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維新ふたたび  作者: 袖岡徹
第七章 慶喜は語る
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第二話

「予と京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬の三人の連帯を指して一会桑政権などと言うものもいた。いずれにせよ、我らを中心として再び朝廷と幕府が結束を取り戻した、公武合体体制と呼ぶべき新しい秩序が出来上がったのだ。そして、そのわずか二ヶ月ほど後に池田屋事件は起こった。池田屋事件については、新撰組にいたそなたの方がよく存じておろう」

 慶喜公は、そう言って俺の顔を見遣った。

「勿論でございます。何と言っても、新撰組の名を天下に轟かせた画期をなす事件でした」


 元治元年(一八六四)六月五日の早朝、新撰組の屯所に黒装束を纏ったひとりの女が飛び込んできた。女は、慶喜公の下で動いている幕府の御庭番衆で、歌女うためと名乗った。

「長州藩士を中心とした過激派たちが今宵、秘密の会合を持つことが判っております。彼らは、世のなかがひっくり返るような陰謀を企てておるのです。なれど、どうしてもその密会場所が掴めませぬ」


 歌女が語るには、薪炭商、桝屋喜右衛門は、急進尊攘派の同志、古高俊太郎の世を忍ぶ仮の姿だという。俺は、六人の隊士を従えて、古高が店を営む四条小橋に向かった。古高から今宵の会合場所を聞き出すためだ。踏み込んだ店の奥から見つかった武器や密書の類が、女の言葉を裏付けていた。俺たちは、古高を捕縛し、新撰組の屯所に連行した。だが、古高は過酷な拷問にも堪え、決して密会場所を吐露することはなかった。


「やむを得ぬ。三条から四条にかけて虱潰しらみつぶしに探すことにする」

 近藤さんは、隊を二つに分け、京の街を探索することにした。


 土方さんが率いる二十四名からなる一隊は、四条通りの祇園町会所から出発して、鴨川の東側に当たる縄手通りを北上する。そして、近藤さんが率いる十名は、鴨川の西側にある木屋町通りを探索することになった。当時京に潜伏していた尊攘派の首魁、宮部鼎蔵(ていぞう)の定宿・小川亭が縄手通りに面しており、そこが、最有力候補と目されて、土方隊に人員を厚めに配置したのだ。俺もその一員として土方隊に加わっていた。


 縄手通りに見張りを立てて、通りに面した店を一軒ずつ改めていく。だが、尊攘派の密会現場を見つけることができない。当てにしていた小川亭も空振りに終わった。探索開始からすでに一刻以上が過ぎており、時刻は夜の四ツ(午後十時)を回っている。隊士たちの顔には、焦りの色が滲んでいた。


 そこに、今朝ほどの御庭番衆の歌女が飛び込んできた。

「会合の場所は、三条の池田屋にございました。すでに新撰組の一隊との間で決闘が始まっております」

 俺たちは、押っ取り刀で池田屋に駆けつけた。


 店先では、沖田さんが口から血を流して横たわっていた。持病による喀血だった。そして、額を割られた藤堂平助がその傍に蹲っている。

 大きな吊り行燈に照らされた店のなかに飛び込むと、十人を超える敵と奮戦していたのは、すでに近藤さんと永倉新八のふたりきりになっていた。その永倉も腕に傷を負っている。


「三番隊組長・斉藤一、ただいま見参。容赦はせぬぞ!」

 俺は、鬼神丸国重を引き抜くと、乱闘のなかに飛び込んでいった。

 土方隊の到着により形勢は一気に逆転した。その後、京都守護職や所司代の軍勢も出勤し、池田屋は二重三重に囲まれた。

 この事件で、宮部鼎蔵を始め七名の尊攘派志士が討ち取られ、二十三名が召し捕られた。新撰組には幕府から六百両もの恩賞が授けられ、その名を天下に轟かせることとなった。


「ときに、長州藩の尊攘派が何を目論んでおったのか、そなたは聞き及んでいるか?」

 慶喜公が、俺に問いかけてきた。

「ええ。公武合体を進めてきた中川宮邸を焼き討ちして、帝を拉致する企みだったとか」

「拉致か……それは、少し違うな」

 慶喜公が、再び話し始めた。


「長州藩は、まさに予と同じことを考えておったのだ。

 孝明帝は、終生、攘夷論者であり続けた。それは、謂わば生理的な嫌悪感と呼ぶべきものだったのかもしれぬ。そのことが、幕府をずっと苦しめてきたのだ。列強諸国が待つ近代兵器の威力を知れば、攘夷など到底不可能なことは誰にでも判るはずだ。だが、御所から一歩も外に踏み出したことがない世間知らずの帝には、それが理解できないのだ。


