閑話 白い花を、墓に(シルヴェスター視点・最終話のあと)
アマリアが、いなくなった朝も、庭の白い花は咲いていた。
不思議なことだ。私は何度も庭を見回した。あれは、アマリアの力で咲いた花だ。咲かせた者がいなくなれば、しおれるはずだと、愚かにも思っていた。
花は、咲いていた。一輪も欠けずに、朝の光を浴びて。
私は、庭に立ち尽くした。
八十を過ぎた足で、毛布も持たずに。
「ひいおじいさま、お風邪を召します」
リーナの孫娘が、後ろから毛布をかけてくれた。小さな手だ。黒い髪を二つに結んで、眉をぎゅっとつり上げている。アマリアの小さいころの顔だ、と言っても、誰も信じない。私だけが知っている。
「ありがとう」
「ひいおばあさまのお花、ちゃんと咲いてるね」
「ああ」
「ひいおばあさま、お空から見てるのかな」
「そうかもしれん」
空の高さに、白い竜の影があった。ブランシュが、ネージュで葬儀の日の空を舞っている。杖をついた老竜騎士が、鞍の上で、背をまっすぐ伸ばしていた。
*
葬儀は、静かに終わった。
リーナは、泣き腫らした目で、「お父さまのことは、私たちが見ます」と言った。マティアスは領地の仕事を引き受け、ロッテは、母の最期を診た医師として、黙って唇を噛んでいた。ユリウスは、何も言わずに、私の肩を叩いた。
それが、あの小僧の精一杯の優しさだと知っている。
夜が来た。
寝室に戻っても、眠れなかった。
隣の寝台が、空いている。五十年以上、そこに誰かが眠っていた。夜中に目が覚めると、小さな寝息が聞こえた。時々、寝言で「ミレイユ」とか、「お母さま」とか、私の知らない名前を呼んだ。そのたびに、手を握った。
握る手が、もうない。
私は、何度か自分の手のひらを見た。
皺だらけの手だ。氷の魔法は、年とともに弱まった。昔のように窓を凍らせることも、槍を作ることもできない。それでも、ひとつだけ、いまも使える術がある。
アマリアが夏に、「暑いです」と言うと、私は小さな氷の花を作ってみせた。アマリアは、笑って、その花を手のひらにのせた。溶けるまで、飽きずに眺めていた。
あの笑顔が、私の氷の使い道のすべてだった。
*
ひと月ほどたった夕暮れ、私は庭の奥の墓へ向かった。
墓は、庭の一番日当たりのいい一角にある。小さな石だ。アマリアが、「大きなお墓は、落ち着きません」と生前に言ったので、そうした。石の横の土は、まだ何も置かれていない。私の場所だ。
杖をついて、ゆっくりと歩いた。
今日は、花を摘んできた。
白い、小さな花。道ばたに咲く、名もない花。
七つのアマリアが、血まみれの私に差し出した、あの花と同じ形をしている。
あのとき、花は私の手のひらで咲いた。しおれかけた蕾が、息をするように開いたのだ。その瞬間、私は初めて、泣くのをやめた。
膝を折る。痛んだ。杖を支えに、そっと。
白い花を、石の前に置いた。その瞬間、庭じゅうの花が、季節でもないのに、いっせいにほころんだ。孫の誰かが、アマリアの真似をして咲かせたのだろう。私の指先からこぼれた霜が、花びらの一枚一枚に薄くおりて、夕日に光った。
白い花を、石の前に置いた。
「アマリア」
声は、掠れた。
「お前の好きな花だ。今年も、咲いたぞ。子どもたちも、みな元気にしている。心配はいらない」
風が吹く。庭の花が、いっせいに揺れた。
「少しだけ、待っていてくれ。すぐには行けないが、必ず行く」
それから、言いそびれたことを、言った。
「お前が最後に言った言葉に、返事をしていなかった」
あのとき、私は何も言えなかった。涙があふれて、喉がふさがって、ただ手を握っていた。
来世も、また、あなたと結婚したいわ。
アマリアは、そう言って、目を閉じた。
「私もだ」
石の表面に、手を置いた。ぬくもりなど、あるはずもない。それでも、頬に触れるようにそっと。
