第36話 戴冠式
戴冠式の朝、枕もとに、氷の花が咲いていた。
透きとおった花びらが、窓からの朝日を受けて、ゆっくり七色に光る。茎まで、薄い氷でできていた。
「……殿下」
「起きたか」
寝台の端で、シルヴェスターが居心地悪そうに座っていた。指先から、まだ細かな冷気がこぼれている。
「夜明け前から作っていた。三回、失敗した。四回目で、ようやく形になった」
「三回分の花は」
「砕いた。出来の悪いものをお前に見せたくない」
笑ってしまった。氷の魔法で国境の軍を止めた人が、花一輪のために、夜明けを待たずに机へ向かっている。
「きれいです。溶けるのが、もったいない」
「溶けたら、また作る。毎朝作る」
「毎朝は、殿下の指が凍えます」
「構わん」
真顔だった。この人の「構わん」は、たいてい本気だ。
朝食の盆には、月林檎の星蜜焼きと、金花蜜を落とした温かい乳。どれも私の好きなものばかり。腹の子のために、塩気の強い料理は一品も並んでいない。台所の料理人たちにまで、シルヴェスターは通達を出しているらしい。
「お腹の子は、蹴っているか」
「元気に。殿下の花に挨拶をしたのかもしれません」
シルヴェスターが、おずおずと私のお腹に手を当てた。内側から、とん、と小さな返事。氷の大公の口もとが、ゆるむ。
「あと、どのくらいで会えるのだろうな」
「祖父は、もうすぐだと」
「もうすぐ。……早く会いたい。早く会いたいが、まだ来るな。支度ができていない」
「どちらですか」
「どちらもだ」
これも、この人の矛盾した本気のひとつ。
*
あの謀反の夜から、半年近くがたっていた。
屋敷の前庭に出ると、銀の車体の天馬車が待っていた。氷の紋章を刻んだ扉。翼を持つ白馬が四頭、首を並べている。王家と王弟家だけが乗ることを許された、空を飛ぶ馬車だ。
「アマリア。足元に気をつけろ」
「殿下、もう五回目です」
「五回では足りん」
四頭のペガサスのうち、いちばん小柄な一頭が、私の肩に鼻先を押しつけてきた。ふわりと、あたたかい。
「この子は、お前が乗るたびにすり寄ってくるな。私には、横目しかくれない」
「殿下が、いつも怖いお顔をなさっているからです。馬にも、わかるのですわ」
「怖い顔など、していない」
「今も、しておいでです」
殿下は、むっとしたように黙りこんだ。それから、ぎこちなく口の端を持ち上げて、ペガサスに向かって手をのばした。
ペガサスは、ぷいと横を向いた。
「……笑ったのだが」
「ええ。もっと怖くなりました」
空へ舞い上がった瞬間、お腹の子がまた、とん、と蹴った。
眼下には、秋の王都が広がっている。大聖堂へ続く大通りには白い花びらが撒かれ、道の両側を人々が埋め尽くしていた。子どもを肩車した父親、帽子を振る老人、旗を握りしめて跳ねる娘たち。人も、家も、露店の屋根も、みんな小さくて、みんな笑っていた。
屋根の上を、手のひらほどの小さな竜が、手紙をくわえて何匹も飛んでいく。式の様子を伝える伝書竜だ。
私は、窓の外を見つめた。前の私が殺された離宮の屋根が、遠くに、小さく見えた。
「怖いか」
「いいえ」
シルヴェスターの手が、私の指をそっと握る。
「空から見ると、あんなに小さいのですね」
「ああ。小さい」
それだけで、胸の奥の古い痛みが、静かに薄れた。
*
大聖堂の前で天馬車を降りると、見慣れた顔が駆け寄ってきた。
「姉上ー!」
近衛の礼装に身を包んだ、弟のユリウスだった。胸には、新しく授かった近衛騎士の徽章が光っている。
「姉上。見て、これ。陛下から直々にいただいたんだ」
「似合っているわ。背筋を伸ばしなさい」
「うん。ときどき、姉上がいなくなる夢を見るんだ」
ユリウスは、少しだけ声を落とした。
「でも、目が覚めたら、姉上がいるんだ。それが、毎朝うれしい」
私は、ユリウスの頬を指でつついた。
「その夢は、もう見なくていいのよ」
「そうだね」
ユリウスは、にかっと笑った。
大聖堂の前では、白い竜が翼をたたんでいた。ネージュだ。長い首をしなやかに曲げて、人々の頭上を見下ろしている。傍らに、竜騎士団の正装をまとったブランシュが立っていた。胸の飾り緒が、以前より一本増えている。
「王弟妃殿下。このたび、竜騎士団の副団長を拝命いたしました」
「おめでとう、ブランシュ。祖父君は喜んでいらしたでしょう」
