第7話 王子妃選びの日
王子妃選びの日。
王宮の大広間には、魔石灯のシャンデリアが何十と灯り、名家の令嬢が壁際に並んでいた。数は三十ほど。皆、白や淡い色のドレスで、頬を紅潮させている。
広間の奥の玉座には、国王アルブレヒト陛下が座っている。穏やかな顔で、扇を持つ手だけが妙に静かだ。息子たちの争いを、見ていないふりをして、見ている人だった。
その隣の側妃の席に、イゾルデ様がいる。ルドヴィク殿下の母で、艶やかな唇の端をいつも上げている人。母の毒の出どころが、あの瓶だと思うと、笑顔を見るだけで胃が冷える。
私は列の中ほどに立っていた。前の世では、この場所で、ルドヴィク殿下に名を呼ばれた。
「ねえ、ご覧になって。ロートリンゲン家の妹君」
近くの令嬢たちが、扇の陰でささやく。
「第四王子殿下に、あんなにすり寄って。はしたない」
「でも、お母さまが妾でしょう? 公爵家の娘とは名ばかりですもの」
「妾腹の娘が王子妃だなんて、身のほど知らずも甚だしいわ。園遊会でも、自分で池に落ちたとか」
「あら、お恥ずかしい。泥だらけで」
ミレイユは広間の中央近くにいた。桃色のドレスに白いリボン。ルドヴィク殿下の前で、ふわりと膝を折る。
「殿下、今日のお召し物、とてもお似合いです」
「そうか? お前も、悪くないな」
「まあ、嬉しい」
ミレイユは頬を染めて、殿下の袖にそっと触れた。周囲の視線が突き刺さる。ミレイユは、聞こえないふりをして、笑顔を保っていた。肩が、小さく震えている。
けれど、その手は、決して殿下の袖から離れなかった。
ミレイユの気持ちは、わからなくもない。陰口くらいで引き下がる女なら、前の世で私を殺したりはしない。
ルドヴィク殿下は、気だるげにミレイユから視線を外した。そして、私のほうへ歩いてきた。
「アマリア」
「殿下」
「いろいろ考えたが、やはり正妃はお前だ」
褒美でも与えるような口ぶりだった。
「家柄、教養、立ち居振る舞い。俺の妃になれるのは、お前しかいない」
「殿下」
私は一歩も動かず、笑顔を貼りつけたまま言った。
「それは、とても光栄なお言葉ですわ」
「そうだろう。さあ、陛下の前で」
殿下は私の手を取ると、玉座へ向き直った。一度だけ、迷うように、広間の中央のミレイユを振り返る。
ミレイユは唇をかんで、うるんだ目で殿下を見つめ返した。殿下の足が、わずかに鈍る。
けれど殿下は、首を振った。妾腹の娘を正妃にすれば、貴族たちの笑いものになる。公爵家の兵と財も、手放せない。
「父上。私、第四王子ルドヴィクは、妃に」
口を開いた、そのとき。
広間の大窓が、びりびりと鳴った。
外で、風が吹き荒れる。窓の向こう、夜の庭に、白い影が降りてくる。
四頭の翼のある白馬。銀色の車体。雪の結晶の紋章。
天馬車だった。王家と王弟家だけに許される、空を駆ける馬車が、宮殿の前庭に降り立つ。羽ばたきの風で、庭の木々がざわざわと揺れた。
「まさか」
誰かが、つぶやいた。
広間の扉が、重い音を立てて開いた。
ざわめきが、波のように引いていく。
戸口に立っていたのは、黒い軍服の男だった。肩の銀の飾り緒が、シャンデリアの光を弾く。
シルヴェスター殿下。
王弟が、宴に姿を見せるのは初めてのことだった。令嬢たちは息をのみ、貴族たちは慌てて道を空ける。ルドヴィク殿下は、伸ばした手を宙に浮かせたまま、固まっていた。
殿下が一歩踏み出すたびに、床石に白い霜の足跡が咲く。広間の温度が、じわじわと下がっていく。
令嬢の一人が、小さく悲鳴を上げて顔を覆った。貴族の一人が、グラスを取り落とした。割れたグラスの中の星葡萄の酒が、床の上で、赤いまま凍りつく。
「あれが、氷の」
「目を合わせるな。凍らされるぞ」
殿下は誰の顔も見ずに、まっすぐ歩いてくる。その途中で、扇の陰から「人殺し」とつぶやいた貴族の男の前を通りかかった。
ぴたり、と足が止まる。
灰色の目が、男に向いた。
「何か、言ったか」
男の顔から、血の気が引いた。手にしたグラスの縁に、霜が走る。持っている指が、動かない。
「い、いえ、何も。滅相もございません」
「そうか」
それだけで、殿下は歩き出した。男は膝から崩れ落ちた。
玉座の前で、足を止める。
「兄上」
「おお、シルヴェスター。珍しいな。お前が宴に来るとは」
陛下が目を丸くした。
「今日は、何事だ」
「お願いがあって参りました」
低い声が、静まり返った広間に響く。
「妻に、と願う娘がおります。兄上より、婚姻のお許しを賜りたく存じます」
誰かが、扇を取り落とした。
