閑話 七つの子がくれた花(シルヴェスター視点)
十九の春、私は人の顔が見られなくなった。
初陣だった。国境の谷で三日戦い、氷の魔法で敵の槍を何百と凍らせた。国中でも使える者の少ない、血筋の力だ。同じ天幕で眠った友が七人、戻らなかった。帰りの街道には民が並んでいた。万歳の声は聞こえなかった。皆、鎧にこびりついた黒い血を見て、顔をそむけ、道を空けた。泣き出す子どもがいた。
それでいい、と思った。血まみれの男が怖がられないほうがおかしい。
馬上で背をのばし、前だけを見ていた。見ていないと、馬の上で泣きそうだった。
その前に、小さな影が飛び出した。
馬が止まる。後ろで騎士が叫ぶ。七つほどの女の子だった。栗色の髪。道ばたの野で摘んだらしい、くすんだ枯れ草を、握りしめている。後ろには、ユニコーンの引く馬車が止まっていた。額に一本角のある白い獣が、心の清い者しか乗せない、と聞く。
「お兄さん、いたいの? これ、あげる」
茎が、握りしめたせいで少しつぶれていた。
私は手を出しかけて、ためらった。血で汚れた手だ。草が汚れる。
子どもは、ためらわなかった。枯れ草の先に、ふうっと息を吹きかけた。くすんだ茎がふくらんで、白い花が、ぽんと咲いた。血の匂いの上に、白が一つ、ひらいた。
驚いて顔を上げた私に、子どもは得意げに笑った。
「ね、さいた」
私は、血で汚れた手で、そっと花を受け取った。
それから、馬車へ駆け戻っていった。この子には、草花を咲かせる小さな力があるらしい。
礼を言ったのかどうか、覚えていない。声が出なかったのかもしれない。ただ、ユニコーンの馬車の扉に刻まれた紋章だけは、目に焼きつけた。
その夜、野営の天幕で、花を水に挿した。翌朝、書物の間に挟んだ。
紋章を調べるのに、三日かかった。ロートリンゲン公爵家。長女の名はアマリア。調べ上げてから、自分が何をする気なのかと呆れた。七つの子に、血まみれの男が礼を言いに行くのか。親が剣を探す。
だから、行かなかった。
それから十年、遠くから見ていた。
社交の場に出ない男が、年に一度、新年の礼拝にだけは顔を出した。大聖堂の柱の陰に立つためだ。九つのアマリアは、七つの弟が列から抜けて走るのを追いかけて、小声で叱りながら、最後には二人で笑いをこらえていた。十二のアマリアは、背が伸びた。十五のアマリアは、母君の咳を気にして、何度も振り返っていた。
声をかけたことはない。かけられるはずもない。氷の大公と呼ばれる男が現れたら、あの子の笑顔が消える。
それでよかった。あの子が笑っていれば、それでよかった。
あの子が十七になる年の初め、兄上に呼ばれた。
「ルドヴィクの妃に、ロートリンゲン家の娘の名が挙がっている。お前、何か知っているか」
「いいえ」
嘘ではない。私は何も知らなかった。知っているのは、あの子が笑う顔だけだ。
「第四王子は、気の長い男ではないぞ。あれは、いずれ誰かの足を引く」
「存じております」
「お前が口を出すなら、今のうちだ」
「出す筋ではありません」
口にしてから、腹の底が冷えた。
花一輪の借りを、十年たって、口出しで返すわけにはいかない。あの子が自分で選ぶのなら、それがあの子の人生だ。私に何の権利がある。
そう言い聞かせて、諦めた。諦めるのは、得意だった。
壁の額に入れた押し花は、外さなかった。それだけだ。
*
あの子が十七になった春、あの子のほうから、私の屋敷へ来た。
剣を向けても笑い、契約で結婚してくれと言い、一度殺されたと言った。
十年、遠くから見ていた娘は、私が思っていたより、ずっと強かった。
*
契約書を交わす朝、私は執務室の机の前で、羽ペンを持ったまま動けずにいた。
三つの条項は、すでに決まっている。妻として振る舞う。家族を守る。第一王子の指名後、双方の合意で解消してよい。
四つ目を、足す。
足すと決めてあった。昨夜、一睡もせずに考えた文言だ。あの子の前で、自分の手で書き加える。そう決めて、紙の切れ端に一度だけ書いてみた。
『ただし、妻を害する者は、シルヴェスターが斬る』
書いてから、読み返した。契約書にあるまじき文だ。法に詳しい者が見たら、笑うだろう。
だが、これを書かずにはいられなかった。
契約は、あの子を縛る紙にしたくない。守る紙にしたい。期間が終われば、離縁してやる。それまでの間、指一本でも触れる者があれば、私が斬る。それだけを、紙に残しておきたかった。
十年前、私は花の礼を言えなかった。
あの花の分は、返す。誰にも言っていない、私一人の誓いだ。
アマリアに理由を問われたら、面目だと答えるつもりだった。私の妻が傷つけば、私の面目が立たない。もっともらしい理屈だ。
実際に問われ、そのとおりに答えた。
アマリアが、私の顔をじっと見ていた。耳が熱かった。気づかれたかもしれない。氷の大公の、一生の不覚だ。
署名が終わり、インクが乾いていく。契約書が二枚、それぞれの手に渡る。
私は、アマリアに屋敷を案内した。廊下を歩きながら、頭の中は一つのことでいっぱいだった。
あの額を、どうするか。
朝のうちに、一度外した。見られたくなかった。あの花を十年も飾っていたなどと、知られたら、重い男だと思われる。
外すと、壁に四角い跡が残った。日に焼けなかった部分だけが、白く浮き上がって、ごまかしようがない。
結局、元に戻した。
隠しても、無駄だ。この壁を見る者には、何かあったとわかってしまう。どうせ隠せないなら、見せてしまえばいい。
そう決めたのに、廊下の突き当たりの扉の前で、私の足は止まった。
「ここは」
「私の私室だ。入れ」
喉が、ひどく乾いていた。
扉を開ける。アマリアが先に入る。
私は、その横顔を見ていた。書き物机を見て、寝台を見て、それから、壁の額に目が行く。
白い、小さな花。茶色に古びた花びら。
アマリアの目が、ゆっくりと大きくなった。
七つの子の目だった。
私は何も言わず、ただ、その横顔を見ていた。心臓の音が、剣を振った後より、うるさかった。




