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幕間:海咲奏の日常

―――海咲奏は兄に好意を抱いている。


 恐らく、海咲奏の人生録をテーマに小説が執筆されるとするならば、この書き出しを於いて他にないだろう。厚意でも敬意でもない異性としての愛が記述されるはずだ。

 経緯は特にない。成るべくして成ったものなのだと奏は認識している。所轄一目惚れである。

 しかし、芽生えたのは事実であり、奏も馬鹿ではない以上、実兄への度を超えた感情は憎悪と嫉妬以外は隠し通してきた。それは現在も尚、進行している。



 日差しが強く輝いている。アスファルトは熱を帯び始め、周囲を歩く人々は各々の暑さ対策を徹底し、それを怠った人間は干物の如く路上に横たわっている。

 その日照りの脅威は温暖化現象の賜物であり、近年では南極大陸の崩壊が本気で検証されつつあるほどだ。


 そんな炎天下を濃い茶色の長髪に同色の瞳を宿した少女が歩く。されど透き通った髪質と全てを見透かすかのような角膜、そして端麗に整った顔立ちは控えめに見ても美人のそれであり、細身な身体もその評価に一役買っていている。

 それは、『ghiaccio』と書かれた無地のTシャツにハーフパンツ、ウェストポーチという女子の流行から真っ向に逆らったファッションでも多少の人目を集めている事実が証明している。


 「いやー、そんな身なりでここまでの視線を釘付けにさせるとはやりますなー」


 「別に、誰一人として興味も用もない」


 友人の茶化した言も少女にとっては意味など保たない。それどころか異性のそれは少女――海咲奏にとって不快以外には写らなかった。


 「それに、外面だけを気にする人間に、他人を尊べる善人がいるわけないでしょ」


 「そうかな?意外といそうなもんだけどね」


 「少なくとも、客引き禁止区域で昼間から堂々と女子をナンパしようとするホストにモラルがあるとは思えないけど」


 言って、斜め後方の男へと目を向ける。すると明らかに挙動不審に陥るばかりか、体の良い客として使えないと見限ったのかそそくさと去って行った。


 「まぁ、三次元の男なんて下半身に追従するしかない哀れな猿ってことですよ。真に尊ぶべき聖人は二次元にこそ佇んでいるのです」


 「いや、それはちょっと極端なんじゃ・・・」


 さらに一人の友人の言は奏以上に極論だったが、彼女と同一の感性の持ち主がたった一点のみを目指して歩を進めているのを見て考えを改める。

 その場所こそが奏一行の目的地であり、入場前に整理券が配られている時点で尋常ではない場所だというのが彼女達には容易に想像がついた。


 人工の涼風が万人を歓迎する。外界の灼熱も室内に入れば、文明の利器が安らぎと共に地獄から離脱させ、一時の休息を提供してくれる。

 それでも、強いて言うのならば、内部的な暑さ自体は失われておらず、むしろ妙な暑苦しさが店内の各所で静かに轟いていた。


 「あぁ・・・これも捨てがたい・・・篝凶のダブル推しキーホルダー・・・人類に与えられし人間国宝・・・マジ尊さの極み。やっぱりこの二人はカプ概念の革命児だと思うんですよ私は」


 東京都池袋に座する巨大アニメショップの店内で友人がトリップしている。正確には棚一面に並んだ商品を個別に吟味してはその度に己の世界へと没入している。


 ∀ROの急速な普及によってVRやARの需要は減少傾向にはあるものの、客層の密度は未だ衰えておらず、むしろ一部界隈の盛り上がりは∀ROブームに負けず劣らずの勢いで勢力を拡大し続けている。

 その結果の一つがVR乙女ゲーの普及であり、何度見た光景なのもあってか奏は適当に周辺のグッズを眺めていた。


 それもその筈で、今回の場合は彼女がハマりにハマっている乙女ゲーのコラボイベント初日であり、店内には整理券を持った人々で、多少ではあるが混んでいる状態だった。


 「まったく、夏休みだってのに呼ばれて来てみたらコレだもんねー。玲の行動力には驚かされるばかりだよ」


 「そういう貴方こそ、大会が近いんでしょ?こんな所で油売ってる暇なんてあるの?」


 「ま、たまにはリフレッシュも必要じゃん?それにアタシとしてもシューズとかは見ときたかったからさ。丁度よくはあったよ」


 そう言って、八百万唯は背伸びをする。薄い茶髪に加えて細く引き締まった肢体は陸上選手として完成されており、比較的スレンダーな体躯も相まって弱冠一年ながら次期エース候補として陸上部では期待の星である。


