第40話 次の世は、イージーモードじゃない
目を開けると、白かった。
床も、壁も、空もない。やわらかい光だけが、どこまでも続いている。体が軽い。腰の痛みも、咳も、手の震えも、跡形もなくなっていた。
見下ろすと、手が、しわのない手に戻っていた。
ああ、この場所は、知っている。
「おつかれさま。いい人生だったね」
背後から声がした。振り向くと、女神が立っていた。
白い服の裾が、風もないのにゆらゆらと揺れている。長い髪をゆるく束ねて、腰に手を当てて、にっこり笑っている。前に会ったときと、何も変わらない。
「ええ。とても」
私は、深く頭を下げた。
「約束を、守っていただきました。次は幸せになれる世に、と。ありがとうございます」
「あー、いいのいいの。そういうの、くすぐったいから。私、何もしてないし。幸せになったのは、あなたが、自分で選んで、自分で動いたからでしょ」
「でも、あの夜、もう一度だけ機会をくださらなかったら」
「それは、まあ、ね」
女神は、ちょっと照れたように頬をかいた。
「あのときは、あなたの魂が、あまりにもかわいそうだったから。『とんだ体質ね』って、言ったのは覚えてる?」
「はい」
「あれ、ちょっとだけ、後悔してるのよ。傷ついた顔してたもの」
「いいえ。おかげで、笑えました」
女神は目を丸くして、それから、ふふっと笑った。
「そっか。そっかそっか。それなら、報われたわ。私も」
「あの、女神さま。ひとつだけ、お聞きしても」
「なあに」
「ミレイユは。妹は、どうなりましたか」
女神は、少しだけ真顔になって、指でくるりと空をなぞった。光の絵に、北の果ての修道院が浮かぶ。雪の中、灰色の服を着た女が、朝の祈りを捧げていた。老いた顔に、もう、あの甘い笑みはない。ただ、静かだった。
「ちゃんと、生きたわよ。最後まで。最後の日にね、窓に咲いた白い花を見て、ちょっと笑ったの。誰かさんの名前をつぶやいてた」
「そう、ですか」
「許さなくていいのよ。ただ、知っておくだけで」
「ええ。知っておきます」
それだけで、胸の奥の最後の棘が、ふっと抜けた気がした。
女神は、私の顔をのぞきこんで、にこにこしている。こうして近くで見ると、少しだけ目が潤んでいた。気のせいかもしれない。
それから、手のひらを軽く掲げた。
「ちょっとだけ、見る? あなたが旅立ったあとの、向こうの様子」
光が、ほどけるように形を結んだ。
白い花の庭。夕暮れの空。
庭じゅうの花が、季節でもないのに、いっせいに咲いていた。孫の誰かが、私の真似をして咲かせたのだろう。咲いた花の一つひとつに、薄い霜がおりて、夕日に七色にきらめいている。氷と花。二人の力が、そこで一つになっていた。
白い花畑の端に、小さな墓石がひとつ、立っている。その前に、白髪の老人が、背をまっすぐ伸ばして立っていた。
シルヴェスターだった。
手には、摘んだばかりの白い花が一輪。
老人は、ゆっくりと膝を折った。ひざが痛むのだろう、杖を支えにして、そっと。
白い花を、墓石の前に置く。
「アマリア」
声は聞こえない。けれど、唇の動きで、わかった。
「お前の好きな花だ。今年も、咲いたぞ。子どもたちも、みな元気にしている。心配はいらない」
老人は、墓石に手を置いた。まだぬくもりがあるはずもないのに、その手つきは、眠る人の頬に触れるようにやさしかった。
「少しだけ、待っていてくれ。すぐには行けないが、必ず行く」
空の端に、銀の車体の天馬車が一台、静かに降りてくる。翼のある白馬が四頭。ペガサスたちは、墓石のそばで首を垂れ、そっと翼を閉じた。