「何度生まれ変わっても、私はお前に求婚する。契約でも、契約でなくても」
背後で、子どもたちの足音がした。
振り向かなくても、わかる。リーナも、マティアスも、ロッテも、孫たちも、ひ孫たちも。ユリウスとフリーダも。空の端から、天馬車が静かに降りてくる。ブランシュは杖をついて立ち、その頭上を、ネージュが大きく円を描いて飛んでいた。
リーナの孫娘が、とことこと前に出てきた。手に、花冠を持っている。
「ひいおばあさま。おやすみなさい」
冠が、石の上にのる。
小さな手が、私の指をそっと握った。あたたかかった。
「ひいおじいさま、泣いてるの?」
「少しな」
「いたいの?」
「いいや。幸せなのだ」
孫娘は、首をかしげた。
「ふしぎ。幸せなのに、泣くの?」
「そうだ。幸せな人間は、よく泣く」
それは、アマリアが教えてくれたことだ。
*
墓の前に座っていると、昔のことが、波のように寄せてくる。
娘が生まれた日。戴冠式の大聖堂から走った道。私は産室の扉の前で、椅子を十回蹴り倒した。扉が開き、寝台のアマリアが、産着の包みを私に差し出した。小さな、黒い髪の娘だった。
泣いた。人前で、初めて。部下たちが目をそらしてくれた。
息子が生まれた日。次女が生まれた日。天馬車の窓から、子どもたちに王都を見せた日。ネージュの背で、三つの子が「おそら!」と叫んだ日。
そのたびに、アマリアは隣にいた。
一度として、「契約」の話をしなかった。契約書は暖炉の中だ。最初から、離縁するつもりなどなかった。
アマリアは、私に、生きる意味を渡してくれた。血まみれの手に、白い花を置いた、七つの日から。
百年守ると、私は言った。
その約束には、届かなかった。アマリアは笑って、「百年は長いですよ」と言うだろう。
だから、残りは、私が引き受ける。
ユリウスが、帰り際に言った。
「義兄上。姉上は、いつも言っていました。『シルヴェスター様が笑うと、春が来る』って」
「大げさだ」
「俺もそう思います。でも、ほんとでした」
あの小僧は、白髪頭になっても、泣き虫のままだ。
墓石のそばに、白い花の根がのびていた。
アマリアの咲かせた花は、種をこぼし、庭の外へ、領地の丘へと広がっていった。春になると、丘一面が白くなる。領民は、それを「奥方の花」と呼んだ。氷の大公の妻が咲かせた花。
私は、この丘を、アマリアのいない春にも、毎年見るのだろう。
それも、悪くない。
*
夕陽が、庭を金色に染めた。
私は、墓の前でしばらく立っていた。
もし、死んだ者が行く場所があるなら。そこが、アマリアが昔、話してくれた白い光の場所なら。
私は、あそこへ行くのだろうか。
アマリアは、神というものに会ったことがあるらしい。気さくな女性だったそうだ。私は信じたことはない。だが、アマリアが言うのなら、いるのだろう。
私の知らない、遠い世界で、アマリアは、また誰かと笑っているのかもしれない。
私が、そこへ行けるかどうかは、わからない。
行けるかもしれない。行けないかもしれない。
わかっているのは、ひとつだけだ。
私は、白い花を持っていく。
七つのアマリアが、私にくれた花だ。今度は、私が差し出す番だ。氷で包めば、いつまでも枯れない。けれど、咲かせたのはアマリアだ。凍らせるのは、私だ。二人で、一輪。
見つけてもらえるように。
あの日、怖がらずに花をくれた子どもに、会えるように。
もし、その日が来たら。
白い光の中で、手を伸ばして、この花を渡そう。そして、こう言おう。
「十年も、遠くから見ていた。長かった。もう、離さない」
夕風が、花びらをひとつ運んでいった。
私は、墓の前で、少しだけ笑った。
契約の期限は、とうに切れている。だが、私の誓いに、期限はない。




