第二話
俺たちは、駿府から二里ほど西に下った東海道沿いの小さな茶屋にいた。
この先にある宇津の谷峠は格好の猟場となっている。この頃の慶喜は、毎日のように馬に乗っては銃猟や鷹狩り、投網に出掛けているらしい。それは、まるで大好きな趣味に没頭している姿を周囲に見せつけているようにも見える。この日も宇津の谷峠で猟を楽しんでおり、その帰路にこの茶屋に立ち寄ることになっていた。
奥の四人掛けの席に俺と永岡が並んで座り、その前の壁際の席に中根が座っている。高津は、清水とともに茶屋の外に出て、さりげなく周囲を見張っているはずだ。高津をいきなり慶喜に会わせるのはまずいという永岡の判断だった。
陽が西に傾きかけた頃、狩猟姿の小柄な男が茶屋のなかに入ってきた。
顔を動かさずに、視線だけでその姿を確認する。その端正で威厳のある顔立ちは、紛れもなく慶喜その人だった。慶喜は隣の席に座り、俺たちと背中合わせになった。
注文した安倍川餅が出てきたのを見計らって、慶喜が囁くように話しかけてきた。
「あまり時間は取れぬ。早速、要件を聞こう」
「では、お尋ねします。慶喜さまは、いまの政府をどのように御覧になっておられますか?」
永岡が小声で訊いた。
「会津の永岡だったな。安心せい。他言は致さぬ故、もっと直截に申せ」
慶喜がじれたように応える。
「申し訳ございませぬ。さすれば、率直に申し上げます。我らは、いまの政府を倒したいと思っております。慶喜さまにそのお力添えをお願いしたく参上仕りました」
「どうせ、そんなことだろうと思ったよ」
慶喜が、笑いを含んだ声をあげた。
「如何でしょうか?」
永岡が思わず問いかける。
「反対ならば、こうしてわざわざ会ったりはせぬ」
「真ですか?」
「実は、予もかつての御庭番衆を使ってその芽を探っていた処なのだ。新政府が善政を敷くのなであれば、予は大人しく駿府で隠棲しようと思っていた。けれど、いったいなのだ、あの様は」
「仰せの通りにございます」
永岡が小さく肯いた。
「予はいたずらに大政奉還を行ったわけではない。あのとき、すでに予の頭のなかには新政府の青写真があったのだ。だが、彼奴らは違う。何の政権構想もなく、ただ自分たちが権力を握りたいがためだけに、戊辰戦争を引き起こしたのだ。いまだ政情が安定しないなか、政府の要人たちが雁首そろえてにわか勉強のために、二年近くに亘って海外に赴くなど愚の骨頂。これ以上、彼奴らに任せておくわけにはいかぬ」
「所詮は、尊皇攘夷と騒いでいた、武士と呼ぶのもおこがましいような下級武士たちの集まりに過ぎませぬ。奴らに真っ当な政事などできるはずがありませぬ」
「左様。彼奴らの真の目的は、列強諸国の物真似をして朝鮮や清国に兵を出すことよ。一刻も早く強兵を図りたいが為に、かように性急な改革を推し進めているのだ。けれども、蔑ろにされた士族の不満はすでに沸点に達しておる。このまま行けば、再び国を割るような内乱が生じるのは間違いあるまい」
「その前に武力政変を起こし、戦乱を起こさずして政府を新たにしたい。それが、我らの望みなのです」
慶喜が、永岡の言葉に大きく肯いたのが判った。
「そなたたちの策を聞こう」
「慶喜さまとともに野に下った薩摩の西郷隆盛にも盟主になって頂こうと思っております」
その言葉に、慶喜が息を呑んだ。
「近衛兵や陸軍のなかには、いまだに西郷に心を寄せている者が多くいます。西郷が起てば、彼らを手駒として使うことができましょう。皇城を制圧することもさほど難しくはありませぬ。帝さえ手中に納められれば、もうこちちのものです」
「王政復古の武力政変を再び起こそうというのだな。まあ、策としては悪くはなかろう……だが、無理だろうな」
「何故でございますか?」
永岡が驚いて、後ろを振り向きかけた。
