第38話 のんびりと、王の叔父として
あれから、六年がたった。
王都から馬車で三日の領地、緑の丘の上に建つ白い屋敷。そこが、いまの私たちの家だ。
「おかあさまー! おとうさまが、お花に水をやりすぎてるー!」
「リーナ、告げ口はいけません」
「だって、根っこが溺れちゃうって言ったのに、おとうさまが『まだ足りない』って!」
庭に出ると、六つになった長女のリーナが、小さな腰に手を当てて仁王立ちしていた。黒い髪を二つに結んで、私にそっくりだと皆に言われる眉をつり上げている。
その向こうでは、じょうろを両手に抱えた背の高い男が、花壇の前で固まっていた。
「シルヴェスター様。リーナの言うとおりです」
「……水は、足りないよりは、多いほうがいい」
「植物の話です。私への気持ちの話ではありません」
「気持ちなら、いくら注いでも多すぎることはない」
真顔で言い切るので、リーナが「おとうさま、またそれ言った」とあきれた声を出した。
しおれかけた花壇のすみれに、私はしゃがんで指を触れた。花の加護は、小さな力だ。うなだれていた花が、ふるりと首をもたげて、紫の色を取り戻す。
「おかあさま、わたしも!」
リーナが隣にしゃがんで、小さな指で別の一輪をつつく。ぽん、と音がして、つぼみが開いた。ほんの一輪だけ。リーナは目を丸くして、それから得意げに胸を張った。
「できた! できたよ、おとうさま!」
「ああ。見ていた」
シルヴェスターが、じょうろを置いて、娘の頭に大きな手をのせた。
「母に似たな。花に好かれる手だ」
「おとうさまは、こおりでしょ。マティアスもこおり」
リーナが指を折る。「おとうさまはこおり、マティアスもこおり、ロッテはあかり」
私の腕の中では、二つになったばかりの次女ロッテが、スカートの端をくわえてうとうとしている。寝言の鼻歌に合わせて、庭先に吊るした魔石灯が、ぽっ、ぽっと灯りをともした。この子もまた、光に好かれる子らしい。三人三様の小さな力が、庭にきらきらとこぼれている。
三人の子の母になった。それが、いまだに少し不思議で、毎朝うれしい。
もう、「氷の大公」の面影はどこにもない。
シルヴェスターは、あの子が生まれてすぐ、政の表舞台から身を引いた。「王の叔父は、静かに暮らすのがよい」と、陛下にも許されて。いまは領地で農地の見回りと、畑いじりと、子どもたちの遊び相手が仕事だ。
それでも民には、いまだに「氷の大公」の名で通っているらしい。おかげで、領地の悪党は、顔を見ただけで逃げていく。
「おかあさま。マティアスが、また木に登ってるよ」
「あら」
見上げると、四つになった長男のマティアスが、庭の大きな楡の枝に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
「降りなさい、マティアス」
「いやだ! ここから竜が見えるもん!」
「竜は、お客さまの時間にしか来ません」
「今日、くるよ! ぜったいくる!」
マティアスが元気にそう叫んだ、その瞬間。
空の彼方から、重い羽ばたきが響いた。
白い竜が、屋敷の庭に舞い降りた。大きな翼が風を起こし、花壇の花びらがいっせいに舞い上がる。
「ネージュだ! 王妃さまだ!」
子どもたちが、一斉に走り出した。
竜の背から軽やかに降りてきたのは、ブランシュ王妃だった。
ニコラウス陛下に嫁いで、二年になる。王妃になった今も、竜騎士の装束をまとい、ネージュで空を駆けている。以前と変わらぬさっぱりとした笑顔で、私に敬礼した。
二人の婚礼の日のことは、今もよく覚えている。大聖堂の前で、ネージュは長い首を深く曲げて、ニコラウス陛下に頭を下げた。竜が、自分から頭を下げる男。竜騎士にとって、それ以上の祝福はない。
あの日、ブランシュは人前で、初めて泣いた。
「アマリア様。約束どおり、子どもたちを空へお連れしに参りました」
「ありがとう、ブランシュ。でも、今日は急だったわね」
「ええ。実は、同乗者がひとりおります」
ブランシュが指さした先で、竜の背に腰かけていた男が、ひょいと飛び降りた。
簡素な旅装。目深にかぶった帽子。帽子をつまんで取ると、穏やかな笑顔が現れた。
「叔母上。ご無沙汰しております」
「陛下。また、お忍びですか」
「私は、ただの甥です」
ニコラウス陛下だった。この六年で、さらに名君と呼ばれるようになった王が、王妃の竜の背に乗って、お忍びで飛んでくる。
「政務は」
「三日分、前倒しで片付けました。叔父上の畑の話を聞きに来たのです」
「仕事を片付けたからといって、国王が竜に乗って来るのは、どうかと」
「楽しいので」
隣でブランシュが、遠い目をして付け足した。
「止めたのですが。陛下は、竜の背の上では誰の言うことも聞かないのです」
