第37話 氷の大公が泣いた日
産室の扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
「殿下! 椅子です、それは椅子です!」
「わかっている。どけ」
「おそれながら、さっきから十回は蹴倒しておいでで」
扉ごしに聞こえるのは、護衛の騎士と、氷の大公の押し問答。私は寝台の上で、波のように来る痛みをやり過ごしながら、思わず笑ってしまった。
戴冠式の大聖堂から、ここまで。シルヴェスターは私を横抱きにして、人波を割って走り、天馬車に飛び乗った。御者が手綱を取る前に、四頭のペガサスが主人の気配に応えて、勝手に空へ駆けあがったそうだ。氷の紋章の馬車が、王都の空を稲妻のように横切って、屋敷へ。
地上では「お待ちください、殿下ー!」とユリウスが叫びながら追いかけて、新しい王は、それを見送って、戴冠の席で肩を震わせて笑っていたという。
あとで聞いた話だ。今は、そんな余裕はない。
「奥様、笑ってる場合じゃありませんよ。息、息ですよ」
イレーネが、涙目で私の手を握っている。
「大丈夫よ、イレーネ。息は、している」
「その調子じゃ。孫よ、ゆっくりでよい。急かすでないぞ」
祖父アンブロスが、寝台の脇で、静かな手つきで脈をとっていた。国中の治癒師を育てた人の手のひらから、淡い光がこぼれて、私の背中の痛みをやわらげていく。反対側には、母ドロテアが座っていた。何も言わず、ただ私の髪を撫でてくれる。
痛みが、強くなる。
「奥様、庭では、竜騎士のブランシュ様が、ネージュを待機させておいでです。お産が終わったら、一番に空へ知らせるのだと」
「大げさね」
「皆さま、大げさなくらい、奥様がお好きなんです」
イレーネの言葉に、涙が出そうになった。前の私は、こんなふうに愛される日が来るなんて、一度も思わなかった。
前の私は、子を産むことなく死んだ。母にも、会えないまま。
でも、今は母がここにいる。祖父がいる。扉の向こうには、世界一うろたえている夫がいる。
息を吸った。痛みの向こうに、光が見えた気がした。
「もう少し、あと少しですぞ」
「はい」
「さあ、お力を」
どれほどの時間がたったのか、わからない。窓の外が、夜に傾き、また白みかけたころ。
高い、細い、泣き声が上がった。
部屋が、しんと静まる。次の瞬間、イレーネが「ひゃあっ」と声をあげて泣き出した。
「生まれました。姫君です! 元気な、お姫様です!」
祖父が、小さな産着の包みを取り上げ、ゆっくりと私の胸に抱かせた。
重さが、思ったよりもずっと軽くて、ずっと確かだった。
赤い顔。ぎゅっと握った小さな拳。黒い髪が、湿って額に張りついている。
「アマリア。よく、やった」
母の声が、震えていた。
「お母さま」
「あなたが生まれたときも、こんなふうだったわ。小さくて、赤くて、泣き声だけは一人前で」
「私も、そうでしたか」
「ええ。そっくりよ。この子の、少し怒ったような眉が」
涙を拭う母の手を見て、私も、こらえきれずに泣いた。
赤ん坊が、腕の中で、くしゅんと小さなくしゃみをした。その音さえ、胸の奥に灯りをともすようだった。
枕もとに置かれた魔石灯が、ふわりと明るくなる。気のせいではなく、赤ん坊のくしゃみに合わせて、ぽっと灯りが揺れたのだ。祖父が目を細めた。
「ほう。この子は、光に好かれる子かもしれんの」
「入れてもよいですかな」
祖父が戸口を振り向いて言った。
「はい。お願いします」
扉が、勢いよく開いた。
入ってきたのは、さっきまで椅子を蹴倒していた、氷の大公だった。大股で寝台に近づいて、足を止める。
