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維新ふたたび  作者: 袖岡徹
第五章 勝海舟
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第二話

 勝海舟は、明治維新の後、徳川家が移封した静岡藩の幹事役となり、新政府との調整役を務めていたが、廃藩置県後の明治五年に海軍大輔として政府に出仕し、東京に移住した。


 このとき住んでいたのは、かつて幕臣時代に住み慣れた赤坂の氷川神社裏の邸から目と鼻の先に建つ二千五百坪にも及ぶ広大な旗本屋敷跡である。俺は、永岡の供として勝邸に向かった。


 白壁の長屋門を抜け、松林に囲まれた暗い玉砂利の径を進むと、壮麗な入母屋造りの邸宅が浮かび上がった。

「勝殿もいつのまにかお大尽になられたものよ」

 永岡が、冷ややかな言葉を漏らした。


 新撰組隊士として京の街にいた俺には、勝海舟との接点はない。いや、それどころか鳥羽伏見の戦いに敗北し、江戸に逃げ戻った徳川慶喜から、陸軍総裁と海軍総裁を束ねる『軍事取扱』の地位に取り立てられて、官軍との和平交渉に乗り出すまではその名前すら知らなかった。


 いまだに新政府に対していまわしい思いを抱いている旧幕臣たちにとって、和平交渉を進め、いつの間にか新政府の高官に収まっている勝は、反感と妬みの対象でしかない。その過去が、面白おかしく語られていることも知っている。


 幕末期の勝は、決して表舞台を歩んできたわけではない。


 ペリー提督率いる黒船が来航した際に提出した『海防意見書』が幕府の目にとまり、長崎海軍伝習所で長く修学していた勝は、日米修好通商条約批准のためにワシントンに向かう遣米使節団を乗せた米艦ポーハタン号の随伴船、咸臨丸に乗って太平洋を渡った。軍艦奉行・木村摂津守の下で、軍艦操練所教授方頭取、つまりは技官の頭として咸臨丸に乗り込んだはずの勝だったが、航海中は船酔いが激しく、船室に籠もりっきりでまるで役に立たなかった。そして、帰国後まもなくして蕃書調所ばんしょしらべしょに異動となり、一時期、海軍から追い出されている。


 その後、海軍増強のために神戸海軍操練所が設置され、勝も軍艦奉行に昇進したものの、脱藩浪人を抱えていたことが発覚し、僅か半年で軍艦奉行を罷免され、二年近くもの蟄居生活を送っている。第二次長州征伐の際、長州藩との停戦交渉を命じられて軍艦奉行に復帰したけれども、すぐに失脚して江戸に戻されると、その後は、鳥羽伏見の敗戦に至るまでの京を中心とした激動する政局の蚊帳の外に置かれていたのだ。

 慶喜に官軍との和平交渉を託されたのも、ときの幕府の中枢が小栗上野介を筆頭とする主戦派に占められていたなかで、薩長との間に繋がりがあったからに過ぎない。


 俺たちは邸に入ると、玄関に面した表広間ではなく、いきなり六畳ほどの書斎に案内された。部屋のなかでは、勝海舟が文机に向かって何やら書き物をしている最中だった。


 勝は、俺たちを一瞥すると、声を掛けてきた。

「おう。おいでなすったか。ちょっと座って待ってな。すぐに終わらせる」

 俺は、その言葉にも警戒心を解くことはなかった。以前に耳にしたことがある。勝は、親しさを演出するために、あえて客人を書斎に招き入れるのだと。


「さてと」

 そう言うと、勝は筆を置き、俺たちの方に向き直った。

「俺が、何でおまえさんたちを此処に呼んだか。心当たりぐらいはあるんだろうな?」

「いいえ。何故、勝殿が我らをお呼びになられたのか。見当すらつきませぬ」

 永岡が、すかさず答えた。


「よく言うぜ」

 勝が身を乗り出して、俺たちを睨めつけた。「俺の目が節穴だとでも思っていやがるのか? 何故、徳川慶喜と逢ったりした」

「何かの間違いではありませぬか。我らは、慶喜公と逢ったりはしておりませぬ」

 永岡が、表情も変えずに応えた。

「お互いに時間の無駄だ。そんなつまらぬやり取りは無しにしようぜ。俺はな、いまあのお方のお目付役を任じておる。手の者が常に周囲に眼を光らせているんだ。おまえさんたちの動きなんぞ先刻お見通しなんだよ」