 けれども、孝明帝は、一方では頑迷な公武合体論者でもあったのだ。散々幕府に攘夷を迫りながらも、幕府に対して絶大の信頼を寄せ続けて、反幕的な長州藩の動きを苦々しく思っていた。会津藩と薩摩藩が手を組んで、長州藩を京から追放した『八月十八日の政変』は帝の意を体現したものにほかならなかったのだ。孝明帝がいる限り、長州藩は永遠に政局の中心に席を得ることはできない。


 萩の松下村塾で尊皇攘夷の志士たちを育てていた長州藩の理論的指導者、吉田松陰は、かつて会沢正志斎から水戸学の薫陶を受けたことがある。彼もまた南朝復権を夢見る尊皇派のひとりだったのだ。何故ならば、長州藩もまた南朝帝の末裔を囲っておったからだ。


 長州藩の東に位置する安芸灘に面した田布施たぶせという地に居を構える、後醍醐帝の玄孫、光良みつなが親王の血を引く大室寅之祐おおむろとらのすけである。

 そこで、長州藩の尊攘過激派が考えたのが、孝明帝を排し、大室寅之祐を帝の座につけることだった。新撰組が池田屋事件で壊滅させたのは、京に潜伏して本国と連絡を取り合いながら、そのための工作を行っていた一味だったのだ。


 隠密裡にことを運ぶつもりだった長州の陰謀は、池田屋事件により頓挫した。そこで、長州藩は武力をもって帝のすげ替えを図ることに方針を転換させたのだ。それが、はまぐり御門の変(禁門の変)の正体よ。


 六月下旬頃から長州藩兵たちが本国から続々と上洛し、京都近郊の山崎、伏見、嵯峨の地に屯集した。その数、およそ三千。そして、七月十九日の早朝、御所に対して攻撃を仕掛けてきた。


 守るは、会津、桑名両藩に加えて薩摩、越前、筑前ら諸藩の軍勢だ。長州軍は、中立売御門、蛤御門、堺町御門の三方から進軍してきた。このとき、京都守護職の松平容保は病で伏せっておった。予は、菊亭家で具足を身につけると、陣頭指揮を執った。直属の兵を従えて馬で戦場を駆け回り、戦況を見極めて、激戦地に余った兵を投入する。寄せ集めの軍勢を機能させるための用兵を予自らが行わなければなかったのだ。


 そうこうしているところに、親長州派の公家の差し金で、孝明帝が緊急避難するために御所を抜け出そうとしているとの報せが入った。驚いた予は、一騎駆けにて禁裏に飛び込んだ。


 それこそが、長州藩の策略なのだ。わずか三千ほどの軍勢で諸藩の兵が守護する御所を制圧できるわけがない。御所に攻め寄せている軍勢は、所詮、囮に過ぎない。武力で威嚇して、帝が御所を脱出したところを潜んでいた伏兵たちが捕獲する。長州には、『八月十八日の政変』で都落ちした三条実美ら親長州派の七卿がいる。帝を長州に連れ去り、そこで大室寅之祐への譲位を迫るのだ。それが、長州の真の狙いだった。


 予はそのまま昇殿し、外に出ようとする孝明帝の袖を掴んで、強引に引き留めた。間近で砲声など聞いたこともない帝は、すっかり怯えきっていた。

「御殿を出てはなりませぬ!」

「何を申すのや。長州勢が攻めて来ておるのやぞ。此処におっては危ない」

「長州の賊どもは、我らがまもなく撃退いたします。ご案じめさるな。禁裏のなかにいるのが、最も安全なのです」

 予は、なんとか帝を思い止まらせた。


 最大の激戦地となったのは、来島又兵衛率いる長州軍がそなたら会津軍と相まみえた蛤御門周辺だった。一時は、長州軍に押されていた戦況も、乾門を守っていた薩摩軍が援軍に現れてからは一変し、大将の来島又兵衛が戦死したために長州軍は壊滅した。薩摩軍を率いた西郷隆盛は、島流しから生還し、軍賦役についたばかりであったが、この戦闘で一躍その名を知らしめることとなった。


 戦いは一日で終結した。敗走する長州藩兵が、街に火を放って退却したために大火災が発生し、京の市街地のおよそ半分が灰燼に帰した。そして、戦いに敗れた長州藩は朝敵となった。


 すぐさま長州藩を追討するために長州征伐が行われることが決定した。だが、この第一次長州征伐は幕府主導で行われたために、江戸の幕閣の不興を買っていた予は、基本的には、何もさせてもらえなかった。唯一予が行ったことは、以前にも話したとおり、征長総督に就任した前尾張藩主・徳川慶勝殿に西郷を総督府の参謀に就けることを進言したことだけだ。


 南朝の末裔、大室寅之祐を抱えている長州藩は、極めて危険な存在だった。ここで一気にその息の根を止めておかねばならなかったのだ。にも拘わらず、西郷が、長州の謝罪恭順を呑んで、藩内に攻め入ることなく早々に兵を退いてしまったために、長州藩はその命脈を保ってしまった。そこから、幕末の真の混迷が始まるのだ」

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