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維新ふたたび  作者: 袖岡徹
第七章 慶喜は語る
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第一話

 俺たち一行は、清水に向かった。

 俺と永岡のほかに中根、高津、清水の三人を加えた一団だ。


 巴川の河口にできた清水の湊は、江戸時代には江戸と大坂を結ぶ菱垣廻船の中継地として大変な賑わいを見せていたが、明治に入ると、新政府が地元の廻船問屋の免許すべてを取り上げたために一気に廃れ、かつての面影はすっかり失われていた。


 次郎長の二階建ての大きな屋敷は、その湊から目と鼻の先にあった。

 土間に入ったすぐ脇が、広い帳場になっている。そこでしばらく待っていると、奥から次郎長が姿を現した。眼光こそは鋭いものの、黒縮緬の羽織と袴をまとった恰幅のいい風貌からは、かつて「海道一の大親分」の異名をとった侠客特有の凄味は抜け落ちてしまったかのように見える。


「よくお越し下さいました。山岡先生からご一報を頂き、皆様のお越しを心待ちにしておりました」

 次郎長がそう言って、深々と頭を下げた。

「こちらこそ、いきなりご無理を言って申し訳ありませぬ。次郎長親分の噂はかねてより伺っておりました」

 永岡が、如才なく応える。


「なに。若気の至りとお笑いくだされ。山岡先生を始め、立派な方々と交友させて頂いたお蔭で、すっかり心を入れ替えました。これからは、世のため人のために残されたこの命を使いたいと思うております」

「ほう、それは立派な心掛けです」

「この静岡の地にいる大勢の食い詰めたお侍さんたちを何とかせねばなりませぬ。来年には、富士の裾野の開墾が始まります。湊を広げ、そこで取れた茶を東京に運ぶために蒸気船を走らせようと思うております。見ていてくだされ。清水の湊にかつての賑わいを取り戻してみせまする」

「頼もしいかぎりですな」

 永岡が感嘆の声をあげた。


「それで、それがしは何をすればよろしいのですかな?」

 次郎長が、改まった口調で問いかけた。

「実は、駿府にお住まいの徳川慶喜公にお目に掛かりたいのですが、邸の周りには監視の目が光っているため、迂闊には近づけませぬ。そこで、次郎長親分に慶喜公との密会の場を設えて頂きたいのです」

「そんなことならば、お易い御用にございます。実は、某は慶喜さまのことはよく存じておりましてな。慶喜さまは、投網を打つために、時折この清水まで足を伸ばされることがございます。そのときは、我らが慶喜さまの警護役を務めておるのです。すぐに手配致しましょう」

 次郎長はそう言って、胸を張った。


 その翌夜――

 俺たちは、湊から櫓舟に乗って沖合に漕ぎ出した。

 櫓を握っているのは、清水一家の一の子分、大政だ。巨漢の大政が、逞しい腕で力強く櫓を漕ぐと、舟はすいすいと水面を切って進んでいく。しばらく走り、岸辺の灯りが遠くなった処で、大政が舟を止めた。


「この辺りで落ち合うことになっておりやす。少しお待ちくだされ」

 まもなく湊から灯火がひとつ近づいてきた。その煌めきが次第に大きくなってくる。それは、意匠を凝らした屋形船だった。船首に大きな丸提灯が掲げられ、障子が張られた屋内からも明かりが漏れている。


 大政が再び舟を動かし、屋形船の後部に横付けさせると、なかから次郎長が顔を出した。

「どうぞお入りください。某らは席を外しておりますので、慶喜さまとごゆるりとお話しくだされ。湾内では子分たちが舟を浮かべて見張っております故、ご心配には及びませぬ」

 俺たちが、次々に屋形船のなかへと乗り移ると、入れ替わりに次郎長が子分を従えて櫓舟へと移動した。


「いったいどういう了見だ? 何かいい策でも思い付いたか」

 船内の上座に慶喜が脇息にもたれて座っていた。

「ご足労をお掛けして申し訳ありませんでした」

 そう言いながら、永岡が慶喜から少し離れて腰を下ろす。俺たちも、永岡に倣ってその後ろに着座した。


「我らは、慶喜公と西郷の手を結ばせるよい手立てはないものかと考えておりました」

 永岡の言葉に慶喜が顔をしかめた。

「申したはずだぞ。西郷が予と組むことなど金輪際あり得ぬ」

「まあ、お聞きください。たしかに西郷は慶喜公の首を獲るために駿府にまでやって来た。けれども、結局は公の謹慎を認めて、江戸総攻撃を取り止めたではありませぬか。その理由さえ判れば、おふたりを組ませる手掛かりが掴めるのではないか。そう思って、西郷と直談判を行った山岡鉄舟殿の許を訪ねて参りました」

