第39話 白い花の庭で
白い花は、毎年、同じ場所に咲く。
屋敷の庭の、一番日当たりのいい一角。結婚してすぐ、シルヴェスターが王都の屋敷の庭に種を蒔いた花だ。この丘に移るとき、その種を持ってきて、また蒔いた。花が咲くたびに、私たちの背丈は少しずつ低くなって、髪は少しずつ白くなった。
あれから、五十年以上が過ぎている。
「ひいおばあさま! 見て、お花の冠を作ったの!」
「まあ。上手にできたわね」
椅子に座った私の膝に、ひ孫のひとりが小さな冠をのせてくれる。リーナの孫娘だ。黒い髪を二つに結んで、眉をぎゅっとつり上げる癖まで、私とそっくりだった。
「ひいおばあさまのは、もっと大きいのがいいんだって! ひいおじいさまがそう言ってた」
「ひいおじいさまは、大きければ大きいほどいいと思っているのよ」
「ひいおじいさまは、ひいおばあさまが大好きなんだよ」
「ええ。知っています」
ちょうどそこへ、ロッテが歩いてきた。王宮の医師になった娘の手のひらには、淡い光。
「お母さま、お薬の時間ですよ。お父さまにも」
「私に?」
「お父さまは、すぐ『構わん』と言って、膝の薬を飲まないから」
シルヴェスターが、むっと眉を寄せた。昔と同じ顔だった。
「構わん」
「ほら、言った」
私とロッテは顔を見合わせて笑った。シルヴェスターは、苦い薬湯を無言で飲み干し、飲み終わると私の手に、そっと小さな氷の欠片を握らせた。口直しの砂糖氷だ。昔から、これだけは、手際がいい。
孫たちの中には、小さな手をかざすたびに、花壇の花がぽんぽんと開いていく子がいる。木の枝に霜の飾りをつけて遊ぶ子もいる。母と父、二人分の小さな力は、この家の子どもたちに、ささやかに受け継がれていた。誰も戦には使わない。花を咲かせ、氷の菓子を冷やし、夜道に小さな明かりをともして、家じゅうをにぎやかにするだけだ。
空には、ときどき白い竜の影が過ぎる。ブランシュが孫たちを乗せにきてくれる約束の日だ。庭の端には、天馬車が一台、翼をたたんで休んでいた。ペガサスたちも、代がかわるたび、この庭がお気に入りになるらしい。
庭では、孫たちが走り回っている。リーナには三人の子。マティアスは領地を継ぎ、ロッテは王宮の医師になった。そこにまた、孫やひ孫が増えて、誰が誰やら、毎年がお祭り騒ぎだ。
「アマリア」
背後から、少し掠れた声がした。
「そこは風が当たる。毛布を」
「もう、五度目です」
「五回では足りん」
笑ってしまった。何十年たっても、この人は、同じことを言う。
シルヴェスターは、私の肩に毛布をかけ、隣の椅子に腰を下ろした。髪はすっかり白くなり、背も少し丸くなった。けれど、澄んだ灰色の目だけは、あの日のままだ。
子どもたちを遊ばせながら、私たちはしばらく、無言で庭を眺めていた。
「あの日を、覚えているか」
「どの日です」
「お前が、はじめて屋敷に来た日だ」
私は、目を細めた。
「覚えております。殿下は、いきなり私の喉元に剣を突きつけて」
「お前が、いきなり屋敷に乗りこんできたからだ。護衛もつけずに」
「祖父の名を使ったのです」
「それも、使いようだ」
シルヴェスターは、くつくつと笑った。
「お前は、最初に私に何と言ったか覚えているか」
私は、口もとを緩めた。
「『殿下、私と結婚してください。契約で結構です』」
「そうだ」
「殿下は、とても驚いた顔をなさいました」
「驚いたとも。目の前の娘は、まだ十七で、震えもせずに、取引だと言う」
「震えていたのです。机の下で、膝が」
「見えなかった」
「見えないように、がんばりました」
「ああ。がんばりすぎだ」
二人で、声を合わせて笑った。孫たちが、不思議そうに振り向く。
笑い声がおさまったあと、シルヴェスターは、ぽつりと言った。
「宝飾店のことも、覚えているか。店中の品を買うと言ったら、店主が泡を吹いた」
