閑話 竜の背で、家族の空
リーナが三つになった春、庭に白い竜が降りてきた。
「アマリア様。約束を果たしに参りました」
竜の背から、ブランシュがひらりと飛び降りて敬礼する。大きな翼が起こした風で、庭の白い花がいっせいに揺れた。
「約束?」
「リーナ様が三つになったら、ネージュの背に乗せるという約束です。団長に、一日だけお借りする許可をいただきました」
「ブランシュ。竜は貸し借りしていいものなの」
「ふつうは、いけません」
きりりとした顔で、ブランシュは言った。
「ですが、ネージュ本人が行きたいと言ってきかないもので」
ネージュが、ぶふん、と鼻を鳴らした。長い首を低くして、庭の端でこちらを見ている子どもに、そっと顔を近づける。
リーナは、お気に入りの木彫りの竜を胸に抱いたまま、固まっていた。
「ほんものの、りゅう」
「そうよ。ネージュというの」
「おっきい」
「優しい子よ。挨拶をしてみる?」
リーナはこくりとうなずいて、ネージュの鼻先に、ちょんと指を触れた。ネージュは目を細めて、喉の奥で、ごろごろと低い音を鳴らした。
「おかあさま、ごろごろ、いってる!」
「気に入られたみたいね」
背後で、足音がした。
「準備はできたか」
外套を羽織ったシルヴェスターが立っていた。いつもの黒ではなく、動きやすい灰色の旅装。腰の剣の代わりに、革の手袋を二組、手にしている。
「一組は、リーナのだ。竜の背は冷える」
「小さい手袋ですね。いつの間に」
「先月から仕立てさせていた。ついでに、お前のぶんも」
渡された手袋の内側には、白い花の刺繍があった。縫い目がやたらと細かい。
「この刺繍、もしかして」
「……手伝った」
「殿下が?」
「仕立屋の針を借りて、一枚だけ。下手だから、見るな」
見た。確かに、白い花の花びらが一枚だけ、いびつに太い。私は何も言わず、その一枚が左手の甲にくるように、そっとはめた。
*
ネージュの背には、鞍が三人分つけてあった。
シルヴェスターが先に乗って、私を引き上げ、リーナを私の前に座らせる。小さな体を、二人の腕のあいだにはさんで、ぴったりと包むように。
「ブランシュ、手綱は私が持つ」
「承知しました。ネージュ、ゆっくりよ」
ネージュが翼を広げる。ばさり、と春の風が鳴った。
ふわり、と体が浮いた。
庭の木が小さくなる。屋敷の屋根が足もとに過ぎる。リーナが「わあ」と息をのんだ。
「おそら! おとうさま、おそらにいる!」
「ああ。落ちないように、母の腕につかまっていなさい」
「おちない! りーな、おちない!」
高く、高く。雲を一つ抜けると、風が急にやわらかくなった。目の前いっぱいに、春の空が開ける。
下には、緑の丘。川は銀の糸のように光り、遠くの森が霞んでいる。小さな村の屋根と、畑の筋と、点のような羊の群れ。
「おかあさま、ひつじ! ひつじが、ちっちゃい!」
「そうね。ちっちゃいわね」
「あっちは、りーなのおうち?」
「あれは、お隣の風車小屋。リーナのおうちは、あっち」
指をさした先に、白い屋敷が小さく見えた。庭の隅の、白い花畑まで見える。毎年、同じ場所に咲く花。
シルヴェスターが、私の背に、片手を添えた。
「寒くないか」
「いいえ。殿下の腕のなかは、あたたかいです」
「そうか」
耳のうしろが、赤い。
「おとうさま、あかい」
「風のせいだ」
「ちがう。りーな、しってる。おとうさま、おかあさまにほめられると、あかくなる」
私は、吹き出した。シルヴェスターは、前を向いたまま、咳払いを一つ。
*
ネージュが、王都の上空へ入った。
大聖堂の尖塔。王宮の金の屋根。王都の街並みが、陽をうけて、箱庭のように広がっている。道には、魔獣の馬車の列。角鹿が、のんびりと荷を引いていた。空の上から、天馬車の影が一つ、すいと滑って通り過ぎる。陛下の馬車だろうか。
「アマリア」
「はい」
「あれを、見たいか」
シルヴェスターが、顎で遠くを指した。
