第11話 間一髪
◇ミレイユ◇
広間のシャンデリアの下で、私はグラスを持ったまま、何度も扉のほうを見ていた。
お姉さまの星葡萄の酒には、イゾルデ様からいただいた薬を入れた。
「一匙ですよ、ミレイユ」
小瓶を渡すとき、イゾルデ様は扇の陰で念を押した。
「熱が出て、足がもつれて、人に支えられる。それくらいがちょうどいいの。多く入れれば、体に障ります」
はい、と私は素直に頷いた。可愛い義理の娘の顔で。
入れたのは、倍の二匙。
「そろそろですよ、ミレイユ。ちゃんと一匙、入れましたね?」
「はい、イゾルデ様。きっかり、一匙」
「よろしい。半刻したら、貴族たちを連れて扉を開けます。王弟の婚約者が甥の部屋にいた。これを見れば、いくら氷の大公でも、妻には迎えられません」
「婚約は破談ですね」
「行き場をなくしたアマリアは、息子の側妃に。正妃はあなた。約束どおりよ」
扇の陰で、イゾルデ様の唇だけが笑っている。この人は、自分が汚れないことだけを考えている。
けれど私は、一匙では足りないと思った。
前の人生で、お姉さまが最後に私へ向けた目。血を流しながら、哀れむように見上げた目。あれが、どうしても忘れられない。あんな目をする人が、正気のまま側妃に落ちて、おとなしく頭を下げるはずがない。
壊れてしまえばいい。
薬師は言っていた。量を間違えれば、体の熱が引いても、心が戻らなくなることがあると。
かまわないわ。
壊れたお姉さまを、殿下の側妃として一生飼ってあげる。私の靴音を聞くだけで怯えて笑う、お人形にして。毎朝、私の髪をとかさせるの。
私はグラスを傾けて、にっこり笑った。
◇アマリア◇
体の中で、火が燃えている。
あの甘い星葡萄の酒の味が、舌の奥に居座っている。ミレイユが笑って差し出したグラス。ユリウスの名を使われて、疑いもせずに受け取った自分が、悔しくてたまらない。
床がゆがんで見える。壁の模様が波打つ。心臓の音が、耳の奥で鳴りやまない。ただの媚薬の熱ではない。頭の芯まで、白く溶かされていく。
「顔が赤いな、アマリア。苦しいか?」
ルドヴィク殿下が、一歩ずつ近づいてくる。殿下の頬も赤かった。同じ酒を飲まされたらしい。それでも足取りは、私よりずっとしっかりしている。
「殿下。お下がりください。私は王弟殿下の婚約者です」
「だから何だ。叔父上より、俺のほうが若い。それに、もうすぐ皆が来る。お前が俺の寝台にいるのを見て、叔父上がどんな顔をするか楽しみだ」
殿下は、楽しそうに指を鳴らした。
「安心しろ。悪いようにはしない。側妃にして、一生俺の屋敷で飼ってやる」
飼う。
背中を冷たいものが走った。どこかで同じ言葉を聞いた気がする。誰かが、同じ顔で笑っていた気がする。
殿下の手が、私の手首をつかんだ。引き寄せられる。ふり払おうとしても、腕が言うことをきかない。
一度死んだ身なので、たいていのことは怖くない。そう思っていたのに、指先が冷たくなっていく。声を出そうとして、唇が動かない。
(前の私なら、ここで泣いていた)
泣かない。
私は、舌の先を、思いきり噛んだ。
鉄の味が広がる。痛みだけが、私をこの部屋につなぎとめている。
寝台の足もとに、燭台があった。あれに届けば、殴れる。右手を伸ばす。指が、あと少しで鉄に触れる。
そのときだった。
窓が、砕けた。
ガラスが光の雨になって降る。冷たい夜風が吹きこみ、魔石灯の光が一斉に揺らいだ。窓の外に、巨大な白い翼が広がっている。
「なっ」
殿下が振り向くより早く、黒い革の鎧の女が飛びこんできた。長い剣の柄が、殿下のみぞおちに叩きこまれる。殿下は声もなく床に転がった。
「失礼。お取り込み中でしたか」
女は剣を収めて、私を見下ろした。短く切った赤毛。日に焼けた頬。
「ブランシュ・デュヴァリエと申します。竜騎士です。王弟殿下のご依頼で参りました。歩けますか?」
竜騎士は、王国最強の軍だ。この人は、その将軍の孫娘だと聞いたことがある。
「歩け、ません」
「でしょうね。失礼します」
ブランシュは私を軽々と抱え上げ、割れた窓の縁を蹴った。
体が宙に浮く。落ちる、と思った次の瞬間、足の下に硬くて温かいものがあった。白い鱗。大きな翼。
