第一話
翌朝早く、まだ眠りについていた俺は、清水に叩き起こされた。
「大変です。高津殿の姿が見えませぬ」
「なに!」
俺は、驚いて半身を起こした。
「明け方に厠に立ったとき、高津殿の部屋から物音が聞こえていました。気になっていたので、先ほど様子を窺いに行った処、高津殿が消えておりました」
「莫迦な……」
俺たちは、慌てて高津が寝泊まりしている部屋に向かった。
その部屋のなかには、片隅で幸が独りぽつんと膝を抱えて座り込んでいるだけであった。
清水が幸に駆け寄り、両手で肩を揺らす。
「高津殿はどこに行かれた?」
けれど、幸は清水を見詰めたまま、目を白黒させるばかりだ。
「止せ。幸は口がきけぬ」
俺は、幸の傍にしゃがみ込み、優しく声をかけた。
「親父殿から、どこに行くのか聞いておるか?」
幸が、小さく首を横に振った。
「そうか……」
「まさか、慶喜公を旗頭にすると聞いて、怒って会津に帰られてしまったのでは……」
清水が心配そうにつぶやいた。
「幸を置いて、それはない」
俺は思案を巡らせた。昔からよく知る高津のことだ。その行動は想像がついた。
「いまから追えば、途中で捕まえられるはずだ。行くぞ!」
清水を促して部屋を飛び出した。
俺たちは、東海道を急ぎ足で西に向かった。
すでに東京では、馬車が普及し始めている。けれど、長距離の移動ともなると、船を使わない限り、まだ徒歩にならざるを得ない。
昼過ぎには、神奈川宿を越え、田園風景のなか遠くに保土ケ谷宿の街並みが見えてきた。
そこで、ようやく高津に追いついた。
俺たちを認めた高津が、驚愕に顔を歪める。
「何故、儂を追ってきた?」
俺は、高津の行く手に立ち塞がると、両手を広げた。
「止めておけ! おぬしの思惑は判っている」
「なに……?」
高津が憮然とした声をあげる。
「いまさら慶喜公を殺めて、何になる?」
俺の言葉に、高津が戸惑った表情を浮かべ、次の瞬間、大声で笑い出した。
「おぬし、まさか儂が慶喜公を斬りに行くとでも思ったのか?」
「……違うのか?」
「儂とて、もう若くはない。そこまでの短慮は起こさぬわ」
高津が、そう言って苦笑いを浮かべた。
「しかし、慶喜公の許に向かっていたのは確かであろう?」
「慶喜公を問い質しに行くのよ。何故、あのとき大勢の将兵たちを置き去りにして逃げたのか。その理由に納得がいかなければ、やはり儂は慶喜公を推すわけにはいかぬ」
「そういうことか……判った。なれど、おぬし独りでは心許ない。俺もお供をさせてもらう」
「勝手にするがいい」
俺は、清水に向き直り、声をかけた。
「聞いたとおりだ。今頃は、永岡さんが案じておろう。おぬしは、ここから引き返して、事の次第を伝えてくれぬか」
「承知しました」
「夜を徹して歩けば、明日の昼過ぎには駿府にたどり着けよう。先を急ぐぞ」
高津が、そう言って俺を促した。
◆
壮大な駿府城の南西に聳える五層七階の天守閣は、遠くからも目を惹く巨大な建造物である。いまでは陸軍の駐屯地と化してしまったが、多聞櫓を巡らせたその壮麗な姿は、いまでも見る者に徳川幕府の栄華を彷彿させる。
その南方の紺屋町には、白壁の築地塀に囲まれた四千五百坪に及ぶかつての代官屋敷が広がっている。それこそが、明治二年に謹慎を解かれて以来、徳川慶喜が居住している邸だった。
重々しい黒塗りの冠木門の左側に請願巡査が立哨しており、右側には門番が佇んでいる。
俺たちは門番の許に歩み寄ると、取り次ぎを請うた。
門番が邸内に入り、しばらくするとひとりの女性が現れた。
すでに三十路の坂を越えた辺りだろうか。楚々とした整った顔立ちに残る大きなあばたが、その美しさを損なっている、そんな女だった。
「奥を仕切っております須賀と申します」
そう言って、女が深々とお辞儀をした。
「旧会津藩士、高津仲三郎でござる」
「同じく藤田五郎と申す」
高津に続いて名乗った俺を一瞥した須賀の表情が一瞬、揺れたような気がした。
「本日は、慶喜公に是非ともお目に掛かりたく、罷り越しております」
「大変申し訳ございませんが、主人はいま、どなたともお会いになっておりません。どうかお引き取り下さいませ」
須賀がそう言って頭を下げた。
「なんだと! こっちは用があって東京からわざわざやって来たのだ。それなのに、門前払いを喰らわすつもりか!」
高津が思わず怒声をあげた。
俺は、慌てて高津を制すると言葉を継いだ。
「慶喜公はすでに謹慎を解かれたばかりか、昨年には従四位に叙され、復権を果たしているではありませぬか。客人と面会なさらぬとは、どういうご了見なのでしょう?」
