第6話 ルドヴィクは、私が従うと思っている
大公殿下の返事は、こうだった。
「結論は、王子妃選びの日に出す。それまで、余計なことはするな」
つまり、まだ保留である。契約の話は、まだ外には漏れていない。私は何食わぬ顔で、日常に戻るしかなかった。
ただ、園遊会の朝のことだ。
屋敷に、銀の紋章のついた小さな箱が届いた。運んできたのは、手のひらほどの伝書の小竜だった。尻尾に箱の紐を引っかけて、窓辺でぱたぱたと羽ばたいている。
箱を開けると、湯気の立つ月林檎の星蜜焼きが、一つ入っていた。星蜜がとろりとかかっている。魔法で温めてあるらしい。
添えられた紙には、短く一行。
『食え。顔色が悪かった。 シルヴェスター』
「お嬢様、お顔が、赤うございますよ」
イレーネが、にまにましながら言った。
「赤くない」
「赤うございます。大公殿下って、案外」
「イレーネ」
「はい、黙ります」
月林檎は、驚くほど美味しかった。祖父の屋敷で母が焼いてくれたものと、同じ味がした。どうして、わかったのだろう。
王宮の園遊会は、選びの日の五日前に開かれる。令嬢たちが着飾って集まり、王子たちに顔を見せる、いわば前哨戦だ。
薔薇の庭に、日傘と絹の裾があふれていた。車寄せには、各家の馬車がずらりと並ぶ。大きな角の鹿が引く魔獣の馬車。六本足の地竜が引く荷馬車のような貴族の馬車。その奥に、黒い二頭立ての豪華な馬車が停まっていた。引いているのは、二本の角を持つ黒い馬、バイコーンだ。気性が荒く、御者が鞭で従わせている。イゾルデ様とルドヴィク殿下の馬車だった。
私は淡い青のドレスを選んだ。前の世の園遊会で、私は桃色を着た。ルドヴィク殿下が「可愛い」と褒めてくれたからだ。
今日の青は、誰のためでもない。私が着たい色だ。
「アマリア」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り向くと、ルドヴィク殿下が立っていた。
金の髪、整った顔。十八歳。前の世で、私が五年間見つめ続けた横顔だ。
不思議なことに、胸は少しも高鳴らなかった。
それどころか、背中が冷たくなる。この顔が剣を抜いた夜を、体が覚えているのだ。
「ごきげんよう、ルドヴィク殿下」
「ごきげん、などと他人行儀だな。ほら、手を貸せ」
殿下は当然のように、私の前に腕を差し出した。
「宴の席まで連れて行ってやる。お前は俺のそばにいればいい」
「お心遣い、ありがとうございます」
私はにこやかに微笑んで、一歩、下がった。
「けれど、一人で歩けますので」
殿下の腕が、宙に浮いたまま止まった。
「何だと?」
「殿下のお手を煩わせるわけには参りません。どうぞ、ほかの方を」
「ほかに誰がいる」
殿下は、本気で首をかしげた。
「お前は、俺の妃になるんだろう」
あまりにも当たり前のように言うので、私は笑いそうになった。
前の私なら、ここで頬を染めた。うつむいて、「はい」と答えた。それが当然だと思っていた。
二度目の私は、笑顔のまま、はっきり言った。
「まだ、お選びになってはおりませんでしょう? 殿下。妃選びの日は、五日後のはずです」
「選ぶまでもない。決まっていることだ」
「決まっていることなら、なおさら、焦る必要はございませんわね」
にこにこと返すと、殿下の顔が、わずかに引きつった。
「アマリア。お前、最近、叔父上の屋敷に出入りしていると聞いたが」
「あら、お耳が早い」
「何の用だ」
「祖父の遣いで、少々。大公殿下は、祖父の古い患者でいらっしゃいますから」
「ふん。いいか、余計な真似はするな。お前は黙って、俺の言うことを聞いていればいいんだ」
そのとき。
「きゃっ」
小さな悲鳴が上がった。
私と殿下のあいだに、桃色のドレスが倒れこんできた。ミレイユだった。
石畳の小さな段差につまずいた、という顔をして、殿下の胸に飛び込んでいる。
見え見えだった。前の世の園遊会でも、全く同じことをされた。あのときの私は、「危ないところを助けてくださったのね」と、二人に礼を言ったのだ。
「大丈夫か、ミレイユ」
殿下がミレイユの肩を抱きとめる。声が、さっきの私への声より、ずっと優しい。
「申し訳ありません、殿下。私ったら、そそっかしくて」
周囲の令嬢たちが、ひそひそとささやき合う。
「あれは、公爵家の妹君でしょう? 妾腹の」
「姉君の前で、あんなに」
私は扇で口もとを隠した。
殿下は、ミレイユを抱いたまま、ちらりとこちらを見て、鼻で笑った。
「すねるな、アマリア。嫉妬か? 安心しろ、ミレイユはまだ子どもだ。お前が妃で、俺の隣に立つのは変わらない」
ミレイユの指が、殿下の袖をぎゅっと握る。その指の白さに、気づいたのは私だけだったろう。
「ええ、殿下。安心いたしました」
何に安心したのかは、言わなかった。
それで終わるはずだった。けれど、ミレイユは、終わらせなかった。