その背後に、子どもたちが並んでいた。リーナ、マティアス、ロッテ。孫たち。ひ孫たち。ユリウスとフリーダ。杖をついたブランシュ。その肩の上を、白い竜の影が、大きな円を描いて飛んでいる。
誰もが、泣きながら、笑っていた。
シルヴェスターの横に、小さなひ孫がひとり、とことこと進み出た。リーナの孫娘だ。手に持った花冠を、墓石の上にのせる。
「ひいおばあさま。おやすみなさい」
その声が、風に乗って届いた気がした。
私は、目を閉じた。
涙が、頬を伝う。悲しい涙ではなかった。
「……みんな、幸せそう」
「でしょ? あなたが作った世界よ」
「私が、ですか」
「氷の大公を溶かして、花を咲かせた人が、何言ってるの」
女神は、ひじで私の脇腹をつついた。
女神の声は、やさしかった。
それから、光の絵の隅で目を赤くしているユリウスを、ちょいと指さした。
「あ、そうだ。弟くんもね、もっともっと前の世からのご縁なのよ。今度は、ちゃんと仲よし姉弟にしてあげたでしょ?」
「前の世からの……ユリウスが、ですか」
「うふふ。ひみつー」
女神は片目をつぶって、それ以上は教えてくれなかった。
光の絵が、ゆっくりと薄れていく。最後に残ったのは、白い花一輪だった。
しばらく、二人とも黙っていた。白い光のなかで、遠くの鐘のような音がひとつ、ゆっくりと響いて消えた。私の人生の最後の鐘だったのかもしれない。
やがて、女神が咳払いをした。
「あー、で、ね」
「はい」
「ちょっと、言いにくいんだけど」
女神は、急に目をそらした。指先をもじもじと合わせている。
「……で、残念だけど、次の世は今回ほどイージーモードじゃなさそうなのよね」
「え」
自分の声が、情けなく裏返った。
「ええっと、イージー……?」
「あ、ごめん、軽く言いすぎた。つまり、今回みたいに、味方が最初から揃ってたり、旦那さまが全力で溺愛してくれたりは、しないかもってこと」
「かもって、どういう」
「正直、けっこう大変。たぶん、今回より、ずっと」
「女神さま」
「ごめんねー。私も、毎回、がんばって調整してるのよ。でもあなたの魂、なんかこう、ものすごく難しい世界に引き寄せられちゃう体質で」
「また、体質ですか」
「そう、体質」
私は、思わず笑ってしまった。笑いながら、じわりと胸の奥があたたかくなった。この人は、本当に、変わらない。
「でも」
女神は、ぱっと顔を上げて、両手をぎゅっと握った。
「あなたなら大丈夫! がんばって!」
「そんな、軽く」
「だって、実績あるもの! 一度死んだ身で、氷の大公に取引を持ちかけて、国一つひっくり返した女の子が、何を弱気になってるの!」
「それは、まあ」
「ね? 大丈夫でしょ? それにほら、一人じゃないかもしれないし」
「かも、ですか」
「かも。ふふ、それはお楽しみ」
女神が、ウインクをした。
足もとの光が、ふわりと動いた。白い床が、潮が引くように後ろへ流れていく。体が、前へ前へと、見えない手に押されて浮き上がる。
「待って、まだ、心の準備が」
「大丈夫ー! 行ってらっしゃーい!」
「女神さま、せめて、行き先だけでも」
「それは、お楽しみー!」
光に、押し出される。
まぶしい。何も見えない。背中を押す力は、思ったよりやさしい。
最後に、女神の声が、遠くから聞こえた。
「あなたの幸せは、私が一番、応援してるからね!」
光の中で、私は思った。
シルヴェスター。あなたの手のぬくもりを、私は覚えている。覚えているうちは、きっと、大丈夫。
また、あの人みたいな人に、会えるかしら。
光が、はじけた。
次の世が、始まる。




