第5話 氷の大公に、取引を
王弟シルヴェスター殿下は、国王陛下の弟で、今年二十九歳になる。
十五で軍に入ってから、十四年。国境を荒らす隣国の軍を、いくつも退けた。戦場では、先頭に立って竜騎士団を率い、氷の槍を雨のように降らせるという。敵は名を聞いただけで逃げ出し、味方でさえ、その人の笑った顔を見たことがない。
付いたあだ名が「氷の大公」。
生まれつき、氷の魔法を使う人だった。怒れば周りの空気が凍り、窓に霜が走る。そのせいで、人は誰も近寄らない。
結婚の話はいくつも持ちこまれたが、すべて断った。社交の場にも出ない。ただ、噂が一つだけある。病弱な第一王子ニコラウス殿下の後ろ盾になっている、というものだ。
前の世では、一度も言葉を交わさなかった。私は第四王子の婚約者として、王宮の宴で遠くから見かけただけ。黒い軍服に、肩から落ちる銀の飾り緒。誰も、半歩より近くには寄らなかった。
その人の屋敷の前に、私は今、立っている。
乗ってきたのは、ロートリンゲン家の一角獣の馬車だ。門の中の車寄せには、銀色の車体の天馬車が停まっていた。翼のある白馬が四頭、つながれている。王家と王弟家だけが持つ、空を飛ぶ馬車。車体には、雪の結晶をかたどった氷の紋章が刻まれていた。
「お嬢様、本当に、よろしいのですか」
隣でイレーネが、ささやくような声で言った。背中の傷はなかったけれど、昨日の恐怖で、まだ顔色が戻っていない。それでも、ついて来ると言ってきかなかった。
「あの大公殿下は、気に入らない客人を、門前で凍らせたこともあるとか」
「噂でしょう」
「でも、お嬢様。婚約者でもない令嬢が、親御さまの許しもなく殿方の屋敷を訪ねるなんて、はしたないと」
「ええ。世間にはそう言われるでしょうね」
私は、門番に祖父の紋章入りの書状を差し出した。
「アンブロスの孫、アマリア・ロートリンゲンです。大公殿下に、お取り次ぎを。祖父の名を出せば、お会いくださると聞きました」
門番は書状を見て、青い顔で屋敷の奥へ駆けていった。門柱の石に、うっすら霜が這っているのに、気づく。
祖父は前の宮廷医師長だ。かつて、戦で重傷を負った若き王弟殿下を、七日七晩かけて治したことがあるという。その縁で、祖父の名は通る。
通された応接の間は、驚くほど飾り気がなかった。壁に剣と地図。机に書類の山。暖炉の火の音だけが、静かに響く。
十分ほど待っただろうか。
扉が開いた。
背が高い。黒い髪、鋼のような灰色の目。顔立ちは整っているのに、表情というものがひとかけらもない。氷と呼ばれる理由が、ひと目でわかった。
私が立ち上がろうとした、その瞬間。
喉もとに、冷たいものが当てられた。
剣先だった。
いつ抜いたのか、まったく見えなかった。刃の表面に、白い霜が這う。
「祖父の名を使ったな」
低い声だった。静かで、感情がない。
「アンブロスの孫娘が、何の用だ。ルドヴィクの差し金か。それとも、イゾルデの使いか」
「お嬢様!」
イレーネが悲鳴を上げて、腰を抜かす。壁際の従者が、思わず一歩出た。
「黙っていろ」
殿下の視線が、そちらへ流れただけだった。それだけで、従者は喉を押さえてうずくまる。部屋の温度が、すっと落ちた。窓ガラスに、霜の花が、ぱきぱきと音を立てて開いていく。
息が白い。
私は動かなかった。動けば、首の皮が切れる距離だ。
「十七の娘が、護衛もつけずに来た。度胸はあるが、愚かだ。私は、ここでお前の首を落とす理由を、いくつでも思いつける。誰にも気づかれずに、庭の土に埋めることもできる」
「どちらでもございません、大公殿下」
にこりと笑ってみせた。
一度死んだ身なので、たいていのことは怖くない。けれど、剣を喉に当てられて怖くないわけではない。膝が少し笑っている。
笑っているが、顔には出さない。
「私は、私の用で参りました。剣を引いていただけますか。お話しにくいので」
灰色の目が、わずかに細くなった。
剣先が、すっと下がる。部屋の霜が、ゆっくりと退いていく。
「十七の娘にしては、肝が据わっている」
「恐れ入ります」
「座れ。手短に話せ」
