第二話
永岡が、明治政府の現状について滔々と語り始めた。
岩倉具視を全権大使、大久保利通、木戸孝允らを副使とする欧米使節団が渡航した後に、その留守を預かる政府の柱石となったのは、太政大臣・三条実美と参議の西郷隆盛である。
けれども、実際に政事を切り盛りしたのは、板垣退助、大隈重信、江藤新平、副島種臣といった非薩長系の面々だった。彼らは、「欧米使節団が帰国するまで新しいことは決めない」ことを謳った誓約書を反故にして、徴兵令や地租改正、太陽暦の採用などの大改革を次々に推し進めていった。
そして、欧米使節団が帰国する直前に持ち上がったのが、征韓論と呼ばれる朝鮮問題であった。明治政府は、朝鮮に対して新政府発足を通告し、国交を望むべく交渉を行ったが、朝鮮側はこれを拒否し、排日運動を激化させた。
これに対して、板垣退助を始めとする強硬派は派兵による軍事的解決を訴えたものの、西郷隆盛はあくまで平和的解決に拘り、自らが全権大使として朝鮮に赴き交渉することを主張し、閣内を説得したうえで、明治天皇に上奏した。けれども、明治天皇の聖断は、欧米使節団の帰国を待ち、改めて熟議したうえで再上奏すべしというものであった。
その直後に帰国した岩倉や大久保は、留守政府に対して強い不信感を抱いており、西郷案に真っ向から反対した。改めて開催されて閣議では、なんとか過半数の賛成を得て、西郷の朝鮮派遣が決定され、明治天皇の聖断を仰ぐこととなった。
けれども、病で倒れた三条の代わりに太政大臣代理となった岩倉は、独断で御前にて西郷の朝鮮派遣反対の持論を展開し、遣韓中止の勅裁を得てしまう。岩倉の暴挙に怒った西郷はすぐさま辞表を叩きつけ、その後を追うようにして板垣、江藤、副島らも次々と参議を辞職し、野に下ってしまった。
「それで、いったい何が言いたいんじゃ!」
佐川が、永岡の長話に苛立ったように声を荒げた。
永岡は佐川を一瞥すると、一呼吸おいて話を続ける。
「幕末にはあれほど尊皇攘夷と騒いでいた薩長両藩が、天下を獲った途端に、掌を返したように文明開化を喧伝し、欧米諸国に尻尾を振っている。そう揶揄する輩がいます。けれど、それは違う。やつらは、未だに大攘夷の夢を捨ててはおりませぬ」
大攘夷とは、卑しむべき夷狄から日本を守るために直ちに打ち払おうという小攘夷論に対して、文明が進んだ海外から積極的に文化や技術を取り入れ、まずは列強諸国と対峙する国力をつけた後に諸外国と戦うべきだという遠大な思想である。
「それ故、朝鮮問題の平和的解決を望まなかったのです。やつらの好きにさせておいては、いずれ朝鮮や中国との戦争を引き起こし、最終的には、列強諸国との大戦争へとなだれ込むことになるに違いありませぬ。やつらにこのままこの日本を任せておくわけにはいかぬのです」
「よもや、いまの政府を倒そうとでも言うのか?」
佐川が嘲るような声をあげた。
「全国の士族の間には、いまの政府のやり方に怨嗟の声が渦巻いております。それを辛うじて抑えてこられたのは、西郷隆盛という男の人徳にほかなりませぬ。岩倉や大久保などの輩は、ただ策謀に優れているというだけの人物で人望などありはしません。西郷が下野したいまならば、政府を倒すことができます」
「莫迦な。もはや我らには、やつらに刃向かう力などないわ」
永岡がすっくと立ち上がり、一同を見渡した。
「まさか薩長に対する積年の恨みを忘れたわけではありますまい!」
その大音声が広間に響き渡る。
「私に策がございます。どうかこの私に皆さまの力を貸して頂きたい。ともに政府を倒そうではありませんか」
そう言って、永岡は深々と頭を下げた。
「儂は断る!」
佐川が、瞬時に吐き捨てるように応えた。
「むろん薩長に対する恨みを忘れることなどできぬ。なれど、おぬしの野望に付き合う気など毛頭ない」
「何故ですか? 『鬼官兵衛』と謳われた佐川殿ならば、きっとともに起って頂ける、そう信じておりました。私は、佐川殿を頼りにここまでやって来たのです」
その言葉に、佐川の表情が歪んだ。
「……儂はな、いまでも儂のことが許せぬのだ。肝心な時にあんな無様な醜態を晒してしまった。会津が負けたのは、儂のせいだ。年老いた母上さえいなければ、こんな生き恥を晒すような余生を送ったりはしておらぬ」
佐川の沈痛な言葉に、胸が剔られる想いがした。
あれは、慶応四年八月二十九日のことだった。