 そんな人物と行動を共にしているのは偏に息抜きであり、現在はもう一人の要望でアニメショップをかれこれ一時間は探索していた。


 「・・・よし、決めた。私の神棚には貴方様がたが最も相応しい」


 そこには派手な衣装を着飾った金髪と黒髪の男二人が隣り合って決めポーズを取っているタペストリーを掲げている女子の姿があり、彼女こそがもう一人の同行者にして、今回の息抜きの立案者である鷹倉玲の背中だった。


 漆黒のセミロングに濃緑色の眼鏡を付け、服装は半袖シャツの内にTシャツ。下はスカートという極めて単純な物だが白地のTシャツにデカデカとプリントされた金髪の男のニヒルな微笑みが道行く人々の視線を集め、彼女が剛の者であると認識させる。

 しかもこれで文系ではなく理系ジャンキーというのだから他人は見た目で判断できない。


 「それでは八百万氏、海咲氏。私はレジへと参るのでここで少しの間お待ちいただきたく候」


 「はいはい、いってら~」


 それだけを告げて玲はそそくさと無人レジへ向かう。そこには玲とほぼ同じ表情どころか影分身を疑うレベルで酷似している人間がレジと睨めっこしており、奏は軽く恐怖を覚えたが、乙女ゲー自体への造詣は玲経由で持ち合わせている分、それらに対する拒否反応は存在していなかった。


 仮想現実の普及は現実への乖離と人々の夢想を体現させた。それは玲たちの属する世界も同じであり、VRの発展によってキャラとの対話が現実味を獲得し、夢女子の文化がそっくりそのままVRに参入され、より自身の好みとするキャラが身近になったために、彼女のように『自分の彼氏、あるいは好きだからこそ貢ぐのである』という投資意識が2020年代後半以降、より強固になって表面化している。


 お陰で、アニメーション業界が痛手を被ることになるのだが、本筋とは逸れるため除外する。


 「・・・私はこういう世界とは縁遠いわね」


 奏が天井に垂れ下がったキャラ名も知らない二次元に生きるイケメン達を見て一人呟く。それは奏にとっては独り言でしかなかったが、隣で偶然にも聞いていた唯は急にニヤニヤし出すと、とんでもないことを言いだした。


 「あ~、そうだよねー、奏はお兄さんにご執心だもんねー。こんなガワに特化したボーイズ如きじゃ奏のハートは撃ち抜けないよねー」


 「なっ・・・!?」


 「あーあー、反論は結構。去年の体育祭の時にお兄さんが来てたときの表情、よく覚えてるよ。髪を上手く使って目元を隠してさ、でも頬は赤くなってて、その口元は――」


 ものすごい勢いで右手が差し込まれて暴露を中断される。見れば、今にも人を殺しそうな双眸で睨みつける少女が一人。


 「―――黙って」


 その言葉に唯はただ小刻みに会釈して解放を懇願する。それを数秒眺めると観念したのか奏は彼女を解放した。


 「・・・・・・兄さんを、そんな目では見てない」


 「えー、でも顔立ち自体は悪くなかったよ。この前ナンパされたときだって――」


 「・・・・・・・・・待って、そこから先は言葉に気を付けて。私、まだ整理しきれてないの」


 幽鬼の眼で唯に応答する奏は完全に兄の素行に憤怒であり、同時に兄の好色家に辟易しながらも嫉妬の混じった声色をしていた。


 「何か・・・すいませんでした・・・」


 「ふぅ・・・何度も言ってるけど、兄さんのことはただの兄としてしか見てない――」


 「あれ、でもこの前に見た携帯の待ち受け画面の写真、お兄さんの勉強姿ではござらんかったか?」


 不意に、会計を終えた玲が会話に介入する。それは完全に致命的な情報提供に他ならず、自身の目当てを探していた猛者達は、店内のど真ん中でアイアンクローを喰らっている篝推しの少女の声高い断末魔を聞いたという。



 「~♪」


 機嫌良く性能差から質感、サイズから重量まで確認して回っている唯は先刻とは異なり、今にもタップダンスを踊りそうなほどの恍惚状態にあり、その様子は玲に運動系リア充の後光を錯覚させた。


 陸上選手に求められるのは何よりも基礎体力と持久力とされる。

 これは千差万別のスポーツに共通するが、陸上の場合は人間に与えられた走力を全開にして行う競技のため、テクニカルな駆動よりも身体能力の向上が要求される。そして、それはたった一〇〇から二〇〇の走行で決着が付く短距離走においては命綱に等しいだろう。

