第10話 舞踏会の罠
「行くべきではありません」
イレーネは、ドレスの背のリボンを結びながら、何度目かの言葉を繰り返した。
「イゾルデ様は、第四王子殿下の母君です。お嬢様を快く思っているはずがありません。そんな方の宴に、わざわざ」
「断れば、王弟妃になる者が側妃を無視したと言われるわ。陛下の側室の誘いよ。行かないわけにはいかないの」
「でも、お嬢様」
「大丈夫。殿下も一緒だし、ユリウスも護衛につくから」
鏡の中の私は、淡い青のドレスを着ていた。園遊会と同じ色。今日は、胸もとに白い花の飾りをつけている。窓辺の鉢から咲かせたばかりの、本物の花だ。
正直に言えば、少し怖かった。
これまでの私は、前の世の記憶を頼りに動いてきた。ルドヴィクの手口も、ミレイユの癖も、知っていた。けれど、この舞踏会は、前の世にはなかった。
私が王子妃にならなかったから。私が大公と婚約したから。生まれた、新しい宴だ。
何が来るのか、わからない。
それが、前の私が持っていなかった種類の怖さだった。
迎えに来たのは、銀色の天馬車だった。
「乗れ」
扉を開けた殿下が、手を差し出す。
天馬車に乗るのは、初めてだった。翼のある白馬が四頭、石畳を蹴る。ふわり、と体が浮いた。
「わ」
思わず、殿下の袖をつかんでいた。
窓の外で、屋敷の屋根がぐんぐん遠ざかる。王都の灯りが、足の下に広がっていく。魔石灯の青白い光が、夜の街に、星の海を広げていた。
「きれい」
「落ちない」
「え」
「落とさない、という意味だ。窓から身を乗り出すな」
殿下の腕が、いつの間にか私の肩に回っていた。本人は気づいていないらしい。灰色の目は、私ではなく、窓の外を見たままだ。
耳だけが、赤かった。
王宮の前庭には、各家の馬車がずらりと並んでいた。魔獣の馬車、一角獣の馬車。その中央に、黒い二頭立ての豪華な馬車がある。二本の角を持つバイコーンが、御者の鞭に追われて、泡を吹いていた。
舞踏会の広間は、金色にきらめいていた。
イゾルデ様は、玉座にほど近い席で、扇をゆったり動かしていた。年齢を感じさせない艶やかな人だ。目だけが、猫のように細い。
「まあ、大公殿下。アマリア。ようこそ、おいでくださいました」
「お招きに感謝いたします、イゾルデ様」
「婚約おめでとう。あなたのような美しい娘が、叔父上のものになるとは、ルドヴィクもさぞ残念でしょうに」
棘のある言葉を、完璧な笑顔でくるむ。私も、同じだけの笑顔で返した。
「恐れ入ります」
その横で、殿下が低く言った。
「あまり長居はしない」
「あら、殿下。せっかくの舞踏会ですのに」
「用がある」
しばらくして、その「用」はやって来た。
陛下の使いの侍従が、殿下に何か耳打ちした。殿下の眉が、わずかに動く。
「陛下がお呼びだ。国境の報告の件らしい」
「今ですか」
「すぐ戻る」
殿下は、私を壁際の席に座らせた。そして、卓上の水差しを自分の手で取り、杯に水を注いだ。
「飲め」
「はい」
「これは私が注いだ水だ。これ以外のものは、一滴も口にするな。給仕が持ってくるものも、人が勧めるものも、全部断れ」
「殿下、心配しすぎでは」
「するだろう」
殿下は、私の髪に挿した白い花に、指先で、ほんの一瞬だけ触れた。
「お前に、何かあれば、ここにいる全員を凍らせる」
冗談の声ではなかった。
殿下は行きかけて、ふと足を止めた。
視線の先で、どこかの家の若い貴族が、こちらを見ていた。正確には、私を。目が合うと、にこやかに会釈してくる。
殿下の腕が、すっと私の腰に回った。引き寄せられて、肩が殿下の胸に当たる。
「殿下、人前です」
「人前だからだ」
殿下は、その若い貴族をまっすぐに見た。それだけで、若い貴族の手の中の杯に、白い霜がぱきぱきと這い上がった。若い貴族は青い顔で杯を置き、そそくさと人混みにまぎれていく。
「……手は出さないと、おっしゃいませんでしたか」
「出していない。腰に置いているだけだ」
「それを、出していると言うのです」
言い返したのに、声がどんどん小さくなった。殿下の胸に当たった肩が、熱い。周りの令嬢たちの視線が、扇のうしろから突き刺さってくる。
殿下は、私を見下ろして、目もとだけで笑った。さっき若い貴族をにらんだのと同じ人とは思えない、甘い顔で。
「誰とも踊るな。私が戻るまで、誰の手も取るな」
耳もとで低くささやかれて、首筋がぞくりとした。殿下はようやく腕をほどき、名残惜しそうに一度だけ振り返ってから、人混みの向こうへ消えた。
おかしい、と思った。
このタイミングで、王が弟を呼ぶだろうか。しかも、舞踏会の最中に。
けれど、確かめる手段はない。私は、一人になった。
ふと気づくと、広間の客が減っていた。
