第1話:黄金の揺り籠と土の香
夕暮れの光が、新王都の尖塔を黄金色に染めていた。
バルコニーから望む景色は、私がこの国に嫁いだ頃とは比べ物にならないほど変わっている。かつて荒野と瓦礫に覆われていた大地には、今や石畳の街路が幾重にも走り、人と竜、エルフやドワーフが行き交う活気に満ちた都が広がっていた。
私——レオーネ・アルトリアは、七十歳を迎えた。
蜂蜜色だった髪はすっかり白銀に変わり、かつて帝国の皇族としての威厳を纏っていた細い体躯は、歳月と共に小さく枯れ木のようになった。けれど、目だけは変わっていない。碧き瞳。父譲りの、冷徹な分析力を秘めた緑の眼。
手元には、温かい紅茶の湯気が揺れている。ソイルが選んでくれた茶葉だ。辺境の山岳地帯で栽培された、渋みの少ない品種。あの子はこういう気遣いが上手い。
「お義母様、こちらをご覧ください」
声の主は、私の義理の娘——ソイル。四十五歳になった彼女は、母テラ様の面影を色濃く残す穏やかな笑みを浮かべ、私の前に一つの模型を置いた。
木と粘土で精巧に作られた、円形の建築物。中央にはドーム型の天蓋があり、放射状に翼が伸びている。人間、竜族、エルフ、ドワーフ——それぞれの文化的意匠が、互いを打ち消すことなく調和した設計だった。
「新議事堂の最終案です。種族を問わず、対等に議論できる構造を目指しました。中央の円卓は、かつてヒカル様が戦時中に使われた作戦円卓の理念を引き継いで——」
ソイルの声は穏やかだが、技術者としての矜持に満ちている。彼女は建築家だ。夫であるユリウス——私の一人息子——が法と制度という目に見えない器を作るなら、ソイルは人が集い、暮らし、語り合うための物理的な器を作る。二人は、私が夢見たものの続きを生きている。
私は模型を眺めながら、自然と口元が綻んだ。
「見事ですね、ソイル。……壁の曲率が内側に向かって僅かに傾斜しているのは、音響設計を兼ねているのかしら?」
「さすが、お義母様。ご明察です。議場での発言が、座席のどこにいても等しく届くように。誰の声も、大きさに関わらず——」
「——等しく聞こえるように、ですね」
等しく。
それは、ヒカル様が生涯をかけて追い求めた理念そのものだ。
バルコニーの向こうに目をやれば、庭園でひ孫たちと無邪気に遊ぶ太王——ヒカル様の姿が見える。白髪が風になびき、以前より少し猫背になったけれど、子供たちと笑い合うその横顔は、歳を取っても変わらない。
「あの方は、歳をとっても変わりませんね」
私は思わず声に出していた。
ソイルがくすりと笑う。
「ええ。ユリウスも、『父上はいつまでも子供のようだ』と呆れていますけれど、その口調がそっくりで」
「それは、ユリウスが私に似たのです。……困った子」
紅茶に口をつける。温かい。
そう、温かいのだ。この黄昏の時間が。この穏やかな風が。ソイルとの何気ない会話が。
けれど、私の心の奥では、もう一つの声が囁いていた。
(記録しなければ——)
この温もりがどこから来たのか。この平和が、どれほどの血と涙と論理の果てに築かれたものなのか。
それを知る者は、もう少ない。
私は紅茶のカップを置き、ソイルに向き直った。
「ソイル。少し、昔話をしてもよいかしら」
「昔話、ですか?」
「ええ。……この模型を見ていたら、思い出してしまったの。まだこの国が影も形もなかった頃。私がまだ、敗戦国の皇女でしかなかった頃のことを」
ソイルは紅茶のポットを静かに置き、椅子を引き寄せた。その仕草に、聞く覚悟が滲んでいる。この子は優秀な聞き手だ。
「お聞かせください、お義母様」
ソイルはそう言いながら、手元の模型をそっと脇に置いた。