すでに母成峠を突破され、会津若松城下への官軍の侵入を許していた。鶴ヶ城の南東、小田山に据えられたアームストロング砲が鶴ヶ城の本丸を脅かし、越後街道沿いの長命寺に陣取った長州・大垣・備前の三藩からなる官軍は、会津決戦を今や遅しと待ち構えていた。
徹底抗戦を決めた会津藩は、最後の反攻を試みる。家老となった佐川官兵衛が、精鋭九部隊一千人の兵を率いて長命寺に籠もる官軍に夜襲を仕掛けることになったのだ。その出撃の前夜、前藩主・松平容保より部隊に酒が下賜され、佐川は手ずから政宗の佩刀を賜った。
けれど、佐川は、この夜なんと感激の余り泥酔して寝過ごしてしまい、夜襲の機会を逸してしまったのである。夜が明けた後に慌てて出陣した会津隊は、一時は長命寺を占拠したものの、援軍に駆けつけた土佐藩の強力な火器の前に惨敗を喫したのだった。
「佐川殿のせいではありませぬ。あの時、すでに我らに味方した奥羽越列藩同盟は瓦解しておりました。所詮、会津一藩で官軍に立ち向かうことなどできなかったのです」
永岡が、佐川に言い募った。
「そう言ってもらえるのは有り難い。だが、それで、儂のなかの罪の意識が変わるわけではない。儂は、いまや生きる屍なのだ。おぬしの足手まといにはなりたくない。判ってくれ」
そう言って、佐川は頭を下げた。
佐川の言葉が、俺の胸のなかで波紋を広げていた。
「判りました……」
永岡が、吹っ切るようにして一同を見回した。「ほかに、私に付き合ってやろうと仰って下さる方はいらっしゃいませんか?」
その言葉に、集まった者たちは皆一様に俯き、重苦しい空気に包まれる。その時、一座のなかから嗄れた声があがった。
「儂のような老いぼれでも構わぬのか?」
声に振り向くと、やや小柄な細身の老人が座っていた。頬がこけた浅黒い顔の真ん中では、細い眼が歳に似合わぬ爛々とした光を放っていた。
その姿には見覚えがあった。太子流剣法を極め、青龍隊の一隊を率いて会津戦争を戦った中根米七である。
「真ですか? 真に私と行動を共にして頂けるのですか」
「断っておくが、もうこの歳だ。身体を張った合戦は出来ぬぞ」
中根はそう言って、自嘲気味に笑った。
「むろん左様な働きなど期待しておりませぬ」
「おぬしのことだ。何か凄いことを企んでおるのじゃろう。この先長くもない命よ。最後にひとつ派手にやらかすのも面白かろう」
「有り難うございます」
永岡が深々と頭を垂れた。
その瞬間、隣に座っていた清水がいきなり立ち上がり、大声をあげた。
「むろん俺たちも共に立ち上がりますぞ!」
「そうか。そう言ってくれるか」
永岡が思わず顔を綻ばす。
「むしろこの時が来るのをずっと待ち望んでおりました。我ら新撰組の生き残りが、これまで会津の方々とともにこの地で苦労を重ねてきた甲斐があったというものです。そうでしょう? 斎藤……いや、藤田さん」
そう言って、清水が俺の方に目を落とした。
清水の勝手な振る舞いに、思わず怒りが込み上げてきた。
「誰がそんなことを言った!」
清水が、その怒声に呆気に取られたように目を見開く。
この男は、やはり俺の気持ちなど何ひとつ判っていなかったのだ。
「藤田さんは、賛意を示してはくれぬのか」
永岡が、落胆した表情をして見詰めてきた。
「俺は、骨を埋めるつもりでこの地にやってきた。いまさら左様な企てに付き合うつもりはない」
その言葉に、清水が血相を変えて言い放った。
「俺は、薩長との戦いを諦めた憶えなどない。この地に潜んで、ずっと薩長に対して天誅を下す機会を窺っていたんだ。それは、藤田さんだって同じじゃないか」
「いつまで幻影を追い続けているんだ。何度も言ったはずだぞ。俺はもう斎藤一じゃない。藤田五郎なんだ」
そう言いながらも俺の心は揺れていた。本当にそれでいいのか? 後悔するんじゃないのか? もうひとりの俺が、頭のなかで囁いてくる。
だが、俺はその声を無視して、言葉を継いだ。
「俺にはもう女房もいる。苦しいながらも安穏な生活が待っているんだ。この地で静かに生きていく。それが、俺の人生だ」
俺を見詰めていた清水の眸がみるみる濡れていく。
「情けねえ……それが、俺が憧れた新撰組三番隊組長、斎藤一のなれの果てかよ。見損なったぜ!」
清水は、絶叫をあげながら広間から駆け出していった。
ふたりのやり取りを見守っていた永岡が、穏やかな言葉を漏らした。
「京の街でずっと薩長の輩と対峙してきた新撰組にいたあなたの方が、薩長に対する憎しみは私なんかよりずっと強いと思っていたんですがね……」
「屈辱にまみれたまま一生を終える……それが、俺に与えられた罰なんだ」
俺はそう応えると、その場をそっと立ち去った。