「私には判りかねます。ですが、一切の面会をお断りしているのです」
「とにかく慶喜公にお取り次ぎ願えませんか?」
「申し訳ありませんが、主人はただいま猟に出掛けて、不在にしております」
「ならば、戻って来られるまで待たせてもらうまでよ」
高津が声高に言い返す。
「無駄でございます。申し上げた通り、主人はどなたともお会いになりません」
「なに!」
高津が、須賀に詰め寄った。
そのとき、門脇で俺たちのやり取りを見守っていた請願巡査が近づいて来た。
俺は、高津の耳許で囁いた。
「ここで揉め事を起こしてはまずい。引き上げるぞ」
その言葉に、高津が悔しそうに舌打ちした。
「後で俺たちが訪ねて来たことを慶喜公にお伝え願いますか」
「承りました」
須賀の言葉を確認するや、俺たちは急いでその場を後にした。
俺たちは、二日掛けて再び東京に戻ってきた。
そんな俺たちを待ち受けていた永岡が、烈火のごとく怒りを爆発させた。
「何故、無断でそんな勝手なことをしでかしたのだ!」
「……慶喜公が、何故あのような武士にあるまじき卑怯な振る舞いをしたのか。その理由を知りたかったのだ」
高津が、気後れした様子で言い返す。
「大体、いきなり訪ねていって慶喜公ほどのお方にすぐに会えるはずがなかろう。私は、慶喜公と接触するために伝手を探そうとしていたのだ。それなのに……」
俺は慌てて取り成しに入った。
「何もそこまで怒ることでもあるまい。別に慶喜公の怒りを買ったわけではない。再び伝手を頼って、会いに行けばいいだけのことではないか」
永岡が俺の顔を見据えて、呆れたような表情を浮かべた。
「おぬし、私が何故怒っているのか判らないのか。慶喜公の周りには、新政府の密偵が張り付いているに違いない。そんな処にのこのこと出掛けて行って、我らの企みが露見したらどうするつもりだ」
「それは……」
「まさか、付けられておらぬだろうな」
「それはないと思うが……」
「怪しいものだな。念のためだ。取り敢えずねぐらを変えよう。すぐに別の隠れ家を探す。それまでの間は、みんなで交代で見張りに立つことにする」
永岡は、不機嫌さを隠さずにそう応えた。
ところが、その翌夜、意外な人物が月照院を訪ねてきた。
庫裏の玄関口に飛び出した俺が目にしたのは、駿府の慶喜邸で出会った須賀という名の女中頭だった。
「先日はご無礼仕りました」
須賀はそう言って慇懃に頭を下げた。
俺はその顔を認めると、思わず声をあげた。
「待ってくれ。何故、この場所が判った?」
その問いを無視するかのように、須賀が訊いてきた。
「元新撰組の斎藤一さまとお見受けいたしましたが?」
「……いかにも。かつてはそう名乗っていた」
「私の顔など憶えておられぬでしょうが、私はかつて斎藤さまにお会いしたことがございます。駿府に訪ねて来られたとき、一目でそうと判りました」
俺には全く憶えがなかった。そもそも俺のような身分の者が、将軍まで務めた慶喜公の奥女中と出会う機会などあるはずがない。だが、あのときの須賀の反応はそういう意味だったのか。
「それはともかく、俺の問いには答えてくれぬつもりか?」
俺が発した語気鋭い言葉に、須賀が再び口を開いた。
「かつて御公議に隠密の者どもがいたことは承知しておりましょう?」
「御庭番衆のことか?」
御庭番とは、徳川八代将軍・吉宗の時代から設けられた幕府の役職である。表向きは、江戸城本丸の御庭番所に詰め、奥向きの警備を職務としていたが、裏では、将軍の側近である御側御用取次から命を受け、情報収集や防諜などの隠密活動を行っていたと言われている。
須賀が小さく肯いた。
「すでに幕府は崩壊し、新政府の世となりましたが、荒れ地に埋まった根までが枯れたわけではありませぬ。斎藤さまが近藤勇さまの墓参りをしたことも存じ上げております」
「……なるほどな。迂闊だった。慶喜公の御屋敷からも付けられていたというわけか」
「二度もへまは繰り返しませぬ故」
須賀が、微かに不敵な笑みを浮かべた。
「それで、いったい何用で参られた?」
俺は、須賀に問いかけた。
「主人の意向をお伝えするために、船を使って急いで参りました」
「真か?」
「皆様とお目に掛かってもよいとの仰せにございます。ただし、御屋敷には新政府の目が光っているため、面会場所はこちらで用意します。追ってお知らせするまで、暫しお待ちください」
須賀がそう言って、頭を下げた。