「ブランシュ。それは、王妃として止めるべきでは」
「止めました。三回。ですが、ネージュが陛下の味方をするのです」
ブランシュは、ため息まじりに、竜の首をこつんと叩いた。ネージュは、知らん顔で花壇の匂いを嗅いでいる。
「夫には、帰ってから、よく言って聞かせます」
「お手柔らかに頼むよ、ブランシュ」
ニコラウス陛下が、妻の肩に、そっと手を置いた。ブランシュは振り払わなかった。
ニコラウス陛下は、にっこり笑った。この方は、毒の病から回復して以来、よく笑うようになった。
庭の隅で、シルヴェスターがため息をついた。
「甥よ。お前は、私を息抜きの場所にしているな」
「叔父上こそ、私の最良の相談相手ですよ」
「ふん」
ふん、と言いながらも、シルヴェスターの口もとは緩んでいる。
*
夕方。子どもたちを竜の背に乗せた空の散歩から戻ると、屋敷には新しい客がいた。
「姉上ー! 間に合った!」
ユリウスが、近衛の制服のまま、馬から飛び降りてきた。隣には、栗色の髪の小柄な女性がいる。
「姉上、紹介するよ。フリーダ。この春に、結婚したんだ」
「初めまして、王弟妃殿下。ユリウスの妻のフリーダと申します」
フリーダは、深々と頭を下げた。緊張で、手が震えている。
「顔を上げて。ユリウスを、よろしくお願いします。この子は、のんきで、無鉄砲で、でも根はまっすぐなの」
「は、はい! 存じております!」
「姉上、俺の評価、ひどくない?」
「事実でしょう」
笑いながら、私はユリウスを見た。前の世で、私の足もとで動かなかった弟が、結婚して、笑っている。
ユリウスは、私の視線に気づいて、少し照れたように鼻をかいた。
「姉上。……ありがとう」
「何が?」
「全部」
それだけ言って、フリーダの肩を抱いた。
*
夕食は、庭の長いテーブルで。
ブランシュの運んできた北の果ての干し果物、ニコラウス陛下が手土産にした王宮の焼き菓子、フリーダが朝から焼いてきたパイ。テーブルの上は、盛りだくさんで、足の踏み場ならぬ、皿の置き場がない。
「陛下、そのお皿は私の」
「叔母上、これは我が国の宝です。食べずにおくほうが罪」
「陛下は、もう三個目です」
ニコラウス陛下とマティアスが、最後の焼き菓子をめぐって真剣に睨み合っている。ロッテは私の膝の上で、パイのかけらを頬に貼りつけたまま、うとうとしていた。
シルヴェスターが、リーナの皿にそっと雲苺をのせてやる。
「おとうさまのは?」
「私は、いい。お前が食べなさい」
そう言ってから、私と目が合うと、自分の皿の月林檎の星蜜焼きを、ひと切れ、私の皿へ移した。誰にも気づかれないように。気づいたのは、向かいで笑っていたブランシュだけだった。
*
その夜。
子どもたちが寝静まり、客人たちも客間に引き取ったあと。私は庭に面した縁側に出て、星を見上げていた。
シルヴェスターが、毛布を肩にかけてくれる。
「冷える」
「ありがとうございます」
背中に、あたたかい体温が寄り添う。
庭の向こうでは、夜の花畑が、ほのかに白く光っていた。私が少しだけ力を貸した、花の加護の光だ。子どもたちの寝室の窓からは、ロッテの鼻歌に合わせた魔石灯の灯りが、ぽつ、ぽつと瞬いている。
「殿下」
「なんだ」
「踊りませんか。ここで」
「音楽がない」
「ロッテの鼻歌があります」
シルヴェスターは、ふっと息で笑って、私の手を取った。縁側の板の上で、足音をひそめて、ゆっくりと回る。毛布が肩から落ちて、シルヴェスターの腕が私の腰を支えた。氷の大公と呼ばれた人が、寝巻き姿の妻と、月の下で踊っている。
「下手だな、私は」
「私も下手です。おあいこです」
「お前と踊るのは、戦場より緊張する」
「勝てそうですか」
「勝てる気がしない」
額と額が、こつんと触れた。
「幸せか」
「はい。とても」
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。夜風が、庭の白い花の香りを運んでくる。言わなくて、よかった。
私は目を閉じた。
*
その夜、夢を見た。
白い場所だった。何もない、やわらかい光だけの空間。
その真ん中に、見覚えのある気さくな顔が、ひょこっと現れた。
「やっほー。ひさしぶり」
女神だった。
「ね、今回はちゃんと幸せでしょ?」
「はい。とっても」
迷わずに答えると、女神は、満足そうに目を細めた。
「よかった。それだけ、聞きに来たの」
「それだけ、ですか」
「それだけ。じゃあね、アマリア。また、いつか」
女神は、ひらひらと手を振って、光の中に溶けていった。
目を覚ますと、隣で、シルヴェスターが静かな寝息を立てていた。窓の外は、まだ暗い。
また、いつか。
その言葉の意味を、私はまだ、知らなかった。




