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維新ふたたび  作者: 袖岡徹
第三章 旗頭は誰に?
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第四話

 山川が帰った後も、俺たちはそのまま本堂に居残っていた。

 重苦しい沈黙を破るように、永岡が口を開いた。

「皆はどう思う? 皆の意見を聞きたい」

 そう言って、中根の顔を見遣った。

「策としては面白いと思う。ただ、問題は、肝心の慶喜公にその気があるかどうかだな」


 永岡は大きく肯くと、俺に視線を移した。

「永岡さんはいいと思っているんだろう。棟梁かしらは永岡さんだ。ならば、俺に異論はない」

 俺がそう応じると、永岡が言葉を返す。

「たしかに、さすがは山川さんだと思った。私には思いも寄らなかった……」


 その時、永岡の言葉を遮るように、高津が怒声を発した。

「待ってくれ! 儂は反対だ」

 その声に、皆の視線が高津に集まる。

「慶喜公こそ幕府崩壊の張本人ではないか! その慶喜公を担ぐなど言語道断。そもそも王政復古の大号令など、薩長が企てた稚拙な武力政変クーデターに過ぎなかった。幕府が巻き返せる機会は幾らでもあったのだ。それなのに……」


 慶応三年十二月九日――

 将軍・慶喜が大政を朝廷に奉還してから、およそ二ヶ月が経っている。新たな政府を造るために諸侯会議が開催されることになり、それまでの間は、これまで通り慶喜が引き続き政事まつりごとを司ることになっていた。その早朝、薩摩が主導する王政復古の武力政変クーデターが決行されたのだ。

 高津が、悔しさを滲ませながら語り始めた。


 佐川官兵衛殿が率いる別撰組にいた儂は、その朝、御所の警護に就いていた。そこに武装した薩摩兵が太鼓を鳴らしながら進軍してきたのだ。

「いったい何のために武装しておるのだ」

 儂は、将官と思しき男に問い質した。

 だが、返ってきた答えは、「主人が参内するため、許可を得たり。そのわけは知らず」。


 儂は、ピンときたよ。そのとき、すでに薩摩が何かを企んでいるのではないかという噂が流れていたからな。これは、儂ら会津が薩摩と手を組んで、長州を御所から追放した『八月十八日の政変』の再現ではないかと。


 儂はすぐに佐川殿の許に駆けつけ、注進したんだ。

「このまま薩摩兵の御所への侵入を許せば、大変なことになりまする」

『鬼官兵衛』とうたわれた武闘派の佐川殿ならば、すぐに戦備えを始めてくれる。そう期待していた儂の思惑は見事に裏切られた。

「番所引き払いの命令があるかもしれぬ。ここで暴れれば主君に傷がつく。礼を失するでない」

 まあ、御所のなかで発砲すれば、それだけで朝敵となりかねぬ。無理からぬことだったのやもしれぬがな。こうして会津藩は追い出され、御所は薩摩藩に制圧された。


 その日、帝は『王政復古の大号令』を発し、摂政・関白・征夷大将軍・京都守護職などの旧官職が全廃され、新たに総裁・議定・参与の三職が設置され、公武合体派の公卿はすべて罷免されて、倒幕派中心の人事となった。そして、その夜、新三職による小御所会議が開催されて、揉めに揉めた末に、徳川慶喜公の官位剥奪と八百万石に及ぶ徳川家の領地の返上が決定されたのだ。


 翌日、議定に任命された松平春嶽殿からそのことが報されると、二条城のなかは蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。さすがに、この時には、佐川殿も即時開戦の急先鋒となった。

 まだこの時点で京に上ってきていた薩摩兵は、雑役夫を含めても三千に過ぎぬ。長州勢七百に至っては、摂津港に上陸したばかりだった。対する幕府側は、会津、桑名を合わせれば、一万を優に超えていた。たしかに装備の面では劣っていたかもしれぬが、この時、勝手知ったる京の街で合戦を仕掛けておれば、万に一つも負けることはなかったのだ。


 だが、慶喜は「余に深謀がある」との言葉で主戦派をなだめて、全軍で大坂城に撤退することに決めたのだ。それでも、儂は、自分に三百の兵を預けて京に留まらせてくれるように、最後まで喰い下がった。京をもぬけの殻にしてしまえば、薩長の奴らのやりたい放題だ。僅かでも兵を残しておれば、事態は変わる。けれども、儂の進言が受け入れられることはなかった。

 高津は、吠えるように一気に喋ると、一息ついた。


「我ら新撰組も二条城に入っていたため、そのときのことはよく憶えている。局長の近藤さんも主戦派のひとりだった。すぐにも薩摩藩邸に討ち入れるように、新撰組は戦支度いくさじたくまで始めていたのだ。けれども、結局、王政復古の武力政変クーデターは失敗に終わったではないか。それだけでは、慶喜公を非難するには当たるまい」

 俺は、高津に向かってそう言い返した。


 そう。結局、王政復古の武力政変クーデターは失敗に終わったのだ。その直後から、土佐藩主の山内容堂や尾張藩の徳川慶勝らの親幕府派の巻き返しが始まり、朝廷は『徳川祖先の制度美事良法は其儘被差置、御変更無之候間』云々との告諭を出して、王政復古の大号令を事実上撤回し、慶喜を議定に任命して、領地返上も今後『天下の公論をもって』決めることにしたのである。


「ああ。たしかにそれで終わっていれば、儂も慶喜公を非難するつもりはない。だが、儂がどうしても許せぬのは、鳥羽伏見の戦いに敗れた後、慶喜公が籠もっていた大坂城から大勢の兵士たちを置き去りにしたまま密かに江戸に逃げ帰ったことだ。おぬしだって憶えておろう」


