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維新ふたたび  作者: 袖岡徹
第七章 慶喜は語る
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第三話

「慶応二年(一八六六)七月二十日、将軍・徳川家茂公がみまかられた。


 第二次長州征伐が始まり、緒戦で幕府軍が劣勢に立たされて、家茂公自らの御出陣が期待されるなかでの出来事だった。何と言っても薩摩藩が出兵を拒否したことが大きかったが、それにしても、幕府が長州一国を相手に苦戦するなどとは夢にも思わなかった。


 家茂公のご薨去については、当時から長州藩による暗殺が噂されていたが、家茂公に関してはさすがにそれはないと思う。たとえ長州藩が鉢屋衆を飼っていたとしても、あの堅固な大坂城の奥にいた家茂公をしいすることができたとは思えぬ。家茂公は元来壮健な質ではなかった。まだ二十一歳という若さではあったが、やはり病没したと考えざるを得ない。


 家茂公が亡くなった後、老中の板倉勝静(かつきよ)や小笠原長行らが、予に将軍職に就くことを勧めてきた。予はこれを断って、紀州藩主の徳川茂承(もちつぐ)を新将軍に推したのだが、予の案が受け入れられることはなかった。執拗な懇願に折れて、やむなく徳川宗家の相続だけは了承したものの、新将軍就任だけは断固として拒絶した。その結果、将軍が四ヶ月以上に亘って存在しないという異常な政治状況が到来した。


 予のことを『ネジアゲの酒呑み』と揶揄する者もいた。どういう意味か判るか? もう呑めないと断りながら、勧められると案外に呑み、無理に勧めないと機嫌が悪くなる質の悪い酒呑みのことよ。だが、そうではない。予の袂には、洋行帰りの西(あまね)もおった。予の頭のなかには、すでに次の政権構想が出来つつあったのだ。

 幕府にはもう雄藩を統べる力はない。徳川家を筆頭とした雄藩連合をつくり、禁裏御守衛総督たる予がその上に立ち、帝の名の下で彼らを統べるのだ。


 徳川宗家を相続した予は、取り急ぎ幕政改革に着手した。幕府でもすでに小栗上野介ら開明派官僚が育ち、仏蘭西フランスの支援の下で幕政改革が始まっていた。長州征伐すらまともにできなかったいま、その動きを加速度的に進めなければならなかったのだ。


 ところが、結局、予は第十五代将軍を受けざるを得なくなってしまった。

 孝明帝に泣きつかれたのだ。十一月二十七日、予の許に将軍宣下を命じる孝明帝の内旨が、唐突に勅使によって伝えられた。将軍職就任に難色を示した予は、禁裏へと呼び出された。


 小御所の御簾の向こうに現れた孝明帝は、すがるような声をあげた。

「何故、将軍職を受けてはくれぬのや」

「某は、禁裏御守衛総督の職務を全うすることで手一杯でございます。将軍職は誰かほかの適任の者に命じてくださいませ」

「朕の叡慮に違背して、家康よりの代々の職を辞し、もしも、満天下の紛乱に及べば、徳川家のみならず、朕の罪過ともなるのやぞ」

 孝明帝が厳しい口調で言い募った。

「某は、一橋家の当主にございました故、家康代々を仰せになるならば、尾張や紀州の方がよほど近うございますぞ」


「……そなた、もしや拗ねておるのか?」

 孝明帝がいぶかしげな声を出した。

「はて、何のことやら?」

「やはりそうやったんか。朕が、そなたとの約束を守らなかったが故、不貞腐れておるのやな」


 孝明帝は、禁裏御守衛総督に就任するときに交わした、睦仁親王と泰雅親王を入れ替えるという密約を、なんだかんだと理由をつけてこれまで先延ばしにしてきたのだ。

「判った。約束は守ろう。そなたが新将軍を宣下すれば、すぐにでも親王を入れ替える。それ故、何とか将軍職を引き受けてはくれまいか」


 予は、考えを練り直していた。将軍就任を引き受ければ、南朝復権が実現する。それに、このまま幕府をなし崩しに無くしてしまうよりも、予が一旦将軍の座に就き、天下に向かって幕府の幕引きを宣言した方がすっきりするのではないか。

 そう、大政奉還である。


 大政奉還という奇策を土佐の脱藩浪人が思いついたと言い触らす輩がいる。けれど、それはとんでもない間違いだ。大政奉還という考え自体は、すでに五年ほど前に当時の幕府の側用取次役、大久保一翁が言い出しておる。もっとも、そのときは、あまりにも時期が早過ぎたために、奇矯な考えだとして大久保一翁の謹慎で終わっているがな。ともあれ、別にすでに目新しい妙策ではない。要は、そんな大それたことを真に実行する強い意志があるかどうかの問題だったのだ。