「覚えております。首飾りひとつで、よかったのに」
「ひとつでは、私の気が済まなかった」
「おかげで、屋敷の蔵が宝石箱になりました。孫たちは、かくれんぼのたびに、そこへ隠れます」
「宝石も、役に立つものだ」
「殿下の使い道は、いつも少しずれています」
「そうか」
少し考える顔をしてから、シルヴェスターは真顔で言った。
「では、次の世でも、店ごと買う」
「やめてください」
「あの『契約』は、一日も守れなかったな」
「ええ。契約書は、暖炉の中に」
「一番いい契約破りだった」
「殿下」
「なんだ」
「冬の花を、見せてあげましょうか」
私は椅子から立ち、よろよろと花壇の前へ歩いた。シルヴェスターが慌てて肩を支える。膝をついて、地面に手を触れた。花の加護は、年老いた私の中にも、小さな灯りのように残っている。
土の底が、ふっとあたたかくなった。次の瞬間、庭じゅうの白い花が、ぽん、ぽん、と季節外れに咲きそろった。孫たちが歓声をあげる。
「おばあさま、すごい!」
「ほんのちょっとよ」
シルヴェスターが、黙って指先をかざした。咲いたばかりの花の一つひとつに、薄い氷の霜が降りて、陽をうけて七色にきらめく。花が、宝石になった。
「お返しだ」
「きれい」
「お前が咲かせたからだ」
庭じゅうが、白と七色に染まった。
孫の誰かが笑う声が、庭の向こうから流れてくる。それを聞きながら、シルヴェスターは目を細めた。
白い花びらが、風に乗って私の膝に落ちた。
その花びらを、指でそっとつまむ。薄くて、軽くて、かすかに甘い匂いがした。七つの私が、血だらけの男に差し出した、同じ花。
「シルヴェスター様」
「なんだ」
「私、幸せでした」
「知っている」
「前の私は、幸せになれないまま終わりました。今の私は、毎日が、幸せでした」
「そうか」
「殿下のおかげです」
「お前のおかげだ」
お互いに譲らないのが可笑しくて、また、笑った。
けれど、その夜から、私の体は少しずつ、言うことを聞かなくなっていった。
*
春が過ぎ、夏が過ぎた。
庭の白い花が、一度目の盛りを終えるころ、私は寝台から起き上がれなくなった。
祖父がいたら、きっと、「寿命じゃな」と言って笑っただろう。祖父は、もう何十年も前に、安らかに旅立った。母も、父も。ブランシュは、いまも竜に乗っているけれど、手紙には、「あと十年は引退しません」と書いてある。ユリウスは、フリーダと孫に囲まれて、毎週のように顔を見せてくれる。
子どもたちが、順番に枕もとに来た。
リーナ。マティアス。ロッテ。それぞれの顔に、泣き腫らした跡がある。
「お母さま。そんな顔をしないで」
「だって」
「いい人生だったのよ。あなたたちのおかげで、本当に」
リーナが、私の手を握って、泣いた。
子どもたちが引き取ったあと、部屋には、シルヴェスターだけが残った。
窓辺の机に、小さな白い花が活けてある。孫たちが、今朝摘んでくれた。
「アマリア」
シルヴェスターが、私の手を両手で包んだ。この手は、ずっと変わらない。大きくて、あたたかくて、私の手を、すっぽり包んでしまう。
「ここにいる」
「はい」
「どこにも行かない。お前が行く先には、私も行く。少し、遅れるかもしれんが」
「ええ。待っています」
私は、笑った。
涙が、一筋、こぼれた。悲しいからではなかった。うれしくて。ただ、うれしくて。
これが、終わりなのだと、わかっていた。
窓の外で、白い花が揺れた。
私は、シルヴェスターの目を見た。何十年も見つめ続けた、灰色の瞳。氷が、とうに解けて、春の水になった目。
「シルヴェスター様」
「うん」
「来世も、また、あなたと結婚したいわ」
シルヴェスターの目から、涙があふれた。
私は、満足して、ゆっくりと目を閉じた。




