第8話 王妃は君で、妹は側妃で
婚約が決まってから、三日。
ルドヴィク殿下は、毎日のように公爵邸に現れるようになった。
「お嬢様、また第四王子殿下がお見えです」
イレーネが、うんざりした顔で告げる。
「今日で三度目ですよ。昨日は花束、一昨日は贈り物の箱。何も受け取らず、お帰りいただきましたが」
「ありがとう、イレーネ。今日は私が会うわ」
「お嬢様?」
「ちゃんと言っておかないと、いつまでも来るでしょう」
応接の間で待っていた殿下は、前よりずいぶんやつれていた。目の下に影ができている。眠れていないのだろう。
「アマリア。やっと会えた」
立ち上がって、私の手を取ろうとする。
私は、さりげなく扇で手を遮った。
「ごきげんよう、殿下。婚約者のある身ですので、あまり近づかれませんよう」
「婚約者、婚約者って。あの氷の叔父が、お前を愛しているとでも思っているのか」
「さあ。どうでしょう」
「女に見向きもしなかったあの男が、急にお前を妻にするだと? 何か裏がある。お前の家の兵か、金か。そうに決まっている」
鋭い。ただ、そこから先に考えが進まないところが、この人らしい。
「殿下。それで、本日は何のご用でしょう」
「話がある」
殿下は、ためらうように視線をさまよわせたあと、早口で言った。
「俺が悪かった。あの宴の日、ミレイユにもいい顔をして、お前を不安にさせた。だが、本心ではない。あれは、ただの遊びだ」
「遊び」
「そうだ。わかるだろう? ミレイユは身分が低い。母親は妾だ。あんな娘を正妃にしたら、俺は貴族たちの笑いものになる」
私は黙って、雲苺の茶を一口飲んだ。
庭の窓の向こうで、木の葉が風に鳴っている。
「だから、決めた。お前が叔父との婚約を破棄して、俺のもとへ戻れ。それなら、すべて丸くおさまる」
「丸くおさまる、と申しますと」
「いいか、よく聞け」
殿下は身を乗り出した。得意げな顔だった。名案を思いついた子どものように、目が輝いている。
「王妃は君だ。ミレイユは側妃にすればいい」
空気が、止まった。
「実権は君が握ればいい。俺は、お前の策には、いつも助けられてきた。ミレイユは、飾りだ。子を産ませるだけの女でいい」
殿下は、さも当然のように続けた。
「ミレイユの子も、君が育てればいい。それで何の不満がある?」
不満。
不満がある、どころの話ではない。
前の世の私は、この人のために、五年間尽くした。ミレイユとの関係も知らずに。そして、最後には、剣を向けられた。
その人が今、同じ顔で、ほかの女の産んだ子を育てろと言う。
私は、茶の碗を静かに皿へ戻した。
そして、にっこりと、これ以上ないほどやわらかく微笑んだ。
「殿下」
「なんだ。承知してくれるか」
「私に、ほかの女の産んだ子を育てろと、おっしゃるのですか」
「ああ。悪い話ではないだろう」
「それを、『愛』とお呼びになるのですね」
殿下の顔が、止まった。
うれしそうだった表情が、ゆっくりとゆがむ。
「何を言っている。これは、お前のためを思って」
「いいえ、殿下。これは、殿下ご自身のためのお話ですわ」
私は、静かに立ち上がった。
「私の家の力が欲しい。私の頭が欲しい。面倒ごとは、私に押しつけたい。そうおっしゃっているだけです」
「ち、違う。俺は」
「殿下。私は、もうすぐ殿下の叔母になります。叔母に向かって『君』『お前』と呼ぶのは、お控えください」
にこやかに、そう言った。
殿下の顔が、さっと赤く染まる。そして、その赤が引いたあと、目の奥に、暗いものが宿った。
「アマリア。お前、いい気になるなよ」
殿下は声を落とした。
「お前の母親は、今、祖父の屋敷で療養中だそうだな。病人は、何かと事故が多い。階段で足を滑らせたり、薬を間違えたり」
背筋が、凍った。
けれど、表情は崩さなかった。
「殿下。それは、脅しでしょうか」
「事実を言っただけだ。お前がおとなしく俺のもとへ戻れば、母親の身は、俺が守ってやる」
この人は、本当に、そういう人だ。欲しいものが手に入らないとき、人の弱みで殴ってくる。
私は、笑顔のまま、扉を指し示した。
「お帰りは、あちらです」
「アマリア」
「それから、お母さまは、王弟殿下が守ってくださいます。殿下には、お願いしておりません」
殿下は歯ぎしりして、足音荒く出ていった。扉が閉まる音が、屋敷中に響いた。
しんとした部屋に、一人残る。
ふう、と息をつく。