「承知致しました。この慶喜、征夷大将軍の職をお引き受け致しましょう」

 そう言って、深々と頭を下げた。

 予は、大政奉還を実現するために、新将軍になったのだ。

 だが、そのわずか二十日後の十二月二十五日に衝撃的な事件が勃発した。


 頼みの孝明帝が崩御してしまったのだ。

 将軍宣下が無事に終わって間もない十二月十一日には内侍所で御神楽みかぐらがあったが、その日、帝は風邪気味だった。十三日になると発熱し、典医が診断したところ、痘瘡(天然痘)に罹っていた。その後、高熱が続いたが、水疱から膿疱を経て、二十三日頃にはその疱が乾燥し始めた。病状は順調に回復に向かっていたのである。ところが、二十四日の夜になって病状が急変し、激しい嘔吐と下痢が続き、『御九穴より御脱血』し、二十五日の深夜に亡くなったのだ。その症状から見て、何者かに砒素をもられた毒殺であることは明らかだった。


 当時から岩倉具視が暗殺したという噂がまことしやかに囁かれていた。そして、その噂が的を射ていることはまず間違いない。孝明帝の逆鱗に触れ、京を追われて洛北の岩倉村に蟄居していた岩倉具視は、この頃、すでに薩長と手を結び、反幕的な策謀を巡らせていたのだ。


 睦仁親王が皇嗣に冊立さくりつされていなかったために、少しの間、帝の死を秘匿ひとくし、その間に親王を立太子したうえで、二十九日に孝明帝の崩御を発表する段取りとなった。

 予は、直ちに孝明帝との密約を実行に移すことにした。いまだに両親王の入れ替えは行われていなかったのだ。


 若宮御殿に住まう睦仁親王の顔など、身近で世話をする僅かな女官を除いては誰も知らない。実母の中山慶子は、病のためにすでに典侍を辞しており、外祖父に当たる中山忠能は、孝明帝の勘気を被り、蟄居ちっきょしている。露見する怖れは万に一つもなかった。十二月二十六日の未明、予は御庭番衆の手を借りて、一条邸に住まう泰雅親王を女官ともども睦仁親王と入れ替えたのだ。

 年が明けた一月九日、睦仁親王に成り変わった泰雅親王は帝に践祚せんそされた。


 少々前段の話が長くなり過ぎたようだな。

 いよいよ大政奉還から鳥羽伏見の戦いに至るまでの狂乱の時期に起こった出来事について語ることにしよう。


 慶応三年(一八六七)五月、薩摩の誘いを受けて、薩摩藩の島津久光、土佐藩の山内容堂、伊予宇和島藩の伊達宗城、福井藩の松平春嶽の四人が京に集まり、所謂『四候会議』が開かれた。


 そもそも尊攘運動の火の手が全国に広がったきっかけは、幕府が帝の勅許を得ずに列強諸国と通商条約を結んだことにあるのだが、予が孝明帝に必死で掛け合って勅許を得てしまったために攘夷運動そのものはその拠り所を失い、すでに下火になっていた。けれど、条約で定めた兵庫港の開港だけは、京に近いことから帝は頑として認めなかった。


 予は、列強諸国の圧力からこれ以上の兵庫開港の延期は難しいと判断し、この三月に勅許を得ぬまま諸外国に対して開港を約束した。その非を問い正すために開催されることになったのが、四候会議なのだ。

 薩摩藩の狙いは、権力を幕府から薩摩が主導するこの四候会議に移すことにあった。有力な諸藩による合議制でことを決するという考え方自体には、予も反対するものではない。けれども、その場合は、あくまで徳川家が最大与党とならねばならぬのだ。


 だらだらと何日も続く四候会議に業を煮やした予は、松平春嶽らを従えて禁裏に参内した。兵庫開港に反対しているのは、孝明帝亡きいま、もはや朝議を司っている公卿たちに過ぎない。夜を徹した朝議の果てに、予は、帝に直接詰め寄り、兵庫開港の勅許を勝ち取った。帝は、予の息が掛かった元泰雅親王だ。もはや朝廷に気兼ねする必要などなくなっていたのだ。


 四候会議は瓦解し、薩摩の思惑は失敗に終わった。

 この直後から、薩摩藩は、大きく政策の舵を切った。それまでの政治交渉を断念し、公議政体樹立のための手段として武力を使うことを決断したのである。とは言え、いきなり武力討幕を目指したわけではない。京に大軍を送り込み、その威力を背景として王政復古への道を開こうというのである。すでにその前の年には、木戸や大久保らの有志の間で薩長の盟約が結ばれていた。朝廷が幕府に取り込まれていることを敏感に感じ取った薩摩は、いよいよ長州藩との間で軍事同盟を結び、長州が囲っている大室寅之祐を新たな帝として担ぎ上げ、その下に薩長主導の大大名連合をつくるつもりだったのだ。


 大政奉還の機会を窺っていた予は、次第に焦り始めていた。薩長が大軍を上洛させた後に大政奉還を行えば、薩長の恫喝どうかつに屈したことになり、その後の主導権を取ることが難しくなってしまう。何としてでも、その前に大政奉還を実行せねばならぬのだ。