シルヴェスターの手が、空中で何度か迷った。触れていいのか、触れたら壊れてしまうのか。戦場では何千の敵を前にしても迷わなかった人が、いま、小さな赤ん坊の前で、固まっている。指先から、不安のあまり冷気がこぼれて、窓枠に霜が薄くおりた。
「殿下、霜が」
「す、すまん。止める。止めるから」
「赤ちゃんが風邪をひいてしまいます」
「止める、止まれ。止まれと言っている」
自分の魔法に説教している夫を見て、母が、口もとを押さえて肩を揺らした。
「抱いてあげてください」
「だが、私の手は」
「大丈夫です。お父さまの手ですよ」
私は、赤ん坊をそっとシルヴェスターの腕に移した。
シルヴェスターは、岩のように硬くなって、それを受けとった。
赤ん坊が、あくびをした。
小さな口が、ほわんと開く。
それを見た、次の瞬間。
シルヴェスターの目から、ぽろり、と何かが落ちた。
ぽろり。ぽろり、ぽろり。
「……殿下?」
「見るな」
「見ます」
「見るな。目が、勝手に」
氷の大公は、声を殺して、赤ん坊を抱いたまま、泣いていた。涙が落ちたところで、ぱきん、と小さな氷の粒になる。粒は赤ん坊の毛布の上で、きらきらと光っては溶けた。
戸口の騎士たちが、一斉に壁のほうを向いた。目をそらしているのだ。肩が小さく震えている。ひとりは、こらえきれずに洟をすすっていた。
母も祖父も、気づかないふりをして、窓の外を眺めている。
「アマリア」
シルヴェスターは、嗚咽に混じった声で言った。
「ありがとう。お前が、生きていてくれて。私のそばにいてくれて」
「私こそ。殿下の妻にしていただいて」
「この子を、お前と同じくらい、守る」
「はい」
「お前のことも、同じくらい、守る」
「はい」
私は、シルヴェスターの頬を指でぬぐった。冷たいはずの頬が、熱かった。
赤ん坊が、シルヴェスターの指を、きゅっと握った。
「名前を、決めなければな」
「決めてあります」
私は、窓の外に目をやった。庭の隅で、小さな白い花が、朝の光に揺れている。あの日、七つの私が、血まみれの男に差し出した花。
そっと手を伸ばして、念じる。花の加護は、小さな力だ。つぼみだった一輪が、ふるりと震えて、ほころんだ。
「リーナ、というのはどうでしょう。祖父の古い薬草の本では、あの花を『リーナ』と呼ぶのだそうです。古い言葉で、小さな白い花、という意味だとか」
シルヴェスターの目が、大きく見開かれた。
「リーナ」
「はい。殿下が押し花にしてくださっていた、あの花です」
シルヴェスターは、腕の中の娘を見つめた。
「リーナ。……いい名だ」
赤ん坊は、名前を呼ばれたのがわかったかのように、むにゃ、と口を動かした。
その場にいた全員が、また笑って、また泣いた。
*
その日の夕方。
庭におりたネージュの背から、ブランシュが身を乗り出して、窓越しに赤ん坊をのぞきこんだ。
「小さい。これが、未来の竜騎士殿ですか」
「まだ生まれて半日です」
「竜は、生まれて半日で人を見ます。ネージュが、この子は気に入ったと」
ネージュが長い首を窓へ差し入れ、ふうっと息を吹きかけた。白い息が、赤ん坊の頬をかすめる。リーナは泣かなかった。かわりに、小さな手を宙に伸ばして、にっこりと笑ったように見えた。
ユリウスが、窓の外から、涙でぐしゃぐしゃの顔で叫ぶ。
「姉上! 俺、おじさんになった! おじさんだ!」
「静かに。眠ったところよ」
「ごめん、ごめんって」
そのあと、夜更けまで、シルヴェスターは娘の寝顔を眺めていた。眠る私と娘の寝台の脇に椅子を置いて、片時も離れない。時折、そっと指を出して、赤ん坊の掌に握らせている。
しばらくして、少し落ち着いたシルヴェスターが、洟をすすって、真顔になった。
「アマリア」
「はい」
「次は、男の子かな」
私は、枕に頭を預けたまま、目をぱちくりさせた。
「殿下」
「なんだ」
「気が早すぎます」