音楽は続いている。灯りも明るい。それなのに、先ほどまで談笑していた貴族たちが、何組もまとまって、東の回廊へ消えていく。
「皆さま、庭の月を愛でにいらっしゃるのよ」
通りがかったイゾルデ様の侍女が、聞いてもいないのに微笑んだ。
「アマリア様も、いかがです?」
「いえ、私は殿下をお待ちしておりますので」
「左様でございますか」
侍女は残念そうに会釈して、去っていった。
去り際の目が、私の足から頭まで、値踏みするように動いたのを、見逃さなかった。
ユリウスを探した。広間の出入り口に立つ姿が見えた。護衛の騎士として、持ち場を守っている。目が合うと、ユリウスは小さく手を上げた。
安心した、その直後だった。
「お姉さま」
背後から、甘い声がした。
ミレイユだった。桃色のドレスに、真珠の髪飾り。以前より、ずっと艶やかに見える。
「ごきげんよう、ミレイユ」
「お姉さま、おめでとうございます。婚約が決まって、私、本当に嬉しいの」
「そう」
「怒っていらっしゃる? 先日は、殿下のことで、いろいろと失礼を。反省していますの。お姉さまに、お詫びがしたくて」
おかしい。
つい先日、私に向かって「前みたいにはいかないわよ」と囁いた子が、まるで人が変わったように、涙ぐんで頭を下げている。
私の中で、警戒の鐘が鳴っていた。
「いいのよ。もう終わったことだわ」
「ありがとう、お姉さま。そうだ、これ」
ミレイユは、近くの侍女の盆から、赤い星葡萄の酒のグラスを取った。
盆を持った侍女の背に隠れるように、ミレイユは身をひねる。磨かれた銀の盆の縁に、ミレイユの手元が小さく映った。
小さな瓶が、グラスの上で傾く。
一度。
そして、ほんの少し間をおいて、もう一度。
何をしているのだろう。酒に、香でも足しているのだろうか。
ミレイユは、にこやかにグラスを差し出した。
「ユリウスが、お姉さまにって」
「ユリウスが?」
「ええ。あちらで、お姉さまが一人でいるのを気にしていたの。自分で持ってきたいけど、持ち場を離れられないからって、私に頼んだのよ」
広間の入り口で、ユリウスが背筋を伸ばしている。確かに、こちらを気にしているように見えた。
いや、見えた気がしただけだ。
「ありがとう。でも私、お酒は。殿下に、何も口にするなと言われているの」
「一口だけ。乾杯の真似事でもいいから。ね? お姉さま、お願い」
ミレイユは目に涙をためて、私を見上げた。
周りの貴族たちが、こちらを見ている。断れば、人前で泣かれる。王子の母の宴で、妹を泣かせた姉。そう書かれるだろう。
殿下の言葉が、頭をよぎった。けれど、ユリウスの名前が、そこに重なった。弟が、わざわざ。
一口だけなら。
私は、グラスを受け取った。唇をつけ、ほんの少しだけ口に含む。
甘かった。果実の匂いに、何か別のものが混じっている。
花を煮詰めたような、重たい甘さが、舌の奥に残る。魅了の香だ。祖父の書物で読んだことがある。人の心を溶かし、足の力を奪う、媚薬の一種。
はっとして、グラスを置いた。
「ミレイユ、これは」
「どうなさったの、お姉さま? 顔が赤いわ」
体の奥が、かっと熱くなった。
思っていたより、ずっと強い。熱さが、全身を駆け上がる。足もとが揺れる。広間の灯りが、急に滲んで見えた。手の指先が痺れて、扇が滑り落ちる。
息が、うまく吸えない。
ユリウスを呼ぼうとした。声が出ない。
唇を噛んだ。血の味がする。意識を手放してはいけない。ここで倒れたら、全部、終わる。
「まあ大変。お姉さま、ご気分が悪いのね」
ミレイユが、私の腕を支えた。やさしい声で、耳もとにささやく。
「休憩室へ、ご案内しますわ」
その手を振り払いたいのに、力が入らない。
いつの間にか、イゾルデ様の侍女が、反対側に立っていた。
「アマリア様、どうぞこちらへ。お水をお持ちいたします」
二人に挟まれて、廊下へ連れ出される。
ユリウスの背中が、遠ざかった。
長い廊下。足が、床を踏んでいる感触がない。熱い。頭がぼんやりする。
侍女が、小声でミレイユに囁いた。
「ミレイユ様。さすがに、これは効きすぎでは。顔色が」
「いいのよ。私が、決めたの」
ミレイユの声は、うきうきと弾んでいた。
「ふふ。お姉さま、まだ壊れないでね。まだ、これからよ」
壊れる。
意味を考える余裕は、なかった。
重い扉が、開いた。
薄暗い部屋に、押し込まれる。背後で、侍女とミレイユの足音が離れていく。
肩をつかまれて、ひどく乱暴に引き起こされた。
目の前に、金色の髪。
「やっと来たな、アマリア」
ルドヴィク殿下だった。
扉に、かちりと鍵がかかる音がした。
殿下は、にやりと笑った。
「叔父上の婚約者が、俺の部屋にいたら……どうなるかな」




