第9話 契約書と、白い花
婚約の契約書は、大公殿下の執務室で交わされた。
机の上に、厚い羊皮紙が二枚。インクの匂いがする。殿下の従者が、私のぶんの羽ペンを丁寧に差し出した。
その手が、緊張で震えていた。羽ペンが、かたん、と机に落ちる。
部屋の温度が、すうっと下がった。
「申し訳ございません、殿下」
「二度目は、ない」
低い声だった。従者の顔が真っ白になる。窓枠に、霜が走った。
「殿下」
私は、落ちた羽ペンを拾って、従者に微笑んだ。
「いいえ、私が手を伸ばしたせいです。ありがとう、新しいペンをいただけますか」
殿下の灰色の目が、こちらを向いた。霜の広がりが、ぴたりと止まる。
「下がっていい」
従者は何度も頭を下げて、逃げるように出ていった。
殿下は、私を見て、小さく息を吐いた。
「怖がらせたか」
「いいえ。殿下の氷は、怒っているときより、困っているときのほうが、静かですね」
「何の話だ」
「さあ」
殿下は、むっとして書面を取り上げた。耳が、ほんの少し赤い。
「内容を、読み上げる」
殿下は書面を手に取り、感情のない声で言った。
「一、アマリア・ロートリンゲンは、シルヴェスターの妻として振る舞う。二、シルヴェスターは、第一王子ニコラウスの毒の件を調べ、アマリアの家族を守る。三、第一王子が後継者に指名されたのち、双方の合意をもって、夫婦の関係を解消してもよい」
「異存ございません」
「次。ここに一文、足す」
殿下は羽ペンを取り、最後の行に、さらさらと書き加えた。
『ただし、妻を害する者は、シルヴェスターが斬る』
私は、目をしばたたいた。
「これは、契約の内容に関わることでしょうか」
「関わる」
「どのような」
「お前が、私の妻である間に傷つけられたら、私の面目が立たん」
もっともらしい理由だった。もっともらしいけれど、殿下の耳が、さっきより赤い。
私は、羽ペンを受け取って、署名した。
アマリア・ロートリンゲン。
隣に、力強い筆致で、シルヴェスター。
インクが乾いていく。契約書が一枚ずつ、それぞれの手に渡った。
これで、私は、冷たい王弟殿下の婚約者になった。
契約のあと、殿下は私を屋敷の奥へ案内した。
「これから住むことになる。内部を知っておけ」
長い廊下を歩いた。窓の外には広い庭と、遠くに訓練場が見える。壁には剣が並び、書庫には戦の記録が積み上がっている。どこもかしこも、飾り気がなくて、殿下らしい。
廊下の角を曲がったところで、殿下が足を止めた。
「ここだ」
扉を開けると、陽のよく入る、東向きの部屋だった。
淡い青の壁紙。窓辺には小さな書き物机と、刺繍の枠。寝台には、白い花の刺繍のカバー。本棚には、薬草学の書物と、恋愛小説と、なぜか焼き菓子の作り方の本が並んでいる。
「これは」
「お前の部屋だ」
殿下は、窓の外に目を向けたまま言った。
「祖父殿から、お前の好きな色と、本を聞いた。窓は、朝日が入る東にした。お前は、朝に弱いと聞いたが、日が入れば起きるだろう」
「いつの間に、こんな」
「お前が屋敷に来た、翌日からだ」
翌日。私が大公殿下に結婚を申し込んだ、その翌日ではないか。
あの契約の話を受けるかどうか、結論は選びの日に出す、と言っていたのに。
私は、部屋を見渡した。机の上に、ひとつだけ、小さな花瓶があった。空っぽだった。
「花は」
「何がいいか、わからなかった。お前が選べ」
ぶっきらぼうな声。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「ありがとうございます、殿下。いただいたお部屋で、毎日、花を咲かせます」
「咲かせる?」
「あ」
口が滑った。
私には、小さな力がある。草花を、ほんの少しだけ咲かせることができる。「花の加護」と祖父は呼んでいた。戦う力などではない。枯れかけた花に息を吹きこんだり、蕾をほころばせたりするだけの。
前の世でも、持っていた。けれど、誰にも話さなかった。話す相手がいなかったのだ。
「見せてみろ」
殿下が言った。
私は、空の花瓶に手をかざした。ひとつ、息を吸う。窓辺の鉢植えの小さな蕾が、ふるふると揺れて、白い花を開いた。
その花を摘んで、花瓶に挿した。
殿下の視線が、花に釘づけになっている。
「やはり、お前だったのだな」
「え」
「来い」
殿下は、私を廊下の突き当たりの小さな部屋へ連れて行った。
「ここは」
「私の私室だ。入れ」
扉を開けると、質素な書き物机と寝台、それから、壁に掛けられた一枚の額。
額の中には、押し花があった。
白い小さな花。花びらは古びて、茶色に変わりかけている。けれど、形は丁寧に保たれていた。何年も、何年も、ていねいに。
「これは」
見覚えがあった。
野原に咲く、名もない白い花。春に、道ばたで摘める花。
遠い記憶が、ふっと浮かぶ。
七つの春だった。母と祖父の屋敷へ向かう途中の街道で、馬車が止まった。戦から戻った軍隊の列が、土煙の中を通っていた。
先頭にいたのは、若い騎士だった。黒い鎧は傷だらけで、肩から腕にかけて、乾いた血が黒くこびりついていた。馬の上で、背をまっすぐ伸ばしたまま、誰も見ようとしない目をしていた。
周りの大人たちは、顔をそむけて道を空けた。子どもは恐ろしさに泣き出した。
けれど私は、馬車を飛び出して、その人の前に立った。
手に、道ばたの枯れ草を握りしめて。
『お兄さん、いたいの? これ、あげる』
泣きたくなった。血だらけの人が、笑えないでいる。何かしなければと思った。