「そういえば、クレイはドワーフの工房ですか、まだ?」と私は聞いた。
「ええ。ボルタ様のご紹介で、山脈の工房に入れていただいて。石材の加工技術を一から学んでいるようです。手紙には『毎日鎚を振っている』と」
「ソイルに似ましたね」
「マールの方が私に似ているかもしれません。先週、自分で設計した棚を作って送ってきたのですが——」
ソイルが少し困った顔をした。
「ユリウスが『構造計算が甘い』と言って赤字を入れて送り返していました」
私は思わず笑った。まったく、あの子は娘にまで容赦しない。
さて、脱線を戻しましょう。
◇◆◇◆◇
グランツェリア帝国。
大陸随一の歴史と権威を誇る、人類最大の国家。私は、その皇帝の第二子として生まれた。
幼い頃の記憶は、書庫の匂いと、兄レオナルドの背中に集約される。
兄は聡明で、武にも秀でた理想的な皇太子だった。父帝の期待を一身に背負い、朝から晩まで帝王学の修練に明け暮れていた。私はその傍らで、兄と同じ教科書を読み、同じ教師に学んだ。皇女に帝王学は不要だという声もあったが、父は「知は力なり。性別は問わぬ」と許してくれた。
私が数字と論理に目覚めたのは、八つの頃だった。
帝国の徴税記録を整理する役人の仕事を見学した時、私は初めて「法」というものの美しさに触れた。膨大な数字の羅列が、一つの体系として国を動かしている。誰がいくら納め、それがどこへ流れ、何を生み出すのか。その設計図を読み解くことは、私にとって最高の知的愉悦だった。
兄が剣を振るうように、私は羽ペンを走らせた。
数字は嘘をつかない。感情に左右されない。正確に、冷徹に、世界の骨格を記述する。私はそうした確かさを愛した。
けれど、帝国の空気は、次第に変質していった。
ドラゴンスレイヤー教団——。
竜族を「人類の敵」と定義し、大陸各地で影響力を広げていた宗教組織。表向きは信仰と秩序の守護者を謳っていたが、その内実は、人間の優越性を狂信する者たちの集まりだった。彼らが帝国宮廷に浸透し始めたのは、私が十二か十三の頃だったと思う。最初は学者や聖職者として、次第に廷臣として、そして最終的には——。
軍師上がりの若き宰相、カイン・グリムウッドとして。
彼が帝国の中枢に入り込んだのは、私が十五の頃だった。端正な顔立ちに冷たい知性を宿した男。その弁舌は巧みで、宮廷の老獪な貴族たちすら手のひらで転がした。しかし私の目には、彼の言葉の裏に張り巡らされた教団の論理が透けて見えた。彼は個人の野心を持つ政治家ではない。教団の教義を帝国という器に注ぎ込む、精巧な管だった。
竜族は危険だ。魔族は滅ぼすべきだ。人類こそが世界の頂点に立つべきである——。
煽情的な言葉が宮廷に蔓延し、冷静な議論は排除された。反対の声を上げた者は「売国奴」の烙印を押された。
私は書庫に籠もり、カインが提出する政策の裏にある数字を追った。軍事予算の膨張、福祉の削減、密かに進行する特殊兵器の開発費——。どの数字も、帝国の破滅を指し示していた。
(これは、狂気だ)
論理を失った国家が辿る末路を、私は帝国史の中に幾度も見ていた。内部から蝕まれた国は、外敵に滅ぼされる前に、自ら崩れる。
けれど、私の声は届かなかった。皇女の政治的発言権など、宮廷では羽毛ほどの重さもない。兄レオナルドですら、カインの巧みな論理に足元を絡め取られつつあった。
私にできたのは、ただ一つ。
記録を守ること。
カインがどれほど数字を改竄しようと、原本はここにある。この手の中に。それだけが、私に残された唯一の抵抗だった。
そして、戦争が始まった。
竜の王ヒカル率いる「盟約軍」との全面戦争。帝国軍の精鋭が次々と前線に投入され、絶対防衛線が構築された。