「その方らも、予が大政奉還を行う直前に『討幕の密勅』が出されたことはもう存じておろう」
話の意外な展開に戸惑いながらも、永岡が肯いた。
「実は、この密勅には、帝の名がなく摂政の署名もないという真っ赤な偽物なのだ。何故、さような密勅を偽造しなければならなかったのか? 薩摩藩国父の久光は予のことは嫌っておったが、根っからの公武合体派よ。むろん討幕をしようなどとは露も思うておらぬ。そんななかで、薩摩の軍勢を使うために西郷らが思い付いたのが、密勅を偽造し、久光を騙すことだったのだ」
「…………」
「そなたらは原文を見たことはあるまい? 予は、草の者の手によりその写しを入手していた。『討幕の密勅』などと呼ばれているが、その何処にも幕府を討つなどとは書かれておらぬ。そこに記されているのは、『殄戮賊臣慶喜』、つまり、賊臣である慶喜を抹殺しろということだ。西郷が真に望んでいたのは、幕府を倒すことではなく、憎き予を誅殺することだったのだ。
薩摩の前藩主・島津斉彬殿は、第十三代将軍・家定公の後継に予を据えようと運動していた、所謂『一橋派』の中心人物だった。御庭番として斉彬殿に重用されていた西郷とは、その頃に何度か会ったことがある。頭の良さではとても予には及ばぬが、西郷は予にはないものを持っていた。何故か人を惹きつける、言い様もない不思議な魅力よ。正直、妬ましいとすら思った。
第一次長州征伐の際、征長総督に就任した、同じく『一橋派』の前尾張藩主・徳川慶勝殿に、予は密かに征長総督府の参謀に西郷を就けることを進言した。西郷はそのときは、強硬な武力討伐論者だったのだ。長州を征伐するためには、薩摩の強大な軍事力が必要だったことも否めない。ともあれ、薩摩藩の側役に過ぎなかった西郷が大抜擢されたのは、予のお蔭だったのだ。
にも拘わらず、何があったのかは知らぬが、西郷は長州領内に攻め入ることなく、早々に長州藩の謝罪恭順を呑んで、兵を退いてしまったのだ。怒った予は西郷を呼び出し、面前で思い切り罵倒してやったのさ。そのとき、すでに高杉晋作率いる諸隊が決起し、長州藩内に騒乱が勃発していた。領内に兵を入れ、主戦派の奴らを叩きのめしておけば、長州は牙を抜かれた虎と化していたのだ。その時を境に、西郷との仲は完全にこじれてしまった。
その後も、予は薩摩がやろうとしたことを悉く捻り潰してきた。長州藩への処分問題と兵庫港の開港問題を解決するために、薩摩藩が主導して開催にこぎ着けた四候会議を予が叩き潰したのが、決定打となったのであろう。予のことを憎んだ西郷は、ついには予を抹殺しようとまで思い至ったのだ。
西郷はいまだに予のことを嫌っているに違いない。そんな西郷が、予と手を組むことなど金輪際ありえない」
慶喜はそう語ると、話は終わったと言わんばかりに立ち上がり、出口へと向かった。
そこに、店の外から高津が入ってきて、慶喜の前に立ち塞がった。
高津を認めた慶喜が、表情を強張らせる。
「おぬしは……」
「光栄なことよ。この儂のことをいまだに憶えて頂けていたとはな」
高津がふてぶてしく応えた。
「何故、おぬしが一味に加わっている?」
慶喜が訝しげに問いかける。
「実は、このまま一味に留まるかどうかを決めかねておる」
「なに……?」
「答えて貰おう! 何故、あのとき大勢の将兵たちを置き去りにしたまま大坂城から江戸に逃げ帰った?」
高津が、声を荒げて尋ねた。
「止せ!」
永岡が慌てて飛び出し、高津を押し止める。
「その理由に納得がいかなければ、儂はおぬしを担ぐ気にはならぬ」
高津が、吐き捨てるように言葉を継いだ。
慶喜は高津を見据えると、静かに応えた。
「あのときのことは、墓場まで持って行くと決めておる。おぬしなどに話すつもりはない」
そう言うと、そのまま茶屋を後にした。