「…………」


 やはり慶喜公のお屋敷には、監視の目が張り付いていたのだ。だが、勝が俺たちの動きを何処まで把握しているのかが判らない。迂闊なことは言えなかった。

「いったい何を企んでいる? まさか、つまんねえことを考えてんじゃねえだろうな」

「何を仰っておられるのか、私にはとんと判りかねますが……」

 永岡があくまでとぼけた態度を押し通す。


「あのお方の最近の挙動には、少々不審な点が見られるのだ。自ら官軍に対して謹慎恭順を言い出したくせに、どうやらいまになって気持ちがうずいてきたらしい。士族たちの不満が鬱積して、世情が剣呑な様相を呈しているなか、あのお方をあまり焚きつけてもらっては困るのだ……もっとも、いまさらあのお方が騒いだところで、何も変わりはしないがね」

 そう言って、勝があざけるような表情を浮かべた。


「いまや新政府の参議にまで出世なさっておられる勝殿は、もはや我らとは想いも違っておりましょう。しかしながら、勝殿は、心底いまの政府が良いと思っておられるのですか?」

 永岡が、挑むような眼差しを見せた。

「おまえさんたちは、いまだに幕府を懐かしんでいるのか? まあ、気持ちは判らぬわけじゃねえ。でもな、幕府だってとっくの昔に腐っちまってたんだ。糞同士を比べて、いったい何の意味があるっていうんだ。もう時計の針は戻せねえ。ならば、いまの政府を少しでも真っ当にするのが、俺に与えられた務めってもんじゃねえのか」

「…………」

「莫迦なことを考えるんじゃねえぞ。俺だって旧幕臣だ。おまえさんたちにあまり無体な真似はしたくないんだ。判ってくれや」


 そう言うと、勝は文机から三つの財布を取り出すと、俺たちの前に並べた。緑と黒と茶の三色に彩られた財布だ。

「むろんただで頼むつもりはねえよ」

 勝は、そう切り出した。


「俺の許には、いまでも毎日のように食い詰めた旧幕臣たちが金の無心にやってくる。そのために、こうしていつも三種類の財布を用意してあるのさ。

 この緑色の財布はな、もう死ぬしかないと思い詰めて、最後の頼みの綱として俺の許にやってきた連中のために用意したやつで、相当な紙幣を入れてある。黒色の財布は、それほど追い詰められちゃいないものの、借金をしに来た理由に納得できるやつとか、昔、世話になって義理を返さねばならぬ人たちのためのものだ。そして、茶色の財布には、酒代などを無心に来たつまらない連中への、ほんの煙草銭程度の金を入れてあるんだ。


 俺には、やって来た客人の目を見ただけで、どの色の財布を渡せばいいのか、直感ですぐに判るのさ。そして、客人に適した財布をその場で取り出し、中身も確かめずに無造作に放り出すと、こう言うのさ。

 おい。財布だけは、置いてけよ。

 そうすりゃ、大概の客人は感涙を流しながら、帰って行くって寸法さ。


 今夜は、特別だ。おまえさんたちに財布を選ばせてやらあ。さあ、どれにする? 好きな財布を持って行きな」

 勝が意地悪い笑みを作って言った。


「判りました。そういうことならば、遠慮なくこちらの財布を頂きましょう」

 永岡は、そう言って躊躇することなく緑色の財布を手にして、なかの紙幣を抜き取った。

 勝の目眩ましに微塵も惑った素振りを見せぬ永岡の胆力には驚くしかなかった。

「ほう、そう来たかい……」

 勝が、思わず目を見開いた。


「じゃあ、よろしく頼んだぜ。ついでに、ひとつだけ忠告しておいてやろう。あのお方を始め旧幕臣たちの動きに眼を光らせているのは、なにも俺ひとりじゃねえ。荘村省三という名の密偵ぐらいは知っているだろう?」

