第一話
俺たちは駿府から戻ってくると、すぐに浅草の月照院から少し離れた下谷の寺町に建つ妙光院に宿所を変えた。
この頃には、神仏分離令と大教宣布に端を発した廃仏毀釈という名の仏教弾圧の嵐が吹き荒れており、新政府に対する反撥を強めた寺社の多くは旧幕勢力に好意を寄せていたのだ。
その寺院からは、間近に上野の山を望むことができる。官軍と彰義隊との戦いの舞台となった寛永寺は根本中堂などの主要な伽藍を焼失し、壊滅的な打撃を受けていた。焼け野原となった広大な境内は、この四月には公園に変わり、庶民に開放されている。
その日、永岡がひとりの男を妙光院に連れてきた。
「みんなに紹介しよう。元薩摩藩士の海老原穆さんだ」
浅黒いいかつい顔をした男だった。上背こそさほどないものの、中年になっても引き締まったその体つきは、かつて戦火を掻い潜ってきたことを雄弁に物語っている。
「よいのか? 不用意に薩人などを呼び入れて」
中根が、怪訝な眼差しで問いかける。
「心配はいりませぬ。海老原さんは、一緒に評論新聞を立ち上げた私の同志なのです」
永岡の言によると、元々薩摩藩国父・島津久光の側近だった海老原は、戊辰戦争で戦功をあげた後、明治四年に上京し、陸軍大尉に就任したものの、僅か一年で愛知県官吏に転出した。その後、職を辞し、再度上京した海老原は、永岡とともに評論新聞を立ち上げ、反政府活動に身を投じていたのだ。
「海老原さんは、西郷のことをよく存じておられる。この際、海老原さんに色々と話を聞いてみたほうがいいと思ってな」
慶喜に西郷との共闘を否定されたいま、西郷だけが頼りなのだ。果たしてその西郷を担ぎ出すという策にどれくらいの実現性があるのか、それをまず確かめたいということなのだろう。
「さようにまどろこしいことをせずとも、いますぐ鹿児島に向かい、西郷の意思を直接問い質せばよいではないか」
高津が不満げな声をあげた。
「まだ判らぬのか。おぬしのように猪突猛進に突っ走るだけでは、成せるものも成せなくなる。西郷と会う前に、どう話を持って行けば上手く事が運ぶのか、しっかりと策を練っておかねばならぬのだ」
永岡が諭すように応える。
「…………」
高津は、憮然とした表情を浮かべて押し黙った。
ふたりのやり取りを聞いていた海老原が、口を挟んだ。
「何を聞きたいのかは知らぬが、儂は、西郷とは犬猿の仲だと言われる久光公の側近をしていた男だ。西郷とはそれほど近しいわけではないぞ」
「しかし、海老原さんはともに上京し、西郷の下で陸軍大尉に就いていたではありませぬか」
永岡が訝しげな声をあげた。
「あれは、まあ、騙されたようなものよ」
海老原が、苦笑いを浮かべながら言葉を継いだ。
「あの頃、薩摩藩の大参事を勤めていた西郷は、新政府に請われて参議として入閣し、改革を推し進めていくことになったのだ。それに伴って、薩長土の三藩から兵を出し、御親兵が創設されることになり、薩摩からは四大隊五千名もの将兵が上京することになった。
儂も尊皇にかけては人後に落ちぬ男よ。帝をお守りするための御親兵ならば役に不足はない。桐野利秋に誘われて、儂も加わることに決めたのだ。
けれども、大軍が集められたのは、帝をお守りするためではなかった。その直後、藩主たちが帝の許に集められて、いきなり廃藩置県が宣せられたのだ。まさに騙し討ちと呼ぶに相応しい卑怯なやり方よ。参集した軍勢は、廃藩置県に反対する声を圧殺するために用意されたのだ。
新政府のやり方に反撥を覚えた儂は、一年も経たずに陸軍を除隊した。そして、いまはこうして反政府活動を続けておる」
海老原は、そう言って不敵な笑みを漏らした。
「そういうことだったのですか。しかしながら、変に西郷に心酔している者よりも、少し距離を置いていた海老原さんの方が、客観的に西郷のことが見えていたに違いありませぬ。決して無駄にはならぬはずです」
「それで、いったい儂に何を訊きたいのだ?」
「海老原さんを見込んで正直にお話しします。判っているとは思いますが、ここだけの話にしておいて下さい。我らは、西郷と手を組んで、いまの政府を転覆させたいと思っているのです」
その言葉に、海老原は思わず渋い表情を浮かべた。