街の北の外れ。林の中に、小さな離宮の屋根が見えた。
前の私が、殺された場所。
空の高さから見る離宮は、手のひらにのるくらい小さかった。あの夜、あれほど遠かった扉も、冷たかった床も、血のにおいも、ここからでは何も見えない。ただ、春の緑に囲まれた、屋根が一つあるだけ。
私は、しばらくそれを見つめた。
お腹の底がきゅっとなる、ということは、なかった。手も震えなかった。
「アマリア」
「大丈夫です」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「怖くない、と思ったのです。あんなに怖かったのに」
「ああ」
「前の私は、あの小さな屋根の下で、何も知らずに終わりました。でも、いまの私は、空の上にいて、腕のなかには娘がいて、背中には殿下がいる」
リーナが、私の顔を見上げた。
「おかあさま、ないてるの?」
「ううん。うれしいの」
「うれしいと、ないちゃうの?」
「そうよ。大きくなったら、わかるわ」
「ふうん」
リーナは、わかったような、わからないような顔でうなずいて、また空を見た。
シルヴェスターが、私のこめかみに、そっと唇を寄せた。
「お前が見ている世界を、私も同じ高さで見ている」
「はい」
「これから先も、ずっとだ」
風が、頬を撫でていった。白い雲のあいだから、光の精が数粒、ふわりと浮かんで、私たちの周りを一周して消えた。春の空は、そういうものを連れてくる。
*
帰り道。ネージュが、ゆっくりと高度を下げながら、湖の上を通った。
「おとうさま、つめたいの、できる?」
「冷たいもの?」
「おはな。このまえの、きらきらのおはな」
リーナがせがむ。シルヴェスターは、少し困った顔で私を見た。
「あの花は、遊びで作るものでは」
「作ってあげてください。リーナは、毎日思い出しているんです」
「毎日?」
「ええ。毎晩、寝る前に、おとうさまのおはなの話をします」
氷の大公は、深く息を吸うと、手袋を片方外した。指先に、小さな霜が集まる。ぱきぱきと音を立てて、透きとおった花びらが育っていった。
七色にかがやく氷の花が、リーナの目の前に咲いた。
「わあ……」
「お前にやる」
「いいの?」
「溶けたら、また作る」
リーナは、花を両手で包もうとして、「つめたい!」と声をあげて、それから、けらけらと笑いだした。笑い声に反応して、花の中の光が、ぱっと明るくなった。
私は、小さな手に、自分の手を重ねた。
すると、足もとの鞍袋から、ぽん、と音がした。袋に入れていた白い花の種が、勝手に芽を出して、小さなつぼみを結んでいる。
「おかあさまのは、まほう?」
「ほんのちょっとだけね」
「りーなも、できる?」
「いつかね」
リーナは、氷の花を片手に、白い花のつぼみを片手に、満足そうに胸を張った。
*
庭に戻ると、日が傾いていた。
ネージュから降りたリーナは、駆けまわる元気もなく、シルヴェスターの腕のなかで、もう眠りかけていた。
「ブランシュ、今日はありがとう」
「いえ。私も、楽しみました」
ブランシュは、ネージュの首を撫でながら、小さく笑った。
「アマリア様。この子は、今日、いつもより少し高く飛びました」
「そう?」
「はい。きっと、乗せたものが、大事だからでしょう」
「ブランシュ。陛下とのお話は、進んでいるの?」
ブランシュの耳の先が、赤毛と同じ色になった。
「……ネージュが、まだ返事をくれません。陛下に頭を下げるかどうか、もう少し見極めたいそうです」
ネージュが、知らん顔で、ぷいと首をそらした。
ネージュが、満足そうに喉を鳴らした。
夕風が、庭の白い花を揺らす。シルヴェスターの腕のなかで、リーナが、むにゃむにゃと寝言を言った。
「……もっかい、おそら」
「ああ。何度でも」
シルヴェスターが、眠る娘にささやく。
私は、その二人を見ながら、小さく息をついた。
あんなに遠かった空が、今日は、ずいぶん近かった。