足が、少しだけ震えていた。母の名を出された。それは、怖かった。胸の奥が、冷たい手でつかまれたようだった。
扉の外から、勢いよく足音が戻ってきた。ユリウスだった。稽古着のまま、肩で息をしている。
「姉上! 今、殿下が真っ赤な顔で出ていったけど、何かされた?」
「何もされていないわ。言いたいことを言って、お帰りいただいただけ」
「そっか。じゃあ、追いかけて一発殴ってきていい?」
「だめよ。騎士が王子を殴ったら、首が飛ぶわ」
「ちぇっ。姉上、かっこよかったって、廊下の侍女たちが言ってたよ」
「聞こえていたの」
「全部。壁、薄いからね」
そのとき。
廊下のほうで、小さな物音がした。衣ずれのような、息を殺すような。
扉の隙間から、桃色の裾が、ちらりと引っこんだ。
ミレイユだ。
聞いていたのだ。殿下が私に何を言ったのか。自分が、なんと言われたのか。
飾り。子を産ませるだけの女。
隙間から、一瞬だけ見えた顔は、笑っていた。口の端だけが吊り上がっている。目は、少しも笑っていない。人形の顔だった。
足音が、廊下を駆けていく。遠ざかる音が、いつもよりずっと乱れていた。
夕暮れだった。
庭のほうで、突然、馬のいななきと、使用人たちの悲鳴が上がった。
「お嬢様、大変です! 空から、馬車が!」
窓に走ると、公爵邸の庭の芝生に、銀色の天馬車が降り立っていた。羽ばたきの風で、花壇の花が一斉に倒れる。
庭師が腰を抜かし、一角獣のリリが興奮して鼻を鳴らしている。
車体の扉が開いて、黒い軍服の人が降りてきた。
「シルヴェスター殿下」
私は、庭へ走った。
「どうして、こんな。正門からいらっしゃれば」
「急いでいた」
殿下は、ぶっきらぼうに言った。灰色の目が、私の顔を上から下まで、じっと見る。
「ルドヴィクが来たと聞いた。三度目だそうだな」
「どなたから」
「門番と、屋敷の外の者に、金を握らせてある。何も、されていないか」
低い声は、静かだった。静かだったが、庭の芝生の端が、白く凍りかけている。
「大丈夫です。お引き取り願いました」
「次に来たら、門の外で凍らせて、地竜の荷台に積んで王宮に返す」
「殿下、それは」
「冗談ではない」
本気だった。
私は、思わず笑ってしまった。殿下は、むっとしたように眉を寄せる。
「何がおかしい」
「いえ。ありがとうございます、殿下」
殿下は、懐から小さな紙袋を取り出した。まだ温かい。
「これを」
受け取ると、星蜜の甘い匂いがした。月林檎の星蜜焼きだった。
「祖父殿の屋敷で、お前の母上に会った。娘は月林檎の星蜜焼きに目がない、と、嬉しそうに話してくださった。次はいつ食べさせられるかしら、と」
「お母さまが」
「元気だったぞ。庭を歩いていた。薬湯は止めたそうだな。顔色が、人間のそれになっていた」
胸の奥が、きゅっと熱くなる。
「お前が食べたがるなら、毎日でも届けさせる」
「毎日は、太ります」
「太れ」
殿下は即答した。
「痩せすぎだ。もう少し肉がつけば、風に飛ばされずに済む」
「殿下」
「何だ」
「お優しいんですね」
「違う」
殿下は、耳の端を赤くして、馬車に背を向けた。
「用は済んだ。帰る。ルドヴィクが来たら、すぐに伝書の小竜を飛ばせ」
天馬車が、風を巻いて空へ舞い上がっていく。屋敷中の使用人が、庭に出てきて、口を開けて見上げていた。
月林檎は、まだ温かかった。
その夜。
自室で寝る支度をしていると、イレーネが静かに入ってきた。いつもの噂好きの顔ではなく、緊張した声で。
「お嬢様。ご報告が」
「どうしたの」
「今夜、ミレイユ様が、こっそり屋敷を抜け出されました。気になって、後を追ったのです」
「一人で?」
「馬車を一台、お手配になって。私は荷運びの者に紛れて、見張りの門まで」
イレーネは、膝の上で手を握りしめた。
「行き先は、王宮の側妃宮でした。イゾルデ様の宮です。ミレイユ様は、夜の裏門から、中へ入っていきました。迎えに出たのは、イゾルデ様の侍女頭だったそうです」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
ミレイユと、イゾルデ様。
前の世では、あの二人のつながりを、私は一度も知らなかった。
「ありがとう、イレーネ。よく見てくれたわ」
「お嬢様」
「大丈夫。これで、一つわかったから」
夜風が、窓を鳴らした。
私を貶めようとする糸が、一本、また一本と、手繰り寄せられていく。