 そんな予の許に土佐藩の動向を伝える報せがもたらされた。これまで幕府権力の擁護に努めてきた土佐藩もまた政策を大転換させたのだ。薩長の動きを聞きつけた土佐藩は、内乱を回避し、平和裡に公議政体への移行を実現するために幕府に大政奉還を建白しようとしていたのだ。予にとっては、渡りに舟の話だった。


 けれども、いつまで待っても、土佐藩が建白書を提出する気配がない。焦った予が、若年寄の永井尚志に催促させて、ようやく『大政奉還の建白書』を土佐藩が提出するに至ったときには、すでに十月三日になっていた。


 十月十三日、予は上洛していた諸藩の重臣たちを二条城二の丸御殿の大広間に集め、大政奉還を宣言した。ちょうど同じ日に、薩長の軍勢を上洛させるために偽造された『討幕の密勅』が交付されており、まさに間一髪の頃合い(タイミング)であった。

 その後の政事の方針を決めるために、朝命をもって諸大名を上洛させ、大名会議を開催することとなり、それまでの間は、引き続き予が従来通りの職務を担うこととなった。

 それと時を同じくして、予はある密命を下したのだ」



 慶喜公が俺の顔を見遣った。

「おぬしなら、憶えておろう? 新撰組に下った密命を」

「もしや、下鴨神社にいた長州の力士隊を襲撃した事件のことでしょうか?」

 俺は、曖昧な記憶を呼び起こし、覚束ない声で尋ねた。

「左様」

「話には聞いておりました。けれど、某はその頃、新撰組を抜けておりましたので、詳しいことは存じ上げませぬ」


 俺はこの年の三月に新撰組と袂を別っていた。元新撰組参謀の伊東甲子太郎(かしたろう)に誘われて、高台寺党に参加し、御陵衛士ごりょうえじとなったのだ。御陵衛士とは、山稜奉行の下で前年末に崩御した孝明天皇の御陵を守護する墓守のことである。


 その三年前、江戸で北辰一刀流の道場主として名を馳せていた伊東は、請われるままに参謀として新撰組に加入した。だが、水戸学を身につけ、熱烈な勤皇派であった伊東が、幕府の先兵と化した新撰組のなかに身を置くことに疑念を抱くようになるのに、さほど時間は掛からなかった。伊東が勤皇活動に専念するために同志とともに新撰組を離脱して、御陵衛士を拝命したとき、俺も伊東に請われて行動を共にしたのだ。


 十月二十九日、下鴨神社にいた長州藩の力士隊を新撰組が襲撃し、不逞力士数名を誅殺した。下鴨神社では九月に奉納相撲が催されており、長州の力士隊は、その後も下鴨神社の境内に潜伏していたらしい。その報せは、すぐさま俺たち御陵衛士が屯所を置く高台寺の塔頭・月真院げっしんいんにも届けられた。


 伊東は、大政奉還の直後に、朝廷に対して『新政府のとるべき綱領』を建白している。そのなかで、公卿を政権の中心に据え、新政府の政権基盤として五畿内を朝廷直轄領とし、朝廷直属の親兵を整備することを提案している。むろん自分が取り立てられて、その中心になることを期待しての提言であることは言を俟たない。そうした朝廷を中心とした独自路線を模索していた伊東だったが、その姿勢は反幕的であり、どちらかと言えば薩長に近かった。


 長州の力士隊が斬殺されたという報せを耳にした伊東は激怒した。

「かような暴挙は断じて許されぬ。かくなる上は、近藤勇を斬るほかない」

 伊東の決意を知った俺は、すぐさまそのことを近藤さんに注進した。実は、俺は土方さんの命により高台寺党に潜り込んだ新撰組の間者だったのだ。

 俺からの報せを聞いた近藤さんは、この機会に高台寺党を殲滅する腹を固めた。


 十一月十八日、伊東甲子太郎を醒ヶ井にあった近藤さんの妾宅に誘き出して謀殺すると、その亡骸を引き取りに来た御陵衛士の隊士たちを七条油小路の辻で斬殺した。そして、その後、俺は何食わぬ顔で新撰組に復帰した。

『油小路の変』を引き起こした端緒となった事件、それこそが、新撰組による長州藩力士隊の斬殺だったのである。


「ならば、予の密命のことは正確には知らぬわけだな?」

 慶喜公が問いかける。

「ええ。いったい何が狙いだったのです?」

「大政奉還を成し遂げただけでは事は収まらぬ。薩長の陰謀を根元から叩き潰しておかねばならなかったのだ。当時、大室寅之祐は、伊藤俊輔率いる力士隊に身を隠し、一足先に京に潜伏していた。帝の入れ替えに備えてその支度を整えていたのだろう。予は、新撰組に大室寅之祐の抹殺を命じた。むろん南朝帝の末裔を弑することに躊躇いがなかったわけではない。だが、それしかほかに方法はなかったのだ」

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