第三話
俺を乗せた櫓舟は、一刻ほどで江尻湊(清水港)に漕ぎ着いた。
湊の近くに建つ清水次郎長の居宅までは、歩いてまもなくだった。
若い頃には侠客として諸国を駆け回り、博徒抗争を繰り広げていた次郎長も、すでに五十の坂を越え、この頃はすっかり清水の地に腰を落ち着けていた。
「倉澤の藤屋からの頼みとありゃ、この次郎長、命に懸けてお守りしやしょう」
強面の顔を綻ばせて、次郎長はそう請け負ってくれた。
次郎長の周旋のお蔭で、駿府伝馬町の松崎屋源兵衛の邸宅で西郷と面会できることとなった。俺は、次郎長のほかに大政、小政ら六人の子分たちに守られて久能街道を駿府に向かった。
松崎屋は桐油を扱う大店で、間口が狭く奥が深い間取りとなっている。俺は、その奥座敷に通された。
部屋のなかには、すでに大きな堅太りの男が座っていた。詰め襟の黒い軍服を着て、その上から白縮緬の兵児帯を締めている。西郷隆盛だった。次の間に控えていた幾人もの薩摩の将官たちが殺気立っていたのとは対照的に、西郷は泰然として慇懃な挨拶をして、俺を上座へと誘った。
「我が主、慶喜はすでに上野の寛永寺に退いて謹慎し、大総督宮に対して恭順の意を示しております。そのことは、先日も、天璋院さまより謝罪使を送り、お伝え申し上げたはず」
「いかにも女官はおいでになりもした。じゃっどん、恐懼しておられるばかりで、何を仰りたいのか、さっぱり判りもはんので、お引き取り願いもした」
西郷が鷹揚に応えた。恐らくはその通りだったのだろう。
「先生は、どこまでも戦いを望まれ、あくまで人殺しをなさろうとするのですか。もしそうであれば、それは天子の軍とは言えますまい。天子は、民の父母ではありませぬか。なにとぞ民をお救いくだされ。江戸の街を火の海にしてはなりませぬ!」
西郷は、俺の言葉に一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに立ち直ると言葉を返した。
「いささか遅うございもした。三月十五日を期して一斉に江戸に攻め入るべしと、すでに大総督宮からご命令が下っておりもす。もはや止められもはん」
「左様に一方的な……」
俺は思わず唇を噛んだ。
西郷は、話は終わったとばかりに目を閉じた。
とにかく務めは果たさなければならない。俺は静かに口を開いた。
「人払いを願います」
「何故……?」西郷が怪訝な表情を浮かべた。
「慶喜公から先生に伝言を言付かっております。それをお伝えしたく存じます」
西郷が合図をすると、次の間に控えていた将官たちがぞろぞろと部屋を出て行き、俺と西郷のふたりきりとなった。
俺は、西郷の許ににじり寄り、その目をしっかりと見据えて言い放った。
「帝の秘密は存じておる。もし、そのことが世間に知れ渡れば、おぬしはお仕舞いとなろう。公言されたくなければ、予の謹慎を認め、江戸総攻撃を取り止めよ」
その言葉に、西郷が狼狽したのが判った。俺は、なおも無言のまま西郷の眸を睨め続けた。西郷の額に一筋の汗が滴り落ちた。
「……しばらく待ってたもんせ。大総督宮に伺って参りもす」
西郷はそう言い残して、慌ただしく座敷を出て行った。
俺はひとり坐禅を組み、ひたすら待ち続けた。
西郷が戻ってきたのは、それから一刻ほど経った頃だった。
「大総督宮と談判してきもした。こん条件ば呑めば、総攻撃は取り止めもそう」
そう言って、一枚の書き付けを差し出した。
そこに五つの条件が書き記してあった。
一、城を明け渡すこと
一、城中の人数を向島に移すこと
一、兵器を渡すこと
一、軍艦を渡すこと
一、徳川慶喜を備前に預けること
俺は何度も読み直し、しっかりと咀嚼したうえで応えた。
「謹んで承りました。なれど、一ヶ条だけは拙者どうしても請けることができませぬ」