殿下は向かいの椅子に腰を下ろした。剣は鞘に戻さず、膝に置いたままだ。
私は一度、息を吸った。
言う。ここで、言う。
「大公殿下。私と結婚してください」
部屋の空気が、止まった。
壁際に控えていた従者の顔が、ぎょっと引きつる。イレーネは床に座りこんだまま、口を開けている。
殿下だけが、眉ひとつ動かさなかった。
「何と言った」
「結婚です。契約で結構です」
「契約」
「期間は、第一王子殿下が、後継者に指名されるまで。まずは婚約者として、婚礼を挙げたあとは妻として、殿下のおそばにおります。終われば、離縁していただいてかまいません」
「意味がわからん」
「では、順にご説明します」
私は指を折った。
「差し出せるものが、四つございます。一つ。ロートリンゲン公爵家の財と、人脈。二つ。祖父アンブロスの医術と、国中に散る弟子の治癒師たち。三つ。第一王子殿下のご病気を、治す方法」
殿下の目が、初めて動いた。
「あれは病ではありません。毒です。私の母が、同じ毒を飲まされておりました。祖父が見抜きました。症状も、毒の種類も、よく似ています」
「続けろ」
「四つめ」
私は、殿下の目をまっすぐ見た。
「これから一年のあいだに、この国で起きることを、私は知っております」
「予言か」
「記憶、と申し上げたほうが近いでしょう。干ばつ。疫病。魔物。第四王子ルドヴィク殿下が、どう動き、誰が裏切るのか。すべて」
殿下は、長く黙っていた。
暖炉の薪が、ぱちりとはぜる。
「そんな話を、私が信じると思うか」
「信じていただく必要はございません。まずは三か月、私を婚約者としておそばに置いてみてください。外れたら、婚約は破棄して、私を牢に入れて結構です」
「それで済むと思うか。外れたなら、私の信用を傷つけた罪で、お前の家ごと凍らせてやる」
窓の霜が、再び広がった。
手が、膝の上で冷たくなっていく。指の先が、痺れた。
「構いません」
声は震えなかった。
「外れませんので」
しばらく、誰も動かなかった。
殿下の視線が、ふと私の膝の上に落ちる。握りしめた手が、白くなり、小刻みに震えていた。
殿下は黙って立ち上がり、従者に短く言った。
「雲苺の茶を。金花蜜を、多めに入れろ」
従者が走り出ていく。
戻ってきた茶は、湯気を立てていた。殿下は自分で、その碗を私の前に置いた。
「飲め。手が冷えている」
霜の消えた部屋で、碗の中の金花蜜の香りが、ふわりと立った。
「大公殿下」
「喉に剣を当てられて震えない者はいない」
低い声は、さっきと同じ。冷たいまま。それなのに、碗を押し出した指先が、ほんのわずかに、ためらっていた。
「お前は震えても、逃げなかった。それだけだ。飲め」
私は、碗を両手で包んだ。熱が、手のひらにしみていく。
金花蜜の甘さが、舌に広がった。
不覚にも、胸の奥が、ほどけそうになった。
「ありがとう、ございます」
殿下はそれには答えず、再び向かいの椅子に腰を下ろした。霜はもう、どこにもなかった。
「母は、祖父の屋敷で療養しております。今朝の知らせでは、はじめて粥を残さず召し上がったと」
「毒を止めれば、人は戻るか」
「戻ります。第一王子殿下も、同じです」
殿下は膝の上の剣の柄を、指先でとんとんと叩いた。考えるときの癖らしい。
「私を選んだ理由は」
「殿下が、ルドヴィク殿下の叔父上でいらっしゃるからです。王弟妃になれば、あの方は私に頭を下げなければなりません」
「それが目的か」
「半分は」
もう半分は、言わなかった。この人が本当に信頼できるのか、まだ見極めていない。
灰色の目が、私を射抜く。
「確かに、お前の言うことには筋が通っている。第一王子の病については、私も疑っていた。だが、確証がなかった」
殿下は、ほんの少し身を乗り出した。
「だが、一つ聞く。お前は、第四王子の幼なじみだろう。次の王子妃の最有力候補と聞いている。それを捨てる理由は何だ」
私は、碗を置いた。
にっこりと笑って。
一度、深呼吸をして。
「一度、殺されましたので」
殿下の目が、見開かれた。
窓の霜が、ぱきん、と音を立てて砕けた。
氷が、初めて割れる音を聞いた気がした。