「ええ……」

「彼奴のいる監部課が、此度、新たに発足した内務省に組み込まれたそうだ。何と言っても、旧幕臣たちを潰すことを生き甲斐に思っているような連中だ。精々気をつけることだな」

 そう言うと、勝は、話は終わったとばかりに文机に向き直りかけた。


「待ってください!」

 俺は、思わず声をあげていた。

「まだ何かあるのかい……?」

 勝がいぶかしげに振り返った。

「勝先生のご高名はかねてより存じ上げておりました。折角の機会故、ひとつお聞きしたいことがございます」

「いったい何だい?」


「勝先生は、西郷隆盛と直談判をして官軍の江戸総攻撃を取り止めさせたと聞いております。江戸の街が火の海にならなかったのは、ひとえに勝先生のお蔭なのです。いったいどうやってあの西郷を翻意させたのですか?」

「……いまさらそんなことを聞いて何になる?」

 勝が、戸惑った表情を浮かべた。

「後学のためにお聞きしたいとずっと思っておりました」


「……そりゃ、おまえさん、誠意ってもんよ。心を開いて腹の底から話し合えば、どんな相手とだって判り合えるってもんだ」

「そんなお座なりな答えで得心するとでもお思いか! 西郷隆盛は、徳川慶喜公のことを激しく憎んでおり、公を討つためにわざわざ軍を率いて江戸にまで上ってきたと聞いております。そんな西郷が、簡単に慶喜公を討つことを諦めて、謹慎を認めるとは思えませぬ。いったいどんなやり取りがあったのです?」

 俺はそう言って、勝を睨めつけた。


 その眼差しをじっと受け止めていた勝が、つぶやくように言葉を漏らした。

「何処かで見た面だと思ってはいたが、その眼を見てようやく思い出したぜ。江戸に逃げ戻ったあのお方が西の丸の大広間に主だった家臣たちを集めた席上で、若年寄格に昇ったばかりの近藤勇とやらが主戦論を派手にぶち上げた。おまえさん、たしかあのときその傍につき従っていたな……そうか、新撰組の生き残りだったのか」


「たしかにかつては新撰組の斎藤一と名乗っておりました」

「断っておくが、俺は元々恭順派じゃないぜ。おまえさんに恨まれる憶えはねえ。謹慎恭順に拘ったのは、あのお方だ。その命を受けて、和平交渉を進めたに過ぎぬ。俺も、新政府のやり方は許せぬと思った。むしろ一戦交えようと考えていたんだ」


「いまはそんなことを問うてはおりませぬ。どうやって、あの西郷を説得したのか。それを知りたいだけなのです」

「判ったよ。そういきり立つんじゃねえ。但し、ここだけの話にしておいてくれ……実はな、西郷と直談判をしたのは、俺じゃねえんだ」

 そう言って、勝が語り始めた。


「上野の寛永寺で謹慎に入ったあのお方に、官軍との和平交渉を託されたものの、俺は頭を抱えざるを得なかった。

 西郷率いる一万を超える東海道先鋒軍はすでに駿府に入り、江戸総攻撃の準備を着々と進めていた。中山道からも東山道鎮撫総督府の軍勢が江戸に向かって進攻してきていた。


 かつての有栖川宮熾仁(たるひと)親王の許嫁で将軍家茂公の正室だった静寛院宮せいかんいんのみやさまや薩摩出身で将軍家定公の正室だった天璋院篤姫さまが嘆願書を送り届けたものの、大総督府を翻意させることはできなかった。和平の使者として京に向かった輪王寺宮公御一行に至っては、駿府で一喝されてすごすごと江戸に舞い戻ってくる始末さ。すでに万策は尽き果てていたのだ。


 江戸決戦は避けられないと踏んだ俺は、四つ手駕籠に乗って新門辰五郎や博徒の親分の許を駆けずり回っていた。江戸の町民を船で房総に避難させた後に、東征軍が進撃してきたら、ならず者どもを使って火を放ち、東征軍もろとも江戸の街を火の海にしてやろうって魂胆さ。