「果たして西郷は我らの誘いに乗ってくれるでしょうか?」
永岡が、身を乗り出すようにして言葉を継いだ。
「……実は、正直言って、儂には西郷という男のことがよく判らぬのだ。いや、判らなくなってしまったと言ったほうがいいのかな」
そう言って、海老原がぽつりぽつりと喋り始めた。
「久光公の逆鱗に触れて島流しになっていた西郷は、『八月十八日の政変』以降の不穏な空気のなか、家老の小松帯刀殿の働きかけにより赦免されて政務に復帰することとなった。そこからの西郷は、知っての通りそれまでの遅れを取り戻すかのように獅子奮迅の働きを見せることになる。
禁門の変では陣頭指揮を執り、征長総督府の参謀として長州征伐の幕引きを演じると、薩長同盟を結び、国論を引き摺るようにして討幕へと突き進んだ。鳥羽伏見の戦いに勝利するや、自ら東征大総督府の参謀に就き、江戸に攻め入るべく大軍を従えて東海道を進攻した。
だが、西郷が輝きを放っていたのは、そこまでだった。江戸城無血開城を果たし、上野戦争が終結すると、西郷は突如、薩摩に戻ってしまったのだ。その後、新政府に出馬を請われて、一時、北越戦争や箱館戦争には赴いたものの、めぼしい活躍も見せぬまま戊辰戦争は終わりを告げた。
何があったのかは知らぬが、儂の眼には、その後の西郷はまるで魂が抜けてしまったかのようにすら映る。自らの信念を貫き、ときに藩主をも蔑ろにして強引に突っ走った狂信的な姿はもう何処にも見出すことができぬ。
明治維新後、しばらく武村の自宅で隠居生活を送っていた西郷は、藩主・忠義公直々に懇願されて薩摩藩の参政に復帰し、その後は、岩倉や大久保の求めに応じて新政府の参議に就いたものの、それらも決して西郷の本意ではなかったのではないかと思うのだ。
此度の政変にしてもそうよ。何と言っても西郷は軍を掌握していたのだ。その気になれば、岩倉の策謀などに屈するはずがなかったのだ。何故、すごすごと薩摩に引き籠もってしまったのか。儂には、いまひとつよく判らぬ」
海老原は語り終えると、大きくひとつため息をついた。
「……西郷は、すでに政事に対する意欲を失ってしまっているということですか?」
永岡が、不安そうに問いかける。
「ああ、儂が見る限りではな」
「では、我らの目論見は無駄だと?」
「いや、そうとも限らぬ」
海老原はそう言って、目を輝かせた。
「どういうことです?」
「西郷は情の厚さ故、人から強く頼まれれば、最後には断り切れぬ男だ。結局は、薩摩藩の大参事も新政府の参議も引き受けている。本人にはその気がなくとも、いま西郷の周りには、篠原国幹や桐野利秋といった血気盛んな連中が屯している。彼らを焚きつけてやれば、やがてその火が西郷に燃え移ることは充分に考えられるぞ」
「なるほど。搦め手から攻めろというわけですね。有り難うございます」
そう言って、永岡が深々と頭を下げた。
丁度そのとき、本堂に書生の井口慎次郎が姿を現した。
「火急の報せがございます」
井口はひとり永岡の居宅に残り、連絡役を務めることになっていたのだ。
「いったいどうしたのだ?」
永岡が問いかける。
「今し方、勝海舟殿の遣いと申す者がやって来て、今宵、勝殿の御屋敷に来て貰いたいとのことでした」
勝海舟――
言わずと知れた幕末維新の英傑のひとりだ。徳川慶喜から戦後処理を託され、西郷との間で江戸城無血開城を実現させると、旧幕臣でありながら新政府に参画し、つい先頃、西郷らが下野した後に、参議兼海軍卿に取り立てられている。
「……何故、勝海舟殿が?」
永岡が不思議そうに首を捻る。
「さて、それでは、儂はそろそろお暇するか」
そう言いながら、海老原が立ち上がった。
俺は、その背中に思わず声をかけていた。
「海老原さんもいまの政府を認めてはおらぬのでしょう。いっそのこと我らと行動を共にしては頂けませぬか?」
海老原が、俺の言葉に振り返る。
「もう合戦は懲り懲りだ。近頃、栗本鋤雲の郵便報知新聞が評判を呼んでいるらしい。儂もほとぼりを冷ませたら、評論新聞を再刊するつもりだ。出来るかどうかは判らぬが、筆一本で政府と勝負をしてみたいのよ」
そう言って、野心に満ちた笑みを浮かべた。