「なに……!」


「山岡殿は、我らに駿河での談判の様子を詳しく語ってくれました。決め手となったのは、慶喜公から西郷への伝言だったそうですね」

「あの男、まさかさようなことまで喋ったのか……」

「教えてください。帝の秘密とは、いったい何なのですか? それが、西郷とどう関わっているのですか?」

 永岡が、身を乗り出すようにして問いかけた。

「…………」

 慶喜は、何かを思い返しているかのように、押し黙ったまま虚空を見詰めている。


 そのとき、背後に座っていた高津が、思わず片膝立ちになった。

「まさか、それが大坂城からの逃亡と繋がっているのではありませぬか? すべてをお話しくだされ。さもなければ、拙者はここを動くわけには参りませぬ」

 そう言って、佩いていた刀の柄に手を掛けた。


 それを見た慶喜が、つぶやくように言葉を漏らした。

「おぬしから見れば、予は幕府を潰した極悪人に映っておろうのう。結果は知っての通りであるが故、いまさら言い訳をするつもりはない。なれど、予は、自分なりに懸命に徳川家を守ろうと最善を尽くしたつもりだ」

「お聞かせください。お隠しになられていたすべてのことを」

 永岡がそう促した。

「長い話になるぞ。それでもよいのか?」

 慶喜の問いかけに、一同が肯いた。


「さて、どこから話し始めるべきかのう……。

 幕末の戦乱を生き抜いてきたおぬしらに語るのは、釈迦に説法かもしれぬが、かつてあれほどまでに全国に熱狂をもたらした尊皇攘夷運動とは、そもそもいったい何であったのか? それを整理することから始めるのがよいかもしれぬな。


 知っての通り、予は水戸藩第九代藩主、徳川斉昭の七男として生まれた。藩主の子は江戸の藩屋敷で育てられるのが江戸時代の習わしだったのだが、江戸の華美な風俗に染まらせたくないという父上の達ての希望で、予は一橋家に養子に入るまでの間は、水戸で育てられたのだ。尊王攘夷とは、そもそもが水戸学と呼ばれた水戸藩で形成された独自の政治思想に端を発しておる。予は、水戸にいた頃に、藤田東湖や会沢正志斎といった尊皇攘夷を提唱した水戸学の大家から直接に薫陶を受けておるのだ。


 水戸藩の第二代藩主、光圀公が手をつけ、いまだに編纂を続けている『大日本史』という史書のなかで、水戸学では南朝こそが正統であると明確に位置づけている。

 いまさら言うまでもないことだが、建武の新政が崩壊した後、室町幕府を興した足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立したのに対抗して、大覚寺統の後醍醐天皇が京を脱出して吉野に遷ったことにより、朝廷は北朝と南朝に分裂した。


 一旦は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一したものの、そのときの両統迭立(てつりつ)―交互に皇位につく―という約束が守られることはなく、北朝である持明院統の皇統が続いたため、その後も南朝の遺臣たちによる南朝復権を目指した蜂起が断続的に発生することになった。応仁の乱のとき、西軍の盟主、山名宗全が南朝の後胤こういんを擁立したのが南朝側の最後の大規模な反乱であり、その後は反抗こそ終息したものの、いまでも各地に南朝帝の末裔たちは生き延びておる。


 むろん南朝こそが正統であるという考え方自体は、大義名分論を根拠にした正当な主張なのだが、何故、徳川幕府が二百年以上も続いた頃になって、ことさらに水戸藩が南朝正統を言い出したのか? そこには、ちゃんとした理由があるのだ。


 ひとつには、北朝の皇統自体が、この頃すでに途絶えかけていた。

 孝明帝は、持明院統の嫡流である系譜に連なる天皇ではなく、傍系である閑院宮家の血統だ。閑院宮家とは、将来の皇統の断絶を危惧した新井白石の建言により江戸時代の中期に創設されたまだ新しい宮家だった。安永八年に、ときの後桃園帝が皇嗣を決めぬまま急逝してしまい、帝に女子しか子供がいなかったために、後継天皇として急遽選ばれたのが、まだ幼かった閑院宮家の光格帝だった。その光格帝の孫に当たるのが、孝明帝なのだ。


 孝明帝は、なかなか男子に恵まれなかった。典侍として宮中に出仕していた大納言・中山忠能(ただやす)の養女、慶子との間にようやく生まれたのが、睦仁むつひと親王だった。けれど、睦仁親王は、生来病弱で、しかも、知恵遅れだったのだ。元服を迎えなければならぬ年頃になっても、学問もせずに、女官たちと人形遊びをするのが唯一の楽しみだった。とても将来、天皇に据えられる器ではなかったのだ。


 そして、もうひとつの理由は、むしろ、こちらの方がより大事だったのかも知れぬが、水戸藩は南朝帝の末裔を囲っておったのだ。

 応仁の乱の際、山名宗全に擁せられたのは、紀州熊野で育った後亀山天皇の孫に当たる尊雅たかまさ王の皇子信雅(のぶまさ)王だった。京で奮戦したものの、信雅王は、時利あらずして奥州沢邑(さわのむら)に落ち延びた。その嫡子、熊沢王を引き取ったのが、水戸藩だったのだ。


 尊皇攘夷の尊皇とは、ただ単に天皇を尊べという意味ではない。いまの閏統の北朝を排し、本来正統たる南朝の天皇を担ぎ上げ、その下で夷狄たる諸外国を打ち払い、日本国の国体を護持しようという思想なのだ。