「泣いておりました。人前で。竜に笑われて」
ネージュが、ぶふん、と鼻を鳴らした。笑ったようにも見えた。
そこへ、人混みの向こうから、見覚えのある二つの顔がやってきた。
後ろに、白い一角獣の馬車が停まっている。ロートリンゲン公爵家の馬車だ。一角獣は、心の清い人にしかなつかない。その一頭が、馬車からこちらへ首を伸ばして、私の髪をくんくんと嗅いだ。
「アマリア。体は大丈夫?」
母ドロテアだった。頬に血色が戻り、淡い藤色のドレスがよく似合っている。毒を断って一年半、病人の面影はどこにもない。その後ろを、父ヘルムートがうつむき気味に歩いていた。公爵らしからぬ、土のついた手。
「お母さま。ええ、元気です」
「お前が元気なら、わたくしも元気よ」
母は私の頬を撫でた。それから、後ろの父に、振り向きもせず言った。
「あなた。ハンカチ」
「は、はい」
「わたくしにではなく、アマリアの汗を拭いてあげて」
「は、はい。ただいま」
父は、おそるおそる私の額に布を当てた。手が、少し震えている。
「お父さま。庭仕事は、いかがですか」
「ああ。おかげさまで、薔薇が咲いた。ドロテアが、毎朝、水をやれと」
「当然です。あなたが埋めた分の土を、返してもらっているのですから」
母の言葉は優しい口調のまま、一片の容赦もなかった。父はますます小さくなった。
私は、笑いをこらえるのに苦労した。後ろでシルヴェスターも、咳をするふりで顔をそむけている。
*
大聖堂の鐘が、ひときわ高く鳴った。
高い天井に、魔石灯が星のように連なって、床に光の模様を描いている。ステンドグラスから落ちる光と混ざって、床に赤や青の花が咲いた。私たち王族の席は、祭壇のすぐ脇にあった。
重い扉が開く。
金の糸で百合を縫いとった、白い絹の外套。
私は、息を止めた。
前の私が、即位の日の婚礼で着るはずだった白いドレスと、同じ金の百合の意匠だった。
けれど、それをまとっているのは、ニコラウス殿下。穏やかに微笑み、一歩ずつ、祭壇へ進んでくる。顔色はよく、足取りも確かだ。毒に蝕まれていた体は、すっかり癒えている。
大司教が、金の王冠を掲げた。
「フォルクマール王国の王、アルブレヒト陛下より、国と民を託されし者。ニコラウスよ、そなたはこの冠を戴き、この国を守る誓いを立てるか」
「誓います」
ニコラウス殿下の声は、静かで、よく通った。
冠が、殿下の頭にのせられる。
その瞬間、大聖堂の天井から、無数の小さな光が降りてきた。手のひらほどの、淡い金色の粒。光の精だ。新しい王の誕生を祝って、冠のまわりをくるくると舞い、やがて参列者の肩に一つずつ宿っていく。
一粒が、私の肩にもとまった。あたたかい。お腹に、ふわりと触れていく。
鐘が鳴った。大聖堂が揺れるほどの歓声が、天井へ昇っていく。
冠をいただいたニコラウス陛下が、ゆっくりとこちらを向いた。視線が、私とシルヴェスターに止まる。陛下は、胸に手を当てて、深く、一度だけ頭を下げた。毒に倒れかけた若者を救った者たちへの、無言の礼だった。シルヴェスターは、わずかに顎を引いて応えた。
それから陛下の視線は、大聖堂の扉の向こうへ流れた。翼をたたんだ白い竜と、その傍らに立つ、赤毛の竜騎士のほうへ。
ほんの一瞬だった。けれど、新しい王の頬が、光の精の金色よりも、少しだけ赤く見えた。
ブランシュは、まっすぐ前を向いたまま、敬礼の手を下ろさなかった。耳の先だけが、髪と同じ色になっていた。
私は、涙をこらえなかった。前の私が見られなかった戴冠式を、今、観客として、王弟妃として、見ている。
その頬を、シルヴェスターの指が拭った。
「泣くなと言っても、無駄か」
「ええ。無駄です。嬉し涙は、止められません」
「では、泣け。私が、隣にいる」
シルヴェスターの手が、私の手を包んだ。冷たいはずの指先が、今日はあたたかい。
歓声の中で、ひとつだけ聞こえた気がした。お腹の子が、とん、と蹴る音。
次の瞬間。
下腹の奥を、ぎゅうっと絞られるような痛みが走った。
思わず、シルヴェスターの腕にしがみつく。
「アマリア?」
「殿下……」
足もとに、温かいものが広がった。
肩にとまっていた光の精が、驚いたように、ぱっと散った。
「産まれ、ます」
大聖堂が歓声に包まれる、その真ん中で、私は産気づいていた。




