第一話
この五月に皇城は火災に見舞われている。
夜半に紅葉山の女官の房室から火の手が上がり、すぐに帝が住む西の丸の殿舎にも燃え移った。業火は城内の大部分を燃やし尽くし、夜明けになってようやく鎮火した。
そのため、この頃、帝は、赤坂にあった広大な紀州藩中屋敷跡を仮御所として暮らしていた。
山岡鉄舟は、侍従に就いた当初は、内藤新宿からさらに西に下った淀橋という田舎村に居を構えていたが、皇城の火事を機に仮御所の間近にある元紀州藩の家老屋敷跡に引っ越している。
杉の板塀に囲まれた山岡邸の大きな冠木門の前に立つ。
赤銅の乳鋲が打ちつけられた重厚な扉は、夜中だというのに開け放たれており、番人が立っている様子もない。俺は思わず永岡と顔を見合わせた。
「取りあえず入ってみるか」
永岡の言葉に肯いた。
邸内を進んでいくと、足軽長屋に灯がともり、なかから騒々しい声が聞こえてきた。
長屋のなかは、壁をぶち抜き、床板を張って道場に造り変えられていた。その中央に大きな酒樽が置かれ、大勢の人々が思い思いに酒を呑んで騒いでいる。
俺たちを認めたひとりが声を掛けてきた。
「振舞い酒だ。遠慮は要らないぜ。こっちに来て、一杯やりな」
俺は部屋のなかに視線を走らせたが、見知った山岡鉄舟の顔は見当たらなかった。
「酒を呑みにきたわけではない。山岡鉄舟殿に逢いに来たのだ。山岡殿は何処におられる?」
男はすぐに興味を失ったように、邸の奥に向かって顎をしゃくった。
「どうせ、書斎に籠もっていよう。あまり邪魔するんじゃないぜ」
山岡鉄舟は、八畳ほどの書斎のなかで、文机に向かってしきりに筆を走らせていた。
机の上には夥しい紙が積み重ねられており、畳には、書かれたばかりの達筆の書が足の踏み場もないほどに広げられている。
俺たちの気配を察した鉄舟が、顔も上げずに口を開いた。
「酒を切らしたか? その辺りに財布があるはずだ。その金で買いに行ってくれ」
「そうではございませぬ。我らは、山岡殿とお話し致したく参上仕りました」
そう言って、永岡が名乗りを上げる。俺も続けて名前を告げた。
「なにかと忙しいのだ。手短に頼むぞ」
鉄舟が、俺たちの方に向き直った。
「揮毫ですか?」
永岡が問いかける。
「政府からも給金は出ているが、それだけでは彼奴らの酒代までは賄えぬ。下手な字でも、こうして求めに応じて書いていれば、幾ばくかの金になるのでな」
そう言って、鉄舟が苦笑いを浮かべた。
「あの者たちはいったい何なのです?」
「俺が政府に仕えたことを知って、食い詰めた旧幕臣たちが集まってきた。最初はわずかな人数だったのだが、放っておいたら、いつの間にかあんなことになっておったのだ」
鉄舟が、呵呵と高笑いをあげた。
「…………」
その豪放磊落な様子には呆れるほかなかった。
「ところで、俺にいったい何の用なのだ?」
俺は、威儀を正して口を開いた。
「山岡殿は、かつて東海道先鋒軍を率いて駿府にやって来た西郷隆盛と直談判を行い、江戸総攻撃を取り止めさせたと聞き及んでおります。どのようにして西郷を翻意させたのか? そのときの様子をお伺いしたいのです」
「江戸城無血開城を決めたのは、俺じゃない。西郷さんと勝海舟さんのおふたりがやったことだ。話を聞きたければ、勝さんの許に行くがいい」
「いえ。先ほどそのほかならぬ勝殿から、山岡殿を訪ねるようにとのご助言を頂いて、こちらに参った次第でして」
俺の言葉に、鉄舟が驚いた表情を浮かべた。
「あのお方が真に左様なことを仰ったのか? 手柄話を他人に譲るようなお方ではないはずだが……おまえさん、まさか腕にものを言わせたわけではあるまいな?」
鉄舟が、戯けるように言った。
「左様なことは致しておりませぬ」
俺は憮然とした声を出した。
「もっとも、勝さんだって若い頃、それなりに武術を嗜んでいるお方だ。手を出さずとも、おぬしがその眼で睨めば、怯まざるを得まいな……他人を斬るほどに、そやつの眼が放つ妖しい輝きは深みを増していくという。おぬしの眼は、人斬りの眼だ。いったいこれまでにどれだけの人を殺めてきたのだ?」
鉄舟の眼が鋭く光った。
「数えたわけではありませぬが、その数は両手両足では足りぬでしょう。俺は、かつて新撰組三番隊組長、斎藤一と名乗っておりました」
「そうだったのか……元はと言えば、俺が清河八郎殿の口車に乗ったことからすべては始まったのだ。それ故、新撰組のことはその後もずっと気に掛けておった。おぬしが、新撰組の斎藤か。よく生きておったな」
「近藤さんを始め、土方さん、沖田さん、みんな幕府とともに亡くなりました。俺ひとり、こうして生き恥を晒しております」
「何を言うか。命あっての物種ではないか。幕末には、あまりにも多くの志士たちが露と消え失せた。生き残った我らは、彼らの分まで生きなければならぬのだ」
「…………」
「それで、何故、いまさらあのときのことを知りたいのだ?」
「それは……」
俺は、答えに窮して思わず永岡を見遣った。
永岡が、すぐさま俺の言葉を引き取った。
「西郷隆盛殿は、此度の政変に敗れて野に下りました。なれど、いまだ新政府にはなくてはならぬお方だと思っております。西郷殿が留守政府の柱石となっていたが故に、江藤や大木といった佐賀藩出身者たちが重用され、また、旧幕臣でありながら、勝殿が海軍大輔に任じられ、山岡殿も帝の侍従という重責を任されることになったのです。我が会津藩でも家老を務めた山川浩が二百人の旧藩士とともに陸軍に出仕しております。西郷殿は、少しずつ薩長による藩閥政治を改めようとなさっていたに違いありませぬ。けれども、いま再び大久保や木戸らが実権を握ってしまえば元の木阿弥となってしまいましょう。私は、西郷殿に再び新政府に戻ってきてもらいたいと思っているのです」
「俺は、西郷さんの人となりをよく存じておる。もはや西郷さんに参政に復帰してもらうことは難しかろうな」
「難しいのは重々承知しております。なればこそ、山岡殿がどうやって西郷殿を翻意させたのか。当時のおふたりの直談判のやり取りをお伺いして、参考にしたいと思っているのです」
「……なるほどな」
「是非とも、よろしくお願い致します」
永岡がそう言って、深々と頭を下げた。
「別に誰かに口止めされたわけではない。けれど、あのときのことは、これまで誰にも話したことがないし、また、話すべきでもないと思うておった」
「我らの胸の裡だけにしまっておきます。決して他言は致しません。それ故、何とぞお話し願えませぬでしょうか」
「……実はな、何故、西郷さんが江戸総攻撃を取り止めたのか。その理由が、当の俺にもよく判らぬのだ」
「どういう意味ですか?」
永岡が訝しげに問いかけた。
「あれは、徳川慶喜公からの達ての頼みだったのだ……」
鉄舟が、ぽつりぽつりと語り始めた。