 そんな選手達が唯一の相棒として苦楽を共にするのがシューズであり、選手が運用可能な武器なのである。


 「スパイクはとっておきのだから早々は壊れないんだけどねー、ランニングの方がイカレちゃってさ、丁度買い換えたいと思ってたんだよ」


 玲の用件を済ました一行は、再び炎天下の地獄を経由して池袋内のショッピングモールへと移動し、全体が見事にスポーツシューズ一色の靴屋へ入店していた。

 色鮮やかどころか立眩みが起きそうなシューズの数々は文字通り選手の強化装置ではあるのだが、あまりにも膨大な色彩は奏の双眸を極彩色に塗り替えていた。


 『――――てい』


 声が、響いている。


 「――い、おい、どうかしたか海咲氏?シューズの軍団に催眠術でも掛けられたか?」


 「・・・・・・あれ、今、確かに」


 声が聞こえたと言いかけて、それが自身の幻聴なのだと遅れて気づく。最近の受験競争と単純に兄の通う進学校のレベルが高いことによるストレスがまさかここまで蓄積しているとは考えていなかった。


 どうやら奏のキャパシティは想定よりも脆い設計だったらしい。ちなみに、兄の通う進学校は単純に優秀だったから選定しただけであり、招来目的である、兄の存在はたまたまへばりついていたダニとでも形容しておこう。


 「・・・ううん、ごめんなさい。シューズに呑まれてた、完全に」


 「まぁ、これだけあっちゃね。特に∀Rが導入されてからは運動靴の需要も高まってきてるし」


 ∀ROはシステム上、I・フィルターに運動機能を一任するために競技の苦手なプレイヤーでも一流の冒険者へと昇華することが可能である。

 そのため基準となる筋肉量などは必要ないのだが、常日頃の成果が咄嗟の状況に反映されるのもテクニックとして確認されており、それらの鍛錬や単なる装備用途としてシューズを含めた運動器具の売り上げは全体でも上昇傾向にある。


 「でも、そんじょそこらのプレイヤーとかと一緒にして貰っちゃ困るよ。こっちは相棒を決めるわけだからね。それに、アタシの朝練とかに付き合うってなると標準的なのじゃ却って練習にならないしさ」


 さらっと恐ろしいタイムスケジュールを暴露した唯に玲と奏は少し戦慄する。

 流石は時期エースと唸るべきなのだろうが、並のシューズでは対応しきれない朝練を普通に微笑みながら発言してみせた唯の情熱はとうに常人では測れないほどに燃え盛っているのだと、二人はようやく理解した。


 「流石五時起きのエースは発言も一級ですわ・・・」


 「普段はね。大会が近い時のアップとかは四時からやったりもするよ」


 嘘だろ、と言わんばかりの玲の表情は運動系が不得手故の驚愕であり、いつの間にかその目は偉人どころか怪物を見るような目になっていて、それを察したのか唯が訂正する。


 「・・・って、別にこの練習方法はアタシが特別だからとかそういうのじゃないからね!?勘違いしないでよ!?もっと凄い人なんて世界には大勢いるんだからっ!」


 「私の世界では貴方が規格外ですよ、うん」


 「以下同文」


 自身のスタイルと友人二人のスタイルに敷かれた境界線はあまりにも強固に構成されていて、無人レジの会計終了時まで、唯の超人性がその限定的な溝を解消させることはなかった。

 

 

 声が、響いている。


 発信源の不明な、機械音とも声帯とも解釈できる声が奏の内で不規則に反芻している。

 それは意味どころか言語なのかさえ怪しい音波を叫ばれているようなもので、最初こそは問題なかったが、正午を過ぎた今では充分に不快感を誘うものだった。


 今日の朝には異常はなかった。池袋へと着く前に第一の変調を感じ、アニメショップへと行き着く前にまた聞こえ、靴屋に辿り着いた際、確かに声を認知した。


 オカルトの類なのだろうか、それとも幻聴なのかは特定できない。しかし、機械音ならば音源は二つ。手持ちの携帯とレッドエリークのどちらかだろう。だが、環境型の∀Rしか内蔵させていない以上、レッドエリークからの発信はありえない。ならば、携帯の嫌がらせだとでもいうのか。


 「どうしたでござるか、海咲氏。この世の終わりみたいな顔してはりますぞ」


 池袋サンシャインシティの地下通路にあるうどんチェーン店での休憩中、突然と尋ねられたどうやら奏の深刻さは表面化するほど成長していたらしい。


 「もしかしてまたお兄さんのことでも考えてた?イケてるもんねー、それにネットニュースにもなってたし」


 そのニュースは奏も当然把握している。三日前に兄のパーティがやってのけた偉業。白理迷宮の新種レイドボスの討伐は迷宮攻略に拍車を掛け、後二日もあれば完全踏破と相成るらしく、ネットでは特定班が捜索して、翌日には余裕で見つかっていた。