玉座の隣で、イゾルデ様の扇が、ぴたりと止まる。笑みが、凍った。
「妻、と言ったか」
「はい」
殿下はゆっくり振り向いた。灰色の目が、広間をなぞる。令嬢たちが一斉に顔をそむけた。
その視線が、私の上で止まった。
そのとき、殿下の表情が、変わった。
ほんのわずかに。他の誰にもわからないほど。氷のような目が、私を見つけた途端に、すっと、緩んだ。
「その娘を」
指さされたのは、私だった。
「ロートリンゲン公爵家の長女、アマリア。この娘を妻に迎えること、どうかお許しください」
広間が、爆発した。
ざわめき、悲鳴、息をのむ音。ミレイユは扇を握りしめたまま、青ざめて動かない。扇の骨が、みしりと音を立てた。
私は静かに歩み出て、殿下の隣に立った。膝は笑っていない。この数日で、少しは慣れたらしい。
「陛下。わたくし、謹んでお受けしたく存じます」
「ほう」
陛下の口もとが、面白そうにゆるんだ。
「アマリアよ。よいのか。我が弟は、見てのとおりの無愛想者だぞ」
「存じております。それでも、私は殿下に嫁ぎたいのです」
「ふむ」
陛下は、広間の隅の第四王子へ、ちらりと目をやった。
「ルドヴィク。お前は、何か異議があるか」
「ち、父上! アマリアは、俺の」
「お前の何だ?」
「俺の、幼なじみで」
「婚約しておったか」
「いえ、まだ」
「ならば、問題はあるまい」
陛下は、扇でひらりと空を払った。
「許す。シルヴェスター、アマリア。余が、二人の婚姻を許そう。まずは婚約からだ」
歓声と拍手が、遅れて広間を満たす。
「遅い」
隣から、殿下が小声でつぶやいた。
「遅れたのは、殿下のほうでは」
「お前が、ルドヴィクの手を取りかけていたからだ」
「見ておられたのですか」
「扉の陰で。心臓に悪い」
灰色の目は前を向いたまま、表情はぴくりとも動かない。けれど、その声は、ほんの少しだけ、焦っていた。
この人、案外、わかりやすいのかもしれない。
殿下は、懐から何かを取り出した。小さな、白い花だった。透きとおるような花びらが五枚。ふちに細かな霜をまとって、魔石灯の光にきらきらと光っている。
息が、止まった。
氷晶花。北の国境の雪山で、氷の魔力がしみた岩場にしか咲かない花だ。摘めば一刻ともたずに溶けてしまうから、王都で生きた花を見られることは、まずない。私も、祖父の薬草学の書物で、絵を見たことがあるだけだった。一輪を摘みに行って、雪山から戻らなかった薬師もいると書いてあった。
それが、溶けもせずに、殿下の手の中にある。花びらの霜が消えないのは、殿下の氷の魔法が、花を包んでいるからだ。
「宴の花は、趣味ではない。お前には、この花がいちばん似合う」
ぶっきらぼうな声で、殿下は私の髪に、その花をそっと挿した。大きな手が、驚くほど慎重に動く。耳に、指先がかすめた。ひやりとして、それなのに、頬が熱くなる。
北の雪山まで、どうやって。私が屋敷を訪ねてから、王子妃選びの日まで、七日しかなかったのに。
小さな五枚の花びら。その形を、私は、どこかで見たことがある気がした。どこだっただろう。
広間じゅうの視線が、私たちに集まる。氷の大公が、令嬢の髪に花を挿している。誰も、息をしていないようだった。
「私の妻になる者だ」
殿下の声は、広間に低く響いた。
「手を出す者は、それが誰であろうと、私が許さん」
ルドヴィク殿下の顔は、赤を通りこして、紫になっていた。拳が、ぶるぶると震えている。
周囲の貴族たちが、ひそひそと笑う。
「ご覧になって、第四王子殿下のあのお顔」
「叔父上に、花嫁を取られて」
「しかも、あの妾腹の妹君は、まだ殿下の隣に立っているというのに」
その向こうで、ミレイユが、はっと顔を上げた。
目が、輝いた。
勝った、と思ったのだ。第四王子が空いた。私が消えれば、ミレイユを止めるものは何もない。
小さな唇が、笑いの形にゆがむ。口の中で、勝ち誇ったように何かつぶやいた。
「お姉さま、さようなら」
私にだけ聞こえるように、唇の形だけで。
玉座の隣で、イゾルデ様の扇が、ぱきん、と折れた。
宴はそのまま続いた。
けれど、散会のあと。
控えの廊下を歩いていた私の腕が、後ろから強くつかまれた。
「待て、アマリア」
ルドヴィク殿下だった。
息が荒い。目が血走っている。
「本気じゃないよな?」
「何のことでしょう」
「叔父上と結婚だと? 脅されたんだろう。あの氷の男に。そうだと言え」
「いいえ、殿下」
「嘘をつくな!」
腕を握る力が強まる。痛い。
「お前が、俺以外の男に嫁ぐわけがないだろう」