 鳥羽伏見の戦いは、薩長軍による旧幕府軍への奇襲攻撃から始まった。

 十二月二十八日。

 『辞官納地』を骨抜きにし、王政復古の武力政変クーデターを失敗に追いやって、してやったりの思いでいた大坂城の慶喜の許に、二百の兵士を引き連れた大目付・滝沢具挙が江戸から軍艦で急行してきて一大事を報せた。


 薩摩はかねてから江戸の地で挑発行為を行うために工作員を潜入させており、彼らを中心とした浪士隊が、押込み、略奪、強殺といった蛮行を繰り広げていた。その活動は次第に激化していき、下野、相模、甲州といった周辺地域にまで広がり、遂には江戸の警備を担っていた庄内藩屯所を銃撃し、江戸城二の丸を放火した。ここに至って堪忍袋の尾を切らせた幕府は、薩摩藩邸を焼き討ちにしたのである。


 欲求不満が昂じていた幕臣たちは、その報せを聞き、一気に怒りを爆発させた。もう慶喜にも彼らの勢いを止めることはできなかった。慶喜は「奸臣共の引き渡し」を求める『討薩とうさつひょう』を朝廷に提出することを決意する。明けて正月二日、『討薩の表』を掲げた旧幕府軍一万が大坂城を進発し、鳥羽街道と伏見街道を埋め尽くす勢いで京に向けて北上していった。そこに待ち受けていたのが、街道の左右に軍勢を配し、万全な準備を整えていた薩摩軍だった。


 鳥羽街道に設けられた関門の前で、幕軍と薩摩軍が「通せ、通さぬ」の押し問答を続けている最中に、突然、進軍ラッパが鳴り響き、薩摩軍の鉄砲隊が一斉に銃撃を開始したのである。戦闘になることを予期していなかった幕軍は、戦闘隊列を組むことはおろか、銃弾さえ装填していなかった。薩摩軍の奇襲攻撃の前に、旧幕府軍はなす術もなく緒戦で惨敗を喫したのである。


 その日、俺たち新撰組は、伏見奉行所に布陣していた。夕方には、鳥羽方面での砲声を合図として、伏見でも戦闘が始まった。薩摩軍の砲撃で白煙が立ちこめるなか、俺たちは刀を手に表門から討って出ると、壮絶な市街戦を繰り広げ、一時は桃山を陥れた。けれど、薩軍の砲弾が奉行所の弾薬庫に命中して激しい爆発が起き、本陣が炎に包まれると、俺たちはやむなく奉行所を放棄して、中書島へと撤退するほかなかった。

「もはや刀槍の時代は終わったな」

 肩を落としてそうつぶやいた土方さんの寂しそうな顔がいまでも忘れられない。


 翌日、仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王が征討大将軍に任じられて、錦の御旗が掲げられると、形勢が一気に傾いてしまった。味方だったはずの淀藩や津藩が次々に官軍に寝返ると、幕軍はずるずると後退を続け、遂には大坂城にまで撤収することになった。


 だが、大坂城に温存していた五千に及ぶ後詰の兵は無傷のままである。堅牢堅固な天下の名城、大坂城に籠城していれば、江戸を始め全国の親藩からの援軍も期待できる。まだまだ旧幕府軍の敗北が決まったわけではなかった。


 慶喜は、大坂城の大広間に主だった将士を集め、檄を飛ばした。

「不幸にして戦いに敗れ、我が軍は危殆きたいに瀕しているものの、必ずや天のご照覧があるに違いない。この大坂城がたとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか。予がここで死んでも、江戸城の忠義の臣が我が志を継いでくれるに違いない。しかる上は少しも思い残すことはない。諸君も予の志を体して、ますます国家に尽くしてほしい」

 その朗々たる弁舌に、その場に居合わせた満座の人々は感涙にむせび、決意を新たにして持ち場へと戻っていったのだ。


 けれど、その夜、慶喜は突如、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬のほか僅かな幕臣たちを引き連れて密かに大坂城を抜け出し、江戸へと逃げ戻ってしまったのである。


「そんな慶喜公をいまさら担げと申すのか!」

 激昂した高津が、怒鳴り声をあげた。


 高津は、鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、江戸に舞い戻ってからは芝藩邸で療養していた。そこに慰問に訪れた慶喜に対して、高津が屋敷中に響き渡るような大声で叱責したことはいまでも語り草になっている。

「鳥羽伏見で一死を顧みずに奮戦苦闘したのは、ひとり会津のみでござった。雲霞うんかのごとき大軍であった旗本らは卑怯にも敵に背を見せて踏み止まる者もなく、ついに大敗北となり申した。これは、大軍を見捨てられて江戸へお戻りになられた公のなせることが原因であり、そもそも数々の御失策によるものであることは疑う余地がない。もはや幕府の末路は見えたも同然!」


 本堂のなかが暗鬱とした沈黙に包まれた。

 その静寂を破り、永岡が口を開いた。

「たしかに、慶喜公が何故、あの時、大勢の将兵たちを置き去りにして江戸に逃げ帰ってしまったのか。私にも納得がいかなかった」

「そうだな。旧幕臣たちのなかには、いまだに慶喜公に対していい感情を抱いておらぬ者も多くいる。その不信感を払拭できなければ、慶喜公を担ぐことに旧幕臣たちが諸手を挙げて賛成というわけにはいかぬだろうな。もっとも、旗頭としてもっと相応しい者がいるかと問われれば、他には思い付かぬわけだが……」

 中根がそう言葉を継いだ。

「私に少し考えさせてくれぬか」

 永岡が、思案げにつぶやいた。

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