 ちょうどそんな折、ひとりの幕臣が俺を訪ねてきた。


 山岡鉄舟という名の六尺を優に超える大男だ。聞けば、あのお方に頼まれて、駿府の西郷の許に向かう途中で、俺に路銀をねだりに来たそうだ。剣の方じゃ、ちっとは名前を知られた存在だっただけに、一目見ただけで肝の据わった男だと判ったぜ。けれど、お世辞にもおつむが切れるとは言い難い。こんな男で交渉役が務まるもんか、そう思ったよ。仕方がないから、西郷に宛てて書いた一筆を授けて送り出してやったがね。


 ところが、どうだい。予想に反して、この山岡って男が、駿府で西郷と直談判をして、江戸総攻撃を取り止めさせたっていうじゃねえか。驚いたねえ。

 もっとも、山岡は、何の権限も持たないただの幕臣に過ぎない。軍事取扱だった俺は、その後、江戸で西郷と会って、ふたりが決めたことにお墨付きを与えただけのことよ。特に何かしたわけじゃない。如何にして西郷を翻意させたのか。どうしてもそれを知りたければ、当の山岡に会って、直接訊いてみることだな」

 勝は、そう言って渋い顔をした。



 俺たちは勝邸を辞去すると、溜池沿いの道を進み、赤坂御門の前を左に折れた。まもなく築地塀に囲まれた広大な杜が眼に飛び込んできた。元の紀州藩中屋敷である。


 永岡は、先ほどから心配そうにしきりに背後を振り返っている。

「案ずるには及びませぬ。尾行がついている気配はありませぬ故」

 俺は堪らず永岡に声を掛けた。

「真だろうな?」

 永岡の不安げな言葉に大きく肯く。それを見た永岡が安堵の息をひとつ漏らした。


「ときに、荘村省三とはいったい何者なのです?」

 俺は、勝が口にした名前を挙げた。

「荘村か……彼奴あやつは、旧熊本藩士で高島流砲術を学び、幕末には藩の西洋砲術指南を務めていた男だ。かつて私が山川さんと共に武力政変を目論んでいた際に、同じ憂国の士を装い、我らに近づいて来たのだ。目論見は失敗に終わり、事なきを得たが、彼奴が新政府の密偵であることに気づいたのは、その後になってからのことだ。それ以来、顔を合わしたことはないが、彼奴はいまだに私のことを危険人物として蔭で眼を光らせているに違いない」

「ならば、気をつけねばなりませんね」

「ああ。油断は出来ぬ」


 暫し思索に耽り、無言で歩を進めていた永岡が、再び口を開いた。

「おぬし、山岡鉄舟殿と面識はあるのか?」

「噂はかねてより聞き及んでおりました。かつて新撰組がまだ浪士隊を名乗り、上洛する将軍家茂公の警護を仰せつかって江戸から京に上ってきたとき、それを監督する浪士取締役の任に就いていたのが、山岡殿でした。けれど、山岡殿は、まもなく清河八郎率いる一派と共に江戸に舞い戻ってしまいました故、京の地で入隊した俺とは、ほとんど面識はありませぬ」


「そうか……たしか山岡殿はいま、西郷に請われて侍従じじゅうと呼ばれる、若い帝の教育係を務めるほどにご栄達なさっておる。我らがいきなり山岡殿の許を訪ねて行って、お会い頂けるものかどうか……?」

 永岡が、懸念の言葉を口にした。

「俺が知る限りでは、山岡殿は開け広げで面倒見のいいお方だそうです。当たって砕けてみればいいではありませぬか」

「そうだな……」


「なんとしてでも、山岡殿の口から西郷が翻意したいきさつを聞き出さねばなりませぬ。西郷が東進してきた真の目的は、慶喜公を誅殺することでした。にも拘わらず、最終的には、それを断念し、公の謹慎を認めている。そこには、よほどの理由があったはずです。その理由さえ判れば、慶喜公と西郷を結びつけるための糸口が掴めるに違いありませぬ」

 俺は、永岡に向かって語気を強めた。

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