に京に向かったのだ。西郷が京に潜伏している志士たちを煽動しようとしていると勘違いした海江田が、その動きを久光の耳に入れたために、西郷は久光の逆鱗に触れることとなった。つまり、西郷の二度目の島流しの原因となったのは、海江田の失言だったのだ。西郷は、そう昔語りをした。


「なるほど。然らば、海江田殿に話を通しておきましょう。武力政変決行の直前に、私が再びこちらにお迎えに参ります。それまでに準備を進めておいてくだされ。詳細な打ち合わせは、その際にさせて頂きます」

「いまからそん時が楽しみでごわすなあ」

 西郷がそう言って、爽快な笑みを漏らした。

 かくして賽は投げられたのである。

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