 だが、それは奏には関係のない世界の出来事で、取り分けこの不快の渦中では兄の功績など眼中にさえ入らなかった。


 「・・・そんなんじゃない。ただ少し、そう、根を詰めすぎてただけよ・・・」

 

 『―――うてい』

 

 声が、響いている。


 その言葉に両名は納得すると、すぐさま奏の服装へと視線を移し、明らかに女子としては簡素すぎる有様からどれだけの勉強をしていたのかを悟った。


 「あー・・・確かに、あそこは進学校だもんね。そりゃ勉強も捗るわけだ」


 「けど、心身を苦しめてまでやる勉学に正義などありませんぞ、海咲氏。兄の背中を負いたいのは山々でしょうがね」


 「だから、それとこれとはかんけ――」


 『―――ゅうてい』

 

 声が、響いている。


 ふと、言いかけた言葉を口に戻して、奏が固まる。それはまるで一切の情報が遮断されて回答不能となったAIのようで、唯と玲に刹那の不安をよぎらせる。

 だが、奏はそれらを意に返さず、静かに立ち上がるとただ手短に言葉を紡いだ。


 「ごめん、二人とも。急用ができた。少し早いけど帰るね」


 余韻は残さず、ただ一言を告げて、忽然と奏が立ち去っていく。それは二人には前後の状況を含めてあまりにも不可解であり、唯と玲はただ互いに互いを見合うことしかできなかった。


 「・・・怒らせてしもた?」


 「・・・見誤っていたのかもしれない、海咲氏のストレス係数を、我々は」


 海咲奏は受験生である。それを気安く誘った自分たちは奏への配慮が欠けていたのではないかと猛省する。

 しかし、彼女の離脱の原因が全くの見当違いであり、その要因が想像の余地を外れた事象であったことを両名は数日後に理解することとなる。

 

 

 快晴の青空を拝む。自己とは対極に位置するだろう穢れを知らない晴天が奏を含めた大衆を無秩序に歓迎している。

 その気候は近年の産業発展の煽りを受けて二〇年以上前よりも上昇し、四〇度超えも珍しくなくなってきている。


 その中で、ただ虚ろな双眸で空を見上げる少女の姿を、誰も異常とは思わない。少女の腕輪はただ群青色の線を表示するのみで、それは精々、空模様に感嘆でもしたか、暴力的な暑さに絶望している少女の図程度の認識しか与えなかった。


 『―――きゅうてい』


 今度こそ、明瞭になった幼子の声はただ奏にそう囁く。それが意味する先は分からない。奏にとっては今後の人生設計において無駄となる事柄なのかもしれない。

 それでも、この声が求道する先を見てみたいのは確かであり、奏にはそれが為せるだけの全能が備わっているのだと本能が悟っているようだったから、


 「――ヴァール・リアリティ・オンライン、起動」


 静かに、宣言する。奏のレッドエリークには搭載されていなかった筈のアプリが起動し、彼女を深淵へと連れ去っていく。

 それは、魔女に攫われるお姫様と変わりのない、突発的な連行ではあったが、奏にとってその宣言は自らの奥底に燻った、開戦の鐘の音に他ならなかった。


 

 ――声が響いている。




∀ROの素朴な疑問を強制開示するQ&A 第九回


Q:環境型の∀Rって何だよ。


A:環境型というのは単純に自然風景や街並み、果ては工場の製造過程などといった環境自体を楽しむために開発されたソフト群を指す。

 ∀ROの登場前は主にこちらの方が主流であり、I・フィルターと拡張神経の相互作用によってVR以上の現実性を提供できるようになったため、単なる個人用のみならずレジャー施設や医療現場などでも活用されている。

 レッドエリークも元々はこちらの環境型を販売しており、その後に∀ROが発売されたため、顧客に成り得る絶対数は結構多かった。これも∀ROの発展に一役買っている。

 お陰でVRの存在意義が揺らぎに揺らいだのだが、それでも需要自体は然程衰えていないため、今話のようにVRゲームのイベントも行われていたりする。というよりむしろ∀Rには現状、∀RO位しかまともなゲームが存在していないので、VRやARのゲームは現在でも現役である。


※自分は陸上の知識が絶望的に欠けているため、求められる資質を誤認している可能性があります。ですので、求められる資質に間違いがあった場合は報告をいただければ幸いです。

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