 予は、元治元年(一八六四)三月の終わりに、それまで二年に亘って務めてきた将軍後見職を辞して、禁裏御守衛総督きんりごしゅえいそうとくに就任した。


 元々、予は将軍後見職などになりたくはなかった。知っての通り、薩摩国父の島津久光殿が幕政改革のために、武威をちらつかせて政事総裁職の松平春嶽殿とともに予を幕府に押し込んだのだ。久光殿は、ふたりに任せておけば幕政を変えられると安直に考えていたのだろう。けれど、幕府には、従来の統治機構が厳然として存在しているのだ。そんななかに、ふたりがよそ者として入り込んでも上手く行くはずがなかった。予は、幕府首脳との軋轢あつれきのなかで将軍後見職にほとほと嫌気が差していたのだ。


 朝廷に将軍後見職の辞任を申し出たものの、容易にそれが受理されることはなかった。再三に亘る予の申し出に、朝廷が出してきた条件が、禁裏御守衛総督きんりごしゅえいそうとくへの就任だった。禁裏御守衛総督とは、御所を警護するために朝廷によって新設された、京都守護職や京都所司代を束ねる最高位の役職である。


 その前年、会津藩と薩摩藩が手を組み、朝廷を牛耳っていた急進攘夷派の長州藩を京から追放するという所謂『八月十八日の政変』が起こっている。長州藩がその報復のために御所に攻め込む準備をしているという噂が流れ、京には不穏な空気が漂っていた。その事態に対処するために御所の警護を強化する必要が生じていたのだ。


 予は、禁裏御守衛総督を引き受けるに当たって、孝明帝に対してひとつの条件を突きつけることにし、そのために御所に向かった。

 関白・二条斉敬(なりゆき)や中川宮朝彦親王らの公卿たちとともに小御所の中段の間で待っていると、分厚い御簾の向こうで人影が動き、孝明帝が玉座に腰を落ち着けたのが判った。むろんその姿形が見えるわけではない。

「今日はよき返事をもらえるそうやな?」

 孝明帝が独特な甲高い声で話しかけてきた。


 予は、すでに孝明帝とは何度も会っており、特に一年前には、孝明帝との間で将軍への大政委任の言質を取るために徹夜の談判を行った経験もある。孝明帝の言葉には、予に対して心を許した気安さが滲んでいた。


「その前に、今後のことについて陛下と腹を割ってお話し致したく。お人払いをお願いできぬでしょうか」

「麻呂らがおっては邪魔やと申すのか?」

 二条関白が、不服そうな声をあげた。

「申し訳ございません。陛下とふたりきりでお話をしたいのです」

 予はそう言って、頭を下げた。

「一橋卿の仰せに従いなはれ」

 孝明帝の一言で、やむなく居並んだ公卿たちがぞろぞろと部屋を後にした。


「朕と話したいと申すは、いったい何事や」

「畏れながら、陛下はもう皇嗣こうしをお決めになられておるのでしょうか?」

「なんや、そのことかいな」

 孝明帝が露骨にわずらわしそうな声を出した。

「風雲急を告げるご時世なれば、いつ何時、不測の事態が起こるとも限りませぬ。早う皇嗣をお決めなさいませ」

「そうは言うてものう……」

 そう言って、孝明帝は言葉を詰まらせた。


 睦仁親王を後継者にするわけにはいかない。けれども、世襲親王家のうち、最も古い伏見宮家は南北朝時代まで遡らなければ血が繋がらぬ遠縁であり、この当時すでに事実上、皇位継承権を失っていた。桂宮家にもすでに男子はいない。唯一といってもよい候補者である有栖川宮熾仁(たるひと)親王は、長州藩寄りの急進攘夷派であり、毛嫌いしている孝明帝が指名することはあり得なかった。つまりは、候補者がいないのである。


「某によい知恵がございます。いま水戸藩では、後亀山天皇の血を引く泰雅親王を囲っております。この泰雅親王を皇嗣になさいませ」

「……南朝の末裔をか」

 孝明帝の声は驚きのあまり上擦っていた。

「そもそも後亀山天皇と後小松天皇の間には両統迭立のお約束があったはず。いまこそ南朝に皇統をお戻しなさいませ」

「…………」


「いますぐにとは申しませぬ。泰雅親王は、睦仁親王と同じ年頃でいらっしゃいます。一橋家とはよしみが深い一条家に預け、皇嗣に相応しいしつけを施しておきます。折を見て、睦仁親王を泰雅親王と入れ替えてくだされ。何食わぬ顔で睦仁親王として皇嗣にすればよろしいのです」

「……それが、禁裏御守衛総督を引き受けるに当たっての条件というわけか?」

「左様。もし、この条件を呑んで頂けるのならば、この慶喜、命に代えても陛下をお守り致しましょう」

「……少し考えさせてくれぬか」

 それからしばらくして、予の許にたった一言「諾」とだけ記された宸翰しんかんが届いた。予と孝明帝の間で密約が成立したのだ。まもなくして、予は禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮(せっかいぼうぎょしき)に就任した」

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