園遊会の庭の奥には、大きな池がある。睡蓮が浮かび、縁には柔らかな芝が広がる。令嬢たちが日傘を差して、水辺を散歩していた。
私が池のほとりで、咲きかけの白い薔薇に目をとめたときだった。
背後から、すっと人が寄ってきた。
「お姉さま」
ミレイユの声。振り向く。
ミレイユが、笑っていた。口の端だけで。
その次の瞬間、ミレイユは自分から、後ろへ倒れた。
「きゃあああっ!」
派手な水音。しぶきが上がり、近くの令嬢たちが悲鳴を上げる。ミレイユは池の中に尻もちをついて、泥水を頭からかぶっていた。
「お姉さま、ひどい! どうして、突き飛ばしたりなさるの!」
ミレイユは泣き叫んだ。栗色の巻き毛が顔に貼りつき、桃色のドレスが泥で重たくなる。
「私、ただお姉さまに、仲直りのご挨拶をしようと。それなのに、こんな」
「ミレイユ!」
ルドヴィク殿下が、人垣を割って駆けてきた。池に入りかけて、ミレイユを抱き上げる。
「大丈夫か。怪我は」
「殿下、怖かった。お姉さまが、急に」
殿下が、私を振り向いた。顔が怒りで赤くなっている。
「アマリア。お前、何をした」
周りの令嬢たちの視線が、一斉に私に刺さる。
「まあ、ひどい」
「妹君を、池に」
「やはり、妾腹だからと」
ささやきが、広がる。
前の私なら、ここで青ざめて、泣くことしかできなかった。
私は、ふう、と息を吐いた。見え見えだ。あまりにも。
「殿下。私は、一歩も動いておりません」
「嘘をつくな。ミレイユがこの有様なのに」
「では、ひとつ、確かめてみましょうか」
私は、日傘を閉じて、池の縁を指した。
「皆さま、あちらをご覧になって」
池のほとり、柔らかな芝の上に、桃色の靴が、そろえて置かれていた。
左右が、きちんと並んでいる。つま先も、同じ向きに。
「あれは、ミレイユの靴ですわね」
ざわめきが、止まった。
「泥の池に突き飛ばされて落ちた人の靴が、どうして、あんなにきれいに脱いで置かれているのでしょう。しかも、泥ひとつついておりません」
「そ、それは」
「ミレイユは、今、裸足でございましょう? 足をご覧になって」
殿下の腕の中のミレイユが、びくりと震えた。
泥にまみれたスカートの裾から、素足がのぞいている。水に落ちた衝撃で、靴が脱げたのではない。靴は、落ちる前に、きちんと脱がれていた。
「池に落ちる準備を、していらしたのね。ミレイユ、いつから? 私と話す前から、脱いでいたのでしょう。靴は、泥を嫌いますものね」
「ち、違います、お姉さま、私」
周りの令嬢たちが、扇の陰で目を見交わした。
「まあ、そういえば」
くすくす、と小さな笑いが広がっていく。それは、さざ波のように大きくなった。
「自分で落ちて、姉君のせいに?」
「あきれた」
「妾腹は、やはり」
ミレイユの顔が、真っ赤になった。泥で汚れた頬が、さらに赤く染まる。唇を震わせて、言葉を探しているのに、何も出てこない。
「ち、違うんです、殿下、私」
ミレイユが殿下の胸にすがりつく。殿下は、ミレイユを抱いたまま、固まっていた。
「ミレイユ」
「殿下!」
「お前、本当に」
殿下の腕が、ミレイユから、ほんの少し離れた。
そのとき、庭の上の回廊に、黒い軍服の人影が見えた。
シルヴェスター殿下だった。柱にもたれて、腕を組んでいる。いつから見ていたのだろう。灰色の目が、池のほとりを、静かに見下ろしていた。
視線が、ルドヴィク殿下に移る。
その目が、細くなった。空気が、すっと冷えた気がした。池の水面の端に、薄く霜が走る。
ルドヴィク殿下は、はっとしたように肩をすくめた。見えない氷に撫でられたように、顔色が変わっている。
そして、シルヴェスター殿下の目が、私に向いた。
ほんの一瞬、灰色の目が、柔らかくゆるんだ気がした。
それから、回廊の奥へ消えた。
ミレイユは、侍女が毛布で包んで運んでいった。見送る貴族たちの視線は、冷たかった。
ルドヴィク殿下は、舌打ちして私を見た。
「覚えていろよ」
「何をでしょう、殿下」
「ちっ」
殿下は踵を返して、足音荒く去った。
「お姉さま」
背後で、甘い声がした。
ミレイユだった。毛布にくるまれたまま、侍女を先に行かせて、一人で戻ってきたのだ。
私の耳もとに、顔を寄せる。濡れた髪から、池の泥の匂いがした。
その唇が、ささやいた。
「お姉さま、今度は私が選ばれるの」
私は答えなかった。
「前みたいには、いかないわよ。お姉さまが殿下の椅子を温めるのは、もうおしまい。今度は、私の番」
前みたいに。
その一言で、確信した。
やはり、この子は戻ってきている。
ミレイユは身を離して、ふわりと可憐に笑った。
「それではお姉さま、ごきげんよう」
濡れた裸足の跡が、芝の上を遠ざかっていく。
十五の少女の顔をして、前と同じように笑う妹。けれど、その瞳の奥には、私が殺される夜に見た光が、確かに宿っていた。
どうやら、この世は、前よりずっと面倒になりそうだ。