枯れ草の先に、私は息を吹きかけた。
くすんだ茎の先が、ふくらんで、白い花が、ぽん、と咲いた。
その人は、ひどく驚いた顔をした。
それから、血で汚れた手で、そっと花を受け取った。
「あの日の、騎士様」
声が、かすれた。
「十九だった」
隣で、殿下が静かに言った。
「初陣の帰りだ。その戦で、私は友を何人も亡くした。帰り道、誰の顔も見ることができなかった。血まみれの鎧を着た私に、人は皆、恐れて道を空けた」
殿下の目が、額の花に向けられる。
「怖がらずに花をくれた子どもは、あとにも先にも、お前だけだ。しかも、枯れ草から花を咲かせて見せた。……あの日のことを、私は一日も忘れたことがない」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「その花は、永遠に枯れないと思っていた。実際は、少しずつ色が落ちた。だが、押し花にして、手元に置いた。十年だ」
はっとした。小さな五枚の花びら。王子妃選びの日、殿下が私の髪に挿してくれた氷晶花と、同じ形だった。
「殿下。あの日の氷晶花は」
「この花に、いちばんよく似た花を探した。王都の近くには、なかった」
殿下は、額から目をそらした。
「園遊会のあと、北の雪山まで天馬車で飛んだ。往復で、三日かかった」
七日しかなかったうちの、三日。雪山の岩場で、この人は、一輪の花を探していたのだ。
「見せてください」
私は、額に指を伸ばした。ガラスごしに、古びた花びらに触れる。
指先から、小さな力が流れた。
ほろり、と花びらの色が変わった。茶色が薄れ、白が、よみがえる。十年前の春の色だった。
殿下の目が、見開かれた。
「アマリア」
二人きりで、初めて名前を呼ばれた。
その声は、驚くほど低くて、やわらかかった。
「ずっと、持っていてくださったのですね」
「ただの花だ」
「ただの花を、十年も」
「黙れ」
殿下は、顔をそむけた。耳が、さっきよりずっと赤い。
氷の大公が、照れている。
それを見て、思わず笑ってしまった。胸のあたりがあたたかい。前の世で、いちども感じたことのない種類のあたたかさだった。
「あのあと、馬車の紋章を調べた。ロートリンゲン家の長女だとわかった。それから十年、成長を、遠くから見ていた」
「知りませんでした」
「言う気もなかった。ルドヴィクの妃になる娘だと、聞いていたからな」
殿下は、ふっと目を伏せた。
「だが、あの日、お前は自分の足で私の屋敷に来た。剣を突きつけられても、笑ってみせた。血まみれの私を見上げた、あの日と同じ目で」
私は、言葉が出なかった。
前の世では、そもそも出会えなかったのだ。ルドヴィクの婚約者だった私は、遠くから会釈をするだけで、この花の人と、言葉を交わすことはなかった。
「では、殿下。あの日の子どもだとわかっていたから、私の申し出をお受けになったのですか」
「違う」
「違うのですか」
「第一王子を救うためだ。それが主な理由だ」
「主な」
「黙れと言ったはずだ」
「はい。黙ります」
くすくす笑う私を、殿下は横目でにらんだ。にらんだけれど、その目に刃はない。
「一つだけ、言っておく」
低い声が、少しだけ改まる。
「契約の期限が来るまで、お前に手は出さん。それは約束する。だが、その間に何があっても、お前は私の妻だ。誰にも、お前を傷つけさせない」
「心強いお言葉です」
「冗談ではない」
「存じております」
私が頭を下げると、殿下は小さく息を吐いた。ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
顔を上げたとき、殿下の手が、すっとのびてきた。
頭を下げたひょうしに、髪がひと房、頬にかかっていたらしい。殿下はそれを指ですくって、私の耳のうしろへかけた。指の背が、頬から耳へ、ゆっくりとなぞっていく。
「……殿下。手は、出さないのではなかったのですか?」
「出していないだろう」
殿下の口もとが、ふっとほどけた。
笑った。氷の大公が。剣を突きつけたときと同じ顔とは思えないほど、やわらかく、甘く。
そのまま、大きな手のひらが、私の頬を包むようになでた。親指が、目じりから頬のふくらみへ、ゆっくりとすべっていく。
「出していない。これは、なでているだけだ」
「同じことです……!」
声が裏返った。顔から火が出そうで、思わずうつむく。うつむいたら、殿下の手のひらに、自分から頬を押しつける格好になってしまった。
ちがう。今のは、ちがう。
顔を上げられない。耳まで熱い。殿下の手のひらだけが、ひやりと冷たくて、そこにばかり気持ちが集まってしまう。
「顔が赤い」
「殿下のせいです」
「そうか」
嬉しそうな声だった。この人、わかっていて言っている。
これは契約だ。契約のはずだ。
そう自分に言い聞かせたとき、廊下を足早に近づく音がした。
「大公殿下!」
従者が、息を切らして飛び込んできた。手に、金の縁取りの封書を握っている。
「王宮の側妃宮より、使者が参りました。イゾルデ様から、婚約祝いの舞踏会の招待状です」
殿下の目が、鋭く細まる。
「イゾルデが」
「はい。お二人そろって、ご出席を、と」
殿下が封を切る。私は、横からのぞきこんだ。
美しい飾り文字の招待状。その隅に、小さく添え書きがあった。
『お姉さま、ぜひお越しくださいね ミレイユ』
見慣れた、丸みを帯びた筆跡。
私の背筋が、すっと冷たくなった。