「ネージュ、下へ」
白竜の名だ。ブランシュだけに従う、王国でも数頭しかいない白い竜。
白竜は長い首をひとつ振って、夜の庭へ降りていく。
庭の真ん中に、黒い外套の人が立っていた。
地面に着く前に、その腕が伸びる。私はブランシュの手から、外套の中へ受け取られた。
「遅くなった」
低い声。氷の大公の声が、わずかに震えている。
「大公殿下。申し訳、ありません」
「謝るな。今は黙っていろ」
シルヴェスターは、私を抱いたまま動かなかった。外套の下の腕が、骨が軋むほど強い。この人の心臓が、早鐘を打っているのが聞こえる。
氷の大公の心臓が、こんなに速いなんて。
「ルドヴィクは」
「床で寝ております」
ブランシュが、手袋を直しながら答える。
「みぞおちに柄を入れましたので、朝まで起きないでしょう。多少、手加減はしました」
「多少か」
「ええ。多少」
「折ってよかったのだぞ、腕の一本くらい」
「次の機会にいたします」
冗談とも本気ともつかない二人の会話が、遠くで聞こえた。
「姉上!」
ユリウスが走ってきた。顔が真っ青だ。
「ごめん、姉上。あの酒、俺の差し入れのふりをして渡されたって、あとで聞いた。俺の名前を使うなんて」
「ユリウスのせいではないわ」
笑おうとしたが、うまく笑えたかどうかはわからない。
祖父の弟子の治癒師が駆けつけ、私の瞼を指で開いて、舌の色を見た。手のひらから淡い光がこぼれる。治癒師は、手から光を出して体の中を探るのだ。それから、顔色を変えた。
「殿下。これは、並の量ではありません。通常の倍、いや、それ以上です。運ばれるのがあと四半刻遅ければ、熱が引いても、お心が戻られなかったかもしれません」
庭の空気が、ぴしりと凍った。比喩ではない。シルヴェスターの足もとから白い霜が走り、庭石も、噴水の水も、音を立てて固まっていく。氷の魔法を使うこの人は、怒ると周りの空気まで凍らせるのだ。
「倍、だと」
シルヴェスターの声が、地の底から響いた。
「眠らせるための量ではありません。人の心を壊すための量です。誰かが、わざと」
「ミレイユ」
私は、かすれた声で言った。イゾルデ様が仕込んだにしては、強すぎる。量も考えずに倍を入れるような人間は、ほかにいない。
シルヴェスターが、私の額に自分の額を押し当てた。
「お前が壊れていたら、私は国ごと焼いていた」
低く、ただそれだけ。
私は、泣きそうになるのをこらえた。
あれは魅了の香を星葡萄の酒に溶かした薬だったという。苦い解毒の薬を口に含まされ、しばらくすると、熱が少しずつ引いていった。その間ずっと、冷たい手が私の額と頬に触れていた。シルヴェスターの指先からこぼれる氷の気配が、焼けた頭をなだめていく。
「アマリア、歩けるか」
「はい。見に行きます」
「見る必要はない」
「あります。自分を罠にかけた人たちが、どうなるのか。自分の目で見たいのです」
シルヴェスターはしばらく私の顔を見て、それから黙って肩を貸した。
ユリウスが声をひそめる。
「休憩室の庭側の使用人用の扉は、こちらで鍵を外しておきました。そうしたら、ミレイユ様の侍女が、自分から入っていくのが見えたんです。カティアという女です。ルドヴィク殿下が倒れているのを見て、迷いもせずに」
「欲の深い女だ」
シルヴェスターが、低く言った。
庭を出る前、石畳の向こうに、一台の馬車が待っているのが見えた。銀の車体に氷の紋章。翼のある白馬が四頭、夜風に羽をたたんでいる。王弟家の天馬車だ。あれで、すぐに連れ帰るつもりだったのだろう。それでも私は首を振った。
廊下の柱の陰に、三人で立つ。広間のほうから、人のざわめきが近づいてきた。
先頭にいるのは、イゾルデ様。後ろに、貴族たちの列。その一番後ろで、ミレイユが胸の前で手を組んでいる。目が、うれしそうに光っていた。
「皆さま、こちらへ! どうやら、不届き者が休憩室に入りこんだようですの!」
イゾルデ様が、扉を勢いよく開け放った。
部屋の中。乱れた寝台の上に、ルドヴィク殿下が横たわっていた。気を失ったまま、頬を赤くして。
その胸にすがりつくようにして、ミレイユの侍女のカティアがいた。