私は王宮の奥、作戦情報室に近い書庫で戦況図と向き合っていた。公式には「記録係」という名目だったが、実際には、この戦争の全貌を自分の目で確かめたかったのだ。
赤い駒が、一つ、また一つと消えていく。
その頃、私の元には別の報告も届いていた。
聖女アリアの戦死。
ドラゴンスレイヤー教団が誇る最高の聖女。人類の信仰と憎悪を一身に背負い、盟約軍の前に立ちはだかった彼女は、最後に「高潔な殉教」を選んだという。報告書の文面はひどく簡潔で、感情を排した行政文書らしい無機質さだったが、私はその数行を何度も読み返した。
(彼女は、負けたのではない)
それが私の結論だった。アリアは敗れたのではなく、自ら幕を引いた。その意味を、カインたちは最後まで理解しなかっただろう。だが私には分かった。あの殉教は、教団の終わりの始まりであると同時に、戦争の質が変わった瞬間だった。
帝国内でも、動揺が走った。「神の守護者」が倒れた。カインの掲げた人間至上主義の旗が、その根拠を一つ失った。
私は報告書を閉じ、再び戦況図に目を戻した。
数字は正直だ。聖女の死が何を意味するか、感情ではなく構造として読み解けば——答えは一つしかない。
(この戦争は、もう終わる)
帝国側の絶対防衛線が、容赦なく崩されていた。前線からの報告は悲鳴に近い。「レヴィアの炎に防壁が溶かされた」「アクアの水流に騎馬隊が分断された」「正体不明の高速部隊に後方補給路を断たれた」——。
恐ろしい。
だが、私が感じていたのは、恐怖とは少し違うものだった。
戦況図の上で、盟約軍の進撃ルートを指でなぞる。北東から南西へ。主力は正面突破に見えて、実際には側面の補給路を先に断ち、退路を塞いでから包囲に移行している。しかも、その包囲は帝国兵の「殺傷」ではなく「戦意の喪失」を目的として設計されている。
(……美しい)
私は息を呑んだ。
この戦術を描いた指揮官は、ただの破壊者ではない。帝国を「滅ぼす」のではなく、「再編する」ことを見据えている。破壊の先に、統治の構想がある。
感嘆と、それに伴う深い敗北感。
そして、奇妙な期待。
(もし——もしこの戦争が終わった後に、この指揮官が本当に「統治」を行おうとするなら。その時、帝国の法と行政の知識を持つ者が必要になるはずだ)
それは計算だったのか、それとも希望だったのか。今となってはもう、自分でも判然としない。ただ確かなのは、その時私の中で何かが静かに決まった、ということだった。
(私たちは、この敵将に——完璧に読み切られている)
それが、まだ顔も知らぬヒカル・クレイヴという人間に対する、私の最初の認識だった。
---
バルコニーでは、夕日がいよいよ稜線に沈もうとしている。
「……それが、全ての始まりでした」
私はソイルに微笑みかけた。
「敵の戦術に『美しい』と感動してしまった、愚かな皇女の物語の」
ソイルが静かに首を振る。
「愚かでは、ありません。お義母様がその時に感じたものが——きっと、全ての始まりだったのではないかと」
その言葉に、私は少し黙った。
この子は、母テラ様によく似ている。正面から優しく受け止める力が、骨の髄まで染み込んでいる。
「……ええ。そうかもしれません」
紅茶はすっかり冷めていた。けれど、胸の奥に灯った回想の火は、静かに、しかし確かに燃え始めていた。
「明日は、帝都が落ちた日のことを話しましょう」
庭園から、ひ孫たちの笑い声が夕風に乗って届いた。
【第2話へ続く】
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