「そいは、どん箇条でもすか?」
「慶喜公を備前に預けることには、徳川恩顧の家臣は決して承服いたしませぬ。さすれば、結局は戦いとなり、虚しく数万の命が失われることになります。この条件だけは決して呑めませぬ」
「朝命でごわすぞ」
俺が黙っていると、西郷は、険しい表情をして二度同じ言葉を繰り返した。
「ならば、先生と拙者とその位置を代えて考えてみてくだされ。先生の主人・島津公がもし誤って朝敵の汚名を受け、官軍が征討することになり、慶喜公と同じような朝命が下ったとしたら、先生は承服し、さっさと主人を差し出し安閑と傍観していられますか?」
俺の言葉にしばし黙り込んだ西郷が、おもむろに口を開いた。
「ご説もっともでございもす。慶喜殿のことは、この吉之助がよろしく取り計らいもす。先生が心痛することはありもはん」
「承知つかまつった」
これで、談判は終わった。そう気を緩めた瞬間だった。
西郷が、いきなり怖い顔をして俺の目を覗き込んだ。
「ところで、先生は、ここに来る途中で、官軍の陣営を突破なさいもしたな。我らは、先生を捕縛せねばなりもはん」
俺は、表情を引き締めて言い放った。
「縛につくのは拙者の望むところ。さあ、早う捕縛なされ!」
「……冗談でごわす。まずは酒といたしもんそ」
西郷はそう言って、高笑いをあげた。
「これが、西郷さんとの直談判の一部始終だ」
鉄舟が、長い話を語り終えた。
「判ったであろう。結局は、慶喜公からの伝言がすべてだったのだ」
「その帝の秘密というのは、いったい何なのですか?」
俺は、思わず身を乗り出した。
「俺も、その中身については何も知らされておらぬのだ。もっとも、西郷さんは、俺もその件を知っていると勘違いしているようだがな。だからこそ、俺を帝の侍従に指名したのだろう」
「では……」
「ああ。どうしても知りたければ、慶喜公に問い質してみるほかなかろうな。もっとも、慶喜公が素直に話してくださるかどうかは判らぬがの」
「再び慶喜公とお会いするしかなさそうですね」
俺は、隣に座った永岡の方に振り向いた。
永岡は、しばし思案を巡らせた後に、鉄舟に問いかけた。
「話に出た清水の次郎長という男は、真に信用に足る人物なのですか?」
「どうしてだ?」
「もしそうならば、我らもその御仁を頼ってみたいのです」
「あの男の義侠心は大したもんよ。次郎長ならば、俺が保証しよう」
慶応四年(一八六八)八月、榎本武揚率いる幕府海軍は、奥羽越列藩同盟を支援するために品川沖を離れ、仙台に向かった。けれど、その途中の銚子沖にて暴風雨に逢い、艦隊に属していた咸臨丸は大きく損傷して、航行不能となり修理のために清水へ入港した。
かつては太平洋を渡った咸臨丸だったが、すでに竣工から十年が経ち、老朽化が激しく、この頃には蒸気機関を外されて、帆船となっていたのだ。
そこに、官軍の軍艦三隻が追撃してきた。咸臨丸は武器弾薬を下ろしていたため、白旗を掲げて降服する意思を見せた。にも拘わらず、官軍の軍艦は一方的に至近距離から砲撃し、さらには咸臨丸に乗り込むと、残っていた二十人の乗員を虐殺し、遺体を海中に投棄したのである。
官軍のお触れを怖れて住民たちが手をこまねいているなか、岸に流れ着いた亡骸を回収して無縁墓地に埋葬したのが、清水の次郎長だったのだ。
鉄舟が、感慨深げにそう語った。
「静岡藩にいた頃には、次郎長とはすっかり意気投合して、何度も酒を酌み交わしたものよ」
鉄舟が遠い目をして言葉を継いだ。
「それで、次郎長に何を頼むつもりなんだ?」
「我らも周旋をお願いできればと思っております」
永岡が応える。
「何なら、俺が一筆書いてやってもいいぞ」
鉄舟がそう言って、悪戯っぽい笑みを